著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第57回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B01, 2023 (Released:2023-06-19)

報告者は、1990年代から日本の人類学者の研究と調査の社会的背景を理解するため、関係者へのインタビュー、歴史アーカイブの渉猟、調査地への再訪などを通じて人類学史を研究してきた。今回の発表は内蒙古の特務機関の実態を紹介したうえで、ドイツのモンゴル学者ハイシッヒが、日本の特務機関と協力した罪で戦犯として裁かれた経歴があったこと、そして彼が岡正雄とウィーン大学時代に最も近い関係であったことを報告する。
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

第二次世界大戦中に、アメリカの人類学者の90%が軍事・政治組織にかかわっていた。人類学者を、軍事的な活動の必要に応じて差配していたのはクラックホーンであった。アメリカの対日戦を理解するためには、日本語資料を駆使する必要がある。今回、4つの事例から日本との戦争を通じて、アメリカの人類学がどのように変容し、国家機関や軍事部門に如何にかかわっていったのかという観点から、アメリカの人類学史を描いてみる。
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第50回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.C17, 2016 (Released:2016-04-23)

第二次世界大戦中に、アメリカの人類学者の90%が軍事・政治組織にかかわっていた。人類学者を、軍事的な活動の必要に応じて差配していたのはクラックホーンであった。アメリカの対日戦を理解するためには、日本語資料を駆使する必要がある。今回、4つの事例から日本との戦争を通じて、アメリカの人類学がどのように変容し、国家機関や軍事部門に如何にかかわっていったのかという観点から、アメリカの人類学史を描いてみる。
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.265-283, 1991-12-30

華北村落では,異なる宗族でも,あたかも同一宗族であるような擬制的世代関係を形成している。本稿ではこれを「世代ランク」と称するが,近隣者間の擬制的世代関係である。世代ランクの社会的機能は,挨拶・年始回り・擬制的親族関係・席順・村民資格の取得・社会的威信がある。世代ランクは,宗族の世代関係と,姻戚の世代関係の組み合わせによって形成され,親族としての交際が消滅した後でも,世代関係が近隣者の間に残存したのだろうと考えられる。中国全体で,近勝者への親族名称を拡張することは普遍的である。しかし親族名称の拡張原理に年齢が関与しない世代ランクの習俗は,村落の成員権と強く結びついている。これらの特徴は,華北村落のみに観察される。その社会的要因は,華北村落の共同体的規制の強さと,村落内の統合性の高さにあるのだろう。世代ランクは,社会集団ではなく,社会的カテゴリーである。
著者
中生 勝美
出版者
首都大学東京人文科学研究科
雑誌
人文学報. 社会人類学分野 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.515-2, pp.93-111, 2019-03-31
著者
中生 勝美 Nakao Katsumi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.83-97, 2013-03-01

世界の民族学・人類学は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、いわゆる「戦間期」に飛躍的な発展をとげた。第一次世界大戦後は、民族紛争やナショナリズムの隆盛で民族問題が関心をもたれ、フィールドワークの対象が世界各地の辺境まで及び、その地誌的情報、民族誌的知識は、単なる学問だけでなく、軍事情報として蓄積された。 そうした観点で人類学者の動きや民族誌の形成過程を見てみると、イギリスとアメリカで戦争と人類学の密接な関係が浮かび上がる。日本でも、戦略展開地域を想定して、その地域に住む民族の調査を推進していた。たとえば、帝国学士院東亜諸民族調査室では、日本周辺の少数民族に関して、それぞれ民族台帳を作成して、戦争のための必要な情報を整理していた。 民族台帳の作成は、対象となった民族の研究者に執筆を依頼していた。該当する民族を専門にする研究者がいない場合は、嘱託を募り現地調査をさせて民族台帳を作成する計画をしていた。この嘱託として採用されたのは石田英一郎であった。石田は、治安維持法で逮捕され、出所した後にウィーンへ留学して1939 年に帰国し、40 年から帝国学士院東亜諸民族調査室の嘱託となった経歴がある。石田は「蒙疆の回民」(現在の内蒙古のムスリム)と「樺太のオロッコ」(現在の民族名称ではウィルタ)の研究を嘱託され、現地調査をしていた。前者の報告書は、1945 年の東京大空襲のときに原稿が焼失してしまい、公刊されなかった。後者は一部が『民族学年報』に発表されただけで、全体は未刊である。 フィールドワークからおよそ無縁な石田英一郎が担当した民族調査が、彼のもっとも忌避すべき軍隊に利用される民族であったことを、当時の時代背景と歴史資料から明らかにして、欧米の人類学と同様に、日本でも民族誌がいかに軍事利用されたかという点を明らかにしたい。
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.47-65, 1997

民族研究所は, 戦時中の短い期間に存続した。そこの研究員は, 戦後に活躍する民族学者が数多く在籍していた。しかし, 「戦争協力をした研究所」との批判があり, その実態は明らかにされていない。民族研究所は, 終戦とともに廃庁となったため, 残された資料は完全でない。そこで, 公文書と関係者の聞き取りから, 民族研究所の設立経緯と活動内容を調べ, ウィーンに留学していた岡正雄の民族研究所設立の構想, その人脈に加え, 日本の民族学者を組織していた古野清人の協力で, 民族研究所が設立された経緯を明らかにできた。民族研究所の設立目的は, 日本軍の占領地を現地調査することにより, 現地の異民族工作のための基礎資料を集めることであった。しかし実際には, 直接的な民族政策への参与はなく, 現地調査や文献研究により, 学術的に水準の高い研究が生まれた。特に, 岡正雄がウィーン学派への疑問から, イギリス的社会人類学へ問題関心を転換しており, フィールドワークによる異文化研究を, 民族研究所で実現したいと考えていた。戦後の日本民族学会をリードするメンバーは, 戦後になってヨーロッパやアメリカの人類学を受容したのではなく, 戦時中に設立された民族研究所の時代には, すでに海外の研究動向に目を配りつつ, 占領地や植民地のフィールドワークにより, 戦後に連続する研究を始めている。その一方で, 国策機関としての民族研究所が運営されたため, 研究所の蔵書の一部が, 占領地の略奪図書を中心に集められていたことなども明らかになった。中国には「飲水想源」(水を飲むとき, 源を想う)という諺がある。日本民族学のルーツを直視して, 負の遺産も含めた歴史を記憶する作業は, 民族学の現在を考える上で意義があるのではないだろうか。