著者
伊藤 淳史
出版者
富民協会
雑誌
農林業問題研究 (ISSN:03888525)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.177-186, 2010-09-25

本稿では,戦後日本における海外移住政策について,従来ほとんど検討されていなかった農林省サイドの動向に焦点をあてて考察を行った.その結果,農林省サイドの海外移住政策には人的系譜・政策の位置付け双方における満洲農業移民政策との連続性が見出された.海外移住を人口政策として捉えていた外務省サイドでは1960年代以降事業推進の動機が失われるのに対して,農林省サイドでは時々の政策課題に応じた位置付けが与えられた.加えて,海外移住は外務省にとって大東亜省発足にともなって新たに付加された事業であったのに対して,農林省においては戦時期に重要国策として取り組まれた経緯があった.戦後長期にわたって海外移住が推進されたことを外務省サイドの動向のみから説明することは困難である.農林省によって与えられた農業政策としての側面に着目することが必要だろう. また,現在30万人以上におよぶ日系ブラジル人の「デカセギ」現象について,1990年の入管法改正に先立つ戦後移民の「還流」形態が大きな影響を及ぼしていることを指摘した.日系ブラジル人労働者に関する先行研究ではほとんど言及されることはないが,戦後移民の存在を抜きに現在の「デカセギ」を説明することは困難である.従来,満洲移民研究・戦後移民研究・外国人労働者研究は相互を参照することなく行われてきたが,今後は積極的な対話が望まれよう.
著者
伊藤 淳史
出版者
日本農業経済学会
雑誌
農業経済研究 (ISSN:03873234)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.165-177, 2020-09-25 (Released:2020-12-25)
参考文献数
26

本稿ではPL480タイトルIIによる学校給食贈与の成立過程について日米両政府の公文書に基づき検討し,以下の点を明らかにした.第1に,アメリカ政府は食生活改善のため脱脂粉乳贈与を提案したが,日本政府は粉食奨励による国際収支改善を訴え小麦贈与を認めさせた.第2に,日米二国間の利害だけでなく他国との協定の影響により交渉は難航した.第3に,日米は学童服への綿花贈与でも合意したが加工費負担問題により断念された.第4に,贈与小麦はパン用小麦でないためカナダ産小麦とのブレンドが必要だった.以上の知見は,学校給食によるパン食の普及を通じたアメリカ小麦市場開拓という従来の見解が成り立たないことを示すものである.
著者
伊藤 淳史
出版者
日本農業経済学会
雑誌
農業経済研究 (ISSN:03873234)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.221-233, 2012-03-25 (Released:2014-04-01)
参考文献数
42

本稿では農業労務者派米事業の成立過程について農林・外務両省の角逐に着目して分析を行い,以下の3点を明らかにした.第1に,本事業は農業政策としては「二三男対策」と「後継者対策」の2側面を併せ持ち,また移民政策としては農村青年の単身移民として構想されたものであった.第2に,両省には事業の位置付けに関する根本的な相違があった.外交政策としての意義を優先させた外務省に対して,農林省は農業政策としての立場を主張し,妥協の成立には2年を要した.第3に,戦後農業政策について農業移民を検討する必要性を,また戦後移民政策については農林・外務両省など諸アクターによる動的過程として捉える必要性を指摘した.
著者
伊藤 淳史
出版者
The Association for Regional Agricultural and Forestry Economics
雑誌
農林業問題研究 (ISSN:03888525)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.177-186, 2010 (Released:2012-04-06)
参考文献数
52

本稿では,戦後日本における海外移住政策について,従来ほとんど検討されていなかった農林省サイドの動向に焦点をあてて考察を行った.その結果,農林省サイドの海外移住政策には人的系譜・政策の位置付け双方における満洲農業移民政策との連続性が見出された.海外移住を人口政策として捉えていた外務省サイドでは1960年代以降事業推進の動機が失われるのに対して,農林省サイドでは時々の政策課題に応じた位置付けが与えられた.加えて,海外移住は外務省にとって大東亜省発足にともなって新たに付加された事業であったのに対して,農林省においては戦時期に重要国策として取り組まれた経緯があった.戦後長期にわたって海外移住が推進されたことを外務省サイドの動向のみから説明することは困難である.農林省によって与えられた農業政策としての側面に着目することが必要だろう. また,現在30万人以上におよぶ日系ブラジル人の「デカセギ」現象について,1990年の入管法改正に先立つ戦後移民の「還流」形態が大きな影響を及ぼしていることを指摘した.日系ブラジル人労働者に関する先行研究ではほとんど言及されることはないが,戦後移民の存在を抜きに現在の「デカセギ」を説明することは困難である.従来,満洲移民研究・戦後移民研究・外国人労働者研究は相互を参照することなく行われてきたが,今後は積極的な対話が望まれよう.
著者
野田 公夫 足立 泰紀 足立 芳宏 伊藤 淳史 大田 伊久雄 岡田 知弘 坂根 嘉弘 白木沢 旭児
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

1930年代日本において、経済的価値を生み出す源として「資源」という言葉がクローズアップされたが、とくに戦争準備の過程に強く規定されたところに大きな特徴があった。農林業は持続性を犠牲にして戦争に総動員されるとともに、工業原料にめぐまれない日本では「あらゆる農産物の軍需資源化」という特異な事態をうんだ。これは、アメリカはもちろん、同じ敗戦国であるドイツとも異なる現象であり、当時の日本経済が巨大寡占企業を生み出しながら就業人口の半ばを農業が占める農業国家であるという奇形的構造をとっていたことの反映であると考えられる。
著者
伊藤 淳史
出版者
日本村落研究学会
雑誌
村落社会研究 (ISSN:13408240)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.25-36, 2006 (Released:2013-11-29)
参考文献数
33

The purpose of this paper is to examine the process of the settlement in “Shirakawa Houtoku” from the viewpoint of how settlers reacted to their leader. The Leader KATO Kanji, who was one of influential advocators of Manchuria emigration project in prewar Japan, settled in Shirakawa Heights in Fukushima prefecture with other settlers, who were his followers, soon after the end of the war. They started farming in October 1945. Based on his own thought he instructed them a collective farming for their self-sufficiency. But as the crop was further worse than expected, it caused a mass leaving of the settlers from “Shirakawa” . As the number of leaving reached the peak in 1952, KATO Kanji was forced to retire from the head of cooperative association and he also soon left there. KATO Yasuhiko, a new leader, changed former farming policy dramatically. He introduced dairy farming based on individual management. This new farming, having brought about a rapid development of “Shirakawa Houtoku Reclamation Agricultural Co-op”, made the life of settlers become stable. However, this means that the KATO’s initial farming thought was, even if not entirely denied, really eviscerated. Therefore we cannot regard the development of “Shirakawa Houtoku Reclamation Agricultural Co-op” as a successful example of postwar Japanese agriculture policy. But we must pay attention that there are many settlers who have evaluated Kato Kanji very high, even if not as their leader, as superior educator for peasants. They have found his idea an important factor which enabled to continue their settlement, although facing the serious crisises repeatedly. In contrast to former studies on postwar agricultural settlement from the viewpoint of either agriculture or social policy, we emphasize that it had simultaneously an educational function.
著者
伊藤 淳史
出版者
日本農業史学会
雑誌
農業史研究 (ISSN:13475614)
巻号頁・発行日
no.35, pp.67-79, 2001-03
被引用文献数
2

This study examines people's consciousness and behavior in japanese rural areas in the wartime regime, especially their reaction to nationalistic activities. It focuses first on the situation concerning cooperation. Although attempts to cooperate in agricultural labor did have motives arising from nationalistic education, rural people did not understand this value, but accept volunteers only as their new workforce. Furthermore they had no interest in attempting to cooperate in daily life,especially in day-care centers and the common kitchen, because they didn't like to be interfered with in their private life. Secondly it discusses the situation in "DOJO" education, that is a camp for nationalistic education. According to their age and social career we can divided trainees into two different groups. On the one hand we find some trainees who saw it positively as a channel of self-realization, on the other some who expressed a sense of incongruity. Considering these points, we need to extend the discussion of rural people in war-time from the simply economic standpoint.
著者
野田 公夫 足立 泰紀 足立 芳宏 伊藤 淳史 大田 伊久雄 岡田 知弘 坂根 嘉弘 白木沢 旭児
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

1930 年代の日本では「資源」という言葉が急浮上した。そして「あるもの」ではなく「作ることができるもの」という側面が過剰に強調されただけでなく、人すらその対象に加わえられた(人的資源)。これは、ドイツにもアメリカにもない特異な現象であり、物質的豊かさに恵まれない日本が総力戦体制に立ち向かうための重要なレトリックであった。本研究では、総力戦体制期の農林資源開発に関する、日・独・米三国の比較史的研究をおこなった。
著者
伊藤 淳史
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2004

戦時の植民地開拓と戦後の国内開拓の「断絶」面・「連続」面に関して福島県西郷村の白河報徳開拓農業協同組合を事例とした考察を行い、その成果は下記の論文に掲載された。伊藤淳史「加藤完治の戦後開拓-福島県白河開拓における共同経営理念をめぐって-」『農林業問題研究』第154号、2004年6月、76-80頁(地域農林経済学会大会個別報告論文)本論文では、開拓指導者加藤完治の指導理念における戦時と戦後の「連続」、一方でその理念を形骸化させる形での農業経営の安定化(=「断絶」)という、戦後状況における理念と現実との乖離を指摘した。また、植民地と農業教育の接点たる高等農業学校留学生について論じた著書に関して下記のブックガイドが掲載された。伊藤淳史「ブックガイド 河路由佳・淵野雄二郎・野本京子著『戦時体制下の農業教育と中国人留学生』」『農業と経済』第70巻第9号、2004年7月、111頁なお、8月には茨城県内原町・福島県西郷村において現地調査を行い、内原では戦時期より現在に至るまでの現存する機関紙誌の収集および関係者からの聞き取り、西郷では開拓第一世代および第二世代からの聞き取り調査を行った。
著者
岩崎 正弥 三原 容子 伊藤 淳史 舩戸 修一
出版者
愛知大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

農本思想とは、農に特別の価値を認め、その価値を社会の中で追求・実現しようとする思想である。本研究を通して以下のことを明らかにした。1)農本思想は1945年で終息したのではなく、戦後の農村教育や農政にその一部が継承され、帰農や地域づくりにおいて現代にもその影響がみられる。2)日本固有の思考様式だったのではなく、中国の村治運動やアメリカのアグラリアニズムにも認められるように、一種の普遍性をもつ哲学であった。また「社稷」概念は現代においてこそ再評価されるべきである。