著者
松岡 慧祐
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.12, pp.3-16, 2013-05-18

地図は、近代的な世界や国家のイメージ、あるいは断片的でパーソナルな「道しるべ」としての役割だけでなく、流動化する「地域」のイメージを実体化するうえで重要な地域メディアとしての役割を担うようになってきている。それは行政上の「境界」にもとづいて地域を均質に区分する制度的な<地図>とは異なり、特定の主題に沿って選択された事物(地域資源など)の「分布」を一覧化することによって、かならずしも行政区画に縛られない多様な地域像をデザインする<マップ>として概念化することができる。現代社会では、このような方法で複雑性を縮減し、単層的な<地図>だけでは描きつくせない「(地域)社会」を多層的に表現しうる<マップ>の想像力が必要とされており、それによって人びとの社会認識は補完的に再構築されていくのである。そして、かつては専門化された事業や業務という意味合いの強かった地図づくりという営みは、このような<マップ>という自由度の高い表現様式を通じて民主化され、それはしばしば草の根の市民活動をとおして共同的に制作されるようになっている。こうして<マップ>は人びとの社会的な実践とむすびつくことで、オルタナティブな空間表現としてだけでなく、地域におけるコミュニケーションやネットワークを媒介するメディアとしての可能性を開き、地図の新たな社会性を浮き上がらせているのである。
著者
太郎丸 博
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.52-59, 2010-05-29 (Released:2017-09-22)
被引用文献数
1

本稿では、まず日本では数理社会学が不人気である事実を確認し、その理由を説明する仮説として、リベラル仮説と伝統的公共性仮説を検討する。リベラル仮説によると、社会学者の多くはリベラルであるが、マイノリティの生活世界を描くことを通して、抑圧の実態を告発し、受苦への共感を誘う戦略がしばしばとられる。そのため、社会学者の多くは抽象的で単純化された議論を嫌う。そのことが数理社会学の忌避につながる。伝統的公共性仮説によると、日本の社会学では伝統的公共社会学が主流であるが、伝統的公共性の領域では、厳密だが煩雑な論理よりも、多少曖昧でもわかりやすいストーリーが好まれる。それが数理社会学の忌避につながる。このような数理社会学の忌避の原因はプロ社会学の衰退の原因でもあり、プロ社会学の衰退は、リベラルと伝統的公共社会学の基盤をも掘り崩すものである。それゆえ、数理社会学を中心としたプロ社会学の再生こそ日本の社会学の重要な課題なのである。
著者
野口 雅弘
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-42, 2021 (Released:2022-07-08)
参考文献数
28

日本における官僚制をめぐる言説とその変容を検討することで、「2010年代の政治と権力」の特徴と問題について考察することが、このペイパーの目的である。1990年代の橋本行革以来、内閣機能の強化が図られてきた。公務員および公務員組織をバッシングして、政治的求心力を獲得するというのが、この時代の統治の特徴であった。エリートや既得権に対抗する下からの運動を「ポピュリズム」と呼ぶとすれば、「2010年代の政治と権力」は「官僚叩きポピュリズム」の力学で動いてきたといえる。菅首相は「縦割り」打破といっている。しかし、いま私たちが目にしているのは、不毛な「官庁セクショナリズム」による行政のアナーキーではない。むしろ問題は、首相やその周辺への「権力の偏重」であり、権力の私物化であり、気まぐれな政策(アベノマスク、GoTo)の垂れ流しである。かつて「リベラル」の課題は官僚制の「鉄の檻」(マックス・ウェーバー)に抵抗することだった。しかし今日、「官僚叩きポピュリズム」の結果、国家公務員採用試験の受験者は減り続け、若手官僚の離職も深刻になっている。官僚組織は「鉄の檻」ではなく、メンテナンスが必要な「脆弱な殻」という視点からも考察される必要がある。旧来のテクノクラシー(「官治」)批判の構図で議論を継続することはもはや適切ではない。
著者
伊地知 紀子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.127-136, 2018 (Released:2019-05-11)
参考文献数
15

本シンポジウムのテーマである「歴史経験の語られ方、記憶のされ方」について、済州4・3を事例として報告した。済州4・3をめぐる語りは、語り手である個人、その家族あるいは親戚姻戚が何をしていたのか、どこにいたのか、どのように犠牲となったかといった事件当時だけではなく、事件後にこれらの人びとがどこでどのように暮らしたのかによっても規定される。他二本の報告は、東北大震災(金菱報告)と三池炭鉱報告(松浦報告)であった。各報告と合わせて議論することにより、歴史経験の語られ方、記憶のされ方についての論点として気づいたことがある。それは、歴史経験や記憶を開いていく場をどのように設定するのか、別の表現をとるとすればpublic memoryの時間軸をどう設定するのか、空間をどこまで広げるのか、つまりpublicと形容する時どのような枠組みを前提として論ずるのかということだ。この問いは、ある地域のある時期における歴史経験が、後の生活にいかなる影響を及ぼすのかという視点を複眼的に置くことなくしては深めることが困難なものである。この気づきを踏まえて、済州4・3とはいかなる歴史経験であり、体験者や遺族などがどのように語り、さらに済州4・3から何を語りうるのか、本稿は在日済州島出身者の生活史調査からの試論である。
著者
岡 京子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.8, pp.92-104, 2009-05-23

日本における高齢者介護施設では「全人的介護」という理念の導入、さらに公的介護保険制度開始による市場化の流れによって脱アサイラム化が図られることとなった。新しい介護理念と市場論理という2つの相反する要求の狭間に立たされたケアワーカーの労働は、措置時代の大規模処遇における労働に比べ、大さく変化していることが予測される。今回、高所得者が入居し職員から「VIPユニット」とよばれているユニットケアの場において参与観察を行いA.R.ホックシールドが見出した「感情労働」の観点からケアワーカーの労働を考察した。その結果、利用者の生活においては、かつてみられたようなアサイラム的状況が薄まり、利用者が人として尊重される部分のみならずケアワーカーと利用者のせめぎあいの場面の誕生という側面があるという事実が見出された。そしてケアワーカーの労働においては、利用者個々の自尊心を支え、かつ利用者間の関係を調整するために、またユニットの統制をとるためにも、自己の感情管理と同時に他者の感情管理技能としての「気づかい」が相即的になされている事実が見出された。
著者
酒井 隆史
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.7-15, 2011-06-30 (Released:2017-09-22)

本論では、マーティン・ルーサー・キング、マルコムX、フランツ・ファノン、マハトマ・ガンディーという、いまだ私たちの暴力についての基本的枠組みを形成している20世紀を代表する人々の議論をとりあげ、それのはらみもつ意味について考察を加える。キングやガンディーの非暴力についての考え方から導かれるのは、まず暴力と力を概念的に腑分けすべきことである。現代において、暴力をめぐる議論を混乱させているのは、力そのものを暴力と混同する傾向であり、それによって従来「非暴力」とみなされていた民衆による実力行使すら暴力に分類する支配的動向を支えている。次に、暴力と「敵対性」の概念を区別する必要である。それによって、キングとマルコムXのように対極とみなされていた暴力や非暴力についての議論も、共通の地平と分岐点を明確にできるだろう。最後に、ファノンの提起した「治癒」としての暴力というショッキングなテーゼを検討する。そこから理解されるのは、暴力を肯定するにしても否定するにしても、これらの理論家/実践家に共通する理解は、力の行使が、心身の複雑な相互作用を伴うトータルな現象であるということである。
著者
日合 あかね
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.96-107, 2005-05-28 (Released:2017-09-22)

本稿の目的は、女性の性的自立の可能性について探究を行うことにある。そのために、通常は女性の性的自立と対立するものとされるマゾヒズムを取り上げ、女性のマゾヒズムが性的自立に導きうる可能性を検討する。女性の積極的なマゾヒズムの実践が現状の権力構造を脱構築する可能性を検討し、あわせて、マゾヒズムのより深い理解へ至るよう努める。ジェンダーの文化的偏向によって、男性のそれとは異なり、女性のマゾヒズムは自然本性的なものとされてきた。自然に依拠したこの種の議論は、当然のことながら再吟味されねばならない。しかしまたこのことは、必ずしも女性の性的なマゾヒズムが日常の権力関係を単純に反映していることを意味しない。サドマゾヒズムが権力関係を利用するというように考えると、パット・カリフィアのように、サドマゾヒズムは「権力関係のパロディ」と定義することもできよう。そこで本稿では、パット・カリフィアのこの考え方を、女性のマゾヒズムの十全な理解と現在のジェンダー構造を脱構築する手立てとして取り上げ、そこから女性の性的自立を再定義する方向性を提示することを試みた。これと関連して、ジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」の概念や、男性のマゾヒズムを近代的主体の派生形態と捉えるジョン・K・ノイズの議論をも検討した。
著者
鹿島 あゆこ
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.78-92, 2018 (Released:2019-05-11)
参考文献数
21

サラリーマンという言葉の一般への普及は大正期から昭和初期といわれている。本稿の目的は、この普及に一役買ったといわれる『時事漫画』の検討を通じて、当該時期におけるサラリーマンイメージの形成と展開を明らかにすることである。『時事漫画』から選出した計297の漫画作品を、3つの時期に区分して分析した。その結果、サラリーマンという言葉の下で一定のイメージが共有されるようになっていく過程には、失業と消費という2つの要素が関係していたことが明らかになった。まず大正初期から大正中期にかけて、「サラリーメン」という言葉のもとで、社会状況や雇用主によって生活基盤を左右されやすい被雇用者という側面が焦点化された。それは、当時の日本社会においては相対的に上層の階級とみなされていた「サラリーメン」階層が、乱高下する経済状況によって次第に困窮していく過程で形作られたイメージであった。このイメージを下地にして、大正後期から昭和初期にかけては、主に広告漫画の中で、新しい消費財を消費することでよりよい生活を営む代表的な主体としての「サラリーマン」が描かれた。それは、当事者ではない他者の目線から描いたイメージが、広告という媒体によって自己のイメージに変換されはじめる過程でもあった。こうして、「私的生活においては消費者であり、公的生活においては被雇用者であるサラリーマン」という表現が誕生した。
著者
岡崎 宏樹
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.2, pp.84-97, 2003-05-24

本稿の目的は、「自殺論」でデュルケームが「無限という病」とよんだアノミーの概念を再検討することをとおし、欲望の無限化という<症候>を産み出す社会構造を分析することにある。最初に、欲望の無限化とはどのような生態を意味するのか、という問いを考察する。第一に、それは、主体が産業社会が生産する対象を「永続的」に追求するという行為形式を意味する。第二に、それは、欲望が特定の対象から離脱し不在の対象へと拡散することを意味する。次いで、主体に無限回の欲望追求を強いる機制を考察し、それが「進歩と完全性の道徳」にもとづく産業社会の価値体系にあるとみたデュルケームの洞察に光をあてる。さらに、デュルケームがアノミーを暴力性エネルギーの沸騰として記述した点に注目し、彼が示唆したにすぎなかった、この沸騰と産業社会の価値体系との関係を、バタイユのエネルギー経済論(「普遍経済論」)によって理論的に説明する。最後にラカンの欲望論にもとづいて、アノミーは「倒錯」を導くとする作田啓一の解釈を検討し、この現象の病理としての意味を明確にする。以上の考察は、欲求の無規制状態という通説的なアノミー解釈に再考を迫るとともに、豊かな現代社会にただよう空虚さと突発する暴力性を理解するためのひとつの糸口を与えるものとなるはずである。
著者
平井 太規
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.31-42, 2013-05-18 (Released:2017-09-22)

「第2の人口転換論」は「家族形成の脱標準化」や「社会的背景の変容」をも含意する。単に出生率が人口置換水準以下に低下しているだけでなく、多様な家族形成やその背景に家族観や価値観などの個人主義化が見られる状態を「第2の人口転換」と定義できる。こうした現象が東アジアにおいても生じているかの検証をする必要性が論じられてきたが、これに応えうる研究は少なかった。そこで本稿では、低出生率化している日本・台湾・韓国を対象にNFRJ-S01、TSCS-2006、KGSS-2006のデータを用いて、既婚カップルの出生動向、とりわけ子どもの性別選好の観点から、「家族形成の脱標準化」を検証した。分析対象は、「第2の人口転換」期(とされている年代)が家族形成期に該当する結婚コーホートである。このコーホートとそれ以前の世代の出生動向の持続と変容を分析した。その結果、日本ではバランス型選好から女児選好に移行し、確かに「家族形成の脱標準化」は見られるものの多様化までには至らず、台湾と韓国では男児選好が一貫して持続しており、「家族形成の脱標準化」は生じていないことが明らかになった。したがって東アジアにおいては、ヨーロッパと同様に低出生率化の傾向を確認できても「第2の人口転換論」が提示するような変容は見られない。
著者
平本 毅
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.148-160, 2011-06-30 (Released:2017-09-22)

本稿では、「フリ」により「オチ」が来ることを投射(予測可能に)し、会話の中に「面白さ」を適切に位置づける手続きを、会話分析により記述する。ユーモアに関する研究において、ユーモアはある概念と事象との間の不一致から生じる「ズレ」により生まれると考えられてきた。しかし実際の会話において参与者は、そのような「ズレ」をいつでも任意の位置で形成できるわけではない。参与者は、概念と事象を表す二つの言語的/パラ言語的/非言語的要素を組み合わせることにより、適切に「面白さ」を会話の中に位置づける手続きをふむ必要がある。本稿では、ハーヴェイ・サックス(1992)のいう「第一動詞」が、会話の中に「フリ」と聞かれうる(概念を表す)要素を置くことにより、その後に「オチ」(事象を表す要素)が来ることを投射し、それにより「面白さ」を適切に会話の中に位置づける手続きに用いられうることを主張する。具体的には、第一に「第一動詞」は、会話上の特定の位置に置かれたときにそれを「フリ」として認識可能である。第二に「第一動詞」は、それが含まれる発話ターンが、続く節や文(「オチ」)をもつものであることを投射する。第三に「第一動詞」は、「オチ」の内容を一定程度投射する。加えて「第一動詞」の利用において語り手は、「フリ」の部分で概念の「普通さ」を、「オチ」の部分で事象の「異常さ」を示し、それにより両者の「ズレ」を際立たせていることが論じられる。
著者
入江 由規
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.13, pp.58-70, 2014-05-31

本稿の目的は、なぜ、アニメやゲーム、コミックの舞台を訪れる「聖地巡礼者」が、これまで「変わり者」と見なされることの多かった、アニメやゲーム、コミックを愛好するオタクであるにもかかわらず、それらに必ずしも関心のある訳ではない、作品の舞台となった町の住民や商店主らにとっての「ゲスト」へと変貌を遂げたかを分析することにある。オタクの対人関係は、これまで、趣味や価値観を共有する人とだけ交流する、閉鎖的な人間関係を築くものと捉えられることが多かった。だが、聖地巡礼者は、アニメやゲーム、コミックを愛好するオタクであるにもかかわらず、作品の舞台となった町に住む住民や商店主と交流を図り、時に作品を活かした町おこしを模索する企業人や研究者とも、共同でイベントを開催する関係を築いている。このことは、これまでのオタク研究では捨象されてきた、オタクの新たなコミュニケーションの実態を表していた。上記の目的に基づき、本稿では、アニメ作品の舞台を旅する「アニメ聖地巡礼者」に聞き取り調査を行った。その結果、彼らは、住民への挨拶といった礼儀を大切にし、商店主や企業人、研究者からの依頼を、物質的な見返りを求めることなく、自分たちが好きな作品で町おこしが行われるからという理由で最後までやり遂げることで、住民や商店主、企業人や研究者から信頼を得て、「ゲスト」へと変貌を遂げたことが分かった。
著者
岸 政彦
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.63-78, 2016 (Released:2017-06-20)
参考文献数
11

この論文では、沖縄社会の内部にある様々な亀裂や多様性について考える。社会学では、沖縄は、本土の都市と比べて、共同体規範が極めて強い社会として描かれてきた。沖縄社会は、インフォーマルな横のつながりによって構成される、「共同体社会」であると分析されてきた。しかし、本土の他の地域と同じように、沖縄社会の内部にもまた、多様性があり、たくさんの亀裂が存在している。現在、私を含めて4名の研究者で共同でおこなっている、「沖縄の階層格差と共同体」に関するフィールドワークを概説する。それは、沖縄社会に存在する階層格差を、質的なフィールドワークから詳細に描くことを目的としている。私たち4名によるフィールドワークの概要を述べ、そこから何が導き出せるかを考える。最後に、亀裂や多様性に注目することで共同性概念を相対化したあと、もういちど日本と沖縄との植民地主義的な関係について考えなければならないことを主張する。
著者
阿部 利洋
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.31-44, 2019 (Released:2020-05-29)
参考文献数
17

国際的な文脈におけるアフリカ人プロサッカー選手の活躍により、アフリカ人移民選手に注目するサッカー社会学の研究が増えてきた。こうした先行研究の多くには欧州市場を対象とし、そこにおける移民供出国と受け入れ国の間の経済格差を批判的に検討するアプローチを採用する傾向がみられる。いわば「新植民地的状況のなかで、欧州トップリーグの経済的繁栄のために若年選手が搾取される一方で、アフリカ地域のサッカー水準が停滞する」という認識である。それに対して、本論で取り上げる東南アジア・メコン地域のサッカーリーグでは、アフリカ人選手は独特のイメージと役割を与えられ、近年のサッカーブームが到来する以前からローカルリーグのゲームを支える存在であった。本論では、彼らがどのような環境のなかで、どのようなリスクを負い、どのような戦略をもってプロ生活を続けているのか、そして、それが当該リーグにどのような影響を与えてきたのか、質的データの検討を通じて考察する。結果として見えてくるのは、サッカー新興国であるがゆえに可能な生存戦略の展開と同時に、彼らがリーグを盛り立ててきたことの、いわば意図せざる結果として、新たなライバルを招き寄せるという課題に直面している現状であり、これらは従来の関連研究のなかでは十分に議論されてこなかった知見である点を指摘した。
著者
井上 宏
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.57-68, 2006

大阪とはどんな街なのか、「文化」の側面から考えるとき、「笑いの文化」を抜きにして大阪を論じることはできない。大阪では、漫才や落語、喜劇などの「笑いの芸能文化」が盛んであるばかりでなくて、大阪人の生活のなかに、暮らしの仕方の中に「笑い」が織りこまれている。大阪弁をはじめとして、大阪人の生活態度、価値観、ものの考え方の中に「笑いの文化」が一貫して流れていると言ってよい。大阪は、「サムライ社会」におけるように、「笑い」を軽蔑することなく、むしろ「笑い」を奨励する文化を発達させてきた。その発達の理由は、大阪が江戸時代から一貫して「商人社会」として発展をみてきたことにあると思われる。そこに商人たちのライフスタイル、生活文化が生まれたわけである。まずは大阪人が発達させた大阪弁があげられる。商人は、「交渉する」ことが日常の生業としてあって、大阪弁を使ってそれを円滑に行ってきたわけである。当然のこととして「 口の文化」が発展する。しかも商いは厳しい「競争関係」のなかで行われるので、競争からくる緊張や対立は、笑いによって緩和する必要がある。人と人との距離をできるだけ近くにとっていこうとするとき、笑顔や笑いは欠かせない。洒落やジョーク、笑わせるための方法も発達する。毎日の生活の中に笑いがあり、笑いのある生活文化が発達をみた。大阪人の生活文化と笑いとの関係を追跡した。
著者
福間 良明
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.104-115, 2017 (Released:2018-06-13)
参考文献数
13

本稿では、ポピュラー・カルチャーにおける「戦争の記憶」の「継承」と「断絶」のポリティクスを捉え返すべく、「特攻の町・知覧」が戦跡観光地として成立するプロセスについて、検討する。かつて陸軍特攻基地があった知覧は、交通アクセスの悪さにもかかわらず、特攻隊員の「思い」への感情移入を促す場として、近年ますます多くの観光客を集めている。だが、知覧は戦後の初期から「特攻の町」であったわけではない。さらに言えば、特攻体験は知覧住民の戦争体験ではない。特攻出撃したのは、全国各地から集められた陸軍パイロットであって、知覧の住民ではない。にもかかわらず、なぜそれが「知覧の記憶」として位置づけられ、多くの来訪者の感涙を誘うに至ったのか。こうした事例を考察することは、観光や映画を含む近年のポピュラー文化における「継承」のポリティクスを捉え返すことにもつながるだろう。本稿は「特攻の町・知覧」が創られていくプロセスを概観しながら、「継承」の語りが何を覆い隠してきたのかについて、検討する。そのうえで、これらの力学が戦後ポピュラー・カルチャーのいかなる変容を象徴するものなのかを考察する。
著者
田崎 俊之
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.8, pp.105-119, 2009-05-23

現在、日本酒製造の担い手は季節労働者(杜氏や蔵人)から社員技術者へ転換してきている。本稿では、京都市伏見の日本酒メーカーに勤める酒造技術者へのインタビューを通して、彼らがどのようなつながりのなかで技術の習得や継承を行なっているのかを明らかにし、伝統的な杜氏制度と社員体制との間の連続性と変化について検討する。また、分析に際しては実践コミュニティ概念を手がかりとすることで、フォーマルな組織の枠をこえた技術者仲間のつながりを把捉するよう努めた。社員技術者らは、日本酒メーカーの社員であるとともに、技術者たちが形成する企業横断型の実践コミュニティにも参加している。つまり、日本酒製造の担い手が企業に内部化されても、なお企業の内部では完結しない集合的な酒造技術の習得過程が存在している。他方で、社員技術者らの実践は個人的なつながりを基盤とした相互交流へと深化していた。これは、彼らが勤務先である日本酒メーカーをはじめ、技術者の団体やインフォーマル・グループなど複数の所属性をもつことによる。企業横断型の実践コミュニティは日本酒メーカーが当然求めるべき「企業の利益」と産地内での協調という「共同の利益」の両立にせまられており、社員技術者らは相互交流の複数の位相を用いることでこれを可能にしている。