著者
井上 満郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.306-330, 1972-05-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
佐久間 大介
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.3, pp.425-453, 2007-05

本稿では、アルプスの南北にまたがり、多数派のドイツ語系と少数派のイタリア語系住民から構成されるティロールにおいて、ドイツ語系エリートがどのように「地域」や「境界」を認識していたかを考察した。分析対象としたのは、ティロールでは一七世紀に出現し、一八世紀に活況を呈した領邦に関する地誌、すなわち領邦誌である。 一七世紀における領邦誌の成立は、ティロールを他とは異なる一つの「祖国」とする見方を前提としていた。だが、当時の領邦誌作者は、独立した聖界領であったトリエント司教領、ブリクセン司教領とティロール伯領の国制上の栢違を無視できなかった。一八世紀には、ティロール伯領とトリエント、ブリクセン司教領の区別が重視されなくなり、かわって、新たな「境界」設定の基準が浮上する。ここで、ティロール内部の言語や「民族」性の違いへの言及があらわれたことは確かである。だが、ドイツ語系エリートは、産業・農業の正確な把握をより重視し、気候や植生におけるアルプスの南北の相違を、「地域」区分のもっとも重要な指標としていた。 ティロールが、外部から完全に切り離された空間とされていたわけではないことも重要である。一七・一八世紀の領邦誌作者は、ティロールが神聖ローマ帝国に属していることを当然視し、「ドイツ」の一部としてティロールを捉える認識も共有していた。一八世紀の領邦誌では、これに加え、ハプスブルク帝国という枠組みの存在感も高まったが、中央集権化に抵抗する諸身分の議論も反映された。地理的位置の特殊性を指摘することで、ハプスブルク帝国におけるティロールの重要性を強調するようになったのである。 一九世紀以降に強まったドイツ語系とイタリア語系住民の対立や、第一次大戦後の分割の歴史を持つティロールでは、その「一体性」が常に強調されてきた。しかし、本稿で明らかにしたように、一つの固有の空間として領邦を把握する領邦誌においても、「地域」の複合的性格や「境界」の流動性を見てとることができるのである。

2 0 0 0 IR 侍・凡下考

著者
田中 稔
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.p499-529, 1976-07

個人情報保護のため削除部分あり中世における社会身分として、侍・凡下の別が行われていた。現存する史料の上からは、この区別の実態がもっとも明瞭なのは検断沙汰・服装の面においてである。中でも犯罪の嫌疑をかけられた時、凡下は拷問されるが、侍は拷問されないのが当時の通例であった。この侍の拷問免除規定の法源は公家法の有官位者に対する免除規定にあるようで、侍身分は律令制的官位を帯することができる者と系譜的に密接な関連を有するといえる。鎌倉幕府法においても侍・凡下の区別は厳格になされており、この侍もまた有官位者と関連をもつようであるが、郎等は侍とは認めていない。しかし在地で侍・凡下の身分差をいう場合には郎等も侍に入っているようである。これらの侍・凡下の具体的な在り方を通じて、中世身分制度の解明の手懸りを探りたい。There was a status discrimination between the Samurai and the Bonge in the Middle Ages. According to the extant documents, it was in Kendansata (検断沙汰 the code of criminal procedure) and in the costume of those days that the discrimination was most evident. For example, as a rule, the Bonge was tortured when accused as a suspected criminal, but the Samurai was exempted from the torture. This privilege given to the Samurai seems to have originated in the privilege given to the person of official rank in the Kuge-law 公家法. So it may be said that the Samurai had a close connection genealogically with those who had been allowed the official ranks in Ritsuryō 律令 system. Then, when the status discrimination between the Samurai and the Bonge becomes an issue, it must be noticed that the Rōtō 郎等 was not included in the Samurai in the law of the Kamakura shogunale 鎌倉幕府, nevertheless, in reality in his residence it seems that the Rōtō was included in it. This article, by the consideration of the Samurai and the Bonge, aimes at finding a clue that should make clear the status system in the Middle Ages, especially in the days of the Kamakura shogunate.
著者
高嶋 航
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.98-130, 2010-01

アジア太平洋戦争時期は日本のスポーツ界にとって受難の時代と記憶されている。しかしこれを中国大陸からながめると、全く違った様相が浮かび上がる。純粋スポーツの信奉者で、満洲にスポーツ王国を築いた岡部平太は、満州事変にいちはやく国家主義スポーツを提唱した。この「転向」は、日中両国の激しい抗争の場であった満洲の現実が醸成したもので、国策への便乗として片付けることはできない。その後岡部は天津で、軍特務としてスポーツを通じた文化工作を試みる。日中戦争勃発後、国家主義スポーツは日本の青年たちを戦場へと駆り立てた。一方、華北の占領地でスポーツは文化工作の一環として実施された。かくてスポーツは戦争の加害者となった。これは軍の強制によるというよりは、スポーツ界が戦争という状況に主体的に対応した結果であった。軍自身は武道・体操を重視し、スポーツを敵視する態度を取っており、そのため一方でスポーツ受難のイメージが形成され、他方で加害者としてのスポーツのイメージが隠蔽されたのである。
著者
塚本 明
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.79, no.6, pp.819-851, 1996-11

個人情報保護のため削除部分あり近世日本の朝鮮観については、主に朝鮮から江戸幕府に派遣された朝鮮通信使を通して論じられてきたが、その総体を把握するためには当時の社会における朝鮮に関する知識の多様な要素を検討する必要がある。本稿はそのひとつとして、これまで十分な分析がなされてこなかった神功皇后伝説の影響について考えるものである。 神功皇盾伝説は蒙古襲来を期に、朝鮮を畜生視する内容を伴うようになる。だが秀吉の朝鮮侵略後には、神国観の転換に規定され思想家レベルでは中世的観念を脱し、近世中期以降には『古事記』、『日本書紀』に基づいて朝鮮蔑視論が展開される。しかし民衆の祭礼、信仰などの世界においては、中世的な伝説・異境観により、朝鮮を犬、あるいは鬼と表現する蔑視観が存在した。これらは統治者、思想家の影響によるものではない、近世民衆独自の朝鮮観であり、そして近代初期の征韓論を支え、また明治国家が神功皇后を国民統合のシンボルとなしえた、社会的な背景でもあった。

2 0 0 0 IR 片山潜

著者
立川 健治
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.p234-265, 1983-03

個人情報保護のため削除部分あり本論でわたしは、片山潜の思想と運動を「文献的」に解釈するのではなく、それへの執念を生みだし支えていたものが一体何であったのかという観点から片山をみていく方法をとった。このように考えたとき、片山の一八八四~九六年(二五~三七歳) の「在米生活」は、生涯の軌跡を決定したといってよいほどの意味をもっている。なぜならそこで片山は、 「欧米社会」のもっている圧倒的な重量を「先進(優越) 性」ととらえることによって「日本社会」の「後進(劣等) 性」を、いいかえれば「日本の現実」を棚上げあるいは欠落させることによって「欧米の先進(優越) 性」を手に入れたからである。そしてこのことが片山の場合、日本の健全かつ合理的な「近代化」のためには、欧米の「進歩的」な社会思想と運動を日本に移殖することが不可欠であるという「情念」と結びついていったからである。片山の生涯の軌跡から夾雑物をとりさってみれば、その根底には常にこの「情念」があり、それこそが片山の思想と運動の実体だった、というのがわたしの考えである。In this paper I do not analyse Katayama Sen's ideas and movements on the basis of documentary records and interpretations but try to grasp him by considering what made him cling to such ideas and what drove him to such movements. Seeing him from the viewpoint, his experience in the United States from 1884 to 96 (from his twenty-five years of age to thirty-seven) proves to count so much that it might be said to orient his future career. There in the United States he took the colossal massiveness and affluence which Euro-American societies seemed to him to show off in every respect for the forwardness (senshinsei) 先進性 and accepted it and acted as if he owned it, while he failed to put into question or shelved the backwardness 後進性, actual conditions, of Japanese society. This, in his case, led to the passionate obsession that, for the sound and rational modernization (kindaika) 近代化 of Japan, it was indispensable to transplant the advanced social ideas and movements of Euro-American societies in Japan. Taking away odds and ends from his career, there always remains the obsession. And it is the substance of his ideas and movements.

2 0 0 0 IR <彙報>・<會報>

出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.407-424, 1938-04-01
著者
河内 将芳
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.85, no.5, pp.700-723, 2002-09-01

個人情報保護のため削除部分あり
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.36, no.1, pp.95-100, 1953-05-20

個人情報保護のため削除部分あり
著者
白川 哲夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.87, no.6, pp.812-842, 2004-11

「戦没者慰霊」の研究は近年急速な進展を見せているが、時期的変遷や、事例間の関連性が十分に整理されていないと思われる。本稿では、地域の招魂祭と戦死者葬儀の実態を論じ、それぞれの行事がどのような役割を近代日本社会の中で担っていたのかについて考察した。戦死者を集団として祭祀する招魂祭と、個人として弔う戦死者葬儀は、それぞれが平時と戦時の「戦没者慰霊」を担った。いずれも地域が一体となった行事であり、時代が下るにつれその公的性の度合いは強まった。また二つの行事は神道と仏教の果たす役割の違いを反映しており、前者は主として死者への顕彰と称賛、後者は死者への哀悼と弔いを受け持っていた。その役割は互いに自覚的に選び取ったものではなく、互いの領域を奪い合おうとする紛争が通時代的に起こり続けていたのである。
著者
帯谷 知可
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = The Journal of history (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.104, no.1, pp.113-154, 2021-01

二〇世紀初頭、約二千万のムスリムを抱えたロシア帝国におけるムスリム女性解放論を俯瞰することを視野に入れ、本稿は、この時期に相次いでロシア語により刊行された、イスラーム的な男女平等を主張した二つの著作、ロシア人女性翻訳家・東洋学者オリガ・レベヂェヴァの『ムスリム女性の解放について』(一九〇〇)、およびアゼルバイジャン出身の改革派ジャーナリスト、アフメドベク・アガエフの『イスラームによる、そしてイスラームにおける女性』(一九〇一)に焦点を当てる。それらの骨子を紹介しつつ、両著作中の参照関係を整理し、当時の国境を越えたムスリム女性解放論のありようの一端を明らかにしたい。それは当時のロシアにおけるイスラーム世界に対するオリエンタリズムに抗しながら、エジプトのカースィム・アミーン、トルコのファトマ・アリイェ、英領インドのサイイド・アミール・アリーらの主張に共振する性格をもった。At the beginning of the 20th century, the Russian Empire had almost 20 million Muslims within its borders. This article brings into perspective an overview of the Muslim womenʼs emancipation movement in the Russian Empire in that era and focuses on two Russian works calling for the liberation of Muslim women from within the Russian Empire: About the Emancipation of Muslim Woman (1900) by the Russian translator and orientalist Olʼga Sergeevna Lebedeva and Woman According to Islam and in Islam (1901) by the Azerbaijani Muslim journalist and reformist Akhmed-bek Agaev. Both works were based on the idea of equality between men and women in accordance with Islamic principles. By analyzing these works and referring to relevant literature, this paper sheds light on how such perspectives on Muslim womenʼs emancipation resonated in a cross-border arena. The author argues that both Lebedeva and Agaev intended to resist orientalist views of the Muslim world in Russia and found sympathizers among some contemporary Muslim activists and writers, including key figures such as Qasim Amin from Egypt, Fatma Aliye from Turkey, and Syed Ameer Ali from British India.
著者
松下 孝昭
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = The Journal of history (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.103, no.2, pp.304-333, 2020-03

平時における軍隊の立地と遊廓との関係性を解明するため、日露戦後期に愛知県豊橋市で起きた遊廓移転問題を研究対象とする。豊橋市では、大口喜六市長が師団の誘致に成功すると、市街地中心部にあった遊廓を、市費を投じて東郊に移転させる計画を立て、貸座敷業者や反市長系会派の反対を制して実施に移した。次いで市長は、師団と共存しうる都市に改造するための道路整備事業を推進するが、これは、停車場・兵営・新遊廓の三点を結ぶことが目的となっていた。新遊廓では、貸座敷業態の比率が高かった地区から移転してきた業者らが中心となって組合を組織し、他市から移転してきた業者らを組み込みながら、廓内の秩序を形成していった。以上の豊橋市の事例は、平時の軍隊と遊廓との関係性を論じるにあたり、軍隊と共存して地域振興を図ろうとする地元首長や議員らの動向を重視する必要性があることを示している。
著者
君塚 進
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.44, no.6, pp.909-925, 1961-11-01

いわゆる両港両都開港土市延期交渉の為、竹内保徳を正使とする一行が、文久元年~二年 (1862~63) にわたり、欧州六箇国に派遺された。この一行は、それが鎖国のあと最初の欧行であり、かつ当時日本との間に最も外交上問題の多かつた英・仏・露 (樺太定境の目的もある。) へ使することからして、各国事情の偵探が、また大きな目的であつた。組頭柴田剛中の日記によれば、全行程は、(一)、往路、(二)、五箇国巡行、(三)、普仏再渡、(四)、復路に分けられるが、ここでは (一) を紹介する。江戸出発 (十二月二十二日) 後最初の外地香港には、事情探索に一週間の滞在をしているが、これには当時の米国の南北戦争の影響があつた。以後シンガポール (太平天国の乱を探る。) はじめ、英アジア政策上の要点を辿り、エジプト (トルコ領) を経て、マルセーユに到着 (三月五日) しているが、エジプトおよびマルタでは「仏器先後渡」の紛糾が起つた。これ等実際の体験により、一行の国際感覚は大いに高められた。
著者
吉川 忠夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.225-258, 1970-03-01

『論語』に模した文中子王通の『中説』にたいしては、その真偽をめぐって、従来さまざまの論評が加えられてきた。筆者は、王通の弟王績の『東皐子集』を手がかりとして、王通像の虚実をあきらかにし、また『中説』の真偽をさだめることにつとめた。『中説』が疑惑視される一つの、しかももっとも大きな理由は、唐初の名臣の多くが、王通の門人として『中説』に登場することである。しかし、陳叔達、温彦博、杜淹、魏徴たちは、門人とはよべないまでも、文中子学団と関係をもったと推定される。『中説』には、後人による仮託の部分のあることを否定しえないにせよ、このように『中説』にあらわされた王通像は、まったく放恣な作為の産物であるのではなく、少なからぬ真実がそこに反映されている、と考える。About "Chung-shuo" 中説 by Wên-chung-tzu Wang-t'ung 文中子王通 imitated after "Lun-yü" 論語, there have been various comments around its credibility. This article, using as a clue "Tung-kao-tzu-chi" 東皐子集, the work by Wang-chi 王績, explains the credibility of Wang-t'ung's figure, and tries to decide upon the authenticity of "Chung-shuo ". One and the biggest reason for the doubtfulness of "Chung-shuo" is that many illustrious retainers at the beginning of T'ang 唐 appeared as followers of Wang-t'ung in "Chung-shuo". Though we cannot call them followers, such as Ch'ên-shu-ta 陳叔達, Wên-yen-po 温彦博, Tu-yen 杜淹 and Wei-chêng 魏徴, they presumably had some relation with the Wên-chung-tzu 文中子 clique. Though we cannot deny some pretext by the posterity should be found in "Chung-shuo". We may think that the image of Wang-t'ung in "Chung-shuo" should not be a quite unprinicipled and artificial product but a reflection without a little truth.
著者
川島 昭夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.70-102, 1978-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
稲本 紀昭
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.1-29, 1968-05
著者
稲本 紀昭
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.303-331, 1968-05-01

本稿の目的は中世後期における島津氏の権力構造を、主として、家臣団構造と知行制の側面から考察することにある。島津氏の権力構造の変化は四つの段階に分けうる。第一は南北朝初期より応永年間の、守護大名化の始動期ともいうべき段階で、中小在地領主の被官化、独習の知行制の樹立が進められる。第二は応永末期より文明年間までの、守護領国体制の確立・展開期であり、「衆」として地域的に掌握され直参する直臣団の存在が知られ、知行制は検地等によって一層整備される。第三は文明より天文年間に至る戦国大名への移行期で、有力農民の被官化が進められるとともに在地との切断が行なわれ、地頭─衆中制が形成される。第四はそれ以降で、地頭─衆中制を核とした家臣団組織は完成し、統一的軍役の規定をみ、戦国大名化は完了する。だが、それは領主、農民間の矛盾が頂点に達したことを意味し、農民の逃散は盛んに行なわれ、この矛盾の激発をおさえるため、軍事力増強がたえず要請され、領土拡張戦が行なわれる。This article is to examine the power structure of the Simazu 島津 as a Shugo 守護 daimyô 大名 and a daimyô in the warring age through the chief aspects of retainers' group organization and Chigyô 知行 system. As the change of the Shimazu's power structure, reflecting the gradual change of Zaichi 在地 structure, took place in instalments, it is difficult to decide upon the epoch. Its minute examination, however, reveals that a considerable change was observed between the fourteenth and the sixteenth century. From the view point of the aspect of retainers' group organization, there proceeded the officialization of neighbouring resident landlords in the fourteenth century; and accordingly Rôjû 老中 system as a governing structure came to be equipped. In the Chigyô system too, the transition was found from the type of Ando 安堵 and Azukarioki 預置き into the common type in which it was delivered as a beneficence; the object of Chigyô was changed from Shiki 職 to Shitaji 下地. In the fifteenth and sixteenth centuries the jitô 地頭-Shûchû 衆中 system was formed, and influencial peasants were put into officialdom. Therefore, the Chigyô system was systematized, as in the establishment of consolidated army service exaction on the basis of dimensions in the sixth year of Temmon 天文, in this epoch of which the change of the Shimazu into a daimyô in the warring period was performed.
著者
松尾 尊〔ヨシ〕
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.65, no.6, pp.p867-899, 1982-11

個人情報保護のため削除部分あり加藤友三郎内閣(一九二二年六月〜二三年八月) は貴族院を基礎とする非政党内閣であったにもかかわらず、衆議院議員選挙法改正の必要を認め、まず政府内に調査会を設置した。一九二三年はじめの第四六議会では、前議会同様の普選運動が展開し、大都市から、地方の小都市・農村へと侵透した。議席の過半数を占める政友会は、野党の統一普選法案を一蹴したが、新党議の地租委譲(国税→地方税) は選挙権の大拡張を必然化した。野党第一党の憲政会は政権担当の可能性を確実なものにするために、普選運動の煽動から統制へと態度を改め、各地の市民・農民政社を傘下におさめることにつとめた。他方日本共産党は、無産階級の普選運動参加はブルジョワジーの支配を安定さすことになるとして、これにブレーキをかけた。一九二三年六月、衆議院議員選挙法調査会は有権者の約三倍増を答申し、政府はこれを重要法律案の予備審査機関たる法制審議会に諮問した。加藤内閣によって選挙法改正は一九一九年いらいはじめて政治日程に上り、次期山本内閣にひきつがれる。Although the Government of Katô (Jun. 1922-Aug. 1923), based on the House of Peers, was never a party cabinet, it recognized the necessity for revising the election law; it organized an Advisory Committee under the Cabinet as the first step toward the rivision. On the other hand, early in 1923, the movement for the universal suffrage was noticeable during the 46th session of the Diet as much as in the previous one. The movement spread out of larger cities through local towns to the country. Meanwhile the ruling party, Seiyûkai 政友会, could easily kill the universal suffrage bill introduced by the opposition parties in chorus. But, in another context, the Seiyûkai determined to transfer the management of the land tax from the government to the local government, which made larger enfranchisement inevitable. For fear of missing the chance to take the helm of state affairs, the leading opposition party, Kenseikai 憲政会, which had instigated the universal suffrage movement, thereafter tried to control the political associations which were organized among the citizens and the farmers in various places. The Japan Communist Party tried to keep the proletariat from joining in the movement, because they were afraid that it might result in the stabilization of the bourgeois rule. In June 1923, the Advisory Committee on the Election Law in the House of Representatives suggested that the number of the enfranchised people should be tripled. The government referred this suggestion to the Hôsei-Shingikai 法制審議会, Legislative Council, which was in charge of investigating the important bills in advance. Thus, since the previous revision of the election law (1919), it was not till the Government of Katô that the new revisions was actually inscribed on the political calendar. And the cabinet of Yamamoto 山本 took over the revision work.