著者
藤森 清
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.11, pp.20-27, 1993

明治40年代の「平面描写」論における「平面的」というメタファーは、十九世紀フランス印象派の絵画にみられる選択的描写としての遠近法の影響をうけた田花袋によってプラスの価値を付与されたものとして使われた。このメタファーが同時代の文学の言説空間のなかで力をもったのは、明治20年代から30年代前半にかけて優勢だったパノラマの俯瞰的視覚が新しい視覚の様態としての魅力を失い、前提化されていくコンテクストにおいてである。
著者
深津 謙一郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.9, pp.46-54, 1999

『重右衛門の最後』は、典型的な<近代批判>の言説のひとつであり、<西洋(近代)>に覆い尽くされたかに見える深層に、再発見されるべき起源の場所を提示することで、そこを核とする集団の同一性を制作する。しかしこうした語り口は、<近代>の進化論的時間と、それを包含するかたちで可視化された<西洋>中心の「地図」に基づくものであり、起源の場所が転倒した遠近法により遡行的に想像されたものであることを隠蔽する。
著者
牛山 恵
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.35, no.7, pp.37-47, 1986-07-10 (Released:2017-08-01)

中学校一年生を対象に「鹿踊りのはじまり」を実践した。方言のふんだんに出てくる作品だが、それがかえって作品世界に生徒をさそい込んでいった。そして生徒は、主人公の嘉十が鹿と同化し、その言葉を理解することができたものの、結局自然からは拒絶される存在であったという「読み」を展開した。鹿の視点に立って日常生活から失われてしまった感覚を体験するとともに、嘉十の疎外感に共感していったのである。この実践は「イメージの世界に遊ぶ」という虚構の体験の成立をめざしたものである。
著者
天野 聡一
出版者
日本文学協会 ; 1952-
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.66, no.6, pp.27-38, 2017-06
著者
伊藤 忠
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.22-32, 1992

『五勺の酒』の語り手である「僕」は、一九四五年八月十五日<終戦の日>の一日を「かずかずの犯した罪が洗われて行く気がして泣けた」と手紙に記述したが、同僚の国語教師「梅本」の復員は今におき戦中の「犯した罪」が洗われていないことを物語っていた。「僕」の「君」宛の手紙はそうした「犯した罪」、自ら埋めようのない「訴えようのない」<空白>を「五勺のクダ」として<語る>ものであった。いわば「僕」の「犯した罪」の視座から『五勺の酒』を考えてみたのである。
著者
渡部 直己
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.35-45, 1994

小説における「描写」は、近代日本文学の表象技術史上のいわば最大の輸入品であり、近代小説の問題の過半はその「描写」の質の変遷と共にあったといってよい。とりわけ、その長さのはらむ逆説、すなわち描写量と反比例してみずからの再現機能に不意の変容を余儀なくされる対物描写は、リアリズムの一種原理的な不可能性を暴きたてるきわめて両義的な要素である。描写の長さが不可避的にはらみこむこの変容は主に、(1)叙述(ナレーション)と虚構(フィクション)の両軸上における時間性の齟齬(2)虚構空間の混濁(3)再現から産出性への萌芽として見出されるが、本発表においてはまず、泉鏡花『式部小路』の一節をもとに右三点を明らかにしながら、描写という危険な要素の持つ複雑な性格を押さえたうえで、現代の小説家たちの描写の在り方を、具体例とともに検討する。そこでは、現在の若い作家のうち、島田雅彦、小林恭二、高橋源一郎といった男性作家が描写の両義性に対し比較的過敏であるゆえに、描写抜きのテクストを志向するという一方の現象と、鷺沢萌、山田詠美、小川洋子といった女性作家における描写志向とその質とを対照させたい。そのことによって、描写という歴史的産物に対する、批評的逃避と反動的追従の現状を指摘し、同時に、現代の文学風土の<電通>的性格を検証する。引用例は、鷺沢萌「川べりの道」、山田詠美「ベットタイムアイズ」、小川洋子「ドミトリイ」、日野啓三「牧師館」など。
著者
中村 哲也
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.8, pp.66-73, 2003

あらゆるスポーツや勝負事と同様、文学を価値付け、これを文化的営為として成り立たせている大きな要因に、「倫理」がある。それは、サルトルがカント哲学に基づき提起した「自由」と「呼びかけとしての文学」の問題系にかかわっている。本稿は、この問題系を踏まえながら、これまでの主要な文学教育論議を検討し、文学と教育との関係を、とりわけ「倫理」の観点から取り上げ、論じている。
著者
山﨑 正純
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.8, pp.2-12, 2011-08-10 (Released:2017-05-19)

読書行為の本質は文脈形成行為である。そして文脈を形成する行為こそ、もっともプライベイトな私秘的領域において文学作品を私物化し、一体化をなし遂げる行為である。だがその一方で読書行為は、読者を取り巻く不可解な世界の説明行為に転化することで、文学作品の価値を再生産することができる。すなわち、読書という私的行為は公的領域による権威付けの誘惑と脅威とに同時にさらされることで持続可能な行為である。私的領域と公的領域とのこうした共犯性は、家父長制の下に置かれた女性の自己表現にもみられるが、同時に公私領域の再編成の可能性を示唆するテキストとして位置づけることも可能である。
著者
村上 克尚
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.59, no.11, pp.27-36, 2010-11-10 (Released:2017-08-01)

本稿は、竹内好の国民文学論に対する武田泰淳の位置を、『風媒花』の分析を通じて確定する試みである。国民文学論は、朝鮮戦争を糧とした経済成長への抵抗運動として規定できるが、「国民」や「民族」といった概念を用いたことで、新たな抑圧への可能性を残す。これに対して、『風媒花』は、外部・内部に複数的な差異を探し求め、それらを介した緩やかな連帯のあり方を風媒花の形象で示した。それは、文学作品と読者のあり方への深い洞察から生まれたヴィジョンだと考えられる。