著者
遠藤 竜馬 Endo Tatsuma エンドウ タツマ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.19, pp.53-70, 1998

本稿は、モータースポーツの「草の根」たる底辺層として、一般公道で「スピードレース型の暴走行為」に興じる若者サブカルチャー─彼らは「ストリート」とも呼ばれる─に注目する。彼らの行為は明らかに違法であり、それをモータースポーツに含めること自体が問題視されかねない。しかし、彼らの実態やモータースポーツ界全体をとりまく社会的環境について知ることで、その出現には必然的といいうる面もあることが理解されよう。クルマの改造=チューニングの法規による厳しい制限と、それを反映したモータースポーツ統轄組織の政策が、結果的に彼らを公道上の危険な遊びへと追いやっているのである。さらに視野を拡げるならば、こうした事態の背景に存する、意味論的な次元の問題もまた指摘できる。「スピード」と「安全」の二項対立へと構造化されたクルマ社会の言説空間のなかで、モータースポーツとは認識地平の外部へと「排除された第三項」にほかならない。この事実に対して我々は、ストリートの若者たちの自称である「走り屋」という言葉に、モータースポーツの自立=自律性カテゴリーを打ち立てようとする政治学を見いだせる。それはH ・サックスのいう「革命的カテゴリー」なのである。
著者
山本 文子 Yamamoto Ayako ヤマモト アヤコ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.30, pp.119-135, 2009

ビルマにはナッと呼ばれる精霊や神に対する信仰があるとされている。しかし、実際のビルマの人びとの多くは、ナッの実在に対しているかいないかわからないと考えたり(不確定性)、存在しないと考えたりしている(非実在性)。本論文では、ナッの実在に対して不確定、あるいは非実在の立場をとる語りをもとに、従来のナッ信仰の人類学的研究(スパイロの心理学的アプローチ、ナッシュの社会的機能によるアプローチ、田村の象徴論的アプローチ)が想定してきたナッ信仰と、実際のビルマにおけるナッの実在に対する多くの人びとの否定的認識には隔たりがあることを指摘する。この隔たりは、他者の信念の記述可能性を論じた浜本によるコミュニケーション空間という概念から説明できる。浜本によれば、人類学者が他者の慣行Sについて「彼らはSを信じている」と記述するとき、その話者のコミュニケーション空間において、Sが真とみなされないと想定していることを意味する。反対に他者の慣行Pが話者のコミュニケーション空間において真とみなされるとき「彼らはPを知っている」と記述される。精霊の実在の不確定性や非実在性は、「彼らは~を信じている」とは表わされてこなかった、つまり、精霊の実在を信じる人だけが問題化され、そうでない人(精霊の実在を不安定、非実在とする人)が問題化されなかったのは、「信じる」という語に込められていた人類学者の側の認識によると説明できる。
著者
元橋 利恵 Motohashi Rie モトハシ リエ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.40, pp.73-86, 2019-03-31

研究ノート本稿は、ケアの倫理と母性研究を接続することによって、現代日本の母性主義を捉えなおしていく視角を得ることを目的としている。従来の母性研究は、社会構築主義の立場から「母性の神話」を解体してきた。しかし、1990年代以降、少子化社会化のなかで、母性研究は母性よりも親性の概念を用いていくなど、母性に対置するものとして「近代的自我」を強調し母性を乗り越えていくことが目標とされてきた。一方、ケアの倫理から発展したフェミニズム理論は、母性と近代的自我を対置するのではなく、近代的自我の条件としてケアを見出す。ケアを自己犠牲と捉えるのではなく、自分よりも弱い者との共存の原理として捉え、公私二元論批判を通じてケア関係を政治的価値のある共同体として捉えなおしていく。そして、これらの議論は、ジェンダー平等のための戦略として、ケア関係を現実的に代表するものとして母子関係を置き、母性の価値の再考を促す。このような母性の捉えかたは、本質主義とは区別される戦略的な母性主義であるといえよう。ケアの倫理による戦略的な母性主義は、2000年代以降に現れている、女性の産み育てをめぐる自己選択や自己決定に関する抑圧や、女性たちによる母性を掲げた社会運動といった、従来の母性研究の枠組みでは捉えられてこなかった母性をめぐる言語的または社会的実践を分析していく有効な視角を提供してくれるであろう。
著者
大和田 範子 Ohwada Noriko オオワダ ノリコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.34, pp.193-210, 2013

100 年前の岡倉覚三を現在からどのように捉えればよいかと考えたことをきっかけとして、彼の展示表現をそのまま受け継いでいる仏像展示に岡倉の残像を求めることから今回の調査を始めた。ボストン美術館は1909 年の新築移転により、当時の東洋部(中国・日本部)の顧問として岡倉は設計から参加し、展示会場を現在の状態に作り上げた。日露戦争を背景として、アメリカのマサチューセッツ州ボストン市で活動した彼にとって、展示は日本主張の一つの方法であり、そのままの日本をボストン美術館に再現するという当時では斬新な方法で、日本文化を西洋人に向けて発信するために、仏像展示にこだわり工夫を凝らした。このような彼の姿勢が現在どう受け継がれているかを調査するため、2011 春開催の「茶道具展」展示をもとに岡倉の残像を浮かび上がらせようと分析したのが本論である。方法として、ボストン美術館の日本部門が開催した2 月12 日開始の「茶道具展」、「茶道具展」に関連した3 月13 日の「茶のシンポジューム」、そして中国部門が2010 年11 月20 日から2011 年2 月13 日まで開催した特別展「フレッシュ・インク」の展示との比較調査を行い、2 カ月にわたる資料収集から岡倉覚三を現在から捉える試みを行ったものである。The aim of this research is to explore the legacy of Okakura Kakuzo based on the display of "Tea Instruments" at the Museum of Fine Arts, Boston (=MFA) in spring 2011. In order to understand Okakura's legacy, I looked into the display of the statue of Buddha which he designed for the MFA's Department of Chinese and Japanese Art in 1909. The display of the Buddha statue was a very important way to emphasize the excellent Japanese culture in a Western context, especially in light of the Russo-Japanese War. Furthermore, I analyze the display of the "Tea Instruments," however, it is dif cult to see in what directions Okakura's intentions have been developing in this eld. As the next step, I compare the in uence of Okakura with other displays –– i.e. "Fresh Ink" by a Chinese artist –– and discuss a lecture during a "Tea Symposium" in the MFA. This article is based on data I collected during a two-month stay at the MFA, and shows how in uential Okakura Kakuzo was for the visual representation of artifacts in the Department of Chinese and Japanese Art.
著者
相澤 哲
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.17, pp.85-100, 1996

特定の諸関係の中で、個人がある属性を持つところの主体として構成される過程、即ち「主体化」が、M ・フーコーの仕事における一貫した主題であったことは、今日ではよく知られている。さて、しかし、なぜ「主体」でなく「主体化」なのか? 「主体」になる前の「個人」とは、いかなるものか?本稿前半部では、まず、主体を何らかの操作の結果として、フーコーが扱い続けた理由を、彼の特異な思考の前提を明示することにより、確認する。その前提とは、次のものである。①主体の属性は、特定の実践上の技法の効果として生じる。②個人の〈内に〉複数の諸力が存在する。即ち、個人自体が、既に統治されねばならない複合的・政治的現象である。以上の議論を踏まえ、後半部では、「道徳的主体化の様式」に関する、フーコーの晩年の仕事が持つ意味について、考察する。重要なポイントは、フーコーが、①普遍的規範こそ道徳的主体性の基盤である、とする、西欧哲学において支配的な信念を問い直していること、②普遍的規範への要請・信頼を、特定の道徳的主体化の様式の採用に随伴するものとして、捉えていること、である。結論。もしも我々に共通に与えられているものがあるとすれば、それは、複数の諸力の中で、自らを何らかの実践によって統御せねばならない、という課題であり、規範は、そのための方法でしかない。規範の力でなく、規範を自らにあてがおうとする力の方が本源的なのだ。
著者
正井 佐知 Masai Sachi マサイ サチ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.42, pp.47-63, 2021-03-31

社会学 : 論文本稿では、地域住民、青少年、障害者、高齢者、外国人など多様なバックグラウンドを持つ人たちが参加し、30年間活動をしているオーケストラαの運営について、αの特徴である曖昧性に着目して研究を行った。曖昧性は従来の組織研究では排除すべきものとされてきたが、αでは非常に多くの場面で曖昧性が見られた。そこで、αでは曖昧性がどのように用いられ、αにとってどのような意味があるのかを明らかにするため、組織内外の公式な規則・事実記述における言語表現の分析を行った。その結果、曖昧さは(1)その場ごとの状況や経年変化に対応しやすい点、(2)同調圧力、規範性を低減する点、(3)障害の有無を開示をせずとも配慮を前提にした組織となっており、すべての団員にとって無理せずに参加しやすい場が確保されている点、(4)社会福祉や障害者の社会参加といった問題に関心のない人からのアクセスを確保している点で、αにとっては合理的な実践であると結論付けた。
著者
野島 那津子 Nojima Natsuko ノジマ ナツコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.34, pp.109-123, 2013

本稿は、病人の「役割」から病の「経験」へと視点を移動する医療社会学の流れについて概観し、その分析枠組みがもつ限界と盲点について考察する。この限界と盲点は、以下の二点に集約される。これまでの医療社会学における慢性疾患研究では、1) 病人役割の取得を半ば自明視しているため、患っているにもかかわらず病人役割を取得できないような疾患を患う人々の経験を適切に説明することができない。2)「 生きられた経験」としての「病い illness」について記述しようとするあまり、患う(suffering)という経験が、「疾患 disease」として現象するプロセスや条件に対して十分な注意が払われない。こうした限界と盲点がもっとも明瞭な形で示されるのは「医学的に説明されない症候群(MUS)」と呼ばれる患いを抱える人々の経験である。本稿では、MUS をめぐる問題から、以下の二点を、従来の医療社会学の盲点を補う視点として提起する。1) 社会は、人がただ「患う」という事態を認めないということ。2) そのために、「診断」は、特定の「患い」が社会的な是認を獲得するためのポリティクスの様相を呈するということ。こうした点から、筆者は「診断」の社会学の重要性を主張する。
著者
野島 那津子 Nojima Natsuko ノジマ ナツコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.40, pp.87-103, 2019-03-31

研究ノート本稿の目的は、「論争中の病」の代表格とされる筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)に関するNHKのテレビ番組を分析し、ME/CFSがどのようなものとして伝えられてきたか、その病気表象の変遷を明らかにすることにある。分析の結果、ME/CFSは、(1)1990年代には、「女性の弱さ」や「女性の社会進出の代償」として、(2)2000~2010年代前半には、仕事や学校生活でストレスを抱えるすべての「現代人」がかかり得る「現代病」として、そして、(3)2015年には、研究・支援されるべき深刻な「難病」として呈示されていた。こうしたME/CFSの病気表象の変遷は、「異常」の可視化と病気の「脱女性化」という特徴を有している。当初、ストレスや生活に対する女性の心持ちの問題とされていた症状は、次第に「異常」を示すさまざまなデータによって可視化されていった。とりわけ2000年代以降は、患者の脳画像を用いてME/CFSの症状を「脳の機能異常」として説明することが定型化した。また、「異常」の可視化と並行して、当初女性に「特有」の問題とされていたME/CFSは、誰もがかかり得る病気として「脱女性化」されていった。この「異常」の可視化と病気の「脱女性化」は、ME/CFSの表象が深刻な「難病」へと変容することに寄与したと思われる。
著者
渡邊 太 Watanabe Futoshi ワタナベ フトシ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.21, pp.225-241, 2000

一九七〇年代から発展したカルト宗教は、外部社会とのあいだに高い緊張を生じた。とりわけ、信者の家族がカルトと激しく対立する。何人かの心理学者や精神科医は、洗脳やマインド・コントロールによって若者を騙して入信させているとしてカルトを批判する。子どもをカルトに奪われた家族は、騙されている子どもを助け出してやらなければならないと考える。カルト信者の救出には、ディプログラミングや救出カウンセリングといった方法がもちいられる。元信者たちは、脱会後に様ざまな心理的苦悩やコミュニケーションの困難に直面する。脱会者の苦悩は、自己の存在の根本的な安定性が失われることによる。本稿は、統一教会信者の救出活動を事例として、このポスト・カルト問題と救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンとの関連をあきらかにする。救出カウンセリングでは、R ・D ・レインが指摘するような、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーション・パターンが繰り返される。その結果、脱会者は自己のアイデンティティについての確かな感覚を得ることができなくなるのである。カルト信者を救出する方法は、初期の強制的なやり方から、家族の愛による救出を強調する、より穏やかな方法へと移行してきた。だが、家族の密接な結びつきは、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーションを生み出しやすい。そのことが、ポスト・カルト問題の解決を困難にしている。
著者
宮澤 由歌 Miyazawa Yuka ミヤザワ ユカ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.35, pp.89-105, 2014

ジョルジュ・バタイユの共同体論は、彼の時代の一般的な共同体への考え方に対して異質なものであった。バタイユの共同体論を検討したジャン=リュック・ナンシーとモーリス・ブランショは、この共同体を主体を露呈させる場であると捉えている。恋人たちの共同体は、そうした特徴をもっとも濃く有するものである。恋人たちの共同体において、共同体の構成員は互いに対象とは違ったイメージを見出し、それはバタイユによって宇宙と名付けられる。恋人たちの共同体と一見類似していると思われる結婚の共同体が、法に則って生起・持続し、生産を目的とすることを明らかにすることは、恋人たちの共同体の異質性を際立たせる。恋人たちの共同体の目的は生産になく、むしろ、エネルギーを消尽させることにある。さらに、この共同体は、主体の概念の再考を促す。主体は不充足の原理に貫かれている。主体は、共同体以前に存在しない。主体は共同体のなかで見出される概念にすぎない。こうしてジョルジュ・バタイユの思想が、共同体の概念の価値を劇的に変化させたことが明らかにされる。
著者
正井 佐知 小島 理永 伊藤 京子 Ito Kyoko Masai Sachi Kojima Rie マサイ サチ コジマ リエ イトウ キョウコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.45-55, 2018-03-31

社会学 : 研究ノートResearch Notes近年、当事者の参画は、医療・福祉現場での実践はもちろん、学術、司法、行政、政策決定など広範な分野にまで及んでいる。ICT分野でもユーザー中心の開発がなされている。本稿の目的は、アプリ普及を見据えて行った、脊髄損傷者に向けたアプリ開発と、アプリリリースのためのクラウドファンディングの経験を当事者参画という視点から紹介することである。まず第2節では、アプリの開発経緯を紹介する。2016年9月時点では、リハビリ機器を開発予定であったところ、脊髄損傷当事者のニーズを聞いてゆくことで方向性を大きく転換することとなった。そして、手が動きにくい人にも配慮した設計で、「脊髄損傷の人が出会う場を提供するための『きっかけ』を、パラスポーツの普及やスポーツの話題とし、そこから『人のつながり』を構築できるマッチングアプリ」として2017年3月にアプリPspoが完成した。本アプリでは、当事者の相互作用に期待し、当事者の知識・経験を共有できるような仕組みを構築することを試みている。第3節では、アプリ運用資金を得るためのクラウドファンディングで、「人とのつながり」の「きっかけ」を提供するというPspoのコンセプトを一貫した結果、予想に反し当事者からの資金提供がほぼ得られなかったことについて記述する。最後に、第4節ではアプリ開発とクラウドファンディングから得られた示唆と今後の見通しについて述べる。In recent years, people with disabilities participate in a wide range of fields, such as academic, judicial, administrative, and policy decision-making, as well as medical and welfare fi elds. User-centered development is also being carried out in the ICT fi eld. The purpose of this paper is to show how we developed an application for people with spinal cord injuries and our experience of cloudfunding for release of the application, from the viewpoint of involvement participation. First, we introduce the development process of the application. Although we had originally planned to develop rehabilitation equipment, having listened to the voices of people with spinal cord injuries we decided in September 2016 to make a communication tool for them. In March 2017, considering the diffi culties of controlling hands, we developed Pspo, an application which provides opportunities for communication to people with spinal cord injuries through the topic of sports. Then, we recount our experience of cloudfunding in order to obtain support for our project. Finally, we make suggestions for the future.
著者
Macyowsky Kai
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.38, pp.101-120, 2017-03-31

社会学 : 論文Part-time teachers (hijōkin kōshi) are the embodiment of precarious employment at Japanese universities. These part-time lecturers are hired per course and have risen in numbers over the past ten years, but nonetheless have not received much attention from the academic community. The discourse in the few sources written by unions mainly focuses on their working conditions and the consequences on the quality of education that their increase in numbers might bring. However, these works have not adequately addressed why academics are willing to take positions as hijōkin kōshi. Furthermore, the concrete impact of this kind of employment on the life and career of those people and the implications for Japan's system of higher education remain unexplored. This paper sheds light on the work and life of hijōkin kōshi with special attention to their motivation and the impact this form of employment has on their lives as academics. I argue that this kind of employment distracts them from their actual goal of career advancement by disrupting their research efforts while sustaining their hopes for a full-time career in academia and therefore progressively binding them to this kind of work with all its economic vulnerabilities and consequences. Higher education in Japan will therefore become even more education focused. In conclusion, this type of employment cannot be understood by merely looking at working conditions. A closer look at the individuals' lives as academics and their motivation is required.非常勤講師は大学での非正規雇用の代表的な存在である。このパートタイム講師は担当授業単位で採用され、過去10年来飛躍的に増え続けているのに、研究者からあまり注目されていない。わずかに存在したとしても、主に議論されるのは非常勤講師の労働条件や彼らの増加による高等教育の質への影響であった。しかし、研究者がなぜ非常勤講師の職を歓迎するのか、また非常勤講師職が彼らのキャリアや生活にどのような影響を及ぼすのかについてはまだ把握されておらず、こうした研究者を輩出する日本の高等教育制度のあり方についての示唆はなれさていない。この論文では非常勤講師の仕事と生活に光をあて、彼らが抱える問題、明らかに不利な労働条件下で彼らが働き続ける動機、彼らをそこに押しとどめているメカニズムを明らかにしたい。また、学術機関での正規研究者という彼らの目標に向かう道のりにどのような影響があるかも明らかにする。本論文では、非常勤講師として働くことは、彼らの研究活動を妨げ、その目標から彼らを遠ざけていると同時に、正規研究者になる希望を持ち続けさせていると主張する。結果として、多くの非常勤講師はますますその就業形態に縛られてしまう。要するに労働条件の調査だけでは非常勤講師の問題を理解することはできず、非常勤講師の実態を理解するためには、研究者としての個人の生活や彼らの動機をより詳しく分析することが必要になるだろう。
著者
伊藤 理史 三谷 はるよ Ito Takashi Mitani Haruyo イトウ タカシ ミタニ ハルヨ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.34, pp.93-107, 2013

本稿は、「大阪府民の政治・市民参加と選挙に関する社会調査」の調査記録である。調査の目的は、2011 年11 月27日に実施された大阪市長選挙・大阪府知事選挙における有権者の投票行動や政治意識の分析を通して、大阪府民の政治・市民参加の実態を明らかにすることである。調査方法は、大阪府下の20 ~ 79 歳の男女3,000 人を調査対象とした、層化三段無作為抽出法による郵送調査であり、最終的な有効回収数は962 人有効(回収率:32.1%)であった。本稿の構成は、次の通りである。まず第1 節では、調査の経緯について簡潔に記述し、第2 節では、調査の設計に関わる研究費の獲得と郵送調査の利点について記述した。続く第3 節では、調査票と依頼状の作成について、第4 節では、サンプリングと発送について、第5 節では、発送後の電話対応と督促状、データの回収数について、第6 節では、データ入力と職業コーディングについて、実際の作業内容を記述した。最後に第7 節では、データの基礎情報として、得られたデータとマクロデータと比較検討し、データの質について記述した。本稿で得られた結果は、たとえ小規模な研究助成にもとづいた大学院生主体の量的調査でも、ある程度の質と量の伴ったデータを入手できる可能性を示している。
著者
樋口 耕一 Higuchi Koichi ヒグチ コウイチ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.24, pp.193-214, 2003

社会調査によって得られる質的データには新聞・雑誌記事、質問紙調査における自由記述、インタビュー・データなど様々なものがある。コンピュータ・コーディングとは、それらの質的データを計量的に、また多くの場合は探索的に分析するための手法である。本稿の目的は、独自に開発されたソフトウェア「KH CODER」を用いてコンピュータ・コーディングを実践するための手順を詳細に記述し、これを通じて方法論とプログラムを紹介・提案することにある。本稿の記述は、各自のパソコン上で手順を追うことができるチュートリアルとなっており、題材として用いるデータは夏目漱石「こころ」である。チュートリアルの中では、作品全体を通して頻繁に出現している言葉や、上・中・下それぞれの部で特徴的な言葉から、作品の構成・特徴を探る。また、人の死やその原因となりうる事柄を表す言葉が、作品全体のどの部分で頻出しているのかという集計を行うことで、人の死が作品中でいかに描かれているかを探索する。この結果として、「先生」という登場人物の自殺が突然・不自然になされているという指摘は、必ずしも当てはまらないことが再確認された。
著者
秋山 高範
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.27, pp.153-158, 2006-03-31

Annette Lareau, Unequal Childhoods : Class, Race and Family Life, Univ, of California Press 2003
著者
梶原 景昭
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.16, pp.21-37, 1995

フィリピン社会に、今日でもきわめて強い浸透力をもつフォークロアが存在する。それは太平洋戦争中、旧日本軍が戦争遂行のための財貨をフィリピン国内に隠匿し、現在でもまだ埋まっているというものである。戦争末期に山下奉文大将がフィリピン方面軍司令官として着任し、その後降伏したこともあって、この隠された財貨は「山下財宝」と総称されている。この覚書は、今日でも人びとがうわさし、実際に財宝を求めて探索を続けている「山下財宝」伝説を、フィリピン社会・文化の文脈のなかで位置づけ、戦後五〇年にわたる変化の軌跡についてもあわせて検討するものである。この伝説のありようは、フィリピン人の世界観、歴史的背景、対外関係、富の概念、経済の状況、国家のあり方、政治権力の性格などを、多層的に映し出している。なお本稿を書くにあたり、平成六年度文部省海外学術調査「異文化共存の可能性」(代表 青木保) に関わる実地調査に負うている。ここに感謝を示したい。
著者
古川 不可知 Furukawa Fukachi フルカワ フカチ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.36, pp.119-137, 2015-03-31

ネパール東部のソルクンブ郡はシェルパ族の居住地である。エベレストの麓にあたるこの地域はトレッキング/登山観光の一大メッカであり、観光シーズンには多くのネパール人ガイドたちが観光客を案内して山道を行き交う。様々な民族的出自を持つガイドやポーターたちは、しばしば観光客たちから「シェルパ」として言及され、ときにはまた自らも「シェルパ」を名乗って観光産業に参与している。本稿の目的は、民族範疇とはズレを持ちつつ重なり合った「シェルパ」という職業カテゴリが、現地においてどのように語られ、実践され、また再生産されているかを、ソルクンブ郡のある村でネパール人を対象に開校される登山学校を事例として分析することである。ここでは、シェルパ族を中心にネパール各地から集まってきた生徒たちが、米国人講師の指導のもとでアイス・クライミング(氷壁登攀)の技術を中心とした登山スキルを習得する。学校では、外国人やシェルパ族、「シェルパ」として働くシェルパ族ではない人々などによって多様な「シェルパ」の理念や枠組みが提示され、生徒たちは「山で道案内するシェルパ」となるために訓練を通して自らの生活環境を対象化してゆく。生徒たちは、「シェルパ」の概念や登山用具などのモノ、環境中に道を作りだす実践などを通して職業としての「シェルパ」へと成型されてゆくのである。