著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.29-47, 2013-03

班固『漢書』は成書以来,複数のテキストが行われてきた。初唐に顔師古による校注本があらわれ,これが普及するにつれ標準本となった。小論は唐代における師古本普及のさまを推測するため,盛唐に成った司馬貞『史記索隠』と張守節『史記正義』とが師古本を利用しているか否かを調査した。その結果,索隠では利用に否定的,正義では肯定的結論を得た。索隠がおもに依拠した『漢書』テキストは師古本以前の標準本たる東晋の蔡謨集解本であったらしい。 正義では蔡謨本利用の痕迹は見つかっていない。 果たして,旧来の蔡謨本によった索隠と,あらたな師古本によった正義と,両者の『漢書』テキストの選択は対照的といえる。これの成因は索隠と正義との成立の時間差と思われる。正義は開元24年(736)の成立,索隠はそれより一世代分ほど早く成ったようだ。この間隔に師古本の普及が一定程度すすみ,正義の師古本利用を可能にしたと推量される。このことから師古本は成立後,急速に普及したのではなく漸次的に普及し,盛唐のころ蔡謨本から師古本へ 『漢書』の標準本の交替がおこったと考えられる。
著者
小林 武
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.52-76, 2010-03

西洋近代的なutility の観念は,19世紀後半に中国や日本に紹介された。「功利」や「利用」「楽利」といった漢語がその訳語にあてられたが,儒教や道家思想が「利」や「功利」の追求を,人間を打算的にし,心の純粋さを汚すと否定的に考えてきたこともあって,「功利」という訳語は,中国では日本と違って普及しなかった。清末においては,「楽利」の語が代わって用いられたが,それでもutility の考え方は,何にとっての利,誰にとっての利なのかという公私観とも関連して,その理解が容易に進まなかった。 このように清末におけるutility観念の受容と理解の問題は,たんに翻訳論に止まらず,中国の倫理思想上の大きな問題に関係していたが,本稿では,この大きなことがらには踏みこまず,次の4点に限って考察したい。 (1)19世紀の漢英字典・英漢字典に見えるutility の訳語 (2) 清末と明治において翻訳紹介されたW.S.ジェヴォンズ(1835 ~ 82)の経済学書に見えるutility の訳語 (3)「功利」という言葉に対する伝統的理解の概略 (4) 李提摩太(ティモシー・リチヤード)(1845 ~ 1919)の著書と梁啓超(1873 ~ 1929)の論文に見られる分業と利の捉え方 要するに,清末における功利観を主として言葉を手がかりに考察し,utility観念の受容と理解の背後に,人間と倫理をめぐる大きな文化的背景のあったことを知ろうとする。
著者
吉田 眸
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.113-133, 2004-03

『セイレーンの沈黙』という標題で知られるカフカ版のオデュッセウス・テクストを,校訂 版に基づいて精細に読み直す。同時に,ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』におけ るオデュッセウス像とカフカ版のそれとの違いにあらたに分け入る。その際,『啓蒙の弁証法』 には弁証法的な光を当てる一方,カフカ理解においては弁証法的なものの混入を斥ける。
著者
近藤 浩一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.237-260, 2019-03-30

本稿は,『日本書紀』にみられる新羅の真平王代後期に展開された対倭外交について,既往の研究と異なり新羅史の観点から検討した。これを通して,真平王代後期の対倭外交は,従来の指摘のように百済・高句麗との対立から倭の支援を引き出そうとした従属的な態度で始まったのではなく,対隋・唐外交の進展と国内の官制整備を達成した自信をバックに,積極的な外交政策のもと実行されたことを明らかにした。 真平王代(579~632)に展開された対倭外交の特徴をみれば,真平王は在位後半に至るまで倭に対しほとんど外交活動を実施しなかったが,真平王32年(610)を契機に態度を大きく変化させた。これ以後,真平王は立て続けに使者を派遣し倭と活発な外交活動を推進している。 こうした背景としては,即位直後から着手した真平王の国内外政策の成功が原動力となったと考えられる。真平王は,国内の官制整備が一段落する真平王16年(594)に,隋に使者を派遣して対中国外交を始動した。さらに唐が建国されると,領客典を設置するなどその動きを一層加速化させている。こうした関係をもとに高句麗・百済に対抗できるまでの外交能力を獲得したが,真平王はそれらをもとに一層王権強化を実現し,後期には対外意識が大きな高まりをみせたのである。 それゆえ,当該期の対倭外交は,積極的な外交政策のもと展開したとみられる。新羅側の新たな動向は,日本側の記録であるが『日本書紀』の内容にみられる通りであり,まず真平王代後期から倭に多くの仏教文物を送り始めている。特に真平王44年(622)は,新羅使節が仏像及び仏舎利・幡など多くの仏具を持参する様子が鮮明に確かめられる。さらにこのときは,百済や高句麗の僧侶たちが集まる飛鳥寺に代わり四天王寺が新たに登場し,新羅が送った仏舎利などの仏教文物はそこに施入されている。 この要因を考える上では,真平王代の新羅国内での仏教の役割が注目される。新羅では,前代の真興王以降国王を転輪聖王・釈迦仏に比定し貴族を弥勒菩薩とすることで,王権と貴族勢力が一定の秩序を形成していた。新羅仏教は王権を象徴する思想的基盤であったといえ,新羅が貢納した仏像・仏具も同じく新羅王権の象徴物であったことが窺い知られる。したがって真平王は,このような仏教文物を倭に送り新羅の王即仏思想を伝えることで,倭王を真平王の仏国土に引き込もうとしたと考えられる。 さらに同じ622年には,新羅使節が新羅経由で在唐倭人留学生を倭に送り届けている。この時から新羅と倭の間では,留学生を通じた外交関係が真平王に続く善徳王代まで継承されたのである。こうした留学生は,帰国直後に新たな外交政策を提言した恵日らの言動からわかるように,倭の外交活動に直接影響を及ぼす存在であった。真平王は,622年を契機に在唐倭人留学生とも関係を築きながら,倭に新羅の思想・制度などを伝播させようとし,それらを通じて倭国内でいわゆる「新羅化」を模索した可能性までが推察される。
著者
瀬邊 啓子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-222, 2006-03

中国では近年巨額コストをかけた映画やハリウッド映画の人気を集め,低コスト作品や地方制作の映画がヒットすることが難しい情況にあった。そんななか2002年,地方の映画制作所で制作された低コスト作品の映画『暖春』が異例のヒットを飛ばした。映画『暖春』は最初制作された山西省で都市部のみならず,山西の貧困地区でも人気を博した。そのため『暖春』の人気は口コミで広がり,山西省のみならず北京や上海,香港などの大都市でも成功をおさめ,わずか200万元の制作費に対して,1,500万元の興行収入をあげ,"暖春現象"と呼称される現象にまでなった。 本稿ではこの『暖春』現象を通して,中国における映画市場の現状について概観するとともに,『暖春』の成功の要因を分析した。 『暖春』は山西と思しきある貧困農家に少女が拾われたことで繰り広げられる人情ドラマである。"暖春現象"にまで昇華したのは,フィルム・コピー数が異例の560強を数え,また制作費に対しての利益率の高さによる。同時期に公開された映画『英雄(ヒーロー)』の興行収入と中国では公開劇場数が多かった『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』のフィルム・コピー数の2つの側面から比較して見ると,『暖春』のヒットは二級市場におけるヒットであることが分かる。この点から中国の映画市場の二分化がより明確になり,『暖春』現象が「二級」市場として歯牙にもかけられなかったマーケットの新たな市場性を示唆したことが明らかとなった。 『暖春』は「泣ける」映画として人気を博したが,驚異的な興行収入をあげた『英雄』の存在がこのヒットと関連していると考えられる。まずは『英雄』を凌駕したという話題性に加え,『英雄』などの娯楽大作に対して,徹底した人情ドラマを分かりやすい手法で表現したことがあげられる。次に山西という特異な地域で制作,公開されたことによる。山西は中国において貧困地域であり,映画のなかで描かれた農村における理想像は,自分たちの貧困からの脱出への活路を示していた。主人公たちの苦しく貧しい生活を自分たちの現実に投影しながらも,教育を受けて大学に進学し,かつ卒業後に村へ戻って村に貢献するという理想的な姿を示したことで,多くの貧困地域の観客を惹きつけた。 全国でヒットした背景にはさらに主人公小花を演じた張妍のけなげな演技がある。小花の姿はあたかも「おしん」のようであり,ここから『おしん』型のヒットと言うこともできる。 以上のように,『暖春』現象から中国における映画市場の二分化の現状が明確になり,『暖春』現象が示唆した新たな市場が中国映画界にとって新たな命題となったことが分かる。そして山西という特異な地域であったからこそ『暖春』が受け入れられ,全国に波及し『暖春』現象にまで昇華されていったのである。
著者
今井 洋子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.74-90, 2006-03

漱石とコルタサルの作品の比較を始めたきっかけとなった『草枕』『石蹴り遊び』の中に見られる“オフェリアコンプレックス”“女性読者蔑視”を出発点として,これら作品の女性像についてフェミニズムの視点から分析する。 本論では『草枕』の那美さん,『石蹴り遊び』のラ・マガに代表される宿命の女たちはなぜ殺されたかを考察した。二人はこれまで男を惹きつけてやまない宿命の女として解釈されてきたが,近年フェミニズム批評によって,オフェリアコンプレックスの分析とともに,男の側の女性嫌悪が暴かれてきた。那美さんもラ・マガもその魔性によって抹消されたのではない。自我を持とうとしたゆえに男の共同体からの排除されねばならなかった。これが,彼女たちが殺された理由の一つである。漱石とコルタサルが生きた時代と場所と文化のコンテクストを考慮すれば,性の描写の違いは当然のことである。しかし,アジアとラテンアメリカからヨーロッパにやってきた知識人の疎外という意味では時代を超えた相似形を示す。つまり,漱石が産業革命後のロンドンに行き,その機械文明に疑問を抱いたように,ポストコロニアルのラテンアメリカからパリに行ったコルタサルは,西欧の論理に疑問を抱くのである。那美さんも,ラ・マガも,西欧の文明に対する“自然”を象徴する。しかし,その自然は西欧文明に“あさはかに”かぶれてしまっていた。これが彼女たちが殺されなければならなったもうひとつの理由である。
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.52, pp.125-151, 2019-03

ダンヌンツィオにとってのペトラルカに関する唯一の本格的な先行研究として,ジベッリーニの『ダンヌンツィオとペトラルカ』(2006)が挙げられる。この網羅的な調査は,詩,小説,評論などのジャンル別で,必ずしも年代順ではない。一方,本稿は,ダンヌンツィオのペトラルカに対する態度を,若い頃から晩年に至るまで通時的に分析し,屈折した微妙な関係の推移を明らかにする。 ダンヌンツィオの最初の明確なペトラルカとの接点はセスティーナという詩形で,それを使って『結びのセスティーナ』(1886)や『深淵カラノ溜息』(1890)を作った。また『カンツォニエーレ』第22番セスティーナの一節を『ヴィッラ・キージ』(1889)で用い,恋人のバルバラ宛ての手紙にも書いた。詩人パスコリに関する評論(1892)では,セスティーナの音楽的な神秘を重視した。 その後,ペトラルカはカンツォーネという詩形と結びつけられる。ダンヌンツィオは『アテネ人への演説』(1899)でイタリア文学の代表としてペトラルカを挙げ,『沈黙の町たち』(1903)で文学の不滅性を讃える。しかし,1906年のジャコーザ追悼文では,カンツォーネなどの定型詩が時代遅れだと述べる。 1889年の『快楽』の詩論で,11音節詩行の名匠ペトラルカは,詩の創作のインスピレーションの源泉とされる。1900年の『夾竹桃』は,ペトラルカがインスピレーションを与えた最後の重要な作品である。そこでダンヌンツィオは,ダプネーを月桂樹ではなく夾竹桃に変身させ,ペトラルカにはない官能性を付け加えた。 自伝的な『快楽』に描かれた若いダンヌンツィオの桂冠詩人の栄光への夢は,約10年後の『火』の作品の虚構の中で実現されることとなる。『コーラ・ディ・リエンツォの生涯』(1905–6)で桂冠を授与されるペトラルカは,社会の平和をもたらす使者のようである。 しかし,詩形と同じように,ペトラルカは桂冠詩人モデルとしても古くなり,1913年の『コーラの生涯』の序文では,20世紀の自由で大胆な詩人に相応しい激しい人生観が表明される。第一次大戦中,平和主義的なペトラルカはほとんど言及されない。戦後に出版された『鉄槌の火花』(1924)で提示される新しい桂冠詩人は,謙虚さではなく高慢さ,人間性ではなく獣性を特色とするものだった。 ダンヌンツィオとペトラルカは,桂冠詩人という外面においては共通していたが,社会観や人間観という内面については違っていた。それゆえダンヌンツィオはペトラルカを強く意識しながらも,あまり多くを語ることをせず,屈折した微妙な関係が深まっていったのである。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.279-320, 2014-03

三島由紀夫はゲーテやトーマス・マンに傾倒していたが,このことは必然的に彼らがその代表者だったドイツ教養小説の伝統に三島が何らかのかたちで影響を受けていたことを意味する。教養小説(Bildungsroman)はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』やマンの『魔の山』のように,素朴な青年を主人公として,その内面的成長を描く文学ジャンルである。教養小説の主人公は人生の意味を探究し,教養Bildungを身につけようという人文主義的な理想を抱いている。教養小説は,市民階級興隆期の産物であって,その人生肯定的性格も当時の市民層のもつ楽観性から生じている。 三島文学にシニシズムや虚無感や破壊衝動が濃厚であることを考えれば,三島由紀夫と,根本的に理想主義と人生肯定を特質とする教養小説は一見まったくそぐわない。しかし,否定的な傾向を前面に押し出ている三島文学のなかにも生を肯定することへの志向はひそかに存在している。『潮騒』はその顕著な一例だが,おしなべて『仮面の告白』や『金閣寺』など三島の青年期の小説には,その自伝的な要素のなかに意外につよい教養小説的性格を読みとることができる。本論は,三島の青年期最後の記念碑的作品である『鏡子の家』を『魔の山』と比較しながら,そのひそかな教養小説的性格を明らかにしている。市民層没落の時代に書かれた『魔の山』は,『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようには明るい未来を予示する展開を持ち得ず,あくまでもパロディー的な教養小説になっている。同様に,『鏡子の家』もニヒリズムが蔓延する時代の芸術作品である以上,そこで人文主義的な教養理想が高らかに歌い上げられるというようなことはない。むしろ,三島由紀夫はこの小説を「ニヒリズム研究」の書であると公言している。しかし,この小説の執筆時において人生との和解を志していた三島が,この小説にひそかな教養小説的性格を与えたことは注目に値する。
著者
中西 佳世子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.50, pp.231-244, 2017-03

ナサニエル・ホーソーンの故郷セイレムを舞台とする『七破風の屋敷(The House of SevenGables)』(1851)は過去と現在の連続性を前面に出した作品である。その序章の語り手は,本体の物語が代々のピンチョン家にふりかかる災いを描く「呪いの成就」の物語であると予告する。しかし,実際の物語は「機械仕掛けの神」を用いたかのように,ピンチョン家の末裔に唐突に訪れた幸運な結末で閉じられる。こうした序文と本体の矛盾および不自然な物語の結末は,この作品の欠陥とされてきた。しかし,物語におけるセイレムの噂をする「群集」の存在,ならびに物語を通して継続的に行われるプロヴィデンスへの言及に注目すると,ホーソーンが「呪いの成就」と「呪いの解体」という,相反する方向に進むプロットを巧妙に組み込んでいることが分かる。物語の語り手は,噂をする「群集」の側の視点で「呪いの成就」のプロットを展開させる一方,その「群集」とは距離をおき,彼らには知り得ないプロヴィデンスの計画があることを示唆しながら「呪いの解体」のプロットを展開させるのだ。本論は『七破風の屋敷』の噂をする「群集」とプロヴィデンスへの言及に注目することで,相反するプロットを持つ物語の二重構造を明らかにし,そこに提起される「個人」と「集団」の問題,および,作家と社会の関係性を考察するものである。
著者
時田 浩
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.49, pp.267-281, 2016-03

『頭痛肩こり樋口一葉』は井上ひさし(1934–2010)が1984年に執筆した戯曲である。音楽劇としての魅力と,女性だけ6人の登場人物たちの人生模様の切実さとが観客の興味を引いて,繰り返し上演される代表作となっている。 樋口一葉(1872–1896)は貧困の中に夭折し,一般には薄倖の作家として考えられているが,井上ひさしはそうは捉えない。この作品の中で,井上は一葉を悲劇のヒロインにはせず,むしろ作家としては幸福な生涯を生きたと考える。それゆえ作品は笑いのあふれる喜劇として描かれ,観客に登場人物に同化するのではなく,その生き方の意味を考えるように仕向けることが意図されている。 戯曲化する際には,一葉の小説『十三夜』や『にごりえ』を作品中に取りこみ,登場人物の結婚の現実をコミカルに描写したり,幽霊を登場させることで作品の世界の広がりを大きくし,世間全体を劇中に取りこむことに成功している。 女性6人のドラマというと,三島由紀夫の『サド侯爵夫人』が名高い。井上ひさしはこの人物構成を採りいれ,男性を舞台に1人も登場させないことで,当時の社会を支配していた男性原理を浮かび上がらせようとした。それは同時に一葉の文学の本質をも明らかにすることも可能にした。
著者
荒井 文雄
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.49, pp.465-491, 2016-03

東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故から数年が経過し,放射能汚染地から避難した住民は,原子力エネルギー政策の継続を掲げる政府の方針によって,被災地の復興のために,ふるさとへの帰還をうながされている。この論考では,原発事故後の帰還と復興をうながす言説を,〈象徴暴力〉の観点から分析する新たなアプローチを取った。〈象徴暴力〉とは,フランスの社会学者ピエール・ブルデューによる概念で,被支配者が自分から支配を正当化して受け入れるメカニズムの中心をなす。帰還と復興を暗示的に推奨する新聞記事の分析をとおして,これらのメディア言説が〈象徴暴力〉の特性を持ち,その効果を発揮していることを示した。なお,「福島第一原発事故関連報道と象徴暴力(上)」では,論考全体のうち,前半部1~3章を分割してとりあげた。
著者
小出 敦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.42, pp.87-96, 2010-03

1.はじめに2.検索条件と検索の対象3.検索結果4.各時間詞が指す時間の範囲5.学習者のための時間詞と時刻表現の表
著者
西岡 美樹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.33, pp.74-98, 2005-03

本稿は,ヒンディー語の名詞句を取り上げ,その中の日本語の格助詞「の」に相当するヒンディー語の属格後置詞'kā'についての用法を分析し,その二重機能性を日本語の「の」と対照しながら明らかにするものである。1.はじめに2.ヒンディー語における名詞句の諸類型 A.名詞 + 名詞 B.名詞 + 属格後置詞/属格代名詞 + 名詞 C.形容詞 + 名詞 D.分詞 + 名詞 E.名詞 + 'vālā' + 名詞 F.斜格名詞句 + 名詞 G.関係詞節 H.同格詞節3.属格後置詞を伴う名詞句の構造と分析 (1)名詞 + 属格後置詞/属格代名詞 + 普通名詞 (2)名詞 + 属格後置詞/属格代名詞 + 動詞派生名詞 (3)名詞 + 属格後置詞/属格代名詞 + 斜格名詞句 + 動詞派生名詞 (4)斜格名詞句 + 属格後置詞 + 名詞 (5)動詞的名詞(不定詞)+ 属格後置詞 + 名詞 (6)独立属格4.属格後置詞'kā'の担う文法機能5.おわりに
著者
井尻 香代子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.315-331, 2012-03

本稿では,国際ハイクにおいて日本の俳句の主要な要素の一つである季語が,どのように受容されて来たのかを取り上げ,アルゼンチンのスペイン語ハイクの作品分類をベースに考察し た。まず,日本の俳諧の連歌において季語がどのように理解され,発句に用いられたのかについて,芭蕉のことばに着目して検証した。次に,近代俳句における季語観の変化を,無季容認派と有季定型のホトトギス派の両者について概観した。その上で,アルゼンチン・ハイクの季語および通年の語の分類を行い,作品における機能を分析した。その結果,アルゼンチン・ハイクにおける季語および通年のトピックの用法は,近代俳句における季語ではなく,事象の変化に着目する俳諧の季語のそれに近いことが明らかになった。現在の国際ハイクの詩学は,西欧詩がロマン主義と前衛派によって詩的言語の変革を経験した際に受容した,日本の俳諧の連歌の季語観に連なっているのである。
著者
藤野 敦子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.52, pp.37-73, 2019-03

本稿の目的は,若年者が不安定な非正規雇用に就いた場合,家族形成つまり出生意欲にどのような影響があるのかを社会・雇用システムの異なる国際間で比較分析することである。 まず,著者が2008年に日本において,2010年にフランスにおいて実施したインタビュー調査の質的データを大谷尚氏の開発したSteps for Coding and Theorization(SCAT)法によって分析し,そこから仮説を生成する。次に同時期に著者が日本,フランスで実施したアンケート調査の量的データを用いて,仮説を検証する。クロスセクションデータであるため,内生性を考慮しつつ,推定する。このように本稿では,質的・量的データの双方を使用する混合研究法という比較的新しい手法を用いて,これまで,ほとんどされてこなかった国際比較分析を実施する。 量的分析の結果からは,日本の非正規雇用者は男女ともに出生意欲を低めている一方で,フランスでは,非正規雇用のうち有期限雇用フルタイムの男性は,出生意欲が高い可能性が見られるとともに非正規女性に関しては関連性が見受けられず,仮説の通りとなった。 ここから日本において,若年雇用の非正規化は少子化の要因である一方でフランスではそうではない可能性が導かれるが,同時にフランスの制度をヒントに日本でも社会・雇用システムを変革すれば出生の意思決定が変えられることも示唆されている。さらに,本稿の結果からは「非正規・正規の処遇格差の縮小」,「2人以上の子どもがいる世帯への持続的な経済支援」,「育児休業の取得しにくい非正規雇用者への優先的な公的保育サービスの提供の促進」に取り組むべきことが提案される。
著者
青木 正博
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.153-180, 2013-03

ロシア語のу нас в университете“私たちの大学で”の構文(「у +生格の構文」)とв нашем университете“私たちの大学で”の構文(「生格の構文」)の選択に影響を与える要因 について調べるために,文学作品や会話の教科書の例とインフォーマント調査の回答を分析し た結果,以下のような要因が見つかった。 A)「у +生格の構文」が選択される傾向がある要因: 1)会話の部分 2)場所を表す固有名詞 3)指示代名詞が場所を表す名詞を修飾 B)「生格の構文」が選択される傾向がある要因: 1)性質形容詞が場所を表す名詞を修飾 「動詞が表す動作」,「活動体性の階層」,「関係形容詞が場所を表す名詞を修飾」,「「場 所の所有構文」がテーマ(あるいはレーマ)の部分に入る」という項目は2 つの構文の選 択に影響を与える要因とは認められなかった。 実際の使用においては,「場所の所有構文」は上に挙げた要因の影響を受けずに使われ ことが多く,2 つの構文がともに使われる文脈がかなりの割合で存在すると考えられる。
著者
三好 準之助
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-28, 2013-03

1.『日本語の和らげ表現 ―語用論的試論―』の構成 1.1.第1 章「言語の和らげ表現」について 1.2.第2 章「日本とは?」について 1.3.第3 章「日本語の和らげ表現」について2.日本語の和らげ表現手段について 2.1.ぼんやり型 2.2.遠回り型 2.3.隠れみの型3.拙著の説明原理の検証 3.1.ポライトネス関連の研究について 3.1.1.ポライトネスの普遍性について 3.1.2.発話の姿勢について 3.1.3.発話行動の協調について 3.2.社会構造の特徴と和らげ表現 3.2.1.中根理論について 3.2.2.相手中心主義の解釈 3.2.3.ウチとソトについて 3.3.日本語のポライトネス研究について 3.3.1.配慮表現について 3.3.2.和らげ表現に関連した研究のいくつか 3.3.3.言語行動と和らげ表現4.和らげ表現研究の今後
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.46, pp.79-112, 2013-03

比嘉春潮(1883-1977,以下は比嘉)は明治期から昭和期にわたって活動した,沖縄史に関 する研究者である。研究者としてのみでなく,社会主義運動家としても,エスペラント語の普 及者としても知られている。比嘉は沖縄師範学校卒業後,小学校教諭となり校長にもなる。そ して小学校校長を辞したのち,新聞記者,さらに沖縄県吏となっている。1910(明治43)年 の伊波普猷(1876-1947,以下は伊波)との出会いによって,沖縄史に関心をもつ。1923(大 正12)年に上京して出版社の編集者となり,柳田国男(1875-1962,以下は柳田)のもとで民 俗学に関心をもつ。その一方で社会主義運動との関係をもち続ける。 上京後,民俗学を通じて沖縄研究を深めていく。しかし比嘉の場合,民俗学の視点からの 沖縄研究だけではなく,社会主義運動との関連から,社会経済史の視点からの研究も多く みられる。その業績は戦後に数多く出される。この沖縄研究にあたって比嘉は自らを「イン フォーマント」(informant)と語る。しかしながら『比嘉春潮全集』全5 巻(沖縄タイムス社, 1971-1973 年)というぼう大な研究業績から,比嘉が単なるインフォーマントであったとは考 えにくい。これまで比嘉に関する研究成果が出されているものの,多くの先行研究では,伊波 や柳田からの「影響」とされることによって,比嘉のインフォーマントとしての役割と,研究 者としての活動とが,つながりのないものになっている。 本稿ではこの比嘉の活動期を大まかに,(1)脱沖縄の意識と沖縄回帰の二重の矛盾のなかで キリスト教からトルストイズムに傾倒していった時期,(2)1910(明治43)年の伊波との出 会いをきっかけとする沖縄史への関心を深めた時期,(3)社会主義運動の先駆者となった時期, (4)柳田との交流をきっかけに民俗学研究に取り組んだ時期,(5)戦後になって数多くの著作 を発表した時期などに分けた。そしてこれらの活動期にしたがって,比嘉というインフォーマ ントの存在が,沖縄研究にとって重要な役割を果たしたことを明らかにした。比嘉は沖縄固有 の文化や方言などの情報や資料を「客観的」に提供することで,沖縄の歴史を伝える研究者と なった。比嘉はインフォーマントとして沖縄の「個性」を表現した研究者であるといえる。