著者
茶谷 誠一 瀬畑 源 河西 秀哉 冨永 望 舟橋 正真 古川 隆久
出版者
志學館大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

1948年6月から1953年12月までの激動期に初代宮内庁長官を務めた田島道治の資料群(「拝謁記」、「日記」、「関係資料」)を原文から翻刻して活字化し、それぞれ解説を付して出版する。また、資料の出版にとどまらず、編集作業を通して明らかになった事実をまとめ、シンポジウム開催と解説書の執筆により、学界から一般社会まで幅広い層に象徴天皇制形成期の昭和天皇と宮中の実態につき、研究成果を還元していく。
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.27-46, 2014-03

日本近現代における売買春について論じた。近世より継続していた売春は、マリア・ルース号事件を契機に、1872年に「芸娼妓解放令」へと結実する。これは、文明開化の一つとして実施されたもので、前近代的な身売りは建前上禁止された。しかし実際は、「自由意志」に基づく稼業として、売春は継続する。こうした仕組みは、欧米の制度を視察して構築されたもので、前近代の売春制度は欧米流の売春統制制度を基にした「公娼制度」へと再編された。つまり、売春に国家の公認が得られたとも言える。政府は私娼の取り締まりは行うものの、売春制度自体を無くそうとはしなかった。敗戦後、日本政府は1945年8月18日に特殊慰安施設協会(RAA)の設置を指示する。これは、占領軍兵士らへの売春を目的とした施設であり、政府はこれに対して資金の貸し付けを行うなど、積極的な関与をみせている。こうした施設の設置を敗戦3日後に指示したことに、政府の売春への意識を見ることができよう。RAAはGHQ兵士の中で性病が蔓延したことで、翌年3月には閉鎖され、そこで働いていた女性たちは放り出され、街娼となっていく。GHQは覚書「日本における公娼制度廃止に関する件」を1946年1月22日に出し、近代の公娼制度は廃止された。しかし日本側の意向もあって、「必要悪」とされて結局は継続し、「赤線」が誕生する。政府は赤線を認める一方、私娼である街娼は取締り、収監・保護して性病治療と矯正に努めた。そうして保護された街娼の生の声が、史料として残されている。それを見ると必ずしも私たちのイメージとは異なる街娼の実態が明らかになる。高学歴者が街娼となったケース、夫や家族に戦争犠牲者を持つケース、一度街娼となってからは生活するために抜け出せないケースなど、その実態は様々である。占領終了後、赤線を廃止しようとする動きは高まるが、法整備はその後なかなか進行しなかった。I have discussed prostitution in the modern period in Japan. In 1872, following the Maria Luz Incident, Japanese bonded prostitution, which had continued from the early modern period onward, was finally addressed by Geishogi kaiho rei(芸娼妓解放令), a law that emancipated prostitutes. This law was enacted as part of Japan's Westernization movement, and it ostensibly prohibited feudalistic bonded labor. In reality, however, prostitution continued as a business based on the "free will" of the women involved. This form of prostitution was constructed as a result of observing the way this industry functioned in Europe. In this way, the feudal system of prostitution was reformed into a "licensed prostitution system," based on western-style systems for regulating prostitution. It can therefore be said that prostitution was officially approved by the state. While the Japanese government did conduct crackdowns on unlicensed prostitution, it made no attempts to eliminate the system itself. After the Second World War, the Japanese government set up the Tokushu Ian Shisetsu Kyokai (literally, the "special comfort facility association"), referred to in English as the Recreation and Amusement Association (RAA). This association provided prostitutes for occupying Allied troops. The government showed active involvement with this association by, for example, providing loans to its facilities. The fact that these facilities were introduced just three days after Japan's surrender gives us an idea of the government's attitude towards prostitution. The RAA was discontinued in March the following year because of the General Headquarters of the Supreme Commander of the Allied Powers (GHQ). The women who worked in the facilities were dismissed and ended up working as street prostitutes. On January 22, 1946, the GHQ issued the memorandum "Abolition of Licensed Prostitution in Japan," and the modern-era system of licensed prostitution was abolished as a result .However, the Japanese authorities had their own attitude toward prostitution. It was ultimately allowed to continue and the Akasen districts (literally, "red line" districts-comparable with the term red-light district ) emerged. While the government did sanction these Akasen districts, it also cracked down on unlicensed street prostitution and made efforts to place street prostitutes in protective custody, where they would be treated for sexually transmitted diseases and receive correctional rehabilitation. The direst comments of the street prostitutes who were taken into custody were transcribed and archived. A read-through of these accounts reveals that our image of street prostitution differs from the reality. Many different types of women worked as street prostitution. These included highly educated women, women who had lost their husbands or other family members in the war, and women who, after entering street prostitution, found themselves unable to make a living in any other way. After the occupation of Japan ended, the movement to abolish the Akasen districts grew in strength, but there was little progress in terms of legislation.
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.49-61, 2012-06

The article aims to identify the role of choruses and what they achieved in the Asia- Pacific War. Japan had employed all national powers toward the Asia-Pacific War. To achive victory, the citizenry needed to mobilize and collect all available resources, including the ue of song. These songs were not considered art; instead, they were used as a proactive tool to increase unity in the workforce. In addition, the Great japan Patriotic Industrial Association, which brought laborers into the all-out war effort, was proactively engaged in welfare movements. It was through this effort that musicians were able to contribute during the war. Musicians consistently aimed to socialize music and attempted to popularize music through the welfare movements. From the perspective of the war effort, their use of choruses was regarded as a tool for increasing workplace unity. Their logic was to use music to eliminatte the classism in the workplace, which reflected an ieal behaind the war effort in general.
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.75-91, 2013-06

本稿が明らかにするのは、初期のうたごえ運動の活動実態である。うたごえ運動は、1948年に関鑑子(せきあきこ)によって、中央合唱団が結成されたことにより始まった。1953年に「第1回日本のうたごえ祭典」が開催され、その後、全国に急速に広まっていく。中央合唱団は共産党系の青年組織である日本共産青年同盟の音楽部門として結成されたことからもわかるように、共産党の影響を大きく受けていた。しかしうたごえ運動は共産党の影響下にあったわけではなく、社会の動向に大きく影響を受け、歌を通して平和を追求する運動を行っていた。これまで、うたごえ運動の研究はほとんど行われてこなかったが、近年になって急速になされるようになってきた。しかし、一次史料がほとんど検討されていないこと、初期の動向がほとんどわからないことなどの問題が残っている。そこで本稿は、中央合唱団の機関誌『うたごえ』の分析を通じて、1940年代後半から1950年代初頭にかけてのうたごえ運動の実態の解明を行った。その結果、①みんなで歌うという行為に活動の重点を置いていたこと、②平和を追求するような思想を持ち、そのような歌を歌っていたこと、③ロシア音楽や日本民謡を特にレパートリーとしていたこと、などが明らかになった。
著者
河西 秀哉
出版者
大阪産業大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究は、第一次世界大戦後から1950年代後半までを対象時期として設定し、象徴天皇制の思想的基盤の解明を試みようとしたものである。第一次世界大戦後の世界的君主制の危機を踏まえ、日本でも近代天皇制の再編に関する構想が提起された。昭和戦前期にももちろん断絶した部分もあるが、構想が継続し、敗戦後へと繋がった。それは、大衆化・現代化といった問題への対応だったと考える。
著者
河西 秀哉
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2021-04-01

象徴天皇制においてメディアの影響力は大きい。その関係性は切っても切れないものである。これまで、新聞や雑誌などとの関係性は研究されてきたが、戦後のテレビに関するものは未だ対象となっていなかった。本研究では、1959年10月より開始された「皇室アルバム」を中心とする、象徴天皇制を伝えるテレビ番組に関する史料調査を通じて、象徴天皇制とメディアの関係性を歴史的に検討する。こうした番組を製作した人々や伝えられる天皇側(宮内庁)などの関係者などへの聞き取りも行い、その意図についても明確化する。
著者
河西 秀哉
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.477-510, 2005-07-01

サンフランシスコ講和条約期になると、天皇退位論が再浮上した。その議論の特徴は二つある。第一に、敗戦後一貫して主張されてきた天皇の「道徳」的責任論を引き継いでいたことである。天皇は日本という国家の「道徳」を示す存在と考えられ、天皇が退位という「道徳」的行為を行えば人々はその姿に感動し、象徴天皇制はより強力な支持を得ると考えられた。それは「一君万民」「君民一体」を目指す動きだったと言える。 第二に、「新生日本」の国家像と適合的な皇太子が戦争イメージを持つ天皇よりも選択され、その結果退位が主張されたことである。マスコミが清新な若いイメージで皇太子を捉えて大々的に報道したことが背景にあった。「新生日本」の目指す国家像と象徴天皇像は接合され、国家としての再出発の時期に天皇制も再出発すべきであるとして退位が主張された。結局退位は実現しなかったものの、講和条約期の退位論は、象徴天皇制/像の展開の中で皇太子の存在が浮上するきっかけとなった。
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

本研究は、戦後を対象時期として設定し、象徴天皇制の歴史を総体的に解明すること試みようとしたものである。政治的動向のみならず、社会的・思想的な側面も含めて全体を検討し、象徴天皇制を全体として把握することを試みた。特に、皇居という空間への認識、戦争責任論、明仁天皇・美智子皇后という人に焦点を当て、象徴天皇制がどのように展開してきたのかを検討した。その結果、国民の意識に寄り添いながら展開したことが明らかとなった。
著者
森 暢平 河西 秀哉 茂木 謙之介 舟橋 正真 松居 宏枝 加藤 祐介
出版者
成城大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

日本の立憲君主制研究は、「日本史」の枠組みで検討されるか、英国との比較のなかでしかなされてこなかったのが現状であり、日本の立憲制のモデルになったドイツとの比較があまり行われてこなかった。そのため本研究は、ドイツの公文書館に所蔵される史料および日本の宮内公文書館の史料を中心に、ドイツ人研究者を交えて、日独の立憲君主制の比較研究を行う。具体的には、(1)新たな立憲君主制論の構築、(2)「宮廷システム」をドイツからの移転という視点で捉え直す研究、(3)皇族の位置づけをドイツの模倣という観点から再検討する研究の3つの分野から研究をすすめる。
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.51-61, 2014-12

本稿は、高校の日本史の授業で、女性に関する歴史がどのように教えられているのかを検討するものである。2009年3月に改正された新しい学習指導要領に基づいて作成された日本史Bの教科書8冊を検討し、その中で女性の問題がどのように取り上げられているのかを明らかにした。本稿では特に、近現代史をその検討対象としている。男性に比べて、女性の人物は教科書で取り上げられることも少ない。また、取り上げられる女性も特定の人物に集中している。女性に関する記述は、曖昧な部分も少なくない。こうした現状に対して、女性史・ジェンダー史の研究成果を踏まえた教科書叙述の必要性を主張した。一方で、ただ女性に関する教科書の記述を多くすればよいものではない。多様な性の、多様なあり方を取り上げることで、今を生きることを生徒に考えさせる歴史叙述のあり方についても論じた。This paper considers how history relating to women is taught in Japanese high schools. Based on my examination of eight textbooks that were created along the newly revised (March 2009) curriculum guidelines, I show how women's issues are covered , In particular, this paper focuses on modern history. Fewer women than men are covered in the textbookds. Primarily, only a specific group of female figures is considered. Further, there are more than a few ambiguous parts in the passages relating to women.I argue that it is necessary to write textbooks that depict the research accomplishments of women in history. However, textbook passages on women should not simply be increased. I discuss history writing that, by covering the diverse forms of diverse sexualities take, makes students think about living in the present.
著者
河西 秀哉 Hideya KAWANISHI
雑誌
論集
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.75-91, 2013-06

本稿が明らかにするのは、初期のうたごえ運動の活動実態である。うたごえ運動は、1948年に関鑑子(せきあきこ)によって、中央合唱団が結成されたことにより始まった。1953年に「第1回日本のうたごえ祭典」が開催され、その後、全国に急速に広まっていく。中央合唱団は共産党系の青年組織である日本共産青年同盟の音楽部門として結成されたことからもわかるように、共産党の影響を大きく受けていた。しかしうたごえ運動は共産党の影響下にあったわけではなく、社会の動向に大きく影響を受け、歌を通して平和を追求する運動を行っていた。これまで、うたごえ運動の研究はほとんど行われてこなかったが、近年になって急速になされるようになってきた。しかし、一次史料がほとんど検討されていないこと、初期の動向がほとんどわからないことなどの問題が残っている。そこで本稿は、中央合唱団の機関誌『うたごえ』の分析を通じて、1940年代後半から1950年代初頭にかけてのうたごえ運動の実態の解明を行った。その結果、①みんなで歌うという行為に活動の重点を置いていたこと、②平和を追求するような思想を持ち、そのような歌を歌っていたこと、③ロシア音楽や日本民謡を特にレパートリーとしていたこと、などが明らかになった。