著者
中沢 弥
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.50, no.11, pp.11-19, 2001

小山内薫・山田耕筰・石井漠の三人が中心となって結成された実験的な劇団<新劇場>は、演劇の改革を標榜するとともに「舞踊詩」という新しいジャンルを提唱した。この舞踊詩のたどった過程は、大劇場と小劇場、高級な劇と民衆のための劇といった区分やそれらの間の争闘をも無力化する。また、震災後に始まるラジオ放送は、集団としての観客ではなくて、多数の個人としての聴取者を生み出すことになる。こうした芸術ジャンルの変容や受容形態の多様化を考えるための原点の一つとして、<新劇場>の活動をとらえ直す必要がある。
著者
田口 ランディ
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.20-30, 2012

<p>今年は3月に日本のみならず、海外にも影響を与えるような大災害、大事故がありました。しかしながら、私自身の心情を正直に語れば、3・11以前と以降とで自分の創作になにかしら変化があったとは思えないのです。このことは、私自身をとまどわせました。なぜなら多くの人が震災・原発事故を境に「ものの見方が変わった」と述べていたからです。この価値観の変化は「起こっている」のか。それとも「起こされている」のか。緻密に制度化された社会は3・11以前となんら変わらずに続いています。皆が従来の秩序を尊び、自分たちの組織内の狹い常識にのっとって、予定調和で社会生活を続けています。ことさらに書き言葉に携わる人間はたいへん保守的です(言語は書き言葉が登場すると変化しなくなります)。それゆえ、書き言葉への反逆は時々起こり、書き言葉をどう解体するかが多くの近代作家の創作課題でありました。でも、近年、作家は(私も含めて)自らの言葉を解体する力を失っているように思えます。いったい「ものの見方が変わる」とはどういうことでしょうか? これは何百年もの間、文学のテーマであり続けた認識の問題ですのに、今やなんの含みもない陳腐なフレーズと化しているのです。「ことば」はリアルが立ち上がる場所です。人間は「ことば」で構造的に世界を作り上げ錯覚して生きています。ですから「ことば」による解体が可能であったのです。そして「ことば」に新たな意味を与えていくのは、作家、詩人の役割でもありました。ですが、もはや作家や詩人という職業も、ご用○○として扱われ、その表現や存在にオリジナリティなど求められていないというのが実感です。そのような中で、いかに「リアル(違和)」を探りつつ、こだわりつつ言葉を解体するか。現代の状況を踏まえながら考察したいと思っています。</p>
著者
高岸 輝
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.7, pp.41-48, 2009-07-10 (Released:2017-08-01)

本稿は、室町時代の土佐派絵師が制作した絵巻のなかに描かれた「風景」の描写の変遷を追う。十五世紀前半の土佐行広は、実際にスケッチを行うことなく既存のイメージを貼り合せて風景を編集するのに対し、十五世紀末の土佐光信は、絵巻の舞台となる山をスケッチしている。さらに十六世紀中葉の土佐光茂は、環境のなかに自ら身をおいて遠近の風景を自在に描いており、ここに近世的な視覚の成立をみることができる。
著者
菅野 覚明
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.7, pp.31-39, 1994-07-10

本居宣長は、政道と和歌を分断することによって、新しい和歌観をうちたてた。逆にさかのぼっていえば、宣長以前、特に中世においては、むしろ政道と和歌の一体性こそが歌の捉え方の基本であった。この一体性を、論理としても、実際の表現活動としても、最もよく体現した代表者として世阿弥を挙げることができる。本稿は、歌論をそのまま曲の主題とした謡曲『高砂』をとりあげ、治世と和歌の連動性の具体相を分析したものである。
著者
菅野 覚明
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.7, pp.31-39, 1994

本居宣長は、政道と和歌を分断することによって、新しい和歌観をうちたてた。逆にさかのぼっていえば、宣長以前、特に中世においては、むしろ政道と和歌の一体性こそが歌の捉え方の基本であった。この一体性を、論理としても、実際の表現活動としても、最もよく体現した代表者として世阿弥を挙げることができる。本稿は、歌論をそのまま曲の主題とした謡曲『高砂』をとりあげ、治世と和歌の連動性の具体相を分析したものである。
著者
生形 貴重
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.4, pp.29-40, 1987

「平家物語」の叙述構造は、可視的世界(顕界)と不可視的世界(冥界)との両者に光をあててこそ、その姿を正しくとらえることが出来る。その観点から物語を分析すると、「平家物語」には、清盛→重盛→頼朝という「日本国の大将軍」の移行という構想がうかがえ、それは、生命力の衰弱したこの世界(末法世界)を、冥界からアラブル神の龍神が侵犯し、再生させる過程として顕界に表現される。その構造を明らかにすることは、またこの物語のモノガタリたる性質を、作品論として解明する手がかりとなるであろうと思われる。
著者
近藤 信義
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.44, no.5, pp.10-18, 1995

本稿の目的は古代和歌に見られる枕詞・序詞といった修辞的表現の中の<音>の要素の発掘にある。万葉集の表現の中でも<音>は一首の歌の中で次第に方法化され、音楽性が見出されようとしている。<音>喩という装置も、枕詞・序詞の表現から見出してきたものであるが、本稿では、こうした表現方法が生み出されてくる背景を、古代の<音>の表出された、散文世界から論じてみたい。
著者
中川 裕
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.32-41, 1993

アイヌ文学中の「散文説話」と呼ばれるジャンルはさらに四つに分けられ、その中心となるのは「人間の散文説話」であるが、日本をふくむ他民族の伝承と関係づけられるものは「和人の散文説話」と「パナンペ・ペナンペ譚」に集中する。これは、前者において主人公の人称が四人称であるのに対し、後者が三人称であることと密接に関係する。それを立証する過程で、アイヌ文学における「一人称叙述体」という定説化した概念を再検討する。

1 0 0 0 OA 宗養の付句

著者
松本 麻子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.25-34, 2013-01-10 (Released:2018-01-31)

連歌会には、上手な作者だけでなく初心者や、ただ「読み・書き」の能力があるだけで、古典の知識の少ない作者も参加していたと推測される。そのような人々に対して、一六世紀を代表する連歌師宗養は、平易な句や、今までの流れを一転させるような鮮やかな句、また滑稽な内容の句などを詠み、参加者を飽きさせないよう心がけていた。古典の知識が必要な句の場合は、『伊勢物語』や『源氏物語』などの有名な場面を多く用いた。こういった詠み様は、近世の俳諧に見られる特徴と類似したものである。
著者
森田 雅也
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.10, pp.22-30, 1996

文化年間刊行の『文苑玉露』は、国学者の交友ぶり、作歌態度などの自照性に富んだもの、消息文などの資料的価値があるもの、未見の序文など文献学的価値の高いもの等、まさに種々混交している和文集である。この作品は学統世界を越境した、一般の読者の期待にも応えるものであった。この世界は四十数年のちの嘉永年間刊行の『遺文集覧』に受け継がれるが、学際的な面白みはあっても、もはや学究的な挑発を楽しむ、越境の期待は充足されないものであった。
著者
森田 雅也
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.21-29, 2003

西鶴の『本朝桜陰比事』(元禄二)巻三の七「銀遣へとは各別の書置」は、従来より目録副題などから、二十五歳までは自由に銀を遣えと遺言した親父の粋な計らいと、その親父の遺言が正しかったことを判じた御前の名裁判官ぶりがこの章の眼目として扱われてきた。しかし、裁判物という趣向をはずし、町人を素材とした、いわゆる町人物として読んだとき、違った新しい読みが提示できるのではなかろうか。本稿では、それを「相続制度」という視点から読み解いていく。
著者
鎌倉 芳信
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.12-21, 1990-04-10 (Released:2017-08-01)

泡鳴が北海道放浪から帰って知り合い、同棲、結婚する遠藤清子は、同棲直後、青踏運動に参加する。泡鳴は清子の手前、彼女の行動を理解し、青踏運動も支援するが、実際には泡鳴は、「新しい女」達の考えにはほど遠い旧思想の持ち主であった。そのため、この時書かれた「毒薬を飲む女」は、表面を新しい思想で装った自己に遠慮して、本当の自分の姿を明らかにしない、いわゆる<追求不尽>の作品として終わっている。
著者
吉田 修作
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.1-10, 2011-02-10 (Released:2017-08-01)

天岩戸と天孫降臨神話に記述されたアメノウズメの所作である<神がかり>、<わざをき>に焦点を当てると、天岩戸でのウズメの所作は書紀の<神がかり>の表記やアマテラスとの問答などから、ことばによる<神がかり>が内包されており、天孫降臨のウズメの所作はサルタヒコの「神名顕し」を促し、天岩戸でのアマテラスの「神顕し」と対応する。ウズメの所作は天岩戸では一方で<わざをき>とも記されているが、<わざをき>は本質的には制度化されない混沌性を抱え込んでおり、それが<神がかり>と通じる点である。
著者
難波 博孝
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.57-67, 2013-01-10 (Released:2018-01-31)

リテラシーは、「場」という空間性と「歴史」という時間性と「集団」という人間性(じんかんせい)によって構成された文脈に依存する。したがって、リテラシーは、人を排除する。それを防ぐために、私たちは、私の持つリテラシーを、超えていくリテラシーを持たなくてはならない。他者に対して自己を批評しつつ対等に立つ「戦略的同化」と自己のリテラシーを批評しつつ他者のそれを流用する「自己批評的流用」が必要である。
著者
小川 豊生
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.7, pp.43-55, 2006

十三世紀の日本が体験した危機として蒙古襲来をあつかうことは、あまりに新味に欠けるというべきかもしれない。しかし、この国家的危機がひきおこした諸言説の根本的な変化については、それほど詳細に分析されているとは思えない。たとえば、北畠親房がその歴史叙述『神皇正統記』を超越神としての「国常立尊」から書き起こしていること、またその親房がその思想を度会家行をはじめとする伊勢神道にもとづいて形成していたことについては知られているものの、それまで言説化されることのなかった「超絶神」あるいは「世界を建立する神」が、いかなるプロセスで出現してくるのか、といった問題に関してはいまだ明らかにされていない。危機のなかでこそ惹起する、思考のある決定的な飛躍、この問題を十三世紀のテキストをもとに探究してみたい。