著者
西谷 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.79-150, 2001-03-30

豚便所とは畜舎に便所を併設し,人糞を餌として豚を飼養する施設である。豚便所形明器の分析からその分布には偏りがあり,成立の要因も地域によって異なることを明らかにした。豚便所は黄河中下流域で,戦国期の農耕進展による家畜飼養と農耕を両立させるため,家屋内便所で豚の舎飼いをおこない,飼料のコスト削減を目的として成立したと考えられる。一方豚便所のもう一つの重要な機能である廏肥の生産と耕作地への施肥との積極的な結びつきは,後漢中期以降に本格化する可能性が高いと推定した。黄河中下流域で成立した豚便所は,周辺地域へと広がるが,各地の受容要因は地域性が認められる。長江流域の水田地域の豚便所普及は,華北的農耕の広がりに伴う農耕地への施肥が,水田地にも応用されたことが契機になっている。一方,華南の広州市地域における豚便所の受容は,華北の豚便所文化を担った集団の移住による強制的な受容形態である。中国における豚飼養は,人糞飼料・畜糞・施肥を媒体とし,農耕と有機的に結合したシステムを形成しただけでなく,さらに祭祀儀礼などと複雑に結びつく多目的多利用型豚文化を展開した点に特質がある。一方日本列島で,中国的豚文化を受容しなかった一つの要因として,糞尿利用に対する拒否的な文化的態度の存在が指摘できよう。弥生時代には,豚は大陸からもちこまれ,食料としてだけでなくまつりにも重要な役割をはたした。しかし弥生時代以降の豚利用は,食料の生産だけにその飼養目的を特化した可能性が高い。その後奈良時代になると,宗教上の肉食禁忌の影響・国家の米重視の政策など,豚飼養を維持する上で不利な歴史的状況に直面する。食料の生産以外に,農耕・祭祀など多目的な結びつきが希薄だった日本列島の豚文化は,マイナスの要因を排除するだけの,積極的な動機づけを見いだせず,その結果豚飼養は衰退への道をたどっていったのではと考えられる。
著者
西谷 大
出版者
東京大学東洋文化研究所
雑誌
東洋文化研究所紀要 (ISSN:05638089)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.340-307, 2005-03

本文以雲南省的紅河哈尼族彜族自治州金平苗族瑤族傣族自治縣的集市為綫索,一邊把握集市的構成,一邊考察了集市對地域社會所産生的影響。並由此得出當地的不同時代的集市所共有的特性,以及復原出以往的國家周邊地區生活世界的變遷,從而為理解這些變遷提供有用的視點。從調査地者米的集市構成中可以發現的當地的定期集市形成的4個理由,它們是:村民有可以出售的剩餘産品;因為遠離作為大消費市場的都市而且交通不便所以村民不能通過自己的勞力運輸這些剩餘産品;當地集市具有消化這些剩餘産品的功能;由集市網絡和商人等中介的存在所産生的商品流通的必要性。定期集市可以超越過境和民族的界限在地域社會中擴展。定期集市也通過把地域社會融入集市網絡,形成了既可以購買到本地的土特産品又可以購買到外地的生活必需品的商業系統。
著者
西谷 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.267-333, 2007-03-30

本稿は中国雲南省紅河哈尼族彝族自治州の金平県で抽出できた,者米谷グループと金平グループの2つの市グループについての特質を明らかにすることを目的としている。これまで金平県でたつ6日ごとの市の考察から,市を成立させる条件として「余剰生産物の現金化と生活必需品の購入」,「徒歩移動における限界性」,「市ネットワークの存在と商人の介在」,「商品作物の処理機能」,「交易品としての食料と食の楽しみ」,「店舗数(市の規模)と来客数の相関」の6つ条件を提示した。さらに市という場としての特質として「小商いの集合による商品数の創出と多様な選択性」や,「生産物の処理の自由度と技術の分担による製品の分業創出」,「市のもつ遊びの楽しみ」などにも目を向ける必要があると論じてきた。ところが市を者米谷グループと金平グループという2つの地域に分けて考察してみると,者米谷グループの市システムは,生業経済の色合いが濃厚で,地域住民がある程度は市を馴化する,あるいは主体的に利用することが可能であるという性格をもつ。それに対して,金平グループの市システムは,町・都市の論理や移動商人が物資の移動を握り,地域の農民が主体的に市を活用する論理が通用しなくなっている。地域経済の動態を解明するために交易という地域ネットワークに焦点をあてた場合,市が誕生し市システムが発達していくなかで,定期市システムは,ある段階までは地域社会の生業経済を安定的に維持する方向に働き,農民たちの主体的な生業戦略を促進させる。いわば「生業経済に埋め込まれた定期市」といった段階があるのではないか考えられる。一方,各地域の市システムがネットワーク化されていく段階で,市の性格は「市場経済を促進する定期市」へと変化していくのではないかと推測される。
著者
西谷 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.407-422, 2003-10

日本列島において,ブタは大陸からもたらされた可能性が高い。しかしブタを農耕に取り込むといった特異な循環システムをもつ中国的集約農耕は,弥生時代およびそれ以降の日本の歴史においても,琉球列島を除いた日本列島には存在しなかった。またブタ自体も奈良時代以降は飼養しなくなるという歴史をもつ。本稿ではこの問題を,海南島のブタ飼養の歴史と,黎族のブタを重要視しない生業システムと比較しながら論じた。海南島において,黎族がブタを日常的に飼養するのは明代に至ってからだと考えられる。その要因は海南島における大陸からの漢族移住による人口圧のためのブタ肉の需要拡大が背景にあり,黎族とっては鉄製品や塩の交換品としてのブタの付加価値が,ブタ飼養を受容した要因だったと推測できる。しかし黎族は,中国的集約農耕によるブタ飼養方法は受容しなかった。そのかわりに,水田,焼畑,狩猟採集,家畜といった生業を複合的に維持しつづけた。その特徴は,焼畑という自然界に作られた「大きな罠」を利用し,野生動物を日常的に狩猟するシステムを農耕内部に作り上げたことにあった。これが人為的な循環システムに頼る中国的集約農耕とは大きく異なる点であり,またブタをそれほど重視しない生業を維持することが可能な要因だったと考えられる。琉球列島を除く日本列島の農耕は,海南島の黎族と同様に中国的集約農耕へと向かわなかっただけでなく,大陸の中国的集約農耕が卓越する地域ではすでに消滅した焼畑を,戦後の1970年代までおこないつづけた。日本列島における焼畑がどこまで遡るかは今後の研究課題であるが,日本のブタ飼養の問題をとりあげる場合,焼畑が有する野生動物の多様な利用に注目する必要があろう。There is a strong possibility that pigs were brought to the Japanese archipelago from the continent. However, the Chinese style of intensive agriculture with a singular rotational system that incorporated pigs into agriculture did not, with the exception of the Ryukyu Islands, exist in Japan during the Yayoi period or any later period in Japanese history. History also tells us that the raising of pigs ceased after the Nara period. This paper studies this question by comparing the history of pig farming on Hainan Island with the livelihood systems of the Li tribe that did not pay particular attention to pigs.It is believed that it wasn't until the Ming period that the Li tribe on Hainan Island began to raise pigs as part of their everyday lives. The reason for this is connected to the increase in demand for pork generated by population pressure on Hainan Island and it may be surmised that the acceptance of pig farming by the Li tribe is attributable to the added value that pigs had as goods that could be exchanged for iron products and salt.However, the Li tribe did not introduce a method of pig farming that follows the Chinese style of intensive agriculture. Instead, they continued to maintain livelihoods that involved wet rice paddies, slash-and-burn fields, hunting and gathering and domesticated livestock. The distinguishing feature of this style of livelihood was the use of "large traps" that were built in slash-and-burn fields that are part of the natural world, and the way they created a system for the daily trapping of wild animals within their agricultural system. This is vastly different from the Chinese style of intensive agriculture that relied on a man-made rotational system, and is believed to be one factor that made it possible to maintain a way of life that did not pay much attention to pigs.Not only was the Japanese archipelago, with the exception of the Ryukyu Islands, the same as Hainan Island in that it did not turn to the Chinese style of intensive agriculture, but slash-and-burn fields that had already disappeared from regions where the continental Chinese style of intensive agriculture had been prominent continued to be used after the Second World War up until the 1970s. The question of just how far back slash-and-burn fields date in the Japanese archipelago is a topic for future research, and the diverse utilization of nature in slash-and-burn fields is an aspect that deserves attention.
著者
新田 栄治 西谷 大 井上 和人 渡辺 芳郎 BUI Chi Hoan CHAIKANCHIT CHALIT Chaik
出版者
鹿児島大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1997

メコン流域の先史時代から初期国家成立にいたる文明化現象について、ベトナム南部、タイ東北部、ラオス南部、カンボジアのメコン流域とその近隣地域で考古学的調査と研究を行った。ベトナム南部においては、メコン・デルタおよびドンナイ川流域の調査を行い、各地で前3世紀以降、河川毎に地域的統一化現象が起きていることを確認した。タイ東北では首長の威信財であったと考えられる銅鼓資料の収集を行い、合わせてメコンおよび支流のムン川、チー川、ソンクラーム川の流域と各河川の合流点が、メコンと支流の河川交通とコーラート高原内陸部とメコン本流およびベトナム沿岸地域との交通の重要な地域であったことを確認した。ラオス南部チャンパサック県の調査では,メコンの河川交通遮断地であるコーン瀑布上流域の河川交通上での経済的、政治的意義を調査した。カンボジアではプノンペン一帯での河川交通の意味を調べるため、メコン、トンレサップ等4つの河川の合流点を考古学的に調査し、博物館資料として保存してあるカンボジアの青銅器、特に銅鼓を中心に資料収集を行った。現地調査の結果、メコン流域とその支流域には、東北タイに代表される鉄や塩、森林産物などの内陸産物を集荷また出荷するセンターが前3世紀ころから誕生したこと、これらのセンターの首長の威信財として東南アジアの代表的青銅器であるヘーガー1式銅鼓が受容されたこと、このような経済的、政治的拠点は、メコン本流とその支流の交通と運輸の拠点、つまり合流点、遮断点、島などに形成されたことが明らかとなった。これらの拠点的地域の中から後1世紀以降の都市の成立さらには国家形成へと進むものがあった。
著者
西谷 大 篠原 徹 安室 知 篠原 徹 安室 知 梅崎 昌裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

伝統的な技術でおこなわれてきた農耕は、ある特定の生業に特化するのではなく、農耕、漁撈、狩猟、採集といった生業を複合的におこなうことに特徴があり、これが生態的な環境の多様で持続的な利用につながってきた。本研究では、中国・海南省の五指山地域と、雲南省紅河州金平県者米地域とりあげ、伝統農耕の実践と政府主導による開発、そして自然環境という3者を、動的なシステム(いきすぎた開発と環境の復元力)としてとらえ、その関係性の解明を目的とした。対象とする地域の現象は「エスノ・サイエンスによる伝統農耕と環境保全技術」「共同体意識と環境保全」「地域社会の交易とグローバルな市場経済の影響」など、アジア地域の環境問題を考える上で重要な視点を含んでいる。中国の急速な経済発展は、さまざまな社会的矛盾を生み出すだけなく、激しい環境破壊をもたらした。2006年から開始した第11次5カ年計画は、中国政府が推進している「小康社会(生活に多少ゆとりのある社会)」の達成に重要な役割を担うものと位置づけられている。特に経済を持続可能な成長モデルに転換するため循環型に切り替え、生態系の保護、省エネルギー、資源節約、環境にやさしい社会の建設を加速するといった環境政策の大変革をおこなおうとした。しかし昨今の中国の公害問題が意味するように、経済発展が至上目標であるという点はまったく変化がない。中国において地域社会を維持してきた特徴の一つとして市の存在がある。市を介して地域内で各家庭単位での参加と「小商い」が可能な、この市の存在こそが自給的な経済活動を維持してきた。そのことが環境保全や地域社会の生業経済を両立させることに結びついてきたと考えられる。環境保全と生業経済を両立させようとするならば、地域社会の生活と経済に深く結びついた市を維持、または復活させる必要があると考えられる。
著者
梅崎 昌裕 河野 泰之 大久保 悟 富田 晋介 蒋 宏偉 西谷 大 中谷 友樹 星川 圭介
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

地域研究者が土地利用図を作成するために必要な空間情報科学の最新技術について、その有用性と限界を検討した。具体的には、正規化法による地形補正、オブジェクトベースの分類法による土地被覆分類、数値表層モデルの分析による地理的変数の生成が、小地域を対象にした土地利用図の作成に有用であることが明らかになった。さらに、アジア・オセアニア地域における土地利用・土地被覆の変化にかかわるメカニズムの個別性と普遍性を整理した。