いこ~ (@e_ikuon)

投稿一覧(最新100件)

@chimei_saitama 気になって、「新編武蔵風土記稿」を参照してみました。寛永年間に笹山村は、黒浜村から分村したようです。風土記稿の記載では大字黒浜の東部は「長崎村」だったようなのですが、明治の町村制のときに黒浜村に合併してしまったんですかね。https://t.co/HVpEB5JBz3
@hoshitomita 調べていただきありがとうございますm(__)m 新編武蔵国風土記稿を参照してみたのですが、こちらでは「新宿村」になっていました。明治になって「南」を付けたようなのですが、何に対してかはわかりません。あと何の街道の宿なのか、何に対しての「新」なのか気になっています。https://t.co/LnbbKtPEul
@hira_sail @niemon_k @Wpl0JWzdw688IBR 居久根の呼称についてはこんな論文を見つけました。垣根を「クネ」と呼ぶのは関東も含めて東日本広域のようなので、「イ」が何なのかですね。 三浦修(2013): 屋敷林の地方呼称「イグネ」と「エグネ」およびその漢字表記について(※リンク先PDF) https://t.co/vF5Nk37BB6
RT @Naga_Kyoto: 同じ人が忍城についても発表されていた 根元 裕樹「洪水氾濫シミュレーションを用いた忍城水攻めに関する研究」発表要旨 https://t.co/xCW9yklOvE https://t.co/ne2vZF9yLt
RT @ktgis: そういえば、たまご水の「明ヶ指」の「さす」は、秩父では焼畑を指す地名。J-STAGE Articles - 秩父における火耕地名 https://t.co/oM4GNfE9Kk https://t.co/m45Vxf9EC5
RT @ktgis: 木下貝層や大宮台地の硬砂層のように、最終間氷期以降の堆積物でも、石材代わりに使える程度の硬さがあるというのが意外。こちらでは、硬砂層は古東京湾海退期に河畔砂丘的に堆積したものとしている。 J-STAGE Articles - 大宮台地に分布する硬砂層の性質…
教えていただいたこちらの論文(埼玉沖積層研究G 2016 https://t.co/iaNLavEkoj)では、元荒川の台地横断部分も自然流路として扱っているようです。古墳時代後期の利根川流路ということなので、天王山塚古墳の角閃石安山岩の輸送ルートとしては納得なのですが、台地を横切るのにどうにも違和感が… https://t.co/ROxo8kLQiQ https://t.co/KAsURUReBQ
@Wpl0JWzdw688IBR ありがとうございます。 地質・地形のアプローチでも利根川が荒川低地方面に向かっていたとの論文がありましたのでご紹介させていただきます。利根川の流路面白いですね。 「荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路-妻沼低地における旧流路の復元-」小暮岳実(2011) https://t.co/l2DJl6CJjE
RT @santetsuzoku: 千葉段丘と中世村落との関係に興味を持つ。杉原1970論文で千葉段丘と分類されている段丘面を手賀沼周辺の下総台地地形図上で拾い上げると矢印のような位置にある(カシミールスーパー地形を利用)。杉原1970, 下総台地西部における地形の発達 htt…
@Wpl0JWzdw688IBR ありがとうございます(スレッド乱してすみません)。アーバンクボタは読んだことがあるので、再読しておさらいします。 なお、松浦茂樹(2018)綾瀬川の歴史と現状 https://t.co/VMjZwwyuEz にて、元荒川の備前堤~高虫の台地横断部分は開削されたとされていますが、これも定説になるのでしょうか?
@Wpl0JWzdw688IBR ありがとうございます。 こちらの論文、小暮岳実(2011)荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/l2DJl6CJjE では8世紀初頭まで利根川本流が熊谷扇状地の東側を南流していたとあって、そんな最近までなのかと思ったのですが、縄文末期の説が一般的なのですね。
熊谷扇状地、利根川、荒川入り乱れてすごいことになってます。(綾瀬川の歴史と現状 https://t.co/VMjZwwyuEz より引用) https://t.co/mcLd39R8nQ
この(低いとはいっても)台地を越えていく元荒川の流路が気になっていたのだが、やはりというか、中世以前の人工開削説があるようだ。利根川東遷や荒川西遷より前の事なので、誰が何のためというのは気になるところ。  (「河川からみた埼玉平野の開発」松浦茂樹)https://t.co/KHFwGrLGu4 https://t.co/EthsObE0Vi
@hira_sail 平帆さんに紹介いただいた以下論文を読んでいますが、大宮台地北西部に海成段丘の痕跡があるようです。加須低地の沈降の影響以外にに、北西部が高くなっている理由はこの辺りなのか? 「過去40万年間の関東平野の地形発達史」 https://t.co/ULbj7KAjSp https://t.co/mqWZGDWCuk
RT @yokoyama1128geo: 東茨城台地の涸沼川流域には、北東〜南西方向の谷がみられます。 台地をつくる地層を見ると、砂浜の地層の高さと厚さが変化しており、12万年前に海が引くときの砂丘列の影響であると考えられます。 国土地理院の方と歩いて、地形と地層の関連の面白さ…

お気に入り一覧(最新100件)

「松本城の堀」が賑わっていますが、溜池や野池、堀の底にある泥(堆積物)は、長年溜まり続けたタイムカプセルです。 津波や噴火などの記録や、寒暖を反映した花粉など環境変動の履歴が残ることも。 原爆の「黒い雨」が、長崎市内の水源池堆積物中に記録されていた事例も。 https://t.co/93ELQLA1Or
昨今、#関宿周辺の河川普請 の話題がSNS上で大変話題となっているようです。 そこで、8年前に出された論文ですが、戦国時代後半も含めた #関宿 周辺の河川普請について、以下に紹介致します。 #松浦茂樹(2015)「関宿から利根川東遷を考える」『水利科学』59巻1号 pp.27-56 https://t.co/AT4QlPLBTZ
全面公開になったようだ。 https://t.co/ILkmkhVAl0 https://t.co/VSnV4xuGKt
それで、武蔵野台地の地形区分を確認してみると、実はこのふたつって段丘面が違う。駒場のある側は下末吉面(S面)、南側にあったのは武蔵野面(M面)。 https://t.co/QTOQhpzai0 https://t.co/y69ahcJcgV
学生の論文、公開されています。湖(霞ヶ浦のうち北浦)に流入する農業水路で遡上魚類を調査⇒ 多数のハゼ類稚魚(地域の佃煮材料)など9種が遡上⇒ 水路でも成長や繁殖していそう。霞ヶ浦のハゼ類漁獲量は減っており(H2年:1401トン→R2年:1トン)、こういう水路の保全も大事 https://t.co/E9OkT5yWby https://t.co/tkeTVXD5yI
海洋漂着ゴミは、前世紀に日本各地を調査している身からは「海流の影響で、場所によってゴミ発生源は異なる」としか言えません。北太平洋では日本由来が最多との研究例もあります。 写真はインドネシアの孤島に打ち上がる漂着ゴミの例。 https://t.co/nbXDiUmLLm https://t.co/qWxfqXyebM
約13万年前、海面が高く関東平野に深く海が入っていた時期の砂州と、海が引いていく時の砂丘列の地形や堆積物が、いまの台地の表層地形にも関係しているという話。私が修士課程二年時の投稿論文です。 縄文海進期最盛期の地形の名残は、低地により色濃く残るはずです。 https://t.co/PK0REiSN8U
これから自然観察会が増える時期だが、こうした活動中に起きたシキミの誤食事故があまり知られてないようなので関連記事をリンクしておこう。食品衛生の人にも、初歩的な間違いや手抜き、地域とのコミュニーケション不足、リーダー養成についてまでボロクソに言われている…。 https://t.co/p3QmkeJYQU
@hira_sail @e_ikuon @Wpl0JWzdw688IBR 海退の経過は よく解りませんが、近世までは埼玉県北葛飾郡松伏町辺りまで “ヒタヒタ” でしたので、弥生時代中期までは海岸線は深かったかもしれませんね

8 0 0 0 OA 左経記

@e_ikuon ①「亡国」に関する下総国司の報告の出典は、 藤原実資『小右記』長元四年三月一日の記事 https://t.co/SVjWwFUJyA ②上総国司の証言の出典は、 源経頼『左経記』長元七年十月二十四日の記事 https://t.co/kiwI3sNquA になります。 #亡国 #平忠常の乱 #小右記 #左経記

4 0 0 0 OA 小右記

@e_ikuon ①「亡国」に関する下総国司の報告の出典は、 藤原実資『小右記』長元四年三月一日の記事 https://t.co/SVjWwFUJyA ②上総国司の証言の出典は、 源経頼『左経記』長元七年十月二十四日の記事 https://t.co/kiwI3sNquA になります。 #亡国 #平忠常の乱 #小右記 #左経記
今回のブラタモリで紹介された白米千枚田、地理学の論文でも取り上げられていました。池田尭弘,・
@e_ikuon @hoshitomita 村上(2012)にも「森林流域と森林のない流域の年間河川流量を比較すると,森林流域で流量が少ないことは現在では森林水文学の常識となっている」とはっきり書かれておりました.https://t.co/LNGAiekUxl

69 0 0 0 OA 甲斐志料集成

三浦介さんに教えてもらった情報に基づき、甲陽軍鑑における戦国十三大将の整理パワポを作成。 太田資正生誕500年祭で使う予定が、プログラム変更で出番が無くなりそうなのでこちらで公開。 西国も入っていて、興味深いラインナップですよね。 https://t.co/jFB2LzCRIb https://t.co/YAv3fCcGlL
@e_ikuon 新編武蔵風土記稿 「越ヶ谷宿」もともと「越ヶ谷町」があったのを、大澤町と併せて「越ヶ谷宿」とした模様。元荒川と出羽堀というのも登場しますが、この時代から「元荒川」表記なのですね。元荒川には境坂橋が架かっていた模様。 https://t.co/xUsG4MfHO9
@e_ikuon @Wpl0JWzdw688IBR 亀レスですが、『東京人類學會雜誌』に浅間社古墳(仙元祠古墳)の踏査記録が掲載されています。田端駅から安行村猿貝々塚へ採取に行く途中に鳩ヶ谷町で小山の如き森が仙元祠古墳だったとう内容です。 https://t.co/oY2TSuUW3L
J-STAGE Articles - 大宮台地における伝統客土「ドロツケ」による人為的土壌生成とその農業的意義 https://t.co/PL6hlAis5q
杉原1970によると、ピカピカ台地は下総下位面、浸食台地は下総上位面で、海から陸になった年代が浸食台地の方が古いようだ。 https://t.co/qqQsQPsoyU https://t.co/vKzK4cJhDW
日本の湧水河川ならびに湧泉における外来水生植物の現状。角野 2020(日本語論文、オープンアクセス) https://t.co/4kbwUEOzhq 各地の湧水河川と湧泉201か所を調査した結果、114か所で外来種20種が見つかったようです。#論文紹介
用語「屋敷林」は本多静六の造語だそうだ。 J-STAGE Articles - 三浦 修,用語「屋敷林」の造語過程と地理学への普及.季刊地理学71 巻 (2019) 3 号 https://t.co/3YFSHAQVWC
龍泉院(千葉県柏市)は、北側の台地より一段高い場所にある。杉原(1970)によると、北側の台地は下総下位面、龍泉院から南は下総上位面になるようだ。https://t.co/qftpFnvONg https://t.co/gTkjwowS6C
@e_ikuon その一帯も(私が勝手に)注目の千葉段丘のようですね。杉原(1970)の黒塗り部分。https://t.co/qftpFnvONg https://t.co/SEZzkoHX2W
@hira_sail @e_ikuon 手賀沼を挟んで我孫子側ですが、杉原(1970)の柱状図197番のイメージに近いでしょうか。竜ケ崎砂層なるものが出るようです。帯水層もここになりましょうか。周辺下総台地での竜ケ崎砂層の露出と中世集落分布とか面白いかも。https://t.co/qftpFnvONg
今年もこの季節になりました。 「恵方巻き」は1989年にセブンイレブンが生み出した造語である、ということがさらっと記述されている論文。 https://t.co/9rIvAR5x3r
@e_ikuon 新編武蔵風土記稿の関連場所。 城と云う噂はあるが、誰の居城か分からない 。周囲は沼田だというようなことが書いてありそうな。 https://t.co/i2fxcUTnqU https://t.co/CLJwbEXW6V
同じ人が忍城についても発表されていた 根元 裕樹「洪水氾濫シミュレーションを用いた忍城水攻めに関する研究」発表要旨 https://t.co/xCW9yklOvE https://t.co/ne2vZF9yLt
秀吉の水攻めを水文学のモデルで考察するというユニークな論文↓ 根元 裕樹, 泉 岳樹, 中山 大地, 松山 洋「備中高松城水攻めに関する水文学的研究—洪水氾濫シミュレーションを用いて—」 https://t.co/gptR3nJJd2 https://t.co/pbnVI2sUtv
@e_ikuon 古千谷むら、その昔は古谷荘と言ったらしく。水利として村の北にある「毛長沼」「毛長堀」が挙げられている。台地があったような記載なし。何故「谷」の字が宛てられたのか……。 「毛長堀」については、荒川が此所を流れ綾瀬川に落入しと云、という驚くべき記述があります。https://t.co/JrmYURJHht
@e_ikuon 古千谷村、昔は東屋と書いたげな。(国会図書館デジタルアーカイブ、新編武蔵風土記稿より) https://t.co/JGmP9aAXkP https://t.co/AZvVnH2SEM
戦前、森鴎外の息子の森於菟は、東京から盆栽村に引っ越して、東京帝国大学に通勤していた。小学生の子どもと一緒に、朝6時5分の大宮公園駅発の列車に乗っていたという。 昭和14年『解剖台に凭りて』国会図書館デダタルコレクション https://t.co/azoUOTpOdA https://t.co/STIQrrVMcp
こんな目にあうことも(地下茎を除去されて株が浮き上がる)。 https://t.co/SwSVCw3e3A #ナガエミクリ #コハクチョウ https://t.co/tZvKKkEMqu
また、植林した「広葉樹」が他地域のものだと地域系統の遺伝子かく乱を引き起こす。それよりは針葉樹二次林を伐採して、萌芽更新と実生から自然に広葉樹林へ誘導する、こちらのやり方の方が無難だと思う。 「都市近郊二次林における小面積伐採直後の木本植生の多様性の変化」 https://t.co/sHOx7lajBF

50 0 0 0 OA 日本之名勝

豆相人車鉄道。上等、中等、下等の区別があった。明治33年『日本之名勝』国会図書館デジタルコレクション https://t.co/qMM6cDh0yt https://t.co/4M5XtV6MAl
中島(1955)によると、その頃埼玉県に残っていた定期市は、鴻巣(49)草加(510)加須(510)鳩ケ谷(3.8)岩槻(16)原市(38)深谷(510)小川(16)志木(27)所沢(38)の10箇所。鳩ヶ谷、所沢は衰滅寸前とある。 J-STAGE Articles - 南関東に於ける歳末市、正月市等の分布と構成 https://t.co/xS17rpZ1UQ

37 0 0 0 OA 埼玉県写真帖

知らなかったが、コクーン新都心以前の、片倉製糸のさらに前は、牧場だったらしい。角倉牧場ということは愛光舎、牛200頭、ヤギ150頭飼養、とある。『埼玉県写真帖』国会図書館デジタルコレクション https://t.co/uwvvpIJfDE https://t.co/BPlyzFVwyC
歌川広重「東海道五十三次」と同じアングルで、大正時代に写真を撮った、大正7年『東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照』から平塚宿。ストリートビューを追加。山は高麗山。 国会図書館デジタルコレクション https://t.co/Yy7TIQ8PCC https://t.co/nYRJr9zjjb

23 0 0 0 OA 武江年表

安永を安政と書いてしまったので再投稿。江戸の記録『武江年表』で、安永3年「この冬寒気つよく、両国川氷りて巳刻まで舟の往来絶しことあり」との記述。両国川は隅田川で、今では凍結するとは考えられないが、江戸時代は寒かった。 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/WPaFsNaQ9J https://t.co/TaXx0Nf4qZ
小田内通敏『帝都と近郊』には、東京の武蔵野村、三鷹村あたりでは、櫟の人工林を作り、萌芽更新法により伐採して、薪を東京に出荷していたとの記述がある。台場クヌギのようなものがあったかもしれない。国会図書館デジタルコレクション https://t.co/vzo4rLCtXA https://t.co/nyE6kQh5yd
昔、阿賀野川は河口で信濃川と合流、新潟港は水量が安定し繁栄していた。享保15(1730)年、洪水対策を主目的に松ヶ崎放水路が開削されたが、翌春の増水で堰が破壊され阿賀野川の本流に。新潟港は水深が浅くなり港湾機能が衰える一方、阿賀野川流域では新田開発が進んだ。 https://t.co/YDLRAU9PXu … https://t.co/jKAqZ2euqK
そういえば、たまご水の「明ヶ指」の「さす」は、秩父では焼畑を指す地名。J-STAGE Articles - 秩父における火耕地名 https://t.co/oM4GNfE9Kk https://t.co/m45Vxf9EC5
なんと、原田信男 先生の『中世村落の景観と生活』が、国立国会図書館デジタルコレクションで読めます! 書籍化前の”博士論文”が公開されているのです(筆者承諾済)。 ひとまず、ばーっと読んでみました。 高島緑雄先生の『関東中世水田の研究』と併せ、見えてきました! https://t.co/UGClzRA5ig https://t.co/H0KhPeifms
「日本の防災対策の陥穽」 >現実的な解より「精神主義」が跋扈 >精神論を強調するのではなくハード対策とソフト対策のバランス >メディアの論調や思い込みでなく被災の現実に科学的実証的に向き合うことが求められる →『絆』『つながり』などのワードに逃げず向き合う事 https://t.co/3kHnfvrwvL
紀要に書いた「東京都中央区における1997年から2016年にかけての分譲マンション供給と土地利用の変化」が公開されたのでちょっと紹介します。https://t.co/IWtbqbtb8B
木下貝層や大宮台地の硬砂層のように、最終間氷期以降の堆積物でも、石材代わりに使える程度の硬さがあるというのが意外。こちらでは、硬砂層は古東京湾海退期に河畔砂丘的に堆積したものとしている。 J-STAGE Articles - 大宮台地に分布する硬砂層の性質と堆積環境 https://t.co/8do6sP31Dl
木下貝層が露出する地域がわかりそうな文献はこのあたりかな。コンクリート社会になる前の時代には千葉県北部~茨城県南部に結構露頭があったかもしれない。 関東平野東部,下総層群の層序と貝化石群のまとめ https://t.co/IPi3D0vWtF
埼玉県立自然の博物館研究報告に、資料を1編掲載していただきました。古い探鳥記録のまとめですね。 ・神流川・烏川の本川合流地点上流付近における鳥類相(1974年~1983年の記録) https://t.co/DAv3q5ZVtW #関東地方 #中流河川 #鳥類相
私の元々の専門分野の論文→「常陸台地の第四系下総層群の層序と堆積システムの時空変化」 現在の関東平野が広く海となり、今の関東平野の原型を作ったといえる、約12.5万年前の温暖期。 それ以降に、関東平野の地層や地形がどう形作られていったかというお話しです。 https://t.co/V7jwNO7p2e https://t.co/lX9y9ysXlI
大地震の前に魚の漁獲量が急増するなど「漁獲異常」が起こるか? 宮古、大船渡、気仙沼などで3.11直前にあたる2011年2月、マイワシに漁獲異常があった。 しかし、以前の5年間をみても年に1〜3回の漁獲異常があり、大地震前に限った現象と呼べるものではないとされています。 https://t.co/4iZbObaQ0L
大宮台地にもある、難透水性の常総粘土あたりからわき出してるのかなぁ。大宮台地北部の大宮層におけるテフラ層序と堆積環境 https://t.co/cdxoX5jhMk
@e_ikuon 違和感ありますよね。 既にお読みと思いますが、松浦先生は2018年論文でも人工開削説のご様子。 https://t.co/G5qlifHU08
本邦に於ける二股河の一例 https://t.co/qfewI0YQge 1910年の記事。川が二股に別れて別の水系に流れていくのは珍しいが、その一例が阿武隈川/久慈川水系で見られると。 大字名から、画像のあたりのことかと思うのですが、久慈川側の河川名が違っていますね。(記事:八幡川、地図:桧木川) https://t.co/t3wJl0DOHG
@e_ikuon 出典は、『新編武蔵風土記稿・足立郡之五』の「鳩ケ谷宿」です。 データは、「国立国会図書館デジタルコレクション」 https://t.co/dqSJIuo4eR です。 https://t.co/xHAkpI01h0

3 0 0 0 OA 利根川東遷

松浦先生、こちらの論文では、太田道灌時代の利根川は、葛和田から綾瀬川と合流したと書いていらっしゃいますね。 これはさすがに無いのでは? それでは、荒川と利根川の東西が逆になってしまう! https://t.co/EY1HkRA7VK https://t.co/3eZLCjP62S
松浦先生の論文だと、浅間川が利根川本流になるのは「会の川」の締切後? 文明年間に浅間川が利根川本流だったとする『中川水系 人文』と見解異なる?? https://t.co/78ww96ogeG
J-STAGEで地学雑誌のなかで「盆地」と検索してみたら1890年の論文が出てきました。「盆地(Basin)」と描かれていることから、このくらいの時期に生まれた新しい用語かもしれませんね。 画像出典(河野,1890)→https://t.co/3agpUI85OY https://t.co/EjTteqUtrL https://t.co/ODG8XtGjtj
千葉段丘と中世村落との関係に興味を持つ。杉原1970論文で千葉段丘と分類されている段丘面を手賀沼周辺の下総台地地形図上で拾い上げると矢印のような位置にある(カシミールスーパー地形を利用)。杉原1970, 下総台地西部における地形の発達 https://t.co/UIvIqyt4w6 https://t.co/uKROznhD4G
牛久自然観察の森(茨城県牛久市)のあたりの台地と低地の間の段丘面。下記の論文によると、どうやら下総台地の谷津の右岸に遍在する千葉段丘と同様の分類ができるようだ。下総台地西部における地形の発達https://t.co/AaLxJEoz89
1月に訪問した、対馬市厳原町佐須瀬における漂着ごみ。 至近にある朝鮮半島に由来するごみが目立ちます。 越境漂着ゴミを調査・報告した山口・横山(1998)の、対馬ではハングル語系が9割を超えるという結果とも調和的。 https://t.co/nbXDiUDONm https://t.co/4e51sUHyZP
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
メモ:中川低地の利根川 荒川の流路関連 荒川低地へ向かった後期完新世の利根川旧流路 https://t.co/GAEbvkqxM8 江戸期前含む 河川からみた埼玉平野の開発 https://t.co/8U7uyYCBKJ 江戸期前含む 中川流域の治水史 https://t.co/5rwC80sgcZ 主に江戸以降
続き。 北東ー南西方向の谷が南西側に続いていないのは何故か。 地理院地図を貼った辺りの12万年前頃の姿はをひもとくと。 地図南西部の北西〜南東方向に向かう古砂州があり、外洋側にできる砂丘列は南西側に続いていなかったと考えています。 あくまで個人の感想です。 https://t.co/V7jwNO7p2e https://t.co/OgOJb4BkyH https://t.co/2x9vLskgQ6
東茨城台地の涸沼川流域には、北東〜南西方向の谷がみられます。 台地をつくる地層を見ると、砂浜の地層の高さと厚さが変化しており、12万年前に海が引くときの砂丘列の影響であると考えられます。 国土地理院の方と歩いて、地形と地層の関連の面白さに気づいた場所です。 https://t.co/PK0REiADUM https://t.co/N5IXB8qFBM
下記の文献によると、江戸川開削時期は諸説あるが1620~1650年頃らしい。ローム層と砂層からなる台地の開削距離は合計約5km。掘削量約135万m3 。その分の土砂はどこかの築堤にでも使ったのだろうか。https://t.co/cbrtKNDrrD
榛名山の角閃石安山岩は古墳時代の噴火の噴出物であることが特別な存在。噴火は山麓を壊滅させ、利根川流域に土砂災害をもたらしたはず。その噴出物を古墳の石室に用いることに何か意味があるのではないかと想像が膨らむ。6世紀における榛名火山の2回の噴火とその災害https://t.co/bXauZhynr2
利根川増水で威力を発揮した茨城県・千葉県境の田中調節池・稲戸井調節池・菅生調節池に関して、しっかりとした情報がわかりそうな文献を発見。利根川河道沿い三調節池群の洪水調節量の算定 https://t.co/bXRTzGReD6 …
大正時代はじめに、現在の板橋区中板橋駅付近の石神井川沿いにあった牧場。その頃は、巣鴨から新宿、渋谷にかけて牧場が立地していた。小田内通敏1918『帝都と近郊』より。国会図書館デジタルアーカイブ https://t.co/0jLx7CwyIy https://t.co/feorB4O5zB

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