著者
田中 啓爾
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.83-91, 1938-04-01 (Released:2010-03-19)
参考文献数
7
著者
中野 繁 Kurt D. Fausch 田中 哲夫 前川 光司 川那部 浩哉
出版者
The Ichthyological Society of Japan
雑誌
魚類学雑誌 (ISSN:00215090)
巻号頁・発行日
vol.39, no.3, pp.211-217, 1992-11-30 (Released:2010-06-28)
参考文献数
22
被引用文献数
1

モンタナ州フラットヘッド川水系の山地渓流において, 同所的に生息する2種のサケ科魚類ブルチャーとカットスロートトラウトの採餌行動と生息場所の利用様式を潜水観察し, さらに両種の食性を比較した.一般に, 渓流性サケ科魚類の採餌行動は, 水中の一地点に留まり泳ぎながら流下動物を食べる方法 (流下物採餌) と河床近くを広く泳ぎ回りながら底生動物を直接つつくようにして食べる方法 (底生採餌) に大きく二分される.両種の採餌行動は大きく異なり, ブルチャーの多くの個体が主に後者の方法を採用したのに対し, 観察されたすべてのカットスロートトラウトは前者を採用した.両種間には明瞭な食性の差異が認められ, ブルチャーがコカゲロウ科やヒラタカゲロウ科幼虫等の水生昆虫を多く捕食していたのに対し, カットスロートトラウトは主に陸性の落下昆虫を捕食していた.両種が利用する空間にも明らかな差異が認められ, ブルチャーが淵の底層部分を利用するのに対し, カットスロートトラウトはより表層に近い部分を利用した.また, 前者が河畔林の枝や倒木の下などの物陰を利用するのに対し, 後者は頭上の開けた場所を利用した.両種の食性と流下及び底生動物の組成を比較した結果, 両種間に見られた食性の差異は採餌行動の差異のみならず採餌空間の違いをも反映しているものと考えられた.このような種間における資源の分割利用が両種の共存を可能にしているものと考えられた.
著者
田中 聰 佐藤 源 曽田 益弘 小松原 正吉 河本 知二
出版者
日本臨床外科学会
雑誌
日本臨床外科医学会雑誌 (ISSN:03869776)
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.521-527, 1978

肝海綿状血管腫の3症例を経験し,それぞれ異なる摘除術式によって治癒せしめた.症例はすべて女性で,年齢は47歳, 47歳, 42歳であり,第1例は胆嚢水腫の診断のもとに手術されたが,第2例は腹腔鏡検査での腫瘤表面の性状から,第3例は肝動脈造影での造影剤のボタン雪状のpoolingから,術前に本症と診断されたものであった.その肉眼的増殖型はそれぞれ限局性被包型,多発性びまん型,部分的被包型で,第1例では腫瘤摘出術,第2例では左葉外側区域切除術,第3例では拡大右葉切除術(右葉および左葉内側区域切除術)をおこない, 270g, 890g, 3450gの腫瘤を摘除した.第1, 2例は腫瘤の圧迫によると思われる右季肋部痛,心窩部痛を主訴としたが,第3例の腫瘤は成熟胎児大であって.術前には下大静脈狭窄による両下肢浮腫,腹水の貯留,蛋白尿があり,ネフローゼとして加療されていた.また腫瘤内血液凝固に起因すると思われる血中FDP値の上昇があった.しかし腫瘤はほぼ被包化され,その約1/4周のみで肝実質に移行しており,結果的にはこの部での肝部分切除によって充分に摘除し得るものであった.肝海綿状血管腫は血管奇型とされているが,圧迫症状以外にも破裂による腹腔内出血, Kasabach-Merritt症候群,腫瘤内血液凝固にもとづくconsumption coagulopathy,貧血,うっ血性心不全,門脈圧亢進症状などを合併することが報告されているので,原則として外科的摘除を必要とするが,本症には有茎性肝外増殖型,限局被包型,不完全被包型,びまん性増殖型等,増殖形態に多様性があることが報告されている点を考慮し,必要最小限の侵襲にとどめるべく,術式の選択に慎重でなければならない.なお,ビリグラフィンによるcontrast enhancementを応用したCTスキャンは,肝嚢腫との鑑別上有用であった.
著者
田中 英三
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-20, 1986 (Released:2018-03-14)

Die vollkommene Einheit von Leib und Geist erreignet sich nicht andres, in diesem Aufsatz versuche ich, als darin, das menschlichen Leben als Existenz entstehen zu lassen. Was der lebendige Mensch existiert, muß es so recht gleich zu sein, wie die Vereinigung beider steht. Das leistet einen guten Dienst dem unverträglich hintergelassenen Probleme bei Descrates, der einerseits die Sachlage zwischen Leib und Geist in der Substanztheorie untergeschieden, anderseits doch “notion de leur union” als “un vrai homme” erwähnt hat. Eine Art von Lösung kann man dabei finden in der Stellung Leibnizens, die auf dem monadologischen Boden, unter derprästabilierten Harmonie bestimmt, den Weltbegriff einführt. Um dienoch weiter Fortgeschritte zu machen, muß man die Einwirkung des Leibes entsprechend dem lebendigen Menschen so neu forschen, wie Bergson angesichts der Gehirnsfunktion,bald danach Merleau-Ponty in seiner Phänomenologie des Leibes hingedeutet haben. Von dieser Aufgabe möchte ich einen größeren Wert legen darauf, daß der Mensch in ursprünglichem Einerlei von Leib und Geist existieren kann, wenn die Welt sich selbst eröffnet.