著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.103, pp.1-43, 2013

琵琶は,古代中世の東アジアにおいて最も流行していた楽器の一つである。小稿では,正倉院に伝わるタイプの琵琶の源流とその流伝について,新たな仮説を提起する。従来の研究では,とくにローマとの関連は考察されていないようであるが,琵琶をひいては伝統音楽をあるいはさらには東西文化の交流を総合的に検討するためには,見落としてしまってはならないであろう。「阮咸」は,中国起源あるいは中国系であるとされる。そういえないことはないであろう。ただし,その原初タイプは,西アジア系長頸リュートから2世紀頃から3世紀頃までに中国において分岐したものらしい。また,1世紀から3世紀頃の西アジア系長頸リュートの中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝における流伝は,ローマあるいはローマ文化圏と関連がありそうである。「曲項」は,ペルシャ起源とされるが,ローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから2世紀頃までに中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「五絃」は,インド起源とされるが,正確にはローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから3世紀頃までに南方インドのサータヴァーハナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「秦漢」は,詳細不明であるが,あるいはギリシア・ローマ文化圏の梨形直頸リュートの直系あるいはそれに近いタイプであったかもしれない。
著者
上野 大樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.31-72, 2015

古典派経済学を確立し,それにもとづいて政府の市場介入を否定する徹底した自由放任策を 主張した論者としてアダム・スミスをとらえる見方は,こんにち様々な観点から相対化されつ つあるが,スミス像の多様化はひとつのイメージを結ばないほどに拡散の傾向を強めている。 本稿はまずスミス理解の見直しの動向をいくつかの類型に整理する。そして,スミスの全体構 想のなかで狭義の経済学は決して自己完結した体系ではなく,人間本性をめぐる道徳理論や公 法学での歴史社会学的考察を前提としたものであったことを指摘する議論とは別に,スミス経 済学じたいが実は統治技法ないし立法者の科学として構築されたことを強調するタイプの議論 を区別し,後者に焦点をあてる。P. ロザンヴァロンやI. ホントの古典的研究を,この統治技法 としての政治哲学の伝統のうちにスミスを位置づけた研究として再解釈し,従来の政治哲学が 長きにわたって格闘してきた統治の根本課題を把握しなければ,スミスがその経済学によって 解決しようとした問いがどのようなものであったか理解できないということを指摘する。その 意味で,スミスの経済学とされるものは現代的な意味での「経済学」ではなく,なによりまず 政治哲学として理解されねばならない。そのうえで,スミスの試みが同時にその政治哲学の伝 統を大幅に刷新するものであったことも銘記する必要がある。社会の総体を「市場社会」とし て再描写することによって,社会介入という伝統的な政治の手法に拠らずとも,社会全体の分 業の進展によって全般的富裕が達成されてよく秩序だった社会は自生的に形成されることを, スミスはあきらかにしたのである。また,社会的分業が作為的な介入を受けずに自然な順序に 従って進んでいくならば,国内的には農工商の均衡のとれた安定的な国民経済が実現するとと もに,国際商業も重商主義者が考えるようなゼロサム・ゲームの下での苛烈な国際競争である ことをやめ,国内商業の延長に全般的富裕を可能にするような「穏和な商業」が出現するとス ミスは見通した。政治的境界に規定されない可変的な国民経済は,それぞれが市場を拡大する なかでやがて非政治的に統合された帝国を現出させるというのが,スミスの「ユートピア的資 本主義」のヴィジョンであった。
著者
東島 仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.129-144, 2011-03

近年,心・行動の生物学的な基盤を遺伝子の働きや遺伝情報を手掛かりに探る心・行動の生命科学が,急成長を続けている。その進展には,公共の福祉への大きな貢献と同時に,多くの社会・倫理的な課題が伴うことは人類の歴史から明らかである。本稿では,心・行動の生命科学の研究領域で世界的な注目を集め,今や100名に1人が持つとも言われる自閉症スペクトラム障害に着目し,関連領域の学術的な発展に伴う障害概念の変遷と,社会的影響を論ずる。自閉症スペクトラム障害概念、が形成される道のりは,医学的な症例研究に端を発した心・行動の生命科学研究における自閉症スペクトラム障害領域の発展と展開,そして社会との関わりの歴史である。本論では,まず自閉症スペクトラム障害を取り巻く世界,そして我が国の社会的な状況を概観する。次に,医学や生命科学が科学表象の産出を通じて該当概念、を形作る歴史的な流れを振り返る。そして,生命科学によって自閉症スペクトラム障害の生物学的な基盤が解明され,様々な技術が開発される過程で現代社会にもたらされつつある課題を考察する。
著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.81-101, 2011-03

本論文は, 2009年に発表した拙稿「植民地期朝鮮における伊藤博文の記憶」(伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)の続編である。1932年日本支配下の京城に, 伊藤博文を祀る仏教寺院博文寺が建てられたが, そこで起こった最大の出来事は, 安重根の息子と伊藤の息子との「和解劇」であった。伊藤の死から30年後の1939年10月, 上海在住の安俊生と東京在住の伊藤文吉が京城で会見をし, ともに博文寺を訪れて合同の法要を行なった。それを報じた新聞記事では, 父の罪を詫びる安俊生とそれを受け入れて「内鮮一体」に努めることを慫慂する伊藤文吉の姿が強調された。この和解劇には, 朝鮮総督府外事部が深く関与し, 長年にわたって朝鮮独立運動を取り締まってきた警察官相場清, 安重根裁判の朝鮮語通訳を務めた園木末喜が安俊生の言動を左右する役割を果たした。その後, 安重根の娘夫妻が博文寺を参拝するという後日談もあった。「和解劇」とその後日談は, 総督府が植民地統治の成果を宣伝するために演出したイベントであったのである。
著者
髙津 茂
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.127-141, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫
著者
鈴木 洋仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.117-139, 2014-06-30

本論文は、「戦後」において「明治」を見直す動きを、桑原武夫と竹内好の言説を対象に議論している。桑原と竹内が、「もはや戦後ではない」昭和31年 = 1956年を境に行われた「明治の再評価」をめぐる議論の意味を指摘する。「明治の再評価」を最初に唱えた一人・桑原にとっての「元号」は、西暦とは異なる、日本固有の時間の積み重ねだった。それは同時に、昭和20年 = 1945年に始まる「戦後」という時間軸よりも、「昭和」や「明治」という時間の蓄積に親しみを抱く世間の空気でもあった。そして、桑原もまた、「元号」と同様に、世の中の雰囲気を鋭敏に察知するアイコンでもあった。対する竹内は、「昭和」という「元号」を称揚する復古的な動きに嫌悪感をあらわにし、「明治」を否定的に回顧しようとしつつも苦悩する。「明治維新百年祭」を提唱した理由は、その百年の歴史が、自分たちが生きる今の基盤になっていると考えたからこそ、苦悩し、ジャーナリズムでさかんに発言する。このように本研究では、「明治百年」についての複数の言説の中で、日本近代に対峙した代表的な2人の論客が「元号」に依拠して明らかにした歴史意識を対象として、当時の知識人と社会、学問とジャーナリズムの関係性もまた見通している。
著者
森田 真也
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.35-47, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第I部 :帝国日本と民間信仰≫
著者
瀧本 哲哉
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.193-222, 2020-06-30

戦間期の京都には花街(貸座敷免許地)が16か所あり, 京都府内外から大勢の遊客が花街を訪れていた。全国的にみた京都花街の特異性は, 人口や工業生産額との対比でみて娼妓数が他府県と比べて際立って多いことである。当時の京都は「繊維の街」であったが, 「遊廓の街」でもあったのである。1920年代前半に芸娼妓数が急増し, 遊客数や遊興費も増加して, 花街はおおいに賑わった。その背景としては, 府内の繊維産業の業況回復に伴って遊客の遊興費支出額が増加したこと, 1928年(昭和3年)の昭和の大礼による観光客の増加が遊客数の増大につながったことが挙げられる。戦間期の京都府内の花街は, 芸妓主体の花街と娼妓主体の花街(遊廓)に分化していく過程にあった。芸妓主体の花街は, 1930年代に入ってから芸妓数が減少し, 遊興費も落ち込んで地盤沈下していった。一方, 娼妓主体の花街(遊廓)では, 1930年代前半も郡部を中心に娼妓数や遊客数の増加が続いた。京都花街の経済的な位置付けをみると, 芸娼妓は毎月多額の賦金や雑種税を京都府に納付していた。その金額規模は, 商工業者等に課される京都府税の3割前後にまで達しており, 不況期には芸娼妓の税額が府税落ち込みの下支えの役割を果たした。そして, この恩恵を享受していたのは専ら京都府民である。また, 花街が吸い上げた遊興費は, 1920年代前半には京都府歳入総額にほぼ匹敵する規模にまで達していた。さらに, 花街では数多くの芸娼妓が稼業を営んでおり, 衣装代などの多額の支出を行っていたことから, 呉服商など関連業界は大きな恩恵を受けていた。このように, 花街は消費経済の主要な事業体として京都経済に組み込まれており, 地域経済の循環の一翼を担っていた。芸娼妓は賤業と蔑まれながらも, 納税などを通じて京都経済の発展に寄与していた。京都府民も間接的に芸娼妓から搾取していたのである。
著者
鈴木 洋仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.105, pp.117-139, 2014

本論文は、「戦後」において「明治」を見直す動きを、桑原武夫と竹内好の言説を対象に議論している。桑原と竹内が、「もはや戦後ではない」昭和31年 = 1956年を境に行われた「明治の再評価」をめぐる議論の意味を指摘する。「明治の再評価」を最初に唱えた一人・桑原にとっての「元号」は、西暦とは異なる、日本固有の時間の積み重ねだった。それは同時に、昭和20年 = 1945年に始まる「戦後」という時間軸よりも、「昭和」や「明治」という時間の蓄積に親しみを抱く世間の空気でもあった。そして、桑原もまた、「元号」と同様に、世の中の雰囲気を鋭敏に察知するアイコンでもあった。対する竹内は、「昭和」という「元号」を称揚する復古的な動きに嫌悪感をあらわにし、「明治」を否定的に回顧しようとしつつも苦悩する。「明治維新百年祭」を提唱した理由は、その百年の歴史が、自分たちが生きる今の基盤になっていると考えたからこそ、苦悩し、ジャーナリズムでさかんに発言する。このように本研究では、「明治百年」についての複数の言説の中で、日本近代に対峙した代表的な2人の論客が「元号」に依拠して明らかにした歴史意識を対象として、当時の知識人と社会、学問とジャーナリズムの関係性もまた見通している。This paper is discussing about the movement of revival the "Meiji" in post-war era, focusing on attitude of two intellectual elites ; Takeo Kuwabara and Yoshimi Takeuchi. Kuwabara who is totally forgotten today, by contrast, Takeuchi still remains as an influential figure in Japanese academic society. What determined the destiny of these two? The pivotal point is found in the famous sentence "there is not a post-war anymore now" appeared in the economic white paper of 1956. For Kuwabara who would like to advocate a "re-evaluation of the Meiji", "Gen-go" (Japanese name of era) is a symbol of unique history of Japan which is very different from that of the West described by A. D. This is because periodization by "Gengo" (ex. "Showa" and "Meiji") is more familiar for ordinary Japanese at that time than by "pre-war" or "post-war", and he keenly felt it. Therefore Kuwabara is remembered by people today only as a good observer of the time. On the other hand, Takeuchi tried desperately to express his loathing for "Showa" and the revival boom, examining "Meiji" era in a negative way. Despite being a proposer of "Centennial Meiji Restoration", he himself confused by the magnitude of that event. Because he knew it is the history accumulated after "Meiji Restoration" which defined his identity. Both two intellectuals facing the Japanese "modern" had shown their historical consciousness in a series of discourse about "Centennial of Meiji" and "Gen-go". These are the very typical figures suffering in the Japanese "modern".
著者
井上 勝生
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.111, pp.1-65, 2018-03-30

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War日清戦争の際に, 日本軍は, 朝鮮各地において, 数千人, 数万人の勢力をもって抗戦する朝鮮農民軍に対して, 包囲殲滅作戦を展開した。第2次の東学農民戦争, または甲午農民戦争, 韓国では東学農民革命と呼ばれる。当時の日本公使館が農民軍指導部文書を組織的に奪取し, 日本軍の公式日誌, 「陣中日誌」も重要部分欠落などのために, 現在も東学農民戦争の全体像は明らかでない。東学農民軍を殲滅した大隊の一つが, 後備第19大隊である。その第1中隊に従軍した徳島県出身の一兵卒の「従軍日誌」に, 同大隊が実施した殲滅作戦最前線の実況が記録されていた。本稿前半では, 京畿道利川の市内と近郊, 忠清道可興北の平野にある東幕里, 忠清道清風北の盆地, 城内里で展開した作戦を, 現地調査にもとづいて検証した。当初から殲滅作戦として実施され, 銃撃戦も早くから戦われた。農民軍を捕縛, 銃殺し, 農民軍の拠点村落を焼き払う作戦であった。いわゆる北接農民軍が, 主力の全羅道の南接農民軍へと合同, 参戦したことも見聞して記されていた。後半では, 最大の激戦と言われてきた公州戦争の, その東側, 錦江大渓谷における文義・沃川戦争が, 公州戦争に劣らない大戦争であったこと, 南原においては, 農民軍拠点の城山と民家を重ねて焼き払う作戦を展開したこと, また南西部海岸地域における討滅作戦が, 拷問, 銃殺, 焼殺, 村の焼き払いと, いっそう苛酷に展開したことなどを現地調査も行って解明した。結びでは, 後備部隊に徴兵された「貧困な兵士」群, 苛酷な作戦における士官と兵士の社会史などを検討した。During the Sino-Japanese War, the Japanese Army aimed to annihilate the resisting Donghak Peasant Army. Based on our detailed fieldwork in Korea, we were able to reenact the military operations of the Japanese Army against the Peasant Army, as described in the Soldiersʼ Campaign Journal 従軍日誌〕.Thus, we have verified the fact that the Japanese campaign was indeed one of complete annihilation, carried out in the city, as well as in the plains, hills, valleys, and mountain castles, by capturing and killing the members of the Peasant Army and burning their villages.
著者
手嶋 英貴
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.27-49, 2020

インドの大叙事詩『マハーバーラタ』第14巻「アシュヴァメーダの巻」は, 同族戦争の後に行われる主人公ユディシュティラ王のアシュヴァメーダ祭を主題としている。この祭では, 供犠にする馬を事前に一年間放浪させ, それを軍勢が追跡・守護することになっている。叙事詩では, その儀礼を題材とする挿話「祭馬追跡譚」が織り込まれ, この巻のハイライトとなっている。注目すべきは, この挿話の内容が, 仏典に現れる転輪王の代表的説話「輪宝追跡譚」に類似することである。「輪宝追跡譚」は, 仏教の理想的君主である転輪王が, 天の輪宝を軍勢とともに追跡し, かつ同時に, 武力を用いることなくただ威徳によって四方を平定する説話である。叙事詩と仏典, 双方の物語には主に次の共通点が見られる。(1)「追跡される対象(祭馬/輪宝)が東・南・西・北の順に大地を巡回する」, (2)「追跡者が行く先々で他国の王たちを帰服させる」, そして(3)「諸王に対し『殺されるべきではない』(パーリ語 na hantabbo/サンスクリット語 nahantavyās)という王の言葉が繰り返し語られる」という三つである。これらの共通点を手掛かりに, 本稿では諸文献の比較を通じて, 仏典の「輪宝追跡譚」が叙事詩の「祭馬追跡譚」に影響を及ぼしていたことを明らかにする。さらに, 叙事詩作者が仏教説話の要素を取り入れた背景を探るため, 『マハーバーラタ』第14巻の主題, つまり「戦争の生き残りたちが抱える怨嗟と悔恨を鎮める」というテーマに目を向ける。結論として, 叙事詩作者が, 「武力を用いず徳力によって人々を帰順させる」という仏教的「転輪王」の観念を反映させることで, ユディシュティラの人物像を物語のテーマに即したものへと発展させたことを推論する。Yudhisthira's Aśvamedha depicted in the Āśvamedhika-Parvan (ĀśvP) of the Mahābhārata (MBh) is characterised by the long episode of chasing the sacrificial horse, in which Arjuna as the chief of horse guards often fights against the bereaved kin of Kauravas, and finally subjugates them by expressing a merciful message from King Yudhisthira. The most remarkable thing in our discussion is that the horsechasing episode in the ĀśvP shows some similarities to an episode of Cakravartin found in some early Buddhist texts: (1) the monarch tours in all directions while chasing the royal symbol (horse or cakra 'wheel'); (2) the monarch subjugates the kings in all directions; (3) the monarch repeatedly expresses his merciful message with the same word "not to be killed" (Pa. na hantabbo/Skt. na hantavyās). Based upon some examinations, including the comparison with the above-mentioned Buddhist texts, we may suppose that the horse-chasing episode in the ĀśvP borrowed its outer frame from some sort of the cakra-chasing episode in the Buddhist tradition, which was circulated at the time of compiling the ĀśvP. On the other hand, the story of ĀśvP focuses on the "peace of survivors' minds". Yudhisthira's Aśvamedha itself has the function of purifying his all sins. The remaining issue is "appeasing the grudge of bereaved opponents after war", and the horse-chasing episode depicts on how Yudhisthira accomplishes this difficult task. The cakrachasing episode in the Buddhist tradition was probably an important source of the entire plot of the horsechasing episode in the ĀśvP, and it provided also the conceptual basis of Yudhisthira's figure in the ĀśvP, viz. the "merciful ruler" who appeases the grudge of opponents with his own virtue.
著者
北村 直子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.35-67, 2014-06-30

16世紀から18世紀にかけて書かれたユートピア文学では,大航海時代末期から重商主義・啓蒙主義時代にいたるヨーロッパ人の視野拡大を反映し,架空世界と既知の空間との落差をふたつの要素によって強調した。(a) 空間的距離: ヨーロッパからの遠さ。主人公の遭難の地点が実在の固有名 (地名・緯度経度) を使って表現される。(b) 意味論的落差:身体的・文化的・政治的な違い。空間的距離によって説得力を保証され,語りの視点の設定を工夫することによって強調される。(a) のような既知の固有名の使用はユートピア文学が次代のリアリズム小説と共有する要素である。いっぽう (b) の特徴はユートピア文学の「報告」としての性質を支える要素であり,ユートピア文学の報告者 (語り手,視点人物) は当時のヨーロッパ人を代表してヨーロッパと架空世界との落差に驚いてみせ,読者にその違いを強調してみせることによって読者の反応を先導しようとする。読者を誘導するこの仕掛けを物語論では「評価」と呼ぶ。「評価」のマーカーは物語一般に見られる自然なふるまいである。なお,20世紀に書かれた架空旅行記においては,語り手の「評価」のマーカーがときに欠如しており,読者が視点人物と容易に同一化できない。本稿では,こういった物語装置の分析を通じて,報告体物語の機構を検証し,トマス・モアからシラノ・ド・ベルジュラック,スウィフトを経てサドにいたる空想旅行記の暗黙の前提を可視化することをめざす。いかなる物語も,多かれ少なかれ「出来事の報告」という側面を持っている。本稿は,さまざまな物語ジャンルのなかでも,とりわけこの報告というコミュニケーション様式に特化したユートピア文学を分析的に特徴づけることによって,報告という言語行為がもつ小説史上の意味を考察する。視点操作や物語行為の本質を解明するためには,物語作品の意味内容以上に,物語の暗黙の前提を研究することが有効と考えるからである。De Thomas More au Marquis de Sade, en passant par Cyrano de Bergerac et Swift, la litt?rature utopique s'attacha ? figurer l'?cart entre ses contr?es imaginaires et lar?a lit? de l'Europe en l'inscrivant dans une distance spatiale, pa r le recours ? des toponymes authentiques pour nommer les lieux o? les h?ros font naufrage. Cette distance spatiale garantit l'existence synchronique de l'utopie, ce qui distingue les voyages imaginaires d'avec les r?cits qui installent les lieux de leurs fictions dans le pass? mythique (l'?ge d'or ou le paradis perdu), le futur (le roman d'anticipation) ou le r?ve (Le Roman de la Rose). Ce genre de texte met ainsi l'accent a ussi sur les diff?rences culturelles entre l'utopie et le monde europ?en : le narrateur s'?tonne de tout ce qu'il voit et entend dans l'utopie, et ses r?actions d?terminent l'attitude du lecteur en lui sugg?rant une r?ponse appropri?e aux ?v?nements narr?s. Ce dispositif discursif, que la narratologie nomme ? ?valuation ?, est un ?l?ment fondamental de tous les r?cits de cette nature, y compris les romans et les nouvelles. Seuls certains textes ?crits au vingti?me si?cle l'abandonnent, en interdisant l'identification du lecteur aux personnages. L'int?r?t d'une analyse th?orique de ce type de strat?gies narratives ne se limite pas ? l'?tude des m?canismes romanesques. Elle permet, plus g?n?ralement, une approche narratologique des modes de communication, ad?quate ? toute forme de discours destin? ? rapporter une exp?rience.
著者
能川 泰治
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.91-112, 2013-03-29

本稿の課題は,いわゆる十五年戦争と大阪城との関係について,これまでの大阪城の歴史の中で紹介されてこなかった事例を紹介し,大阪城は戦争動員に関してどのような役割を果たしたのかという点について,考えようとするものである。日中戦争が長期化し,さらにアジア太平洋戦争が始まろうとしていたとき,陸軍の中から大阪城を戦没者慰霊空間として改造する試みが浮上していた。大阪城内に大阪国防館という軍国主義的社会教育施設を設け,さらに護国神社を移転させることにより,大阪城を戦没者慰霊空間として完成させようとしたのである。一方,大阪財界の太閤ファンによって結成された豊公会からは,豊臣秀吉顕彰の場として大阪城を活用しようとする提言があがっていた。長期戦を戦い抜くためにも秀吉を顕彰して加護を祈ることが必要であり,また,秀吉の神霊の加護を受けて滅私奉公に励むことが都市大阪の発展につながるというのである。このような豊公会の活動によって,大阪城天守閣は秀吉の神霊が宿る司令塔として位置づけられていた。つまり,戦時中の大阪城天守閣は,大大阪の帝国主義的対外膨張のシンボルとされていたのである。そして,豊公会からあがった提言は,大阪の軍・官・財及びジャーナリズムと歴史学者の提携の下に,市民を啓発する式典や展覧会として実現された。その中で大阪城天守閣は,ある時は秀吉の神霊が宿るランドマークとして,またある時は大東亜共栄圏構築の先駆者としての秀吉像を宣伝する歴史博物館として,長期化する戦争を市民が戦い抜くための精神的支柱としての役割を担っていた。それは大阪という大都市における戦時大衆動員と都市支配の一端を示すものであると言えよう。This article deals with the relationship between Osaka Castle and the Fifteen Years' War, using aspects of Osaka Castle that have not appeared in the history books to consider the role played by the castle during war mobilization. As the Sino-Japanese War dragged on, and the Asia-Pacific War loomed, there was an attempt by people in the army to transform it into a memorial space for the war dead, as well as a proposal by the H?k?kai, formed by fans of the Taik? from among the Osaka financial world, to use the castle to commemorate Hideyoshi, and pray for his aid in the war. The proposal from the H?k?kai was achieved with the help of military, government, financial, journalist, and historian support from Osaka, creating a commemorative event and exhibition to educate the citizens. As part of this, the castle keep has been a psychological pillar to help Osakans win through the war, at times as a landmark where Hideyoshi's soul rested, or as a history museum eulogizing Hideyoshi. This can be positioned as showing part of the mass mobilization and urban control during the war in the major urban area of Osaka.