著者
北原 恵 香川 檀 小勝 禮子 金 惠信 平田 由美 ジェニスン レベッカ 児島 薫 坂上 香 水野 僚子
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

このプロジェクトでは周縁化されてきた女性アーティストに焦点を絞り、ジェンダーの視点から、戦時中の女性画家の移動や、移民として国外に出た女性美術家について、包括的な調査研究を行った。研究は次の3本の柱から成る。①戦争・植民地体験と女性アーティストの実証的調査(長谷川春子、赤松俊子、谷口富美枝ら)、②東アジア圏の美術をめぐるネットワーク的移動の解明(朝鮮美術展・台湾美術展・満州国美術展など)、③現代美術における女性美術家の調査。これらの研究の成果は、「アジアをつなぐ 境界を生きる女たち 1984-2012」展や「官展に見る近代美術」展などにも生かされた。
著者
水野 僚子 藤谷 陽悦 内田 青蔵
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.65, no.532, pp.239-246, 2000-06-30 (Released:2017-02-03)
参考文献数
73
被引用文献数
1 2

The bill about "Housing Society" was formed by The Ministry of Home Affairs in 1919. The law had some problems from the beginning. So some propositions about the revision were introduced to the TEIKOKU Diet. But the essential points weren't revised. The worst problem of "Housing Society" was the member of societies couldn't repay for the depression and the earthquake. The number of "Housing Society" slumped about 1950 in spite of some countermeasure. After the 2nd war, the law was used with the Government Housing Loan Corporation. But it's purpose (supply of housing to middle-class people) was lost. And the law died stillborn in 1971.
著者
安野 彰 大井 隆弘 須崎 文代 田中 和幸 水野 僚子
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住総研研究論文集 (ISSN:21878188)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.137-148, 2017

本研究は,近代住宅における水まわり空間の変容過程を明らかにするため,住宅改良が活発に展開された大正から昭和期にかけて活躍し,平面形式等に都市住宅の典型的傾向を示す建築家・吉田五十八の住宅作品を分析した。具体的には,水まわりの設備が描かれた平面図,展開図,詳細図等を用いて,台所・浴室・便所・女中室について,住宅全体の動線計画における位置づけや室内空間の変遷を検討した。その結果,1940 年頃と1950 年から55 年頃に変化が集中していることが確認された。そこでは,住宅における表と裏の性格と水まわり空間の関係性が段階的に変化していく様子や,新しい材料や技術の導入がそうした変化に与えた影響が捉えられた。
著者
水野 僚子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.166, pp.81-104,図巻頭1p, 2011-03

本稿は、紀州藩十代藩主徳川治宝の雅楽をめぐる動向に注目し、彼において雅楽という音楽や楽器はいかなる意味をもち、またどのように雅楽と関わっていたのかということを、「西浜御殿舞楽之図」(和歌山市立博物館蔵)を詳細に分析することによって、考察するものである。「西浜御殿舞楽之図」(和歌山市立博物館蔵)は、これまで紀州藩の国学者本居大平が著した「楽譚 西浜御殿舞楽之記」の内容と画面内容がおおよそ一致することから、文政六年(一八二三)十月に徳川治宝によって開催された舞楽の様子を描いたものであると考えられてきた。しかし、描かれた内容には「舞楽記」との相違も見られることから、別の日の舞楽の模様を描いた可能性も考えられた。特に季節の描写が異なっていることに注目し、現存する史料を精査した結果、天保十年三月に西浜御殿にて開催された舞楽会を描き出した可能性も考えられることが分かった。また、細部を詳細に分析することによって、西浜御殿を具体的な「舞楽」のイメージを用いて、雅な「庭園図」として描くとともに、主従関係が明確である政治的空間として描こうとしていることを指摘した。しかもその庭園のイメージには、古典絵画に見られる公家邸宅を用い、治宝自身の姿も高貴な公家や天皇の姿を重ねることによって、治宝自身を文化的政治的に強大な権力をもった人物として位置づける意図があったのではないかと推測した。これには、西浜御殿隠居後の治宝がおかれた立場が深く関わっている。幕府の意向により、不本意な形で藩主の座を娘婿に譲らなければならなかった治宝にとって、西浜御殿は、まさに「城」に替わる「御所」であった。つまり本図は、「舞楽」というイメージを使って西浜御殿を雅な場として荘厳し、政治的にも文化的にも中心であること、そして治宝がその場を支配する強大な権力者であることを示そうとした表象として、描かれたイメージであったと考えられる。This article focuses on Tokugawa Harutomi's movements around the Gagaku. Tokugawa Harutomi was the 10th feudal lord of the Kishu domain. And this article examines what the Gagaku music and the musical instruments meant to him and how he was involved in Gagaku by analyzing "Nishihama Goten Bugaku No Zu" (owned by Wakayama City Museum) in detail.The painting of "Nishihama Goten Bugaku No Zu" (owned by Wakayama City Museum) is almost the same as the content of "Gakutan: Nishihama Goten Bugaku No Ki" written by Motoori Oohira, scholar of the Kokugaku, from the Kishu domain. Therefore, it was considered that the painting showed the scene of the Bugaku held by Tokugawa Harutomi in October of the 6th year of the Bunsei era (1823). However, there are some differences between the painting and the content of the "Bugaku No Ki", and there is a possibility that the Bugaku held on another day was shown in the painting. As a result of focusing attention on the difference in depicture of seasons and making a detailed survey of the existing historical materials, it was found that the painting might depict the Bugaku held at Nishihama Goten in March of the 10th year of the Tempo era (1839).In addition, as a result of analyzing the details further, it is pointed that Nishihama Goten was depicted as a graceful "garden painting" with a specific image of "Bugaku" and as a political space in which the master-servant relationship is clear. It is also assumed that Harutomi intended to position himself as a person having strong power culturally and politically by using such a court noble's residence as depicted in classical paintings for the image of the garden and overlapping the picture of Harutomi himself with the picture of a court noble or the emperor. This is deeply related with the position of Harutomi after he went into retirement at Nishihama Goten. With the intent of the shogunate, Harutomi had to reluctantly hand over the position of domain lord to his daughter's husband, and to him, Nishihama Goten was a "palace" as a substitute for "castle".In other words, it seems that this painting was depicted with the intention of showing that Nishihama Goten was a political and cultural center by solemnifying Nishihama Goten as a graceful place using the image of "Bugaku" and that Harutomi was a strong person of power who dominates the place.
著者
池田 忍 柴 佳世乃 久保 勇 伊東 祐子 亀井 若菜 水野 僚子 土屋 貴裕 成原 有貴 メラニー トレーデ 須賀 隆章 中村 ひの
出版者
千葉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

本研究は、日本の中世の物語絵画、とりわけ多様な知識や情報を共有し伝達する媒体であった絵巻の描写を手がかりに、身分と階層を跨る絵巻制作者と享受者の重層的な世界観を明らかにしようとするものである。本研究では、中世の人々の日常生活、労働、信仰、行事、儀礼、合戦の他、異国や異域、神仏化現の舞台となる「場」(型)を抽出・収集し、そこに描かれた建築や環境、多様な「もの」に、身分差や階層差、ジェンダーの差異がどのように描き分けられ、関連付けられているかを具体的に検証し、物語絵画、とりわけ絵巻という媒体の歴史的特性を明らかにした。