- 著者
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淺野 敏久
金 枓哲
伊藤 達也
平井 幸弘
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2007, pp.139, 2007
<BR>1.はじめに<BR> 2006年4月に韓国・セマングム干拓事業の防潮堤がつながった。2箇所の水門はまだ開放されているものの,約33kmの堤防により干拓事業地は外海から締め切られた。事業はまだこれからが肝心の部分であるが,ここに至るまで,世界的な巨大開発事業に対して,環境への影響を懸念した反対運動が全韓国的に展開されてきた。<BR> 報告者らは,セマングム問題に関する調査を,2003年度より共同研究として続けてきた。2006年度は,科研費は切れていたが,締め切り後の状況を知るために現地を訪れた。今回は,セマングム問題の現状を報告するとともに,断片的に状況を把握したレベルではあるが,この間のセマングム問題をめぐる環境運動の変化について,運動体の支持層・参加層の空間的な違いに注目しつつ指摘することを目的とする。<BR>2.セマングム問題の経緯<BR> 韓国西南海岸では,1970年代に干潟の開発が注目され,西南海岸干拓農地開発事業基本計画が策定された。セマングムはその10分の1を占める巨大開発で,閉め切り面積は約4万ha,干拓面積は28,300haに及ぶ。セマングム開発は1991年に起工されるが,1996年に同様の干拓地であるシファ地区での水質悪化が社会問題化し,これをきっかけに,セマングム開発への懸念が全羅北道の環境団体から投げかけられると,全国的な注目を集めることになった。<BR> 全羅北道が強く要望する産業・都市開発に対して,1998年末に用途変更は認めないと農林部が表明,セマングム開発は建前上,農地開発を行うものとして進むことになる。水質問題が争点になり,環境影響評価を行うための民・官共同調査団が組織され工事が一時中断した。この間,反対運動は全国的に広がり,環境団体,労働・社会団体などが抗議行動を次々に起こしていった。<BR> 一方,高まる事業反対世論に抗して,全羅北道の有識者らが環境に配慮した事業の推進を求め,全道的な事業推進運動に発展していく。農地だけではない産業・都市開発が提案され,「親環境的な開発」がキーワードになっていく。 <BR> 2003年3月,キリスト教や仏教の宗教指導者が,三歩一拝デモを始めると,賛否双方の運動はますます過熱化し,社会的混乱が生じ,同年7月にソウル行政法院が,反対派の求めた本訴判決までのセマングム工事執行停止を命じると,それはピークに達した。翌年1月に,ソウル高裁はこの仮処分決定を取り消し,2005年2月にソウル行政裁判所が事実上の原告(反対派)勝訴判決を下すものの,進行中の防潮堤補強工事と残る区間の防水工事の工事中止決定を出さなかったために工事は進み,さらに控訴審で原告敗訴の判決が下ると一気に防潮堤工事が進んで,2006年4月にはセマングムは水門部分を除いて外海から隔てられることになった。<BR>3.ケファの変化<BR> ところで,筆者らは,地元の反対運動の拠点となったケファ地区を2003年から2006年まで毎年訪れ,この問題に翻弄されたこの集落の変化を見た。初めての時は,過激な行動を辞さない抵抗運動が行われ,ソウルから若い「活動家」が住み込んでいたが,工事が再開した2005年には彼らはいなくなり,絶対反対のこの地区と親環境的な開発を視野に入れた方針転換を図りつつあった全国的環境団体との温度差がみられるようになった。2006年にはこの地区の干潟は消失(陸化)して,砂地がどこまでも広がる景観が現れ,この地区では干潟の恵みを生活の糧にすることはできなくなっていた。絶望感が漂う一方で,これからどうするかというアイディアが,反対を続けてきた住民の中から出されてもいて,この土地で生き続けてきた人のしぶとさも感じられた。<BR>4.環境運動の変化<BR> この問題について調べる中で,韓国と日本の環境運動の違い,例えば,民主化運動とのつながり,大衆的な運動スタイル,運動団体の規模・人員の充実度,労組や宗教団体などとの幅広い連帯,運動の舞台となるソウルの重要性といったことや,セマングム問題を理解する上で重要な全国レベル・道レベル・地区レベルそれぞれの空間的な枠組み,例えば,運動がこの空間ごとに異なる様相を示し,それぞれでの利害関係が問題の社会的な側面を構成していることなどに気づかされた。本報告では,この環境運動の空間構造について論じるつもりである。