著者
高橋 克寿
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.p259-294, 1988-03

個人情報保護のため削除部分あり形象埴輪研究のもっとも重要な意義は古墳祭祀の実態とその変遷を明らかにすることにある。本稿はその対象として古墳の墳頂に置かれる四種の代表的な器財埴輪を選び、その変化の中に古墳祭祀の変容を見ようとしたものである。基礎作業としてまず各器財埴輪にたいして型式分類を試み、靱形埴輪を二類四型式、盾形埴輪を二類二型式、甲冑形埴輪を三類四型式、蓋形埴輪を三類四型式にわけ、それぞれの型式変化を明らかにした。次に器財埴輪の各型式の古墳におけるセット関係と古墳の年代から器財埴輪の変遷を五期にわけて論じ、その消長を見た。その結果、器財埴輪は本来被葬者の眠る墳頂を厳重に隔絶し守護することを目的に鰭付円筒埴輪との強い関連のもとで四世紀後半に誕生したことが明らかになった。そして、製作技法の能率化、簡略化を進めながら発展した器財埴輪が五世紀後半から顕著に見せる衰退は、横穴式石室の導入などにかかわる新しい葬送観念の浸透によって引き起こされたことが考えられた。Haniwa figures are significant for illustrating the rites performed on tumuluses and for reflecting the concept of funerals of the Kofun 古墳 era. I have chosen four kinds of typical Haniwa figures called Kizai-Haniwa mainly of the Kinai 畿内 district and have tried to make a typological classification and a chronology for each one. Then I examined several instances of their assemblages on tumuluses and set up a five-stage chronology. Consequently, it was revealed that Kizai-Haniwa figures developed in the last half of the 4th century A. D. in order to defend the dead chieftain inside who was buried on top of the tumulus, with a special relation to Haniwa cylinders that had fins 鰭付円筒埴輪. In the 5th century Kizai-Haniwa figures prevailed over most of Japan, but their wane from the last half of the century was brought about by a new concept of funerals that came from the continent.
著者
寺山 恭輔
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.522-555, 1991-07-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
檀上 寛
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.4, pp.635-669, 2009-07-31

東アジアの国際秩序に関する従来の研究は、中国王朝が与えた官爵・王号から朝貢国の序列を検討することはあっても、国際秩序を原理面から考察したものは皆無であった。本稿は東アジア世界に働く国際秩序の原理性に着目し、爵制的秩序、官僚制的秩序、宗法秩序の三秩序の存在をまず明らかにする。このうち朝貢体制を支えるのは前二者の尊尊の君臣秩序であり、親親の宗法秩序は朝貢体制の埒外にある諸国家を、擬制的血縁関係により中国中心の国際秩序の中に取り込むものであった。この宗法秩序の役割が大きく変化するのが明代である。明は対外関係を朝貢制度に一元化し、極めて厳格な政治体制を採用する。さらに全ての朝貢国に冠服を下賜して宗法秩序を適用し、華夷一家の理念世界を可視化することで朝貢体制を正当化した。今まで朝貢体制と無縁であった宗法秩序が朝貢体制に内在化し、朝貢一元体制をイデオロギー的に補強したところに明の特徴があったといえよう。
著者
飯塚 一幸
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.359-387, 2009-03-31

「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見された新史料により、一八八○年九月における筑前共愛会の和田操の宮津遊説が契機となり、同会の憲法草案の影響の下、天橋義塾社長沢辺正修が一気に書き上げたことが判明した。その後「大日本国憲法」は、丹後選出府会議員らの討議により若干の修正を加えられ印刷・配布されていった。「大日本国憲法」作成と沢辺の国会期成同盟第二回大会参加は、筑前共愛会側から言えば、同会の遊説活動の顕著な成功例である。いち早く起草した憲法草案を携え国会期成同盟第二回大会に臨み主導権を握ろうとした筑前共愛会は、九州の外に同志を得たのである。こうして沢辺正修ら京都府民権派と筑前共愛会は、坂野潤治の言う「在地民権右派」の中核を形作っていく。
著者
藤田 恒春
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.111-138, 1986-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
橋川 正
出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.96-103, 1925-01-01
著者
狩野 直禎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.86-106, 1976-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
河西 秀哉
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.477-510, 2005-07-01

サンフランシスコ講和条約期になると、天皇退位論が再浮上した。その議論の特徴は二つある。第一に、敗戦後一貫して主張されてきた天皇の「道徳」的責任論を引き継いでいたことである。天皇は日本という国家の「道徳」を示す存在と考えられ、天皇が退位という「道徳」的行為を行えば人々はその姿に感動し、象徴天皇制はより強力な支持を得ると考えられた。それは「一君万民」「君民一体」を目指す動きだったと言える。 第二に、「新生日本」の国家像と適合的な皇太子が戦争イメージを持つ天皇よりも選択され、その結果退位が主張されたことである。マスコミが清新な若いイメージで皇太子を捉えて大々的に報道したことが背景にあった。「新生日本」の目指す国家像と象徴天皇像は接合され、国家としての再出発の時期に天皇制も再出発すべきであるとして退位が主張された。結局退位は実現しなかったものの、講和条約期の退位論は、象徴天皇制/像の展開の中で皇太子の存在が浮上するきっかけとなった。
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.35, no.1, 1952-05-01
著者
元木 泰雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.67, no.6, pp.827-857, 1984-11-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
庄子 大亮
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.125-156, 2002-03-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
ミラー ファーガス 井上 文則
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.499-517, 2000-05-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
井上 文則
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.5, pp.733-748, 2007-09-01

In this article, I try to reconstruct the career of Odaenathus, the famous ruler of Palmyra who actually governed the Roman East in the mid-third century. According to inscriptional evidence, he was called hypatikos in Greek in the years 257/258 and then mtqnn'dy mdnh'klh in Palmyrene during the period of the emperor Gallienus' sole reign (260-268). What does hypatikos mean in terms of Roman institutions of government? The same question applies to mtqnn'dy mdnh'klh. Recently, D. S. Potter has attempted to provide answers to these questions. Concerning hypatikos, he proposed that it meant that Odaenatus was given the title ornamenta consularia. Most scholars, such as M. Gawlikowski and F. Millar, have thought that hypatikos meant consular governor and consequently Odaenathus was the governor of the Roman province Syria Phoenice. Of these two theories, I support the latter because I believe the emperor Valerian (235-260) adopted two new policies to defend the Empire effectively: firstly, the appointment of able persons, regardless of social status, to posts that had traditionally been reserved for senators and secondly, the division of responsibility for defensive measures to collective bodies like the Tetrarchy. In the context of these new policies, Odaenathus must have taken responsibility to defend the Syrian frontiers as a governor from 256, when Valerian left Syria for Asia Minor in response to the attack of the Borani. Next, in regard to mtqnn'dy mdnh'klh, Potter considered it to mean corrector, which was a government post bestowed by Gallienus. On the other hand, some scholars consider it the equivalent of the Roman title restitutor that Gallienus conferred on Odaenathus. Which is the correct interpretation on mtqnn'dy mdnh'klh? The latter is a more appealing explanation, but I cannot fully agree with that theory. For the Palmyrenes, mtqnn'dy mdnh'klh was merely a symbolic title, referring to the supreme ruler of the East, tike mlk mlk' (king of kings). It is likely that Odaenathus arbitrarily adopted this title and that it was not officially conferred by Gallienus. Therefore, mtqnn'dy mdnh'klh is not related to the position of Odaenathus in the Roman institutional framework. To reconstruct the career of Odaenathus after his term as governor, we must rely on Zonaras, the Byzantine annalist of the 12th century. Zonaras says that Odaenathus was first appointed strategos of the East by Gallienus in 260 and then strategos of the Entire East in 261. From this evidence, we can deduce the fact that Gallienus conferred the military command over the Eastern provinces on Odaenathus by expanding the areas under his control in stages. In sum, Odaenathus was first appointed governor of the Roman province Syria Phoenice by Valerian in 257/258, then strategos of the East by Gallienus in 260, and finally strategos of the Entire East in 261. We find a similar case in M. Cornelius Octavianus. When he was the governor of the Roman province Mauretania Caesariensis in the reign of Valerian, he was conferred military command over the whole of northern Africa as dux Per African Numidiam Mauretaniamque to suppress the insurrection in Africa.
著者
大西 陸子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.690-720, 1977-09-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
梶山 智史
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.96, no.6, pp.815-848, 2013-11-30

本稿は北魏後期に史学を掌る家として繁栄した東清河崔氏一族の動向を辿り、その中で一族出身の崔鴻が五胡十六国の史書『十六国春秋』を編纂した背景について考察した。この一族は五世紀後半に南朝宋から北魏に帰順した。冬山の伯父崔光は深い学識をもとに北魏後期の漢化を志向する政治で活躍した。注目すべきは、長く国史編纂を担当したことである。一方、崔鴻も学識をもって北魏に仕えて起居注編纂などに携り、崔光の死後は国史編纂を受け継いだ。かかる境遇にあった彼が編纂した『十六国春秋』は、国号「魏」を定めた道武帝以降を叙述対象とする崔光の国史を前提とし、国史以前の歴史をまとめたものであった。しかし十六国史の位置づけは北魏の前身である代国の歴史とも関わる難しい問題であり、『十六国春秋』の筆法は代国を軽視していると批判される可能性があった。崔鴻の死後に同書が公開されると果して批判が噴出し、その影響で一族は没落したのである。
著者
仲丸 英起
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.6, pp.838-870, 2015-11-30

本稿は、準男爵位を通じて近世イングランド社会における名誉と称号の意義を再検討するものである。一六一一年、王権は財源不足の解消を目的として男爵位とナイト位の間に準男爵位を設置し、その販売を開始した。従来の研究では、初期スチュアート朝期におけるこうした爵位の販売ないし過剰な供給が、名誉の価値を低下させると同時に、社会階層間の移動を容易にしたと論じられてきた。本稿ではこの点を実証的に探求するため、準男爵位被授与者全体の社会層、およびケント・ノーフォーク両州における同称号被授与者の州内における地位を総体的に検討した。その結果、準男爵位を授与された家系の社会層は、たしかに全般的には低下傾向を示していた。その一方で、称号を保有する意味について地域的な差異が存在し、また称号の獲得は従来想定されたほどには社会階層間の流動性を促進していなかったという状況も判明したのである。
著者
東村 純子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.87, no.5, pp.603-641, 2004-09

律令制成立期の紡織体制について、特に平織の布や絹の生産の仕組みは史料の制約からほとんど明らかでない。本稿では、七世紀後葉以降に宮都や地方の官衙遺跡から多く出土する綛かけ・糸枠について、機能上必要な加工と装飾を目的とした加工を識別し、形態上の特徴を整理した。さらに、製糸具の[カセ]、製織具の綛かけ・糸枠の組成を検討した結果、紡織工程が製糸と製織とに分かれ、糸が綛の形で流通することを明らかにした。平城宮・京では、製糸は行わず、高級絹織物を含む絹の製織を行った。地方では、七世紀後葉に郡衙工房で布や絹の製織、周辺の集落で麻の製糸を分担する伊場遺跡型が成立する。その一方、七世紀中葉から有力豪族の本拠地で製糸から製織までを一連に行う屋代遺跡型が認められる。前者は生産の効率化を図ったもので、後者は、調庸制成立の素地ともなったと評価した。