著者
吉 基泰[著] 近藤 浩一[訳]
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.425-443, 2013-03

1.はじめに2.仏教医学の受容3.呪禁師の活動4.薬師信仰の展開5.おわりに
著者
小林 卓也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.181-194, 2013-03

本稿の課題は,フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと,精神分析を専門とするフェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(1980)に見いだされる言語観の内実とその射程を明らかにすることである。彼らが端的に述べているように,「あらゆる言語(langue)は本質的に非等質的な,混合した現実である」。しかし,チョムスキーによる生成文法を念頭に置きながら,言語学はこうした言語現象の多様性に目を向けようとせず,文法規則や言語の等質的体系性を抽出することだけに終始しており,そこには,われわれの多様な言語活動を均質化し規格化することで,自らの科学性を担保する政治的関心しかないと彼らは批判する。ここには,言語を異質な要素からなる多様体とし,その多様性をいかに捉えるのかという彼らの企図が明瞭 に現れている。本稿は,こうした彼らの言語観がどのような問題意識と結びついているのかを 以下の手順で明らかにする。 まず,『千のプラトー』において彼らがジョン・L・オースティンの発話内行為に見出した論点を確認し(第一章),それが60年代のドゥルーズ哲学の延長上にあることを指摘する(第二章)。というのもドゥルーズこそ,言語の本質を,身体や行為といった物理的なものと,それによって表現される意味や出来事といった非物体的なものの二元性という論点から考察していたのであり,『千のプラトー』の主眼は,その言語の二元性の連接をいかに捉えるのかということにあるからだ。こうした論点からすると,注目されるべきは『千のプラトー』において ルイ・イェルムスレウが占める役割である。イェルムスレウ言語学における表現と内容の連帯性,および形式と実質という概念の導入は,言語における二元性への問いに一定の回答を与えている(第三章)。最後に,彼らの議論がいわゆる言語理論の枠内に留まることなく,とりわ け彼らがミシェル・フーコーと共有するある歴史認識と結びついていることを確認し,その理論的射程を特定したい。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.91-118, 2022-03-31

戦時中を囚人としてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で過ごしたゾフィア・ポスミシュの実体験を元に強制収容所における女性看守と女性囚人の関係性を描いたポーランド映画『パサジェルカ』(1963 年)は,制作途中に監督であるアンジェイ・ムンクが急死し未完成の映画として公開されたという経緯もあり,強制収容所を描いたフィクション映画の中でもとりわけ謎めいた作品として知られている。本稿はこの映画『パサジェルカ』をポスミシュによる小説版『パサジェルカ』とともに考察の対象とすることで,収容所におけるトラウマ的経験がいかに事後的に想起され,再解釈されうるかということの可能性を検討する。本稿が明らかにするのは,この『パサジェルカ』という作品が,ドイツ人看守のリーザとポーランド人の囚人マルタという二人の人間をめぐる物語の多様な解釈を生み出すことによって,取り返しのつかないトラウマ的な過去に対するある種の現在からの「介入」を可能にするような作品であるということである。ポスミシュの小説版『パサジェルカ』とムンクの映画版『パサジェルカ』は,それぞれ異なった形によってそうした介入の可能性を示唆している。さらに,ムンクの『パサジェルカ』におけるユダヤ人の子供のエピソードが示唆しているのは,子供に象徴されるような「絶対的に無垢な犠牲者」の死や痛みを媒介とした,ある種の共感の共同体の可能性である。そこにおいては,マルタとリーザという本来であれば「被害者(=ポーランド人)」と「加害者(=ドイツ人)」に明確に分けられる両者の間にもしかしたら存在し得たかもしれない,この「哀しみの共同体」のかすかな可能性が示唆され,それによってすでに固定され,変えられないはずの過去のトラウマ的経験は,存在し得たかもしれない別の可能性へとダイナミックに開かれていくのである。
著者
木村 成介 川勝 弥一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.161-181, 2016-03

代表的な京野菜に水菜と壬生菜がある。水菜は深い切れ込みのある葉(切葉)をもち,壬生菜は葉縁が滑らかでヘラのような形の葉(丸葉)をもつ。両者は葉の形からすると全く関係ない植物のように見えるが,同一種であり,江戸時代に壬生地方において水菜から生じた新品種が壬生菜であると言われている。これまで,水菜の切葉から壬生菜の丸葉への変化が,どの時期にどのようにおこったのか,また,葉形変化の原因については明らかとなっていなかった。本論文では,江戸時代から明治時代に書かれた農書や本草書の記述をもとに,壬生菜の丸葉の成立過程について調査し,壬生菜という呼称が葉の形が丸葉に変化する前の18 世紀後半から使われ始めていたことや,19世紀の中頃に壬生菜の丸葉が成立したことを明らかにした。また,水菜とカブ類との交配が丸葉成立の要因ではないかと推察した。
著者
小林 卓也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.46, pp.181-194, 2013-03

本稿の課題は,フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと,精神分析を専門とするフェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(1980)に見いだされる言語観の内実とその射程を明らかにすることである。彼らが端的に述べているように,「あらゆる言語(langue)は本質的に非等質的な,混合した現実である」。しかし,チョムスキーによる生成文法を念頭に置きながら,言語学はこうした言語現象の多様性に目を向けようとせず,文法規則や言語の等質的体系性を抽出することだけに終始しており,そこには,われわれの多様な言語活動を均質化し規格化することで,自らの科学性を担保する政治的関心しかないと彼らは批判する。ここには,言語を異質な要素からなる多様体とし,その多様性をいかに捉えるのかという彼らの企図が明瞭 に現れている。本稿は,こうした彼らの言語観がどのような問題意識と結びついているのかを 以下の手順で明らかにする。 まず,『千のプラトー』において彼らがジョン・L・オースティンの発話内行為に見出した論点を確認し(第一章),それが60年代のドゥルーズ哲学の延長上にあることを指摘する(第二章)。というのもドゥルーズこそ,言語の本質を,身体や行為といった物理的なものと,それによって表現される意味や出来事といった非物体的なものの二元性という論点から考察していたのであり,『千のプラトー』の主眼は,その言語の二元性の連接をいかに捉えるのかということにあるからだ。こうした論点からすると,注目されるべきは『千のプラトー』において ルイ・イェルムスレウが占める役割である。イェルムスレウ言語学における表現と内容の連帯性,および形式と実質という概念の導入は,言語における二元性への問いに一定の回答を与えている(第三章)。最後に,彼らの議論がいわゆる言語理論の枠内に留まることなく,とりわ け彼らがミシェル・フーコーと共有するある歴史認識と結びついていることを確認し,その理論的射程を特定したい。
著者
若井 勲夫
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.286-264, 2010-03

本誌第四十号(平成二十一年三月)でわらべ歌の二編(「かごめかごめ」「通りゃんせ」)を取上げ、国語学・国文学の研究に基づき、起源の形から歌詞が変化していく過程を跡づけながら、歌詞の言葉と表現を言語主体の意識や感覚を中心に精しく分析し、一語、一句ごとに解釈を施し、主題を明らかにした。本稿はこれに引続いて、わらべ歌の「ずいずいずっころばし」を考究する。 この歌は江戸時代の文献には見られず、明治十六年の綿絵風のおもちゃ絵が初出であり、二、三十年の歌謡集に見られる。内容については従来、意味がはっきりせず、明確な説明がされなかった。通説としては江戸時代のお茶壷道中によるとされるが、これには何の根拠もなく、歌詞の一部をそのように考えれば、その歌の部分的な解釈ができるという程度に過ぎない。この他に、意味不明説、不可解な点に意味を認める説、また、解釈そのものを否定する説などがあり、それ以上に進まなかった。その後、近世近代の歌謡研究家の西沢爽氏が「ずっころばし」と「胡麻味噌」を近世語からの転訛として解釈を試み、大体の全体像が初めて明らかになった。 本稿はこの西沢説によりながら、近世語の用例や関連語を挙げて右の二語の語釈を補い、「抜けたら」その他について新しい解釈を提示し、全体の展開と構成を矛盾することなく、整合的に明らかにし得た。さらに、元の歌詞が転訛していく過程を追い、異なった語句の解釈から逆に元歌の語釈を究め、また、多くの類歌の表現を分析し、そこに共通する意味や言語主体の発想と意識を探り、この歌を初めて総合的に解明することができた。研究の態度としては、先入観にとらわれず、独断やこじつけに陥らず、また、興味本位や卑俗に流れず、あくまで学問的に語釈、評釈し、考証することを心懸けた。わらべ歌は子供の素朴、純真な童心だけを歌うものではなく、特に意識しなくても、その底には善悪、明暗、清濁の入り混った心を表すものである。
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.233-254, 2015-03

ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。 1888 年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1 章)。1889 年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2 章)。1894 年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3 章)。1895 年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4 章)。1900 年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5 章)。同じ1900 年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6 章)。1903 年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7 章)。1906 年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913 年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9 章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924 年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10 章)。1935 年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11 章)。 ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907 年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.211-240, 2021-03-31

盆栽は日本文化を代表する芸術と考えられている。しかし,近代盆栽は純粋な日本文化を代表するものとは言えない。文化融合の産物であるからである。盆栽は中国由来であったが,江戸期に独特の発展を遂げた。江戸期に流行した「蛸作り」と「盆山」という二つの系譜をたどった。そして,幕末期に中国風の煎茶趣味の影響を受け,近代盆栽が誕生した。明治期に盆栽は政財界人の趣味として広がったが,日本の伝統文化として扱われなかった。しかし,明治後半期以降,国家意識の高まりとともに,伝統文化の見直しがあった。盆栽もその見直しに組み込まれた。盆栽は茶の湯や生け花の要素を取り込むことによって,伝統文化としての装いを整えていった。しかし,茶の湯や俳諧の借り物,あるいは流用感が否めなかった。そこで盆栽本来の特徴として,「盆栽は日本の風土に根ざした自然美を表現する固有の芸術である」とされ,国風化が唱えられた。明治期以降の近代盆栽は,文化融合の産物という特徴をもち続けながら,日本の伝統文化を代表するものとして捉えられていった。
著者
小倉 恵実
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.81-102, 2012-03

両大戦間期のアメリカでは,優生学運動が大衆化の様相を見せた。「赤ちゃんコンクール」や続く「ふさわしい家族」コンテストは,それを表す典型的なイベントで,アメリカ各州や郡の博覧会で頻繁に開かれ新聞でも第一面で大々的に報道された。科学の発達により,より視覚的で「わかりやすい」展示物を生産することが可能になったことも挙げられるが,このコンテストを支えていたのは,地方の女性達であり,彼女たちは優生学運動に参加することで自らのアイデンティティを獲得していったのである。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.39, pp.79-93, 2008-03

メタスタジオのオペラ『シーロのアキッレ』は1736年にマリア・テレジアの結婚式において初演された。この作品の特徴は主人公が女装していることである。アキッレは劇の冒頭から第二幕の終わりまで女性の姿で現れる。生まれながらの戦士は,リコメーデ王の宮廷で完璧に侍女になりすましているのである。このオペラは初演で大成功を収め,女装という主題にもかかわらず婚礼の祝典にふさわしいと考えられた。その理由は二つ考えられる。第一に十八世紀のイタリア・オペラにおいて英雄役はカストラートが歌い,彼らの高い声は女性性よりも偉大さの象徴であったこと。第二にアキッレはスカートや竪琴につねに嫌悪を催しており,栄光を求める彼は最終的にはトロイア戦争へと船出すること。この台本にはバロック・オペラ的な性的曖昧さとアンシャン・レジームにおける男性的な美徳の双方が読み取れるのである。
著者
渋江 陽子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.53, pp.167-196, 2020-03

本稿では,イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオが第一次大戦以前の飛行機パイオニア時代に,飛行機とどのような関わりをもったのかを概観し,考察する。 イタリアの飛行機時代の幕開けは1908 年頃である。翌年4 月にウィルバー・ライトがローマを訪れ,パイロット候補者に飛行訓練を行った。9 月にはブレッシャ近郊で,イタリアでは初めての国際飛行競技会が開催された。この大会はイタリアが飛行機の分野で発展を始める契機となった。 ダンヌンツィオは,ブレッシャ大会で飛行機に乗せてもらう機会を得た。詩人の飛行機への関心は熱狂的なものとなり,この新しい乗り物を表す単語をラテン語から導入することを提唱した。飛行家が主人公の小説を書き,この航空機についての講演会も開いている。 飛行機小説には,主人公がグライダーの滑空練習を経て,エンジン付きの飛行機を製作する場面がある。アメリカやフランスにはあっても,自国にはないと感じた狭義の飛行機パイオニア時代を描くことによって,ダンヌンツィオは現実を補完しようとしたのではないかと思われる。
著者
辻田 智子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.215-231, 2012-03

文化大革命では多くの映画作品,映画人が批判されたが,批判の理論的根拠となったひとつ が文芸黒線専政論である。文芸黒線専政論は「林彪同志が江青に委託して開いた部隊文芸工作 座談会紀要」(部隊紀要)で提起された。「部隊紀要」では建国以来のほとんどの映画が否定さ れたが,『南海長城』は映画作品のなかで唯一肯定的にとりあげられている。 『南海長城』はその制作が文革期の文芸政策の根幹に関わる重要な問題であるにもかかわら ず,これまでほとんど論及されてこなかった。また江青が推進した文芸政策の一環としてとら えて論じられたものは管見の限りでは見当たらない。本稿は「部隊紀要」にとりあげられなが ら撮影が中断した映画『南海長城』の制作過程について考察しようとするものである。 江青は文革前から『南海長城』を「模範映画」にしようとする意図を持っていた。中国建国 後17 年間に制作された映画作品のほとんどが否定されたなか,新たな模範を示そうとしたの である。しかしその文芸観は監督である厳寄洲の作風と相容れず,制作が遅々として進まない まま文化大革命を迎える。文革が始まると八一電影製片廠は混乱し,所長の陳播や厳寄洲に対 する批判運動が展開され映画の制作は中断する。映画『南海長城』は文革末期の1976 年9 月 になってようやく完成し10 月に公開された。制作決定から完成まで10 年以上の歳月を要した が,公開されてわずか二週間足らずで公開中止となった。 江青が「模範映画」を作ろうとした背景には「模範」という権威を作り出して自らの権威を 高める意図が潜んでいた。また解放軍所属の映画撮影所である八一電影製片廠という軍の文芸 の力を借りて自らの政治的野心を実現させる思惑もあった。文革により映画の制作が中断した のは,映画制作よりも対立するグループを批判,排除することを選択したこと,文革の開始と ともに江青の政治的地位が急上昇したこと,いっぽうで進めていた京劇改革が成果を上げ評価 されたこと,そのため「模範映画」に依拠する必要がなくなったことなどの要因が考えられる。 本稿は以上について論及し,文革が始まる前から文革に至る文芸政策がどのようになされて いたのかの一端を解明しようとするものである。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.79-93, 2008-03

メタスタジオのオペラ『シーロのアキッレ』は1736年にマリア・テレジアの結婚式において初演された。この作品の特徴は主人公が女装していることである。アキッレは劇の冒頭から第二幕の終わりまで女性の姿で現れる。生まれながらの戦士は,リコメーデ王の宮廷で完璧に侍女になりすましているのである。このオペラは初演で大成功を収め,女装という主題にもかかわらず婚礼の祝典にふさわしいと考えられた。その理由は二つ考えられる。第一に十八世紀のイタリア・オペラにおいて英雄役はカストラートが歌い,彼らの高い声は女性性よりも偉大さの象徴であったこと。第二にアキッレはスカートや竪琴につねに嫌悪を催しており,栄光を求める彼は最終的にはトロイア戦争へと船出すること。この台本にはバロック・オペラ的な性的曖昧さとアンシャン・レジームにおける男性的な美徳の双方が読み取れるのである。
著者
吉田 卓爾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.228-198, 2020-03-31

室町将軍三代義満より六代義教を経て八代義政へと至る間に形成された唐物コレクション「東山御物」に関する研究は膨大な数に上る。絵画史分野においては、資料に限りがある中で、将軍の鑑蔵印を有する現存作品の研究や、『御物御畫目録』、『室町殿行幸御錺記』、『小河御所并東山殿御錺図』、「君臺観左右帳記」(諸本)、『圖繪寶鑑』等、重要史料の精査が蓄積されている。 所蔵品目録あるいは画人録といった要素を有する上記諸史料に対し、『蔭凉軒日録』は相国寺塔頭の鹿苑院内に設置された蔭凉軒主の日記であり、性格が大きく異なるため比較し得る部分が少ない。従来、『蔭凉軒日録』の記述は断片的に扱われることが大半であった。 本課題は『蔭凉軒日録』の精査を経て、当時の相国寺に伝来した絵画に関する記述に注目している。当該絵画に関する記述からは、応仁・文明の乱以降の相国寺における絵画受用の在り方が垣間見られる。本稿では『蔭凉軒日録』の記録内容を詳述・検討し、十五世紀の将軍家及び寺家における宋・元・明絵画の受容と室町絵画の様式変遷について考察を進めていくための足がかりとしたい。