産鉄族 (@santetsuzoku)

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興味深い論文を発見。大雨の時だけに、一層興味高まる。 第3章 神社の立地と地形および災害との関係に関する研究 : 常陸国と下総国の事例 https://t.co/ApJ6o4EHV6
全面公開になったようだ。 https://t.co/ILkmkhVAl0 https://t.co/VSnV4xuGKt
RT @TORUSuzuki10: @santetsuzoku 大野延太郎の報文(リンク)には 「町の北愛宕山は今の公園の台地であつて、小な瓢形の古墳と思はれる、其近傍に二三の古墳が散在してあり」 https://t.co/Idj9kF5lAY とありますが、境内周辺には何の痕…
興味深い論文が出た。 河川と平野の地形からみえること─利根川・荒川下流低地を例に https://t.co/g8t5AUAzDw
鳶山崩れは1858年の飛越地震により発生。谷底に膨大な土砂がたまり、常願寺川に押し出し、洪水被害がひどくなったという。カシミールスーパー地形で眺める鳶山崩れ。 鳶崩れ (飛越地震, 1858) による天然ダムの形成と決壊に伴う土砂移動の実態https://t.co/WG13N1TqIW https://t.co/ulMmxZrtiF https://t.co/wnWHKuvJ6o
常願寺川右岸の段丘化した扇状地。水田開発のための用水に関する研究を発見。それを参考に用水の大体のルートをたどってみた。 富山平野における隆起扇状地の水田造成と灌漑についてhttps://t.co/BcXzXU6zpH  https://t.co/0tzvhT1b3b https://t.co/AxPr7ll3h7
白井城探訪(群馬県渋川市)。白井城の段丘面には地表4mくらい榛名の降下軽石層を挟むローム層が堆積。その下が浅間山山体崩壊の前橋泥流堆積物と吉田他(2005)。泥流堆積物が不透水層か?堀底がそこで終わっているのも礫混じりで固くなったか?https://t.co/16Uta3YLAe https://t.co/apQpVj1iBu https://t.co/hiQFE9XpuO
駒形神社(千葉県栄町)が鎮座する台地には、大台城があったと印旛郡誌。孤立はしているものの、中世は香取の海あるいは、その後の湿地に突き出した先っちょ台地のような位置にあり、水運をおさえられそうな立地と想像。戦国期の城には依田氏が拠り、1574年に落城とある。https://t.co/TBAPHW4JYg https://t.co/U8XRxeDERo
杉原1970によると、ピカピカ台地は下総下位面、浸食台地は下総上位面で、海から陸になった年代が浸食台地の方が古いようだ。 https://t.co/qqQsQPsoyU https://t.co/vKzK4cJhDW
西谷田川そのものではないが、隣の東谷田川を対象にした段丘の研究を発見。https://t.co/uKt16aNJ5U
龍泉院(千葉県柏市)は、北側の台地より一段高い場所にある。杉原(1970)によると、北側の台地は下総下位面、龍泉院から南は下総上位面になるようだ。https://t.co/qftpFnvONg https://t.co/gTkjwowS6C
@e_ikuon その一帯も(私が勝手に)注目の千葉段丘のようですね。杉原(1970)の黒塗り部分。https://t.co/qftpFnvONg https://t.co/SEZzkoHX2W
@hira_sail @e_ikuon 手賀沼を挟んで我孫子側ですが、杉原(1970)の柱状図197番のイメージに近いでしょうか。竜ケ崎砂層なるものが出るようです。帯水層もここになりましょうか。周辺下総台地での竜ケ崎砂層の露出と中世集落分布とか面白いかも。https://t.co/qftpFnvONg

9 0 0 0 OA 利根川図志

国会図書館のデジタルアーカイブでは、江戸時代末期に出版された「利根川図志」の中にある結縁寺村の絵図が閲覧できる。コマ番号115。https://t.co/7EoCYrgjMW
カシミールスーパー地形で眺めると見事な非対称台地。大神保の集落は千葉段丘上の集落っぽいぞ。千葉氏支流の神保氏の本貫地なら中世集落の可能性大。船橋市史を調べてみるか。杉原(1970)下総台地西部における地形の発達 https://t.co/UIvIqyt4w6 https://t.co/ZyrsEz9vV2
「下総地方史の発掘」では、参考にしているもう一つの文献が印旛郡誌。大正2年の文献で、印旛が細かい村々に分かれていた時代の各地域の地理歴史がまとめられている。現在は国会図書館のデジタルコレクションで閲覧出来て驚く。https://t.co/zdnYx4lALV
千葉県印西市の別所探訪。台地の上に登った地点Bあたりはわずかな人家があるものの、ほとんど畑。畑の向こうの森の中で、さらに高さを上げた台地面は杉原(1970)によると下総上位面。下総台地西部における地形の発達 https://t.co/UIvIqyt4w6 https://t.co/A6G15XxLuC
木下貝層が露出する地域がわかりそうな文献はこのあたりかな。コンクリート社会になる前の時代には千葉県北部~茨城県南部に結構露頭があったかもしれない。 関東平野東部,下総層群の層序と貝化石群のまとめ https://t.co/IPi3D0vWtF

8 0 0 0 OA 左経記

RT @Wpl0JWzdw688IBR: @santetsuzoku 「亡国」に関する 下総国司の報告の出典は、 藤原実資『小右記』長元四年三月一日の記事 https://t.co/SVjWwFCAks その他に、 上総国司の証言の出典は、 源経頼『左経記』長元七年十月二十四日…

4 0 0 0 OA 小右記

RT @Wpl0JWzdw688IBR: @santetsuzoku 「亡国」に関する 下総国司の報告の出典は、 藤原実資『小右記』長元四年三月一日の記事 https://t.co/SVjWwFCAks その他に、 上総国司の証言の出典は、 源経頼『左経記』長元七年十月二十四日…
篠籠田探訪の出発点は柏中学校前交差点(地点A)。柏駅前に繋がる柏中通りは杉原(1970)でいうところの下総下位面の上をゆく平坦な道。交差点から北に緩く下る道を入っていく。杉原(1970)下総台地西部における地形の発達 https://t.co/UIvIqyt4w6 https://t.co/W8eA3DdleT
RT @santetsuzoku: @e_ikuon 杉原(1970)論文が引用しているのは東木(1929)でした。東木論文を見ると、いろいろな地域にあるようですね。 東木(1929) 河岸段丘の非對〓的配置と其の成因(一) https://t.co/ZYVr3q4J0I
@e_ikuon 杉原(1970)論文が引用しているのは東木(1929)でした。東木論文を見ると、いろいろな地域にあるようですね。 東木(1929) 河岸段丘の非對〓的配置と其の成因(一) https://t.co/ZYVr3q4J0I
千葉段丘と中世村落との関係に興味を持つ。杉原1970論文で千葉段丘と分類されている段丘面を手賀沼周辺の下総台地地形図上で拾い上げると矢印のような位置にある(カシミールスーパー地形を利用)。杉原1970, 下総台地西部における地形の発達 https://t.co/UIvIqyt4w6 https://t.co/uKROznhD4G
牛久自然観察の森(茨城県牛久市)のあたりの台地と低地の間の段丘面。下記の論文によると、どうやら下総台地の谷津の右岸に遍在する千葉段丘と同様の分類ができるようだ。下総台地西部における地形の発達https://t.co/AaLxJEoz89
RT @santetsuzoku: @e_ikuon ありがとうございます。下記の文献も見つかり、池が造成であることは間違いなさそうです。結構な流量がコブナの流れにあったので、河童沼にためた湧水の循環という可能性もあるでしょうか。牛久自然観察の森を事例とした農用林から公園緑地化…
@e_ikuon ありがとうございます。下記の文献も見つかり、池が造成であることは間違いなさそうです。結構な流量がコブナの流れにあったので、河童沼にためた湧水の循環という可能性もあるでしょうか。牛久自然観察の森を事例とした農用林から公園緑地化した林野における管理の課題 https://t.co/nSMNu7E62g
@hira_sail このあたりの学会発表が関係しますかね。考古学が絡んでいます。私も奥東京湾や奥鬼怒湾の海退が気になっており、海水準変動に加え、浅間・榛名の噴火や人為の影響による土砂供給増大が結構効いているのではないかと妄想しております。https://t.co/igPy0D5eKh
下記の文献によると、江戸川開削時期は諸説あるが1620~1650年頃らしい。ローム層と砂層からなる台地の開削距離は合計約5km。掘削量約135万m3 。その分の土砂はどこかの築堤にでも使ったのだろうか。https://t.co/cbrtKNDrrD
@hira_sail このあたりの研究はいかがでしょうか。武蔵野台地を徘徊していた際に出会った文献です。https://t.co/lSJiGSUKEA
岩原スキー場の特徴的な斜面は飯士山の噴火でもたらされた奥添地火砕流の堆積面らしい。火砕流堆積物には大きな岩塊が含まれるので、“岩の原”の由来になったのだろうか。 https://t.co/HD5NfSDmjI https://t.co/WzLSyWnunv
榛名山の角閃石安山岩は古墳時代の噴火の噴出物であることが特別な存在。噴火は山麓を壊滅させ、利根川流域に土砂災害をもたらしたはず。その噴出物を古墳の石室に用いることに何か意味があるのではないかと想像が膨らむ。6世紀における榛名火山の2回の噴火とその災害https://t.co/bXauZhynr2
成城三丁目緑地(東京都世田谷区)の湧水周辺の地質について、出版したての論文を発見。東京都世田谷区,武蔵野台地の地下に分布する世田谷層及び東京層の層序,分布形態と地盤震動特性https://t.co/32ifuMf5lh
興味深い文献を発見。世田谷のボロ市の発達史と現況 https://t.co/arcStk6QNz
利根川増水で威力を発揮した茨城県・千葉県境の田中調節池・稲戸井調節池・菅生調節池に関して、しっかりとした情報がわかりそうな文献を発見。利根川河道沿い三調節池群の洪水調節量の算定 https://t.co/bXRTzGReD6 …
小黒橋(富山市青柳新)から熊野川の下流方向を望む。下記の文献によると、水が得にくい扇状地の中でも熊野川沿いには中世の頃から人が入り、戦国期の土豪の館や寺社も多いという。続いては上熊野城に行ってみる。近世・近代における富山藩領の土地利用と治水に関する研究 https://t.co/YvxwK6EJsl https://t.co/m4GWwZMRkz
扇状地上は水が得にくく、一般には水田には向かないとされるが、常願寺川の扇状地は江戸時代に開発が始まっていたようだ。興味深い論文があり。近世・近代における富山藩領の土地利用と治水に関する研究 https://t.co/YvxwK6EJsl
@KQ9CwkIq2NS466V 軽井沢駅近くまで湧水が豊富なようです。名水を訪ねて(52)浅間山麓の名水 https://t.co/zJXw4X5Yew
浅間山噴火といえば江戸時代の天明噴火が起こったのも8月の初旬。噴火直後に利根川沿いを土砂災害が襲ったことはよく知られているが、噴火最高潮の時に火山灰災害も利根川周辺地域を襲っている。下総にも火山災害の歴史がある。https://t.co/NyP1PyPfdo
小貝川周辺の水塚にも興味が広がってしまった。小貝川下流域における水塚の分布 https://t.co/UyiNenh7c5
これも面白そうだぞ。 千葉県域の利根川水系における水塚及び屋敷林の文化的景観に関する研究 : 栄町、本埜村、印西市、我孫子市、柏市、白井市の水塚と屋敷林のタイプ分類、保存状態、所有者意識https://t.co/t0JMO4KWlx
「五十里湖大洪水」について文献を発見。空から見る日本の地すべり地形シリーズ-25 天和日光地震(1683年)による葛老山の地すべり地形 https://t.co/qbuYTtGMx2
興味深い文献を発見。干拓前は古河市三和あたりまで沼があったらしい。改めて地名を記入。三和と水海道の間には逆井城もある。 茨城県飯沼の享保干拓時の湖岸線 https://t.co/daUrMZSPim https://t.co/nUTGn7LgHA
茨城県つくばみらい市の福岡堰と利水に関する面白そうな論文を発見。常陸台地の開発 (水田を中心に) 地形より見た農業の土地利用について (II) https://t.co/ojpEJ0ueDM
牛久城・泊崎城・足高城に関わりのある岡見氏に関する興味深い文献を発見   「境目」 の領主・再論 久保健一郎 - 史觀, 2008 https://t.co/42LwBDucDL
@shosho_1955 えらいアクティブな地域ですね。驚きました。少林山地すべりの経過と現況 https://t.co/kI4PUjUIiL
参考になる文献。小幡(2009)露頭のない平野での日曜地学ハイキングhttps://t.co/vKbyXMf2mk

お気に入り一覧(最新100件)

1995年~2015年の変化率(%)を見ると、以下のようになります。 県  世帯数 人口 茨城  13.0  -9.6 埼玉  29.5   7.1 千葉  28.4   5.7 千葉・埼玉は浸水想定区域外で宅地化が進んだことがわかりやすいですね。 データは秦・前田(2020) https://t.co/mGJmOHGpep https://t.co/acaUeCaNc8
@santetsuzoku 大野延太郎の報文(リンク)には 「町の北愛宕山は今の公園の台地であつて、小な瓢形の古墳と思はれる、其近傍に二三の古墳が散在してあり」 https://t.co/Idj9kF5lAY とありますが、境内周辺には何の痕跡も見られませんでした
@santetsuzoku レスありがとうございます。土砂堆積というのかどうか、よくわかりませんが、下記が参考になります。下の文献はPDF見れますが、1990年代でこの文献の状態でした。 私が若かった頃(1970~80年代)は、水面が広かったのを思い出します。 https://t.co/FiAv2Cakqa https://t.co/r2Ida1HwLE
@santetsuzoku レスありがとうございます。土砂堆積というのかどうか、よくわかりませんが、下記が参考になります。下の文献はPDF見れますが、1990年代でこの文献の状態でした。 私が若かった頃(1970~80年代)は、水面が広かったのを思い出します。 https://t.co/FiAv2Cakqa https://t.co/r2Ida1HwLE
私の元々の専門分野の論文→「常陸台地の第四系下総層群の層序と堆積システムの時空変化」 現在の関東平野が広く海となり、今の関東平野の原型を作ったといえる、約12.5万年前の温暖期。 それ以降に、関東平野の地層や地形がどう形作られていったかというお話しです。 https://t.co/V7jwNO7p2e https://t.co/lX9y9ysXlI
教えていただいたこちらの論文(埼玉沖積層研究G 2016 https://t.co/iaNLavEkoj)では、元荒川の台地横断部分も自然流路として扱っているようです。古墳時代後期の利根川流路ということなので、天王山塚古墳の角閃石安山岩の輸送ルートとしては納得なのですが、台地を横切るのにどうにも違和感が… https://t.co/ROxo8kLQiQ https://t.co/KAsURUReBQ
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
この(低いとはいっても)台地を越えていく元荒川の流路が気になっていたのだが、やはりというか、中世以前の人工開削説があるようだ。利根川東遷や荒川西遷より前の事なので、誰が何のためというのは気になるところ。  (「河川からみた埼玉平野の開発」松浦茂樹)https://t.co/KHFwGrLGu4 https://t.co/EthsObE0Vi
深海に向かって蛇行する海底谷。深い海底にどういうメカニズムで谷が刻まれるのだろうか? いくつかの機序が推測されているがなんとなく腑に落ちない。まだ議論の余地があるようだ。 https://t.co/HfaKuJoTN1 https://t.co/oNm0iUT0rG
埼玉県東部の江戸川と古利根川の間には散村が見られるが、分家する際に微高地を選んだためという。人文地理7 巻 (1955-1956) 「関東低地における散村の成立と微地形」https://t.co/fklyJgukw4 https://t.co/J4aXQjHeFY
【地理学評論掲載論文】根元裕樹・中山大地・松山 洋 2011.洪水氾濫シミュレーションを用いた信玄堤の治水能力の再評価-御勅使川沿いの治水施設群に着目して-,地理学評論84A,553-571.https://t.co/9roJBs48Vr

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