著者
森本 真幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.61-70, 2002-01-10 (Released:2017-08-01)

八〇〜九〇年代の教科書で初めて平和教材が位置づけられ、「一つの花」は四年生の定番教材となった。「一つちょうだい」とくり返すゆみ子に、コスモスを渡して出征した父親の姿は、戦争に負けない父親の愛情を示しているように読みやすい。だが、父親も母親も、天皇の名前で進められる従順な日本人だった。そして戦後十年経って、母親もゆみ子も、そして語り手も、戦争を批判的に見る目を持たずに、毎日の生活に安住していた。
著者
馬場 伸彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.6, pp.68-79, 2003

谷崎潤一郎が映画に対して強い関心を持ち、映画制作の現場へ積極的に関わっていったことはよく知られている。だが、「写真」とその影響について正面から論じたものは少ない。しかし、谷崎が自ら写真機を操り、現像、焼付をするという一連の写真行為を行っていたという事実は留意してもよい。本稿は大正期の谷崎作品を例に挙げ、そこに立ち現れた写真的感受性が同時代のコンテクストとどのような往還関係を結んでいたかについて考察する。
著者
田中 貴子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.11, pp.16-26, 2005-11-10 (Released:2017-08-01)

百物語は江戸時代に流行した怪談会であるが、近代小説にはこの「場」を題材としたものがいくつか見られる。奇しくも明治四十四年には森鴎外と泉鏡花が、大正十三年には泉鏡花と岡本綺堂が、それぞれ百物語をテーマとした小説を発表した。本稿では、近代においては百物語を共有する「恐怖の共同体」が失われていることを指摘し、そのうえで、百物語小説がどのような意図によって書かれたかを、鏡花作品を中心として述べた。
著者
巽 孝之
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.11, pp.66-77, 1994-11-10 (Released:2017-08-01)

笙野頼子は夢について語りつづける。もちろんこれまで「夢」といったら、伝統的なリアリズム文学が忌避し、伝統的なシュールレアリスム芸術のみが特権化してきた手法であった。けれども、初期短・中編群から、昨今の中・長編群へ至る過程で、笙野頼子はむしろ、従来の二分法ではおさまりきらない日本的無意識特有の「夢」を紡ぎ出す。それは、読者の認識論的準拠枠とともにジャンル論的準拠枠をもゆさぶってやまない。
著者
竹村 信治
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.2-17, 2014

<p>「学習指導要領」への準拠が求められる教科書だが、実際の教科書編集にはこれへの「参与」と「補完」が認められる。「学習指導要領」は、今後はともかく、現在はM・マクルーハンのいわゆる「クールなメディア」としてあると見なし、教科書の古典「文学」をめぐる「参与」と「補完」の可能性について考察した。</p><p>この度の改訂で小中高校「国語」に新設された〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕だが、小学校「国語科」教科書は「伝統的な言語文化」を「言語文化」とあえて読み替えたごとくで、拡張された「言語文化」概念のなかに古典「文学」を位置づけなおして教材の拡充を果たしている。これが二七年度版でどう改訂されるかは不明だが、この新設事項へ「参与」「補完」は教科書の可能性を開いたものとして相応の評価に値する。</p><p>そうした小学校教科書の達成を承けて中等学校においてはいかなる「参与」「補完」を構想するのか。教科書およびそれを扱う教員の構想力、展開力が問われるところである。本稿では四つの対処法を示した。その要所は、「言語文化」事象としてある古典「文学」テキストの一つ一つを「知のアーカイブズ」と捉え返し、それぞれの「知の営み」を読み解き「評価」「批評」すること。それこそが「ホット」に進行しつつある現況に「クール」に立ち向かう途だろうとした。</p>
著者
佐藤 晃
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.7, pp.26-38, 1996-07-10 (Released:2017-08-01)

源頼朝を聖性化するかのごとき伝承、すなわち頼朝の前生を六十六部聖であったとする伝承の生成に関連して、頼朝に関する二つの夢合わせ譚(真名本曾我物語等に見られるものと、平治物語に見られるもの)について考察を試みた。そして、延慶本平家物語に見られるような日本国大将軍をめぐる言説に、日本国=六十六ヶ国という水平的国土観の表出を考え、それが頼朝をこれらの夢合わせ譚、ひいては六十六部聖伝承に結び付ける背景にあったのではないかと考えた。
著者
大津 雄一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.23-33, 2012

<p>『平家物語』は、「愛の文学」として語られることがあるが、その実態について分析検討した。『平家物語』は、同じような構造、設定、表現を繰り返し用いて、愛について執拗に語る。しかし、必要に応じて語られる、愛を肯定する物語と妄念として愛を否定する物語とが交錯して、私たちを混乱させる。その結果、このテクストは、私たちに愛についての思考を促し、さらには、物語という虚構装置の外へと私たちを誘う力を持つことになったと論じた。</p>
著者
横山 信幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.8, pp.62-72, 2013

<p>私たちは、自分の使うことばの世界から出ることはできない。それゆえ、ことばの外にあるものを捉えることはできない。しかし、真の意味はことばの外から来る。私たちが真の世界へと近づくためには、自分の内部に築いたことば(=偶像)を否定し続けることが必要である。このような田中実氏の読みの理論は、唯一の神への接近を説いた「モーゼの掟」と似ている。「オツベルと白象」は、異世界のことばと接するときに生じた悲劇を描いたものである。</p>
著者
安藤 靖彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.11, pp.1-11, 1985-11-10 (Released:2017-08-01)

萩原朔太郎の創作した詩群「青猫以後」は詩集に準じて扱われるべき独自性をもっている。「青猫以後」は前後二期に分けて取扱える。そして、前後二期のそれぞれが、ヴィジョンを意識した作品を軸に構成されている。そのヴィジョンは作者が幼年時代に見たパノラマ館の風景に示唆されて構想されたものである。その幻想風景を虚無的な作者の現実意識によって反転させ、作品化したところに「青猫以後」の独自な世界が成立した。特に、その現実意識は、後期に至って、一人称「わたし」「おれ」が作中に示されることで露骨になっている。
著者
笹本 正治
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.7, pp.51-59, 1999

戦国末の様相を伝える軍書である『甲陽軍鑑』には、神のお告げなどがあたる実夢、夢を買ったらその通りになったとする夢買い、はかなく実現しない夢などが、物語の背後に記されている。そして全体として、夢は実現しないとする意識が、夢は神のお告げで実現するとの意識を凌駕している。これはこの時期に広く見られる神仏への怖れの減退と通ずるものであり、ここに夢意識の中世から近世への転換を読みとることができよう。
著者
湯浅 幸代
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.9, pp.23-30, 2007

『源氏物語』の朱雀院行幸で光源氏に与えられる「色々うつろひえならぬ」菊の「かざし」には、これまで様々な意味が読み取られてきた。本稿では、この「かざし」が紅葉から差し替えられたことを重視し、紅葉と菊の「かざし」の特性、及び紅葉と菊を対にして詠う私家集の和歌を参考にしながら、光源氏の菊の「かざし」の意味を再検討した。光源氏の「かざし」は、紅葉と菊の対照的な美意識を表し、菊花は、桐壺帝の恩恵を示す時勢の象徴となる。