著者
栗原 嘉一郎 冨江 伸治 植松 貞夫 門谷 眞一郎
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
vol.311, pp.93-100, 1982

本論文では, 研究者の研究活動における雑誌利用について, 雑誌1タイトル当りの利用者数, 研究者一人当りの和洋別利用種数, ならびに研究者の研究領域と雑誌の主題部門との関係などを, 設定したA, B 2種類の利用形態とともに明らかにした。もとより, 本調査研究は調査対象を筑波大学の教官に限定しているため, 研究領域別にみた場合, 調査母数およびその中でのさらに細かい研究内容という点で, 部分的には片寄りがあるものと思われ, ここに示した結果が, ただちに充分な一般性をもっているとは言えない。しかし, 同種調査をさらに多数の大学等で実施するにしても全研究領域について片寄りなく調査対象者を選定することはかなり困難であること, 研究者の研究情報に大きな比重を占める雑誌の利用の状況について, 今迄その実態が限定つきにせよ明らかになっていないことから, 本論文に示した結果は, 雑誌利用の面からみた研究領域相互の近接性の傾向を知る上で有効であり, 従ってキャンパス内ならびに図書館内での学術雑誌の配置のあり方や, 雑誌の共同購入の可能性などについて考究するための一つの検討資料として利用することには有効であろうと考える。なお, 本論文の骨子は文-3, 文-4において既に発表している。本論文はそれらを一つにまとめたものであるが, その際, 人文社会系の研究領域を細分化しすぎていた点等の研究者の研究領域・雑誌主題部門のグルーピングの方法や, 表の表現方法等について再検討を行ない, 一部を変更し, それにともなう再集計を行なった上でまとめたものである。
著者
宮本 雅明
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
vol.297, pp.131-138, 1980-11-30 (Released:2017-08-22)

This paper is a study on the actual state of the architects' and engineers' organization in the Ministry of Education, which showed a large scale of activity as an architectural design organization for higher educational facilities. Here, paying a special attention to activity system of the organization which mainly means architectural design and construction management, I make clear the functional side of the organization in the Meiji Era. And at last, I try to clarify the responsible architect or engineer in charge of each main construction work. Contents of this paper are as follows; 1. Activity system in the Mid-Meiji Era 2. Activity system in the Late-Meiji Era 3. Activity system of the organization in imperial universities 4. Conclusion
著者
辻 正矩
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.309, pp.157-166, 1981-11-30
被引用文献数
3

1)心斎橋, 東梅田の両調査から, 街区の性格によって特徴のある滞留人口の時刻変動パタン(平日)が得られた。高級専門店, 買回り品店などの多い都心商店街では, 図-3中の3のように, 午後3〜4時にピークをもつ山型のパタンを示す。しかし百貨店を含む街区では, 客の収容力の高い百貨店の店内人口のパタンに大きく引きずられる(図-3中の1)。飲食店, 娯楽施設, 風俗営業施設などの多い歓楽街では, 昼間の人口は少ないが, 午後5時頃から急激に人口が増える尻上り型のパタンを示す(図-3中の4)。ピークは8時から10時頃までの間にある。盛り場地区全体の時刻変動パタンは, 性格の異なったいくつかの街区から構成されているから, それらの複合したものとなる。夜間の滞留人口が昼間の滞留人口よりも10〜20%多い, 図-2, 図-5のような人口変動パタンが描かれる。2)心斎橋地区の昼間の滞留人口は3万2千人, ピークの午後6時30分で3万6千人, 人口密度ではそれぞれ1000人/ha, 1100人/haであった。東梅田地区では, 昼間の人口は2万3千人, 午後7時で2万7千人, 人口密度では2100人/ha, 2500人/haであった。ただし, この人口のなかには自動車利用者は含まれていないので, 実際の滞留人口は, これより2〜3割程度多くなるものと思われる。3)間欠時間調査の推定精度を検討した結果, 地区延流入人数と延流出人数の推定の場合は, 95%信頼度で2〜6%の誤差であり, 妥当な精度と考えられるが, 滞留人口では, 心斎橋で11〜20%, 東梅田で20〜37%と, かなり大きな誤差範囲で推定されている。その原因としては, 滞留人口に比べて出入通行量が多かったためであるが, とくに通過通行量が時間的に集中すると誤差が生じやすい。4)調査の精度を向上させる方法としては, 通行量が多くかつ変動の大きい調査地点では, できるだけ長い実測時間をとることである。全体の精度が厳しく要求される場合には, 通行量の少ない地点でも, 30分間に10分程度の実測時間をとることが必要である。東梅田のように朝の通過通行量の多い地区では, 全時間帯にわたって実測時間を長くとることよりも, 通勤ラッシュ時に限って, 実測時間を長くとる方が効果的である。終りにあたって, 常に御指導を賜る大阪大学岡田光正教授, ならびに東京工業大学谷口汎邦助教授に感謝の意を表します。また, 調査にあたって御助力を得た大阪大学卒業生の早川邦夫, 杉原正美の両君をはじめ, 大阪大学岡田研究室, 近畿大学斉藤研究室の諸氏にたいしても, 心よりお礼を申し上げたい。
著者
亀井 幸次郎
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.62, pp.115-121, 1959-07-20

火災の場より無数にたちのぼり、風下に飛散していく各種形状の点火物をここでは"火の子"と称える。そしてここでいう"飛火"とは、火の子が可燃性の各種の媒体物への付着などによつて生ずる一次または、二次、三次的の着火並びに着炎現象であるとする。ただし、飛火を人為的にただちに消し止めたものは、この研究では省略した。従つてここで以下使用する"飛火"という用語は鈴木博士が「火災学」において論及している飛火論のなかの飛火とは、その持つ意味を多少異にする。(鈴木博士の飛火は、たぶん私のいう"火の子"を意味しているようである。)大火の現場調査において収集した"飛火資料"を飛火の発生時刻、位置、距離〔火元よりの距離と,第一次または第二次的着火点…飛火…より第三次あるいは第四次的の着火点までの距離(推定し得る限り現状考察によつて求めたもの)とに区別する〕及びその時の平均風速(これは地元消防署または火災現場より最も近い気象台または測候所による観測値)との関係を作表し、これにもとづいて、風速と後者による飛火の関係を、図表にプロットして、両者の関係を観察することにした。まず観察の方法として、上記によつて図表化したグラフのなかで風速15m/sec以上のものをAグループとし、風速15m/sec以下のものをBグループとして、その特性を考察することにした。このような仕訳方法を採用した理由は、おおむね次のような予想からである。すなわちAグループの場合には、その時の台風による風速が火災の場に発生する特有の気流より、火の子の飛散状況と飛火現象に支配的な影響を、またBグループの場合には、火災の場に発生する局所気流(乱れ、風の息、逆転、上空への噴出気流、突風及び火事場嵐などという局所的なもの)が、支配的影響力を与えると予想されるからである。
著者
清水 慶一
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.310, pp.143-151, 1981-12-30

以上東京商業学校附属商工徒弟講習所職工科及び工手学校造家科等を中心とし, 明治20年前後の中等建築教育について分析と検討を加えた。その結果次の諸点が明らかとなった。明治20年前後は東京職工学校の当期の状況に端的にあらわれるように, 様々の中等工業教育の構想が提示された時期であった。この時期の教育構想あるいは教育方針は大別して2種類に分けることが出来る。その一つは, 従来より東京職工学校でなされた如く, フオアマン教育による中堅技術者養成の構想である。他の一は, 当時興隆しつつあったハンディクラフト教育を中心とする広汎な技能教育, 即ち手工教育の振興・発展による工業の発達をはかるという構想であった。東京商業学校附属商工徒弟講習所職工科はこの手工教育との密接な関連のもとに設立された。この手工教育における建築教育の位置は, 同校教諭であり熱心な手工教育の推進者であった上原六四郎の『手工科講義録』に示されるように, 木工技術教育の教程上に建具・指物などと並列し大工技術が置かれるという位置付けがなされていた。これは同講習所木工科のカリキュラムにも対応した。以上の如く我が国における最初期の本格的な中等建築教育は中程度の専門技術教育からでは無く, 手工教育との密接な関連のもとに発足した。一方, 私立専門教育機関においては上記の如き状況とは無関係に中等建築教育が開始された。工手学校の設立目的はきわめて明快であり, 先行して養成の完了した技師を補助する中堅技術者の養成が目論まれた。設立時の同校での建築教育は建築関連職の技術概要を教授するなど, 技能教育的側面も持っていたがこの方針は間も無く変更され工部大学校での建築教育を簡易にした専門技術教育に替えられた。中等建築教育, 即ち西欧技術の体系的教授は小規模な教育機関である工業夜学校においても行われた。特に工業夜学校の講義に基づいて編纂された『工業夜学校講義録』は最初期の建築啓蒙書として当時の大工徒弟にまで影響を及ぼしている。以上のように私立専門教育機関における中等建築教育は高級技術者の現実的必要性より生まれ, 高度な専門技術教育を簡易化した内容をとり, その意味で高等建築教育と一貫性のある教育方針が当初よりとられた。このように, 明治20年前後の中等建築教育は文部省実業教育施策上と私立専門教育機関においてかなりの相違がある。本稿の目的は明治20年前後に行われた中等建築教育の実体を解明することにある。以上の論考によりこの目的は達せられたが, 最後に本研究を通じて浮び上がった若干の問題点を付加しておきたい。我が国の本格的な中等建築教育の起点は東京商業学校での木工教育にあるとされる。この木工教育は専門的な技術教育では無く手工教育と密接に関わるものであった。手工教育は義務教育段階に及ぶ広範な技能教育を行うことにより, 工業を根底より興隆せんとするものであったが, 当時の我国の産業状態より見て木工教育を手工教育の中心に置かざるを得なかったであろうことは想像に難く無い^&lt56>)。この木工教育の教程上に大工技能が置かれていたことは前頁にて指摘した。このhandicraftの振興とは別に工業興隆の方策としてforeman養成という中等工業教育の方策があった。手工教育の開発・振興は明治25年頃を境とし, その後の中等建築教育はforemanの養成に切り変えられた。しかし, 前者が短時日で終ったとは言え, 手工教育の方向性が在来の建築職能である既成の大工職に連なりながら, その近代化を根底より押し進める可能性を含んでいたことを看過することは出来無い。本稿を作成するにあたって, 日本大学教授・山口廣氏からは草稿の段階で多くの御教示を得た。また, 大阪市立大学・福田晴虔氏, 東京大学・堀勇良氏よりは様々の助言をいただいた。記して感謝申し上げたい。なお, 本研究にあたって竹中育英会建築研究助成金を活用させていただいた。
著者
清水 擴
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.207, pp.51-56, 73, 1973-05-30
被引用文献数
1

From the eleventh century to the twelfth, many Amidados were built. More than half of them were three-bay-square halls. Few buildings of this type had been built by this time. What is the reason for the rapid increase in their construction? There are two reasons : the first and major one is that it was the smallest hall with a formal style; and the other and less important reason is that it coincided with the form of the Jogyodo, a hall which was formerly thought to be the prototype of the Amidado. In order to go to Jodo, a Buddhist heaven, after one's death, it is necessary to perform pious acts. For example, an aristocrat should build a Buddhist hall. The three-bay-square hall was the easiest type to build since it was the smallest hall with a formal style.
著者
清水 擴
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.206, pp.75-81, 86, 1973-04-30

The origin of the Amidado (a hall for worship of Amida) is usually attributed to the Jogyodo. But I think these have different sources. If we compare the figures enshrined in the two halls and the form of the two plans, we can observe distinct differences. The Jogyodo always belonged to the temple, and was the place where public events were held, while the Amidado was the place for private prayer. In proportion to the increase of the believers of the Jodokyo, a new form of belief was born and in accordance with it, a new form of architecture was invented. This was the Amidado.
著者
清水 擴
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.208, pp.77-83, 89, 1973-06-30

The Hokkedo has not been thought to belong to Jodokyo architecture. But people had to repent of their sins in order to go to Jodo. The Hokkedo was very closely related to the Jodokyo since it was a place for penance. Goshirakawa, the retired emperor, seems to have been the first to use the Hokkedo as one's mausoleum. He gave different functions to Hokkedo and Sembodo, which had been originally the same thing; the former, as one's mausoleum, the latter, as a place for penance. The reason for this was due to his enthusiastic belief in the Hokkekyo, while he did not give credence to the dogma of the Jodokyo.
著者
尾崎 昌凡
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.87, pp.8-13, 1963-07-31

In the previous paper, l have reported the method for the theoretical stress analysis on space trussed shells. This analytical method consists of taking out the small unite element which constitutes these space trussed shells themselves and setting up the equations of force equilibrium and compatibility to induce their fundamental differential equations. This present paper is concerned with the stress analysis of a hyperbolic parabolical space trussed shell which is simply supported on the boundaries, under normal uniform load. The calculation was derived by the application of finite difference method and its results are shown in Fig. (7), (8), (9), (10) and (11) which are compared with those of the hyperbolic parabolical space trussed shell which is supported with hinge edges, under the same condition. Furthermore, the experiment of full-sized hyperbolic parabolical space trussed shell was carried out and a comparative study of theoretical values of the stress analytical theory and the corresponding experimental values was reported. It will be useful for designing hyperbolic parabolical space trussed shell.
著者
中田 裕久 土肥 博至 志田 隆秀
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.306, pp.115-125, 1981-08-30
被引用文献数
6

以上の検討結果, 以下のことが明らかとなった。No.1大学キャンパスにおける学生の認知スコアで示される認知領域は移転直後から急速に拡大し, ほぼ1ヵ月という短期間で安定し, その後はゆっくりと拡大する。No.2この期間, 移動経験(行動量)の多い集団ほど認知領域は大きく, その移動経験は集団の居住地と主要な目的地の生活空間に占める位置関係により決定される。No.3空間の認知のされ易さを示す認知度をみると, 認知領域の拡大傾向が空間側からも認められ, まず居住地および目的地の周辺, 次に両者を結ぶルートの近辺から外周へと拡大して行く。No.4また, 空間の認知のされ易さに関連する空間要因として, その空間の属する地区の機能, 地理的位置, 生活空間内での動線上の重要度, 空間自体の特質があげられる(表-13)。No.5空間の特質についてみると, エッジとなりうる池空間>滞留が可能であり利便である広場・ペデ>幹線道路の順で認知され易い。小さな自然(池), サブペデ, 補助道路についても, ほぼ同様な傾向が認められる。No.6評価については, 肯定的評価と否定的評価とに差異が認められ, 後者として指摘される空間は前者に比べて安定的でなく(頻度が低い), ルートに代表されるように行動領域の拡大と共に次から次へと発見される傾向をもつ。No.7肯定的評価の得られる空間には, 数多くの人々に評価される自然的景観や滞留できるスペースを持つ空間の他に, 特定個人に安定的に評価される空間(小自然, 緑道等)がある。No.8評価理由をみると, 肯定的評価空間は視覚レベル, 否定的評価空間は行動レベルに近い理由で評価される。これらの傾向から, 環境の認知・評価, 行動の構造について, 次のようにまとめることができよう。(I)環境認知と行動の関係(No.1〜No.3)環境の認知はごく短期間のうちに安定化し, その認知領域は移動経験と正の相関関係にある。従って, 一般の生活空間における居住者の認知領域は移動体験などの経験行動によって形成されているものであり, ある特定の時間帯や期間の行動とは直接的には結びつかないものと考えられる。(II)環境認知と評価の関係(No.4〜No.8, 表-14)肯定的評価空間は共有性が高い空間と共有性は低いが安定性が高い空間の2つのタイプが存在する。前者は居住者全体にとって高い認知レベルにあり, 接触の度合も高い。一方, 後者は居住者全体の認知レベルと関係の弱い個人的な空間であり, その個人にとって独占性(排他性)を満たすことのできる空間構成, スケールをもっている。否定的評価空間は, 日常行動と密接に結びついており, 特に共有性の高い空間は日常ルートに結びついた高認知空間である。(III)環境認知の構造化過程(No.3〜No.5, No.7)認知の早期段階では, ペデや幹線道路といったパス空間よりも池周辺などが認知され易いことから, ある特色ある空間構成や大きなスケールを有する特定のポイント(エッジやランドマーク)が認知され, それらの位置関係や方向性を基準にパスが形成され, パスを「知っている」と認識するプロセスで環境認知の構造化がなされるものと考えられる。なお, 以上の解析は, 一般の都市空間に比して, 限定的な機能をもつ大学キャンパスというセッティングにおける学生という特異な集団を扱ったものであり, また, 環境的にも池, 広場, ペデ, 樹林地等の豊かな空間条件下における検討結果でもある。これらの制約を緩めて行くことが今後の課題であると考える。文末ながらHSNO 1並びにHSNO 2調査実施に当り, インタビュー調査を担当していただいた筑波大都市研究会の学生諸君, そして調査・集計の一連の解析を手伝っていただいた筑波大生柿下智子君に謝意を表わす次第である。
著者
安田 孝
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
vol.323, pp.109-115, 1983
被引用文献数
3 5

大淀区, 城東区を事例とする以上の分析によって, 大阪市内の都心近接区部と縁辺区部における住宅市街地化の動向が明らかにされた。それを民間中高層集合住宅, 特に民間分譲マンションの立地動向に視点をあててまとめると, 以下のようになる。(1)民間中高層集合住宅の立地件数は, 現状では賃貸マンションが圧倒的に多い (件数比率で分譲1, 賃貸5)。(2)工場転出跡地における土地利用としては, 都心近接区部のほうが民間分譲・賃貸マンション化の件数比率が高い。縁辺区部では戸建分譲住宅地化や駐車場化の件数比率が高く, 民間分譲・賃貸マンション化の件数比率は相対的に低い。(3)都心近接区部では, 工場跡地のオフィスビル化や住居・店舗化 (細分化) の件数比率も高い。(4)縁辺区部における民間分譲・賃貸マンション立地は, 空地・未利用地における件数比率が高い。(5)全体的には, 工場跡地や空地・未利用地での民間分譲・賃貸マンション立地の戸数規模は比較的大きい。このような結果から, 土地利用の変化として, 相対的に地代支払い能力の低い工業的土地利用から, より地代支払い能力の高い住宅あるいは商業的土地利用への転換と, より一層の高密度利用が進行しつつあることが明らかになる。そして, このような傾向から判断すると, 小規模敷地における民間分譲マンションの立地がさらに進行することが予想されるのである。従って, 都市全体の居住環境水準を高めるためには, 単なる住戸数の増加のみでなく, 街区や地区としてのオープンスペースや歩道などの都市施設の計画的整備が不可欠である。こうして, 都市内住宅地全体の居住環境水準を高めることが, 長期的に良好な住宅ストックの増加に結びつくものとなる。
著者
浜島 正士
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.131, pp.57-62, 65, 1967-01-30

In Japanese architecture of the middle age, the corner-post is longer than the other. And so the bend occures on Kashiranuki, it reaches Gangyo through Tokyo, consequently Gangyo is bent. At Kaijusanji-Tower the straight bent of Kashiranuki starts from the center-point of interior-post, but the bend of Gangyo starts from the end of Makito. It shows that the bend of Gangyo is made regardless of Tokyo. And at corner-Tokyo, height of Waku-Hijiki of 45 degree enlarges at the end. From that reason the slope of Gangyo is steeper than Kashiranuki. In case of Tesakigumi-Tokyo; From the last age of Heian to the eary of Kamakura the way of Kaijusanji is used generally, for example Tchijoji-Tower Ishiyamadera-Tower Toshodaiji-koro, etc. From the middle age of Kamakura on ward accordingly enlargement of its section and transformation of Sane-Hijiki, also the bend of Gangyo changes, and so it starts from the center-point of interior-post in the same case as Kashiranuki. So that at interior-Tokyu Sane-Hijiki bends on the center, or the outside of Makito is taller than the inside. That is to say, the bend of Gangyo is made in process that Tokyo is constructed. For example Ishiteji-Tower Myooin-Tower Jotokuji-Entuden, etc. In Muromachi age, at corner-Tokyo instead of the way of Kaijiusanji, the end of Tori-Hijiki is bent horizontally. For that, the slope of Gangyo is able to eque Kashiranuki. In case of Mitudogumi-Tokyo; The bend of Gangyo starts straight from the center-point of interior-post, and its slope is Gangyo starts straight from the center-point of interior-post, and its slope is equel Kashiranuki.
著者
浜島 正士
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.296, pp.117-126, 1980-10-30
被引用文献数
1

1. The width of the upper story is determined in proportion to the width of the lower story, but it is not standardized. 2. The proportion of the width As to the size of the upper story, the newer Taho-pagodas are generally larger than the older Taho-pagoda. As to the size of the upper eaves, the older Taho-pagodas are generally large, and the newer Taho-pagodas are small. 3. The proportion of the height The height of the upper roof is about tow thirds as high as the height of a Taho-pagoda, and in this point there is little differenee between the older Taho-phgodas and the newer ones. The height of the upper eaves is about a half as high as the height of a Taho-pagoda, and the height of lower eaver is about a quarter of that of the height of a Taho-pagoda. The tower eave's height of the older Taho-pagodas are expecially low, which showo that that they are are-one-storied pagoda with Mokoshi. 4. The proportion of the width and the height The newer Taho-pagodas are slenderer than the older ones. Which shows that thet styhe of Taho-pagodas has been modfied from one-storied pagodas with Mokashi to tow-storied pagodas.
著者
浜島 正士
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.236, pp.107-116, 1975-10-30
被引用文献数
2

1. The lower-stories of the TAHO pagodas which were built in the early days have square pillars without DAIWAs, but those built after the 14th century have columns with DAIWAs. On the other hand all the upper-stories have columns with DAIWAs. The fact shows that the lower-story of TAHO pagoda was treated as a MOKOSHI in the eary days. 2. Three styles can be discerned in the KUMIMONOs of the lower-stories of TAHO pagodas, and this makes a TAHO pagoda distinct from storied-pagodas, which are uniform in style. All the KUMIMONOs of the upperstories are in MITESAKI style, and it is conspicuous that an architectural technique in the early days has been used till modern times. 3. The center-post of a TAHO pagoda is not on the foundation but on the ceiling of the lower-story, and in this respect it is different from a storied-pagoda. The columns in the lower-stories of a TAHO pagada were four in the early days. In about the 14th century a number of TAHO pagodas with tow columns in the lower-stories were built, and since the 16th century those with four columns have increased again. This is the same with a three-storied pagoda. 4. As the square eaves in the upper-story of a TAHO pagoda are supported by the colums, the construction of the KUMIMONO is very much complicated. For this reason most of the upper-stories of TAHO pagodas even in the 14th〜15th century are not in ROKUSHIGAKE style. 5. The construction method of TAHO pagodas in the earlp days is a piling-up method, which is original with a storied pagoda, but some of those built after about the 14th century are on support method. The same is true of a three-storied pagoda. But in the piling-up method which was applied to the TAHO pagodas in the early days, there is a technique which is not used in a three-storied pagoda. This is helpful in guessing the original form of a TAHO pagoda.
著者
浜島 正士
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.227, pp.115-123, 133, 1975-01-30
被引用文献数
1

1. At first the TAHO-tower was built by SAICHYO and KUKAI in the early 9th century, after that was built in every where. But all TAHO-towers remained were built from the late 12th century. 2. At present TAHO-towers remained take unified style, but the original style of TAHO-tower is classified into tow groupes. One, tower of eary SHINGON-sect was named BIRUSHANAHOTO, aimed at putting DAINICHI-Buddha for one's object. Another, the tower of TENDAI-Sect was named TAHOTO, aimed at stalling HOKEKYO for one's object, it seems that it's style was the square tower of tow storeies. And in TENDAI-Sect from the eary 11th century the TAHO-tower that aimed at putting SHAKA and TAHO-Buddhas was built too. 3. After that in TENDAI-Sect the TAHO-tower that put DAINICHI-Buddha was built, and the style TAHO-tower was unified irrespective of TENDAI or SHINGON. The style of TAHO-tower remained was propagated in the eary 11th century at latest. 4. The TAHO-tower fundamentally is different to the storeyed-tower that aims at stalling BUSSHARI for one's object, so the center post of TAHO-tower that do not takes important meaning does not stand on the base but on the ceiling of first storey.
著者
日向 進
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.325, pp.144-154, 1983-03-30
被引用文献数
2

寛政2年から同3年にかけての普請記録である大工近江屋吉兵衛の『注文帳』を主な拠り所として, 天明大火直後の京都における町屋普請について考察した。その結果明らかになったのは次の諸点である。(i)大火後に普請された町屋の建築構成は, 規模や各部の高さなどの点において大火前との異同は認められない。しかし, 用材は一般的には松と杉とに限られ, 坪当り工費, 坪当り大工工数は平常時の水準値を下廻っており, いわゆる「仮家建て」として普請されていたところに, 大火直後の普請という特殊な建築事情がうかがえる。(ii)町屋普請の見積り・積算に際しては, 大工工数については「〜人掛」, 工費については「〜匁坪」という表記に示される標準化が成立しており, 一定の規模・質を有する町屋に対応する指標とされていた。(iii)このような生産技術の整備が町屋の量産の上で不可欠であり, そのような生産技術の前提となる建築的類型の成立する時期は享保年間頃と考えられる。
著者
関口 欣也
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.128, pp.46-57, 60, 1966-10-30
被引用文献数
1

1)中世禅宗様斗〓は中国南宋頃の正統的な斗〓形式をうけつぐものであるが, 中国のものと異り肘木長さを2種類に統一し, 斗も立面上大斗と巻斗の2種で構成するのが一般的である。したがって斗〓は巻斗配置法の各型を通じて立面的に斗が上下に整然とそろう。すなわち禅宗様斗〓は細部の精緻な整備感を重んずる日本的感覚によって中国斗〓を整理単純化したものとみてよい。2)禅宗様の斗〓形式は斗の配置法によりA・B・C・Dの4型に分類される。このうちA・B・Cの3型はいずれも14世紀から存在し, なかでも秤肘木上巻斗外面と長い肘木にのる巻斗内面が相接するととのったA型が中世の主流形式である。またA・B・C 3型よりも秤肘木の相対的長さを長くしたD型は室町末から現れ近世初期の禅宗様仏堂にかなり用いられるが, これは斗〓一具としての1体化した整備感よりも, 斗〓部材を大きくみせる傾向をしめすもので, 一つの和様的感覚をしめすものとみてよい。また斗〓の変化としては中国の仮昂に発したと考えられる折線状肘木の使われ方と形状の変化がある。すなわち14世紀には当初の擬似尾〓的役割を意匠的によく伝えて折線状肘木を壁面と直角方向に配するが, 16世紀には1つの装飾的モチーフとして壁面と平行な方向にも用いられ, 形状も当初の直線状のものから下端が凹曲線になるものや繰型をもつものへ装飾化していった。3)斗〓立面の特殊例には法用寺本堂内厨子斗〓と安国寺経蔵内輪蔵斗〓がある。法用寺本堂内厨子斗〓は東大寺鐘楼斗〓を先行例とする三つ斗と五つ斗を重ねた特殊で複雑な形式であるが, 上下の斗を整然とそろえ, かつ各巻斗間隔を一定にし, 軒中央では六枝掛と通ずる〓と巻斗の関係がみられるなどいちぢるしく和様的な処理がある。安国寺経蔵内輪蔵斗〓はこれと対照的にいちぢるしく中国直写的な性質をもち, 当時日本ではかなり多様な中国斗〓の各型がしられていたことをしめす。4)禅宗様斗〓の一般的傾向と中国斗〓を比較すると, 斗の種類の点で中国的性質を痕跡的に止めるものが関東に存在する。安国寺経蔵内輪蔵斗〓の中国直写的性質をあわせ考えると, 禅宗様斗〓は当時の中国斗〓の各形式のうち日本的感覚に適合したものを撰択的に輸入したのではなく, 禅宗様斗〓は中国斗〓を日本で日本的感覚により整理単純化しかつ洗練させていったものであろう。ただし, その洗練はかなり急速であったろう。5)斗〓断面は中国斗〓の性質をよく伝えているが, 尾〓の配し方に, 上下尾〓が平行で内外一木をなすものと, 上下尾〓が相互に有角をなし下尾〓が内外で縁が切れ急勾配でたち上り上尾〓を支える型とがある。中国では発生的に前者の方が古いが, 後者も中国で11世紀に成立している。したがって日本における両者の間には年代差はなく, 当時の中国における両形式の併存状態を反映したものと考えるのが妥当である。また関東禅宗様斗〓の尾〓は有角に定形化している。関西では一般的には上下尾〓が平行であるけれども, 有角のものもあり, 関東ほど定形化していない。このことは関西禅范の中心をなす京五山が創立時では13世紀初頭から14世紀末にわたり, 発願者も朝廷・公家・武家に分れ, このため各寺の建築的伝統が独立的であったのではないかと想像される。このように考えてみると, 関東禅宗様斗〓の定形化は単に地方色だけとしてみるべきでなく, そこに鎌倉五山の雄たる建長・円覚両寺の強大な建築的権威を推察せしめるものがあろう。