著者
山森 裕毅
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.317-323, 2005-03-31

ANTONIN ARTAUD『ARTAUD LE MÔMO』ŒUVRES COMPLÈTES XII, Éditions Gallimard, 1974
著者
佐藤 伸郎 サトウ ノブロウ Sato Noburo
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.143-161, 2016-03-31

森敦が提起した境界論を考察する。かつて龍樹は空を考察し、その実践方法として結跏趺坐を提起した。また、石津照璽は、第三領域を考察し、その実践方法として絶体絶命の生命的危機を提起した。宮澤賢治は、第四次を考察し、その実践方法として農業従事を提起した。筆者はこれまで石津照璽の第三領域、宮澤賢治の第四次を龍樹の空の読み替えと捉え、研究をおこなってきた。森の用語でいえば、空は現実である。現実は流動し、言語はそれを固定化させる。ここに本来の存在と認識に矛盾が生じる。ひとは存在として流動するものなのに、認識するにはそれを固定化するほかはない。森の境界論は、言語によって固定化された現実を、言語によって流動化させる方法である。森は、この方法によって、ほんとうの自己に到達しようと試みたのである。
著者
森野 雄介 モリノ ユウスケ Morino Yusuke
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.105-122, 2016-03-31

本稿は、西田幾多郎の後期哲学における身体と自然の関係性を解明することを目的とする。後期西田の論文「人間的存在」において、身体と自然の関係性が「犬」への言及と共にクローズアップされる。その一文を手引きとして、本稿は後期の自然・身体概念と西田の前期・中期哲学とのあいだにどのような関係性が見受けられるかを考察していく。はじめに、中期西田の主要概念である「永遠の今の自己限定」が後期では「自然」として捉え直されていることに着目する。さらに、そこでは、中期の「現在が過去未来を含む」という規定が「現在に過去未来が同時存在する」という規定へと変更されていることを確認できる。本稿は、この変更の理由に、後期において主観と客観の相互対立が議論の骨子となっていることを指摘する。次に、主観と客観それぞれに対応するかたちで、西田が二種類の身体性と自然を提示していることを確認していく。まず、客観に対応するものが、「歴史的身体」と述べられる概念であり、これは静的な記号的「自然」として世界を観察可能にすることを確認する。主観に対応する身体性、自然として、西田は「生物的身体」と衝動的な「自然」を提示していることを確認する。最後に、これまでの議論を踏まえて、論文「人間的存在」内の「犬」と自然に関する言及を再吟味する。
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.73-87, 2014-03-31

ジュディス・バトラーにとって、スピノザは重要な思想家である。実際、バトラーは『ジェンダーをほどく』(2004年)で「スピノザのコナトゥスは私自身の作品の核心でありつづけている」(Butler 2004, 198)と述べている。それでは、いかなる意味でスピノザのコナトゥスはバトラーの哲学の「核心」にあるのか。本論文は、前回の論文「ジュディス・バトラーにおけるスピノザの行方(上)―「社会存在論」への道」に引き続きこの問題を考察するものであり、とりわけバトラーの「倫理学」に焦点を当てて探求するものである。私たちはこれらの考察の結果、バトラーの倫理学においてコナトゥスが基盤的な役割を担っていること、また、スピノザの徳がバトラーの考える倫理のモチーフのひとつであることを見出すことになるだろう。