著者
太田 浩司
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.620-655, 1987-07-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
堀 裕
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.87, no.6, pp.719-748, 2004-11

天皇等の国家的周忌仏事である「国忌」を素材に、平安初期における天皇権威の再編過程を検討した。八世紀後半に天皇権威が動揺する中、代々の天皇すべてを重視する必然性はなくなり、その再編の前提となっていた。桓武朝には、天智天皇を八世紀初頭同様「王朝の始祖」として継承する一方で、光仁天皇を「新王朝の始祖」と位置付けた。とくに「新王朝」は、長岡京や平安京など都城に体現されたと考えられる。又、長岡京において実行された延暦十年の国忌省除は、これまで「天武系」皇統排斥論や、「天武系」皇統から「天智系」皇統への交替などの論拠とされてきた。しかし、これらの説は成り立たない。むしろ、天智天皇を始祖としつつ、代々の天皇を重視しない点で他の施策と共通する。その後建設された平安京の特色は、長岡京での政策を継承しつつ個々の天皇権威を超え、天皇位そのものを重視した東寺・西寺が建立された点にある。東寺・西寺での国忌実施は、桓武朝より本格的に開始された天皇権威再編の一つの帰結とみなすことができる。
著者
藤井 翔太
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.96, no.6, pp.743-779, 2013-11

第二次世界大戦後のイングランドのプロ・フットボールにおいて、選手の契約・給与問題を巡ってフットボール・リーグと選手組合は労働省を巻き込む形で争議に突入した。二〇年近く断続的に続いた争議を通じて財政規則が改定され、選手の待遇や社会的イメージの向上が図られたが、リーグの閉鎖的なガバナンスのあり方の根幹は保たれた。その一方で、争議を通じてメディアの報道や政府のスポーツ推進政策が加熱し、国際的競争が激化したこともあり、フットボールへの国民の注目度が高まった。メディアや政府などの多様な回路と結びつくことで、プロ・フットボールは単なる娯楽産業の枠を超えた存在になっていった。つまり、争議を通じてプロ・フットボールは、国家の福祉政策を充実させるための財源として、国際競争における国の誇りを体現する国民的行事として、イングランド社会におよぼす影響をましていったのである。
著者
尼川 創二
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.71, no.4, pp.p575-618, 1988-07

ソ連史学はメンシェヴィキ党を「小ブルジョア政党」と見なしている。しかし、メンシェヴィキ党は、何よりも労働者階級の利益を重要視した党であった。一〇月革命後、マールトフの率いるメンシェヴィキ党が新体制内の合法的反対党の道を選択したのも、ボリシェヴィキ党=ロシア共産党の背後にロシアの労働者階級が実在していると見たからであった。メンシェヴィキ党は、ソヴィエト内部で労働者の支持を集め、彼らの圧力によって、ソヴィエト政権を「正常な道」へ向けようとした。ソ連史学は、メンシェヴィキ党が大衆の利益を裏切り、大衆の支持を失って自滅したのだと主張しているが、実際には同党は共産党の強硬な諸政策に不満を抱く労働者大衆の支持を再度獲得しつつあったのであり、それゆえにこそ、しばしぼ共産党側から弾圧を受けたのである。一九二一年春、「戦時共産主義」の破綻と大衆の反乱に直面した共産党政権は、メンシェヴィキ党を危険視し、強力な弾圧を加え、崩壊させた。共産党政権は残ったが、かつて共産党が鼓吹していた「ソヴィエト民主主義」は著しくその実質を失ったといえるであろう。
著者
藤井 學
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.41, no.6, pp.520-541, 1958-11-01

近世初頭の京都町衆の法華信仰について、 (一) その信仰形態 (二) この信仰が彼等の生活や意識に如何に投影されるかを紹介したいのが本稿の趣旨である。信者の例として本阿弥・狩野・後藤・茶屋・尾形・佐野家等を取上げる。彼等は何れも代表的な京都上層町衆であり、宗門規制が影響して互に姻戚であり、一族「皆法華」であつた。法華宗寺は彼等「惣族」団結の精神的支柱として存し、実生活の規範もここに求められた。彼等は宗義を理論的に理解し、一族中より碩僧を輩出させた。町衆は教化する側に上昇したのである。本阿弥一門が支配経営した洛北鷹ヶ峰は、芸術家聚落であると共に町衆信者の集りであり、住民は実生活と合致した信仰生活を送り、此地は法華経支配の地域=「常寂光土」なる宗義的意義を持つていたのである。かかる町衆の法華信仰或はその止揚であつた鷹ヶ峰は、内には反幕府的要素を多分に含み乍らも、その存在した社会的条件と宗門宗義の変質によつて、質的変化を遂げ、近世封建社会の中に次第に解消して行つた。
著者
荒武 欽郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.75-102, 1968-01

この論文は、十九世紀五〇年代末~六〇年代初ロシアの第一次革命的情勢の時期において、ロシアの革命運動が軍事革命の路線をとるにいたった事情に考察を加えたものである。当時、資本主義発展の道をたどりはじめたばかりのロシアでは労働者階級の組織的結集、革命政党の大衆のなかでの定着が見られず、このため、当時の革命家は人民革命を基本としつつも、革命のイニシアティヴを唯一の組織された力としての軍隊に期待するにいたったのである。結局は、準備不足のため、革命にはいたらなかったが、この過程において歴史発展の原動力としての人民の役割、ツァーリズムの階級的本質、ロシア゠ポーランド革命的同盟の基礎についての理解は深まり、次の時代への遺産としてひきつがれることになる。
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.p359-401, 1989-05

個人情報保護のため削除部分あり天皇誕生日の祝祭(天長節) は欧米諸国の国王の誕生日祝典の模倣と推測されている。近世社会に欧米諸国のような国民的祝祭はなかったが、天皇誕生日の祭祀は天皇や女官による私的な祝賀として存続していた。維新政府は、一八六八年の発足当初から、天皇誕生日の国民全体の祝祭を指示した。近代日本の国民全体の祝祭布告の初見である。京都府や東京府は、維新政府の布告をうけて独自の布告を出したものの、実施には消極的であり、祝祭もなかった。一方、長崎と横浜という開港場では盛大な祝祭が行われ、一部の藩でも庶民の祝祭が見られる。しかし、それらの祝祭は伝統社会の祭りの動向によって規制されてゆくのであった。やがて日本全体の重要な祭祀となる天皇誕生日の祝祭の、一八六八年における実施のされ方には一定の偏向が認められる。そこに作用したのは、維新政府の欧米諸国との協調政策にもとづいたラディカルな統合政策と伝統社会との対抗であった。It is supposed that ceremonies in celebration of the Emperor's birthday (tentyosetsu 天長節) were held in imitation of Western practices of celebrating the birthdays of their kings. Although there was no national celebration in early modern Japan, the Emperor's birthday was celebrated privately by the Emperor and court ladies. Soon after its establishiment, the Government of the Restoration (Ishinseifu 維新政府) directed that the Emperor's birthday should be celebrated nationally. This was the first time in modern Japan that it had been decreed that the occasion should be celebrated by everyone. However, Kyoto and Tokyo prefectures issued statements in opposition to the decree and did not hold any ceremonies. On the other hand, in Nagasaki and Yokohama, ports open to foreign trade, there were grand ceremonies. Additionally in some han (domains) there were popular ceremonies. Nevertheless, the trends of these celebrations were influenced by ceremonies of a traditional nature. Certain inclinations can be found in the manner in which the Emperor's birthday was celebrated in 1868, leading to its becoming an important ceremony in all parts of Japan in later years. This was the result of the Government of the Restoration's receptive policies towards Europe and America and the resulting confrontation with traditional society.
著者
奥野 高廣
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.520-558, 1979-07-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
水野 清一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.682-693, 1963-07-01

中国の仏像がインドにもとづいてゐることはいふまでもない。それはガンダーラ様式の仏像であった。しかし、一度つたはったら、そのままそれがつづくといふわけのものではない。イソドと中国との交渉は、宗教の宣布、求道といふばかりでなく、経済的にもたえずあったから、たびたびその影響をかうむって、その都度ちがった形式の源流となった。とともに、両者を通じた共通の傾向をもったことは、大きく人類史の存在を暗示するものがある。
著者
武島 良成
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.227-257, 1996-03

本論は、日本占領下のビルマにつくられた東亜青年連盟(アシャルーゲー) の検討を通じ、東南アジア占領の意義付けに提言をなそうとするものである。今回はその組織を中心に論ずるが、まず、アシャルーゲーが一元化された命令系統を持ち、制度化の進んだ、五〜六万人の人気ある大組織となったことを、その成長過程と共に分析する。さらに同組織が、戦後はパサパラの最有力組織の一つとなり、その対英闘争を支えたことを指摘する。アウンサンらビルマ側民族運動のリーダーが認めるように、戦前のタキン党らの大衆組織化が、彼らを苛立たせるほどに困難のものであったとすれば、このように統制力のある大組織が登場した意義は大きく、その意味で民族運動の高次化が起ったといえる。
著者
芝井 敬司
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.353-387, 1981-05-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
佐久間 大介
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.350-383, 2002-05

個人情報保護のため削除部分あり国家統合が本格化した一八世紀後半のハプスブルク帝国では、領邦を基盤とした地域主義、すなわち「愛邦主義」が出現する。本稿では、ドイツ語系住民が多数を占めながらも少数派としてイタリア語系住民が存在していたティロール伯領をとりあげ、この「愛邦主義」について考察した。ティロールの「愛邦主義」は、中央集権化を推進する国家官僚機構や、イタリア語住民が居住するヴェルシュ地域、そして宗教・教育への国家介入などを「他者」とする中で形成される。ただし、「愛邦主義」の根拠となったのは「民族」ではなく、領邦と君主との契約の総体である「国法」であった。ヴェルシュ地域との関係は、ワイン利害に代表される具体的な利害関係に規定されており、ヴェルシュ地域が国制から排除されたのも、「国法」に基づく地域的自治の伝統が根拠とされている。また、「ドイツ」やハプスブルク帝国とのつながりは否定される一方、「国法」を保証する存在としてのハプスブルク君主には忠実であることが強調された。このティロールの事例が示すように、ハプスブルク帝国の国家統合においては、「国法」を論拠とした各領邦の自立性の主張が常に問題となっていた。
著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.38-74, 1997-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.122-127, 2003-01

個人情報保護のため削除部分あり英文タイトルは訂正(86巻2号p.291)による
著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.122-127, 2003-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
村山 修一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.139-170, 1970-03-01

宮廷陰陽道の爛熟時代ともいうべき院政期の陰陽道はめまぐるしい政局の推移とたび重なる天災、それに末法思想による社会不安を背景とし、院政の気まぐれで物ずきな奢侈性に影響されて極端にまで煩雑化俗信化の度を加えつつ社会の関心を高めて行った。一方、賀茂安倍両家の地位の固定化に伴い、無能な官僚陰陽師が多い中で、陰陽道的ムードの高まりから両家以外にも斯道の名士が相ついであらわれ、これに刺戟されて両家でも若干のすぐれた人材は出たのであった。同時に陰陽道関係の著作も新たに専門家や一般知識人の手で生み出され、これがまた様々の論議の種となったが、律令機構の一環としての陰陽寮は衰退の一途を辿りつつ変貌しゆき、宮廷陰陽家達はより広く一般社会を対象とした新たな活動の方向を見出さざるをえなくなったのである。
著者
村山 修一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.139-170, 1970-03-01

宮廷陰陽道の爛熟時代ともいうべき院政期の陰陽道はめまぐるしい政局の推移とたび重なる天災、それに末法思想による社会不安を背景とし、院政の気まぐれで物ずきな奢侈性に影響されて極端にまで煩雑化俗信化の度を加えつつ社会の関心を高めて行った。一方、賀茂安倍両家の地位の固定化に伴い、無能な官僚陰陽師が多い中で、陰陽道的ムードの高まりから両家以外にも斯道の名士が相ついであらわれ、これに刺戟されて両家でも若干のすぐれた人材は出たのであった。同時に陰陽道関係の著作も新たに専門家や一般知識人の手で生み出され、これがまた様々の論議の種となったが、律令機構の一環としての陰陽寮は衰退の一途を辿りつつ変貌しゆき、宮廷陰陽家達はより広く一般社会を対象とした新たな活動の方向を見出さざるをえなくなったのである。