著者
澤村 美幸
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.17-32, 2007-01-01

本稿では,いわゆる〈弟〉を表す伝統的方言の「シャテー(舎弟)」を事例とし,地方の文化,とりわけ社会構造が語の伝播にどのように関わってくるのかを考察した。「シャテー」は京畿地方を中心とした中央語史上では武士階級の位相語として定着するが,近世後期以降,東日本では庶民語化して広範囲に伝播するのに対し,西日本では武士階級の位相語としてとどまり続けるという東西差が生まれてくる。この背景には,社会構造の東西差があり,長子単独相続的傾向の強い東日本の社会構造が,「『イエ』にとっての序列関係」を反映した語を必要としたため,「シャテー」の庶民語化や伝播が起こったと考えられる。この事例から,語の伝播は,中央の文化的威光の高さのみが原動力となって起こるのではなく,地方側の文化にも中央語を受容する必然性が生じた際に起こる場合があることが明らかとなった。
著者
佐藤 志帆子
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, pp.13-28, 2008-04-01

近世末期下級武士とその家族の日常会話における言語実態を知りうる『桑名日記』を対象として、日記の内容や桑名藩の分限帳からわかる人物の属性と関わらせながら「来ル」を意味する尊敬語の使用実態を考察し、近世の武家社会における待遇表現の一端を明らかにした。その結果、『桑名日記』にみられる日常的な会話場面における「来ル」を意味する尊敬語は、御出ナサル・ゴザラシル・ゴザル・来ナサル・来ナルの5形式であることがわかった。そのうち前者の3形式は(ア)相手との社会的関係によって使い分けられる尊敬語といえる。一方、後者の2形式は(イ)相手との社会的関係に関わらず使用される尊敬語といえ、身内や親しい間柄の打ち解けた場面で使用される。また、これらの尊敬語より待遇価値の低い語として基本形来ルがある。この基本形来ルは、上記の5形式が使用される人より下位の人に使用される。
著者
井上 史雄
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.63-78, 2010-10-01

本論文では、いわゆる美化語の「お」の拡大過程について、アンケート調査に基づいて分析する。「お」に場面的使い分けがあるかを知るためのアンケート資料を分析し、性差の大きい語と、場面差・文体差の大きい語があることを確認した。さらに、使用者の世代差・性差と話し相手(上下・親疎)との2要素を組み合わせた散布図を分析することにより、調査語全体を言語変化の連続体としてとらえた。「お」の使用率の低い語から高い語に向けて連続的に分布することを手がかりに、「お」の付く語が増える歴史的過程を、共時態として反映すると見なした。男性が本来の「尊敬語」としての「お」を使い分けるのに対し、女性は身辺の語に「お」を「付けすぎ」として付けはじめ、使用率を徐々に高めて「女性語」として広げ、ついには男性まで抱き込んで、「美化語」として確立する。これは、性差・文体差が再び薄れる過程である。この過程を考えることにより、ある語に「お・ご」が付くのが当たり前になると、二重に(過剰に)付けるという変化も説明できる。以上、「お」の増加について循環的過程を考えた。また変化の途中で変異が増える過程は「レンズモデル」で説明できる。
著者
石崎 博志
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.7, no.4, pp.15-29, 2011-10

本稿は『琉球入學見聞録』「土音」を分析し、ここに表れた琉球語のカ行ア段音とハ行ア段音の音価、カ行イ段音の口蓋化について考察した。その結果、琉球語の発音を示す音訳漢字の使用傾向から、語によってはカ行ア段音が喉音であったこと、ハ行ア段音は一部の語彙を除いて/p-/音を失い、[hua]或いは[Φa]音であり、一部のカとハは[ha]と[hua]([Φa])という違いで音韻的区別が保たれていると結論づけた。またカ行イ段音は、音韻的にはタ行イ段音と未合流だったものの、ガ行イ段音はカ行イ段よりも先んじて口蓋化が発生していた可能性を指摘した。また、音訳漢字の使用状況の混乱などから、琉球語を記した音訳漢字の基礎方言に琉球からの留学生が学んだと思しき南京官話が反映している可能性を論じた。
著者
市村 太郎
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2, pp.1-16, 2014-04-01

「ほんに」は、中世〜近世初頭では、名詞・形容動詞の延長上で述語動詞に前接して連用修飾していたが、近世前期には文意や事柄に対する実感的・発見的強調を表す副詞に転じた用例がみられ、談話標識のような機能を持つに至り、名詞・形容動詞的用法と共に多様な形式で用いられた。その後も副詞として近世を通じて幅広く用いられたが、近世後期には次第に抽象化・固定化が進み、近代初期に衰退傾向に転じた。その一方で、特に江戸語・東京語においては近世末から近代初期にかけて「ほんに」に代わり「ほんとうに」の使用・用法が拡大し、「ほんに」は衰退した。その背景には、〔述語用法の喪失→連用修飾と連体修飾との併存→それぞれの固定化・抽象化→一部を残して衰退傾向〕という「ほん」全体での変遷過程があり、単に副詞としてのみの衰退ではなかった。「ほんとう」類はそれに連動し、名詞・形容動詞用法から徐々に、「ほんに」が辿ったのと同じような過程で拡大したと考えられる。
著者
矢島 正浩
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.16-31, 2010-10-01

上方・大阪語の接続詞的用法ソレナラ・ソレデハ・ソレヤッタラ・ソウシタラがどのような推移を経て今日の併存状況に至るのか、条件表現全体の歴史との比較、江戸・東京語の状況との比較を軸に検討した。その結果、次の二点が判明した。(1)近世中期にソレナラ一色だった段階を経て、ソレヤッタラ・ソウシタラが、条件表現の体系的推移であるタラの拡大と連動して発生・発達をすること。(2)ソレデハは、条件表現体系のありようとは無関係に、江戸・東京語の影響の下で使用され始めること。これらの接続詞的用法の推移には、上方・大阪語が地域語となるに及び、標準性・書きことばと連続する意識が稀薄化したことによって、上方・大阪語としての特性を発揮していく側面((1))と、中央語として勢力を強める江戸・東京語から影響を受ける側に回ったことを示す側面((2))とがうかがえる。その意味で、ソレナラ類の変遷は、上方・大阪語の近世以降の立場の変化を象徴的に表すものと言えるのである。
著者
横山 詔一 真田 治子
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.31-45, 2010-04-01

山形県鶴岡市で進行中の共通語化について,将来の動向を予測する統計モデルとして言語の「生涯習得モデル」を作成し,その妥当性を論じた。このモデルは,「ある地域の言語変化の動態は,地域住民の脳内に生涯にわたって蓄積される言語記憶や言語運用能力の経年変化を反映している」という仮説のもと,「臨界期記憶+調査年効果→共通語化」という図式にしたがって共通語化を説明・予測する。鶴岡市において経年的に約20年間隔で過去3回実施された調査のデータをこのモデルで解析した結果,アクセント共通語化などにおいて予測値と観測値が精度よく一致することが示され,アクセント共通語化の進行速度が次第に加速していった状況などが統計学的に実証された。このモデルの提唱は,言語変化の経年調査データを新たな視座から検討する契機になるものと考えられる。
著者
邊 姫京
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.79-94, 2010-10-01

秋田,東京,大阪,兵庫,熊本の5地域を対象に,10歳代から80歳代の話者を含む音声資料(2006-2007年収録)を用い,無声化の生起要因及び無声化生起率の年齢的変化についての考察を行った。分析の結果から無声化生起率はどの地域も音環境の影響を強く受けていること,無声化生起率と音調との関係については兵庫,大阪でもアクセントよりも音環境の影響が大きいことが確認された。無声化生起率にはほぼ全国的に世代差があることをすでに報告したが(邊姫京2007),本稿では,世代間の断層が秋田では60代と50代の間,熊本と大阪では40代と30代の間にあり,兵庫も40代と30代の間に断層がある可能性があること,しかし東京では明確な年齢的違いはないことが確認できた。また,20年前の資料との比較から同一コーホート(同年出生集団)の無声化生起率は,ほぼ同じであることが明らかになった。
著者
勝又 隆
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.95-80, 2009-07-01

上代における「-ソ-連体形」文においては、「ソ」と述語との間に、格助詞「ヲ」を始めとして、格成分が主語を除いてあまり現れない。この現象について、本稿では以下のような考察を加えた。「ソ」は、述語と隣接または近接することで述部を構成し、述語を「焦点」に含むのが主たる用法である。そして、格成分は「ソ」がよく承接する要素である。それに加え、述語の項が「焦点」から外れる場合には「ソ」と述語との間には現れない。その結果、格成分の出現率が低くなっているものと推測できる。また、主語の出現率の高さは、主語そのものの出現頻度と重要度の問題であると考えられる。
著者
李 芝賢
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.6, no.4, pp.32-46, 2010-10-01

[便]を対象に個別語の使用増加が複数の字音を持つ漢字の字音と意味の関係に与える影響について考察する。現代日本語における[便]はビンが<通信手段>に,ベンが<都合>に集中した用例を持つ。<都合>はビン/ベンに共通するが,ベンに傾いている。このような使用様相は明治期における「郵便」「便利」などの個別語の使用拡大により形成されたと思われる。<たより>に連なる<通信手段>は「郵便」のような「-ビン」構造の語が通信・運輸において使用されたことにより定着する。<都合>は「便利」「不便」「便」のような<都合>に近い語義を持つベンの例の使用拡大によりベンに傾く。
著者
高田 三枝子
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.48-62, 2008-10-01

本研究では日本語の語頭の有声閉鎖音/b,d,g/のVOT(Voice Onset Time)について,全国的に収集された音声資料を分析し,この音響的特徴の全国的な地理的,世代的分布パタンを明らかにするものである。分析の結果,祖父母世代の地理的分布から,北関東を移行地帯として間に挟み,大きく東北と関東以西という東西対立型の分布が見られることを指摘し,さらに関東以西の地域では近畿を中心とした周圏分布が見られることを提案した。すなわち古くは,東北は語頭有声閉鎖音のVOTがプラスの値となる音声すなわち半有声音として発音される地域,関東以西は逆にVOTがマイナスの値となる音声すなわち完全有声音として発音される地域として明確な地域差があったといえる。しかし同時に,世代的分布からこの地理的分布パタンが現在消えつつあることも指摘した。完全有声音が発音されていた地域では,現在全域的にVOTがより大きい値(プラス寄り)の音声に変わりつつあると言える。すなわち日本語の語頭有声閉鎖音は全国的に半有声音に統一される方向の音声変化の過程にあると考えられる。
著者
尾崎 奈津
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.65-79, 2007-01-01
被引用文献数
1

本稿は否定命令文の機能と特異性,さらに命令文と否定の関わりについて記述したものである。従来,叙述の否定文は先に肯定的想定があってはじめて使用されることが知られているが,否定命令文も叙述の文と同様,肯定的な事態,すなわち命令文の対象となる行為が先にあって使用される。そしてその行為の成立する時間および意志性という二つの要因により,文の機能が,事態の実現を要求する《命令》から,〈不満の表明〉・〈当為的判断〉・対象となる行為に対する〈評価〉・〈願望〉に変化する。実例では後者の《命令》以外のもののうち,叙述文的な機能を担う〈不満の表明〉〈当為的判断〉〈評価〉の例が非常に多く出現する。しかもその中で〈評価〉は否定命令文に特有のものである。こうしたことから,否定命令文は肯定命令文に比べて叙述文に傾く傾向が強いといえる。
著者
小林 正行
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.2, no.4, pp.1-16, 2006-10-01

本稿は、「強調」や「例示」の意を表すとされる助詞バシについて、狂言台本における使用実態を明らかにし、その用法の変遷を考察するものである。この調査で以下の事実を明らかにした。・上接語は、名詞を直接上接するものが大半を占める。そのうち、目的格相当は全期通じて用いられ、主格相当は近世中期以降の台本で新たに多用される。デ・ニテを上接するものも近世中期以降多用される。・共起する句末表現は、疑問表現が大勢を占める。禁止表現は謡など定型的な用例に限られ、新しいバシはほぼすべて「ゴザルカ/オリャルカ」という丁寧な疑問表現と共起する。これらの事実から、用法の変遷についての考察を行い、以下の結論を得た。・本来上接語を際立たせる「強調」の働きを持っていたバシは、その代表的な用例の性質から、「例えばこのようなもの」と上接語の同類の集合を想定させる「例示」の働きとして解釈され、さらに、新たに上接語の同類の集合を仮想的に表して、「品位」を持って疑問を表す用法が近世中期以降の台本に見られるようになる。
著者
犬飼 隆
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.1-14, 2008-01-01

木簡をはじめとする出土物に墨や線刻で文字を書いたものがあり、手続きをふめば言語資料になる。それらは、古代の現物がそのまま利用できる点に価値がある。また、日々の文書行政の場で使い捨てを前提にして書かれたので、日常の言語使用が反映している点にも価値がある。出土物を言語資料として活用することによって、記紀万葉の類からとは異なる知見を得ることができ、今後、八世紀以前の日本語の全体像が塗り替えられるであろう。九世紀以降との連続・不連続も一層精密に解明されるであろう。より良質な資料を得て適切にとりあつかうためには、歴史学・考古学との学際を深める必要がある。また、朝鮮半島の出土物との比較が、研究の深化と精密化と発展をもたらす。
著者
松本 光隆
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.79-64, 2009-07-01

本稿は、院政期末から鎌倉時代初頭に仁和寺を中心として、多くの撰述書を今に残し、文化的な活動が著しかった守覚法親王の著作の内、随心院蔵野決鈔を主たる資料として取り上げて論じたものである。野決鈔は、醍醐寺勝賢との諸尊法に関する問答を記した資料で、当時の他の現存資料からは、一般的であるとは思えない漢字・片仮名・平仮名・万葉仮名交じり文で書記された文章を持つ。勝賢の「答」の言語を視野に入れつつ、主として守覚の「問」を対象に、野決鈔に書記された日本語の特性を検討した。検討の結果、守覚の「問」の文章は、厳密には書記言語ではあるが、守覚の意識としては、自身の口頭語を記したと認められる資料で、そのために採用した表記体であったと考えられる。言語の内実も、当時の口頭語を書記した資料と見て矛盾がなく、当時の口頭語の範疇の再検討、個々人による言語体系差など、極めて重要な課題を提供する資料であることが判明した。
著者
カイザー シュテファン
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.31-47, 2008-01-01

後世の評価がかんばしくないシーボルトの日本語記述書Epitome Linguae Japonicaeをとりあげ、先行史上の位置付けを試みる。シーボルトが自らリストしている参照文献との関連を検討すると、シーボルトの記述に影響を及ぼしたものとして確認できるのはツンベルグの旅行記の仏訳本のみであることが判明した。ただ、日本語のローマ字転写法ではケンペルの著作物の影響が見られることも両者の比較により判明する。シーボルトはケンペルの方法を踏襲しながらも改善・整理し、より体系的なシステムにした。ツンベルグの日本語記述と比較すると、シーボルトはツンベルグを引用しながらも誤りや誤植などを修正し、記述内容をデータにもとづき修正しているだけでなく、ツンベルグより体系的に日本語を記述している。くわえて、ツンベルグにはみられない、言語学的なとらえ方も見られ、「先人の研究より進んでいない」という後世の評価は不当であることを示した。
著者
山下 真里
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.9, no.4, pp.33-48, 2013-10-01

「銭」の異体字「[セン]」について,字体の出現・衰退時期と盛衰要因を考察した。字体の出現・衰退時期を手書き文書によって調査した結果,「[セン]」は明治5, 6年頃から出現し,昭和20年代後半以降に衰退することが明らかになった。このような「[セン]」の盛衰は貨幣制度の変化及び物価の上昇に伴う「銭」の使用頻度の変化によって引き起こされたものである。「銭」は明治4年に貨幣単位に採用されると使用頻度が増加したが,物価の上昇によって次第に使用頻度は減少し,昭和28年に金銭単位「銭」が廃止されると頻度の減少は決定的なものとなった。このような「銭」の頻度から見た盛衰時期と,文書調査結果における「[セン]」字の盛衰時期はほぼ一致することから,「[セン]」字の盛衰要因の一つに貨幣制度の変化及び物価の上昇があると考えられる。
著者
栗田 岳
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.16-31, 2011-01-01

連体形終止、及び、連体形+ヨの終止には、述語にム・ラム・ケム(=ム系)を持ちつつ、推量・意志の文とは解しがたい例を見るが、それらは、以下の2類に区分される。・I類言語主体の推量・意志の作用とは関わりなく構成される未来事態を表すもの。・II類言語主体にとって、本来在るはずの姿とは齟齬する既実現の事態を表すもの。I類に表される未来事態とは、言語主体に思い描かれることによってのみ存在する事態である。一方、II類の言語主体は、本来在るはずの姿と齪齬する事態に惑い、改めてその存在を思い描くものと考えられる。以上より、これらI類・II類のム系は「事態が現実世界に存在することを思い描く」作用(=「設想」)を担う形式であると結論する。
著者
井上 史雄
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.17-32, 2009-07-01

本稿の目的は三つある。一つは(第1節)、方言の地域差と年齢差を同時に知るための便利な技法としてのグロットグラムの理論的位置づけである。そのために、言語地理学における時間が「非実時間」であり、年齢差の示す「見かけの時間」、過去の調査や文献資料の示す「実時間」と性格が異なることを論じる。もう一つは(第2、3節)、方言現象が地理的に広がる速さについての資料提示である。山形県庄内地方のキンカからガンポへの変化について、過去の方言集二つと方言地図を対比し、かつグロットグラムの年齢差を照合して、伝播の年速を推定する。最後は(第4節)、日本語の方言・共通語の地理的伝播を説明できる雨傘モデルの増補である。従来の雨傘モデルは現代の共通語化と新方言の説明のために作ったものだが、さらに過去の京都からの伝播も考慮に入れて、拡充する。本稿はまた、「言語年齢学」という発想のための一道程でもある。