著者
高橋 善隆
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.A77-A90, 2009-09-15

アメリカ合衆国で最大のマイノリティ集団となったヒスパニックは政治の世界にどのような影響を与えているのか。2008年の大統領選挙ではニューメキシコ、ネバダ、フロリダなど民主党が共和党から奪った多くの州でヒスパニックの動向が重要であったとされている。2004年には必ずしも民主党支持を明確に示さなかったヒスパニックが2008年にはオバマの勝利に貢献したのはなぜなのか。 また人口構成の上でのシェアの拡大ばかりでなく社会的内実や質的変容においてヒスパニックはアメリカ社会にどのような変化を及ぼしているのか。 移民法改正をめぐる政治過程、移民に敵対的なカリフォルニア州の住民提案との対抗関係、西海岸にみられる新たな労働運動の担い手としてのヒスパニックの活動、などの検討を通じてヒスパニックが現代アメリカに与えているインパクトと更なる潜在的可能性について考察してみたい。
著者
村松 加代子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.A37-A50, 2009-03-15

This paper has two aims: one is to examine the significance of the two well-known artist colonies whose central members were Virginia Woolf (1882-1941) and Julia Margaret Cameron(1815-78). Both women are, first and foremost, famous for their innovative ideas in their respective fields of art, namely, literature and photography, and have frequently been referred to in the discussion of "modernism" in art scene.As Julia Margaret's great-niece, Virginia naturally developed an interest in, and an affinity with, her remarkable ancestor though Julia had been dead for four years when Virginia was born. We can see Virginia's affectionate interest in Julia, in the form of her two works,Freshwater: A Comedy with her great-aunt as its heroine, and Victorian Photography of Famous Men and Fair Women by Julia Margaret Cameron which Virginia compiled with Introduction by herself and her art critic friend Roger Fry.The other aim of this paper is to clarify the national identity of the British people by shedding light on "salon culture" (my words) which flourlished through the 18th and 19th centuries and is still found in different contexts of British social scene.世界は、自我が主人公のドラマである。―サンターヤナ強い個性が満ち溢れている時代や地域には、奇人が大勢いる。いま、そうした人間がほとんど見られないのは、われわれの時代が大きな危機を迎えていることを示している。― J. S. ミル
著者
宮崎 圭子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.A93-A104, 2008-03

中高年のグループに「自己理解」をテーマにサイコエデュケーショナル・グループを実施する機会を得た。本研究の目的は、そのサイコエデュケーションの効果を検証することである。さらに、同様のプログラムで、以前実施した大学院生を対象とするサイコエデュケーショナル・グループ(宮崎, 2004a)との効果を比較し、グループ特性の違いがどのようにサイコエデュケーションの効果に影響するか、その異同を論じることが、2つ目の目的である。両グループとも、サイコエデュケーション実施前後に時間イメージ尺度(都筑, 1993)に回答を求めた。この尺度は現在イメージ、過去イメージ、未来イメージから構成されており、各イメージ尺度は20項目から成っているものである。中高年グループでは、現在イメージがサイコエデュケーション実施後において5%水準で有意にポジティブな方に変化した。さらに現在イメージが「楽しい、安定な」(5%水準)方向に変化した。過去イメージでは、「受身的な(5%水準)方に変化が見られた。院生グループでも、現在イメージがサイコエデュケーション実施後において1%水準で有意にポジティブな方に変化した。現在イメージが「楽しい」(1%水準)方に、「すばらしい、魅力のある」(5%水準)方に改善された。未来イメージにおいては、「楽しい」(1%水準)、「すばらし」(5%水準)方に改善された。また、サイコエデュケーション実施前においては、「家族と同居」群の方が「一人住まい」群より、5%水準で有意に現在イメージがポジティブであったことが明らかとなった。同じサイコエデュケーショナル・グループのアプローチをとり、同じワークを行ったにもかかわらず、グループの特性によって時間イメージの変化が規定されることが明らかとなった。今後の課題として、多様なグループに同様のサイコエデュケーショナル・グループを試み、その変化を詳細に検討していくことである。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.99-113, 2006-03-15

両大戦間期のユーゴスラヴィアは四つの時期に区分することができる。(一)国家形態が定まっていない建国直後の時期(一九一八年〜)、(二)中央集権的で県(オブラスト)制度が導入されたヴィドヴダン憲法体制の時期(一九二二年〜)、(三)同じく中央集権的で州(バノヴィナ)制度が導入された国王独裁および欽定憲法の時期(一九二九年〜)、(四)クロアチアに一定の自治権を付与した時期(一九三九年〜)である。県制度は建国以前の歴史的単位を細分化・無力化することを主眼としていたが、その時期には辛うじて維持されてきた歴史的単位の枠組さえも、州制度への移行によって全面的に撤廃されてしまった。これは国家・国民統合の強化を目的とした措置であったが、歴史的単位を基盤とする分権体制を求めてきた諸集団から強い反発を招いて、ほとんど国内政治の安定化に寄与しなかった。とくにクロアチア人の間では早くからさまざまなバリエーションでの国家再編構想が提示され、連邦的再編への要求も強まっていった。それは一九三九年にクロアチア自治州が創設されることで部分的に実現したが、第二次世界大戦の進展により、その成果を検証しえないまま国家そのものが分裂・解体してしまった。本稿では、両大戦間期のユーゴスラヴィアにおける地方制度の変遷と国家再編構想について、とくに主要民族であるセルビア人とクロアチア人の関係に着目しつつ、主としてクロアチア側の視点から分析を試みている。
著者
香山 はるの
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.37-47, 2004-03-15

ディケンズの描く女性はヴィクトリア朝の性をめぐるイデオロギーを強く反映しているとしばしば言われる。たとえば、彼の小説には、当時の社会で理想とされた女性像-清らかで優しく夫を支える「家庭の天使」ともいうべき女性キャラクター-が多く登場する。また、ディケンズの世界ではこうした「家庭の天使」とそのイメージから外れたいわゆる「逸脱した」女との間に明白な境界線がある。そして前者は「善」、後者は「悪」という価値判断が明確に小説の中に描きこまれているのである。こうしたことから、これまで多くの批評家がディケンズの女性キャラクターを一面的、画一的だと批判し、この作家の女性に対する認識の甘さを指摘してきた。しかし、こうしたディケンズの特長は特に初期の作品に顕著であり、中期、後期の作品になると微妙に様相が異なってくる。それは一言で言えば、彼の「逸脱した」女性への関心が高まってきたということであろう。前期の作品では、こうした「規格外」の女たちは、コミカルな効果或いは風刺の目的のために使われる場合が殆どであったが、1850年代あたりからはよりシリアスに扱われるようになる。本稿では特に後期の代表作と言われる Great Expectations を取り上げ、3人の「規格外」の女たちについて考察した。すなわち、押しつけられた「母性」に縛られるミセス・ジョー、男に棄てられ「家庭の天使」になりそこねたミス・ハビシャム、ハビシャムの男性への復讐の道具として使われるエステラである。3人の女は社会の規範に反し、或いは挑戦したために手酷い報いを受けるが、ディケンズは彼女たちの言動の背後に潜む問題に鋭く目を向けている。また、エステラについては苦しみを超えて成長した姿が示唆されていて特に興味深い。彼女は続く Our Mutual Friend のベラと同様、ディケンズの数少ない「成長するヒロイン」である。エステラやベラの内面の葛藤や道徳的覚醒の描写は、晩年のディケンズの女性に対する洞察の深まりを示すものと言えるだろう。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.58, pp.1-22, 2023-03

クロアチアの事例を中心に、旧ユーゴスラヴィア諸国の社会主義期の教科書・教材と現在の教科書・教材において「人民解放闘争」と呼ばれた第二次世界大戦に関連する記念碑や関連施設がどのように取り上げられているのかを比較・分析し、学校教育における戦争記念碑の位置づけの変化とその意義について考察した。社会主義期の教科書・教材では共産党政権の成り立ちと直結する「人民解放闘争」に関連する記念碑や関連施設が数多く取り上げられていたのに対して、現在の教科書・教材ではヤセノヴァツ強制収容所跡に建てられた慰霊碑「石の花」を除けばほとんど取り上げられず,とくにクロアチアでは1990年代の独立戦争、いわゆる「祖国戦争」に関連する記念碑や関連施設が重視されていることが明らかになった。また、2019年に導入されたクロアチアの新たなカリキュラムでは、歴史教科書に「記憶の文化」に関する解説が盛り込まれ、戦争記念碑についても、単なる図版として提示されるだけでなく、より体系的にその来歴や意義を学ぶことが試みられていることを指摘した。
著者
阿部 洋子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.42(2), pp.A73-A86, 2009-03

子どもたちの道徳心は、誰がどのように育成していけばよいのだろうか。家庭での躾、学校での道徳の授業、地域社会での関係性のあり方などが重要であろう。しかし、現代の日本の青少年を取り巻く環境は、道徳心を育成するための場としての機能をどの程度、果たしているだろうか。また具体的にどのような機能が失われてしまったのだろうか。\n Smetana 等(1983)は、道徳・社会的慣習・個人のそれぞれの領域に属すると判断された行為を列挙して貰い、続いてそれらの行為は、規則の有無に関わらず、即ち法律による罰則規定の有無に関わらず、「善い/悪い」と思うかの判断を求めた。その結果、19-20 歳以上になれば、道徳領域に属する行為は、75-100%の範囲で、規則や期待の有無に関わらず(「規則随伴性」と称する)、「善い/悪い」と判断することができるようになる。一方、個人領域に属する行為は、88-100%の範囲で、個人の自由に任せる方がよい(「個人決定権」と称する)と判断されると報告している。また、道徳と類似する概念として、社会的慣習があるが、それらの行為は、道徳領域に属する行為における、規則随伴性と善悪の判断の間に見られる強い関係性は見出せなかった。つまり、Turiel(1983)が述べるように、道徳領域と社会的慣習領域は、異なる行為として認識されていると結論づけている。これまでも予備的調査を実施(阿部;1996、1998、2005)し、現代の日本における道徳構造の特徴を、領域判断、悪さの程度、社会的文脈などから検討してきた。前回の報告(阿部;2007)では、青年期女子を対象としたが、今回は、青年期男女を対象とし、善悪両方の行為について調査を実施し、性差について比較検討を試みた。なお紙数の関係で、今回の結果報告は「悪さ」についてのみを行う。次回は「善さ」についての報告を行う予定である。
著者
阿部 洋子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.44, pp.A111-A128, 2010-03

子どもたちの道徳心は、誰がどのように育成しなければよいのだろうか。家庭での躾、学校での道徳の授業、地域社会での関係性のあり方などが重要であろう。しかし、現代の日本の青少年を取り巻く環境は、道徳心を育成するための場としての機能をどの程度、果たすことができているのだろうか。また具体的にどのような機能が失われていまったのだろうか。\n Smetana 等(1983)は、道徳・社会的慣習・個人のそれぞれの領域に属すると判断された行為を列挙して貰い、続いてそれらの行為は、規則の有無に関わらず、即ち法律による罰則規定の有無に関わらず、「善い/悪い」と思うかの判断を求めた。その結果、19-20 歳以上になれば、道徳領域に属する行為は、75-100% の範囲で、規則や期待の有無に関わらず(「規則随伴性」と称する)、「善い/悪い」と判断することができるようになる。一方、個人領域に属する行為は、88-100% の範囲で、個人の自由に任せる方がよい(「個人決定権」と称する)と判断されると報告している。ところで、道徳と類似する概念として、社会的慣習があるが、それらの行為は、道徳領域に属する行為における、規則随伴性と善悪の判断の間に見られる強い関係性は見出せなかった。つまり、Turiel(1983)が述べるように、道徳領域と社会的慣習領域は、異なる行為として認識されていると結論づけている。\n これまでも予備的調査を実施(阿部;1996, 1998, 2005)し、現代の日本における道徳構造の特徴を、領域判断、悪さの程度、社会的文脈などから検討してきた。2007 年の報告では、青年期女子を対象としたが、今回は、青年期男女を対象とし、善悪両方の行為について調査を実施した。なお紙数の関係で、前回の結果報告(阿部;2009)は「悪さ」についてのみを行った。今回は「善さ」についての報告を行う。
著者
藤崎 康彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LETTERS (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.54, pp.23-43, 2019-03

台湾では今世紀初め、あるいは前世紀末頃から、政府の施策で大気汚染防止を目的に、寺廟での参詣に際し、香を点し金紙を焼く量を減らす「環保祭祀」が行政主導で推進されている。二〇一七年夏には、これに疑念を呈する寺廟のグループが台北で集会をし、SNSでの情報が拡散していたので、多くの参加者を集め、メディアも注目することとなった。日本でもそれが報じられ、筆者も知るところとなった。筆者は台湾の寺廟でシャーマン的な儀礼などを過去において観察していたので、環保祭祀などが寺廟と信者に及ぼす影響に改めて興味を抱いた。本稿は二〇一八年三月と九月に訪台し、寺廟を訪ねて、観察したときの記録に基づき、寺廟での実際の様子を記述したものである。廟での様々な儀礼的実践と、信者の行動についての記述は、本稿の続編に収め、本稿は事実の確認に徹して記述をした。
著者
池上 貞子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.36, pp.A1-A12, 2003-03

本論は,2001年度および2002年度跡見学園女子大学特別研究助成金を受けて,倉石あつ子助教授との共同研究「『女性とモノ』についての考察1,2」を行った成果のひとつである。われわれは上海をはじめとする華南地方の都市での資料収集と,そこでの絹に関連した文化施設の見学,および浙江省の農村での養蚕の現況についての調査などを行なった。養蚕に関する研究と農村の現況報告については倉石論文で扱い,本論では主として製品としての絹と中国近現代文学との関連に視点をあてて論じた。絹はその主な製品が衣類であることから,中国の多くの文学作品でも言及されるところであるが,とくに張愛玲(1920-95)の作品のなかでは,それらが技法上の効果を高めるものとして,多用されている。本論ではまず,彼女の代表作である「金鎖記」1944のなかの,絹の諸様相を描写している箇所を拾い上げ,その意味するところを分析する。また張愛玲は衣服にこだわったことでも知られ,小説での言及はもとより,エッセイでも正面から論じている。とりわけ初期の英文エッセイChinese Life and Fashionsと,大枠はそれに取りながら中国語で論じた「更衣記」は,みごとな中国文化史論になっていて,単なる"恋衣"(Clothes fetishism)を超えている。本論では,その背景にある,張愛玲が香港大学時代に影響を受けた可能性のある許地山(1893-1941)の著述や活動についても考察し,この影響関係から開けてくる張愛玲の中国近現代文学史への位置づけの展望についても論じる。
著者
笹島 雅彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LETTERS (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.55, pp.A75-A92, 2020-03

米中対立は、21世紀型の覇権争いの様相を見せており、長期化する見通しだ。トランプ政権が中国を「現状変更国家」と位置付けたことで、米中の「大国間競争」は、先端科学技術競争の側面が強くなり、大学機関、研究機関など学術界にも及んでいる。トランプ政権と米連邦議会は、米国の大学と中国企業との産学連携や、増加する中国人研究者、留学生にも矛先を向けている。このため、米連邦捜査局(FBI)は、中国への技術流出を担う研究者や大学生の取り締まりを急速に強化している。ただ、行き過ぎた規制強化となると、中国系の優秀な頭脳を遮断することにつながり、大学の競争力、米企業への人材供給にも悪影響を及ぼしかねない。学術界では、開放性と成果の公表が産学連携の原則として認識されており、研究成果が秘密にされることなく、広く公表され、「知の共有」が進むこ とを当然視してきた。そこに、知的交流、人的交流や研究資金への制限が課せられることに戸惑いを隠せない状況だ。こうした現象から、米国の研究機関、大学における中国人研究者、留学生の動向と、その学術交流、人的交流が肯定的評価から否定的評価へと転換しているジレンマについて探っていく。
著者
嶋田 英誠
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.36, pp.17-38, 2003-03

日本における女性教育家の草分けであり,今日の跡見学園の学祖となった跡見花蹊(一八四〇-一九二六)は,その本名を瀧野というが,従来もっぱらその花蹊の号によって知られている。跡見瀧野が花蹊と号したのは,「桃李言わざれども,下自ずから蹊を成す」という中国の古いことわざに基づく。しかし,中国における先秦時代から唐宋に至る間の桃李の語の持つ象徴機能をつぶさに検討すると,教育者としての跡見瀧野が花蹊と号するに当っては,もうひとつ狄仁傑(六三〇-七〇〇)にかかわる故事を見逃し得ない。すなわち狄仁傑が国家に有用の士を推薦した故事から始まって,唐代以降には桃李の語は門人の中から国家に推薦した有為の人材を意味するからである。ここから考えれば,幕末明治の混乱期にあって,跡見花蹊は国家に有用な女性の人材の育成を志したものと推測されるが,この推測が正しければ,当時にあっては真に画期的な女子教育の目標を掲げたものである。
著者
香山 はるの
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.36, pp.35-42, 2003-03

この論文はAnthony Trollopeの後期の作品The American Senatorを'condition-of-England' novelとして読む試みである。アメリカからイギリス見聞にやってきたElias Gotobed(以下Senator)は,好奇心旺盛で見るもの聞くもの全てについて,愚直なまでに正直なコメントをし,しばしば周りの者を苛立たせる。その様子は読者の笑いを誘うが,小説中の彼の役割はそういった喜劇的なものにとどまらない。たとえばSenatorは,国教会や陸軍,選挙区等,イギリスの諸制度に潜む不平等や矛盾を指摘するが,実際彼の見方は間題の核心をつくものが多い。また,彼はイギリス社会の腐敗を階級の問題と結びつけ,貴族の金権支配や上流階級に蔓延るマテリアリズムなどを,痛烈に批判する。Trollopeは究極的には,Senatorの示唆するようなイギリスの社会構造の変革までは考えていないようだが,その内部にある(上に言及したような)様々な間題についてはしばしば,このキャラクターの声を借りて自分の見解を主張している。この小説が出版された当時はSenatorの辛辣なイギリス批判に反感を抱く批評家も多く,評判は概して芳しくなかった。しかし,この小説を今後のイギリスのあるべき姿を探った'condition-of-England' novelとして捉えると,Senatorこそがその要となる人物であることがわかる。Senatorは外国人訪問者という立場から,イギリスの「常識」を外から眺め,(イギリス人自身が気づかない,或いは認めたくない)その非合理性を暴いてみせる。小説の後半,Senatorの講演は中断され,彼は再び'New World'に戻るが,彼の残したメッセージは,ヒロインMary Mastersの幸せな結婚といったコンヴェンショナルなエンディングに完全にかき消されることなく,その余韻を残している。The American Senatorには,それまでアメリカをはじめ,様々な国を旅してきたTrollopeが体得した2つの視点-内なる母国と外から眺めたイギリス-が興味深く交錯し,深いアイロニーを生み出しているのである。
著者
村越 行雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.A57-A74, 2010-09-15

「嘘」という言葉の日常的使用における曖昧性を解明する意味で、最初に話し手側の立場に限定し、その上で11の基準に基づいて分析を実施した。具体的には、非事実性(反事実性)、自己認識性、意図性、欺瞞性、隠蔽性、目的性、悪意性、不利益性、自己保護性、拡張性(連鎖性)キャンセル性(修正・訂正、取り消し・撤回)の11基準である。以上の分析によって、全てが解明されるというわけではない。更なる基準の追加、聞き手側からの視点、1対1の関係以外の1対複数、複数対複数などの分析が必要になってくると言えるからである。ただ、嘘の解明を厳密にすることが果たして必要なのか、むしろ曖昧さにこそその本来の意義があると言えないのか、その他の疑問が当然生じてくるのであり、従って今回の分析は、それ以降に続く分析の第1歩としてではなく、あくまでもこれ自体で完結する分析として位置づけられるものである。更なる展開は、全体的な方向性を見た上でのことになろう。
著者
橋本 聖子 宮岡 佳子 鈴木 眞理 加茂 登志子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = Journal of Atomi University, Faculty of Literature (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.53, pp.265-276, 2018-03

[目的]摂食障害は、拒食、過食など摂食行動の異常を呈する精神疾患である。摂食行動の異常のみならず、肥満恐怖、ボディイメージの障害を生じる。患者は若い女性に多いが、発症には、やせを礼賛するマスメディアの影響が人きい。このような社会文化的要因に、個人のもつ生物学的脆弱性、性格傾向、ストレスフルな環境、家族関係などの要因がからんで発症する。近年、新しいメディアのツールとして、ソーシヤルネットワーキングサービス(social networking service : SNS)が急速に普及している。 SNSでは気軽に他者の写真を見ることができるため、摂食障害を引き起こす誘因のひとつになる可能性がある。そこで本研究では、SNSの使用状況、食行動異常、ボディイメージとの関連について調べることにした。[方法]調査対象は、20~30代の女性摂食障害患者42名(患者群、平均年齢25.3歳)および、一般女子大学生143名(一般群、平均年齢20.4歳)に質問紙調査を行い比較検討した。[結果](1)一般群のほうが患者群よりもSNSを利用する傾向があり、SNSの写真をコーディネートの参考にしていた。一方、患者群のほうがSNSで他人の写真の体型が気になると回答した。(2)自分の体型についてどう認知しているかによって、患者群、一般群それぞれ3群に分けた(「自分が実際よりも太っているという認知が患者または一般群内で高い群(1群)」、「中間群(2群)」、「自分が実際よりも太っているという認知が患者または一般群内で低い群(3群)」)。患者群の「自分が実際よりも太っているという認知が高い群」は、摂食障害の中でもボティイメージの障害が強い群と考えられる。この群は他の患者群よりも、ダイエット(体重を減らすこと)に関心があり、SNSではブログをより使っていた。[考察]ブログは、他のSNSと比較すると長い文章を記載することができる。やせや体型へのこだわりの強い摂食障害患者ほど、食生活やダイエットに関する記事、摂食障害患者の日記や闘病記などを読んでいる可能性が示唆された。