著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.49-68, 2019-03-25

明治中期に設立された北海道協会について、これまでの研究では北海道拓殖事業における後援団体、拓殖専門の政策団体、あるいは貴族院議員らの利益代表団体といったように、論者によって評価が分かれている。北海道協会の活動が政治、経済、拓殖事業、移民奨励事業、出版事業、あるいはアイヌ保護活動といったように広範囲に及んでおり、先行研究はその一側面を対象とし、局所的に評価したものが多数を占めている。これは基本的な協会の性格と組織構造が提示されていないことが原因といえる。 本論では明治中後期を対象とし、北海道協会の基礎的な組織や人的構成、活動内容とその経過を検討する。そのうえで協会の外郭団体としての多面的な性格を提示する。検討にあたり、協会を主導した近衛篤麿、行政側から協会を支えた北垣国道をキーパーソンとし、協会の成立からその盛衰を射程とした。その際、「内務省(中央官庁)― 北海道庁(地方官庁)― 北海道協会(民間)」という「官民調和」の政治構造に焦点をあてる。協会の成立により、民間レベルでの利害を行政に意見することが出来、一方、貴衆両院議員や官吏など、公的な地位を有する者が協会員となることで、行政機構の内外に渡る活動が展開できた点を解明した。また帝国主義下での人種競争という概念のもと、協会が行ったアイヌに対する活動も検討対象とした。こうした北海道協会の基礎的な性格を提示することは、それ以後に続いた植民地経営における外郭団体の祖型を考究することに結びつく。
著者
宮野 裕
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.2, pp.81-100, 2009-03

This paper translates and provides commentary on the "Church" Statute of Prince Jaroslav (d.1054). This Statute was originally drafted in the 11th century, but it was considerably revised in each Russian eparchy up to the 18th century, and served as the judicial basis of Russian society. Moreover, the Statute defines the jurisdiction of the church and prescribes punitive measures against wrongdoings that would be referred to the church. Although a large number of studies have been made of the textlogical and chronological investigation of the Statute since the 19th century, there was little consensus. For example, N. Karamzin (1842) asserted that the Statute was drafted in the 14th century, that is, it was not the work of Jaroslav. But in 1972, J.N. Shchapov finally provided detailed evidence of when and how the Statute was drafted. He recognized the Statute as authentic, compiled by Jaroslav, and dating from 11th century. His thesis on the Statute is widely accepted. But this paper criticizes his idea of the "historical" relations between the short and long versions of the Statute. The paper also provides translations of both versions.
著者
Tsumagari Toshiro
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-21, 2009-03-31

The present paper is intended as a grammatical sketch of Solon, a Tungusic language spoken in northern Inner Mongolia, China. The first section is a brief introduction including an explanation for dialects and previous literatures. The second section is devoted to phonology and the third to morphological description. In the fourth section, various types of noun phrase and sentence structure are illustrated. Finally,issues of lexical borrowing are briefly touched upon. Though the present sketch is far from a full grammatical description, it might be of some use for those who wish to get some general idea of this minority language. The first version of this sketch was contributed to a chapter of the Tungusic volume of grammatical description series. For some reason the volume has not appeared for several years, so that I will publish my chapter (with minor revisions) separately here with the permission of the volume editor Alexander Vovin.
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.19-47, 2019-03-25

本論は、日本領時代の樺太における郷土研究について、島内で発行された新聞・雑誌から、その形成と展開を考察したものである。 日本領樺太には大正期にパルプ・製紙工業が進出し、水産業に代わる基幹産業へと成長する。工場を中心とした市街地が拡大し、また、原材料を供給する林業により冬期間の労働が生まれたことで、移住民の定住を促進させた。 昭和期に入ると、内地での郷土研究・郷土教育の影響を受け、移住地であるこの地域を「郷土」として研究する取り組みが現れる。1930年に結成された樺太郷土会には、教職員、樺太庁の役人、新聞記者など、幅広い人脈が広がっている。その研究分野も、歴史、民族学、自然科学など樺太における様々な事象を対象にしており、研究成果は新聞や出版物で発表された。また、史跡保存、博物館の資料収集、図書館設立も企画し、樺太庁への運動も行っている。 樺太郷土会結成の契機には、樺太の有力紙『樺太日日新聞』の主筆菱沼右一による主導的役割があり、同紙は活動の広報媒体にもなっている。また樺太郷土会が活動した時期に、政府や樺太庁では、樺太を内地に編入し、自立した地方行政への転換が計画されたことも、住民の郷土意識が求められた背景に影響していると思われる。 会の活動は1932年にはなくなるが、参加した研究者は、個人や別の団体を結成し、研究活動を続ける。1930年に樺太郷土会により始められた様々な活動は、その後も公的な文化事業や個人の研究活動に影響している。
著者
相庭 達也
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-17, 2019

本稿は、西南戦争へ従軍し、出征から帰道までの期間に「戦闘」「病気」「事故」で亡くなった屯田兵の慰霊について、その実態と特性について考察したものである。 その数は37名に及ぶが、戦闘死とされる者8名の内3名は「溺死」であった。病死とされる者は28名で、ほとんどが「コレラ」によるものであった。出征当日に同郷出身の兵士によって殺害された者が1名いたが、それを開拓使は「横死」と位置づけた。 それぞれの「慰霊」について、当時病死者は合祀対象ではなかった東京招魂社に対して、開拓使は溺死者を戦闘死とし、病死者を合祀対象にとする意向があった。一方現地(札幌)に「屯田兵招魂碑」の建立を計画し、その碑文には横死者1名を含めた37名全員の戦没者を記した。それが札幌護国神社の特性を生むことになった。 上記の慰霊に対する開拓使の意向は、陸軍とは異なる屯田兵の特殊性によるものであった。そして、その最も重要なポイントは、屯田兵は1兵士であると同時に「戸主」であった点にある。したがって、屯田兵士の死は戸主の死であり、屯田兵が一方で担う北海道開拓に大きな支障を来すものであったのである。 戦没した屯田兵士の慰霊とは、その名誉を顕彰することだけでなく、遺族への保護といった観点が含まれており、緒についたばかりの北海道開拓を確実に進めるためのものであったのである。
著者
山田 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.3, pp.59-75, 2010-03

本稿は、サハリンの先住民族ウイルタをめぐる言語接触についての予備的考察をとおして、この地域の歴史研究における言語学的アプローチの意義と可能性を提示することを目的とするものである。ウイルタ語は、ツングース諸語の一つとして系統的にはアムール川下流域に分布する言語に近いとされているが、少なくとも300年の間サハリン島北部から中部の地域で話され、系統の異なるニヴフ語やアイヌ語と接触してきた。19世紀以降の民族誌によれば、ウイルタの北のグループとニヴフが隣接し、20世紀初頭には両者が互いの言語を習得した。一方、ウイルタの南のグループは民族間の共通語としてアイヌ語を習得したと推測される。このように、ウイルタ・ニヴフ・アイヌとの間では、複雑な多言語社会が形成されたと見られるが、その実態と相互影響は必ずしも明らかではない。19世紀半ば、沿海地方からサハリン北部に少数のエヴェンキが移住した。彼らがトナカイ飼育という共通の生業を持っていたこと、および彼らの文化的な先進性を背景として、二つの民族は急速に接近した。その結果、エヴェンキ語は短期間でウイルタ語に影響を及ぼした。その影響は、今日のウイルタ語北方言についてすでに指摘されている。20世紀に入り、ウイルタの北のグループはソ連の、南のグループは日本の支配下に置かれた。それぞれで民族同化政策が本格化し、言語教育によって北でロシア語、南で日本語の習得が進んだ。そして戦後、両方のグループで急速にロシア化が進んだ結果、日常の使用言語をウイルタ語からロシア語に置き換える言語交替が本格化し、今日に至ってはウイルタ語を話せる人がごくわずかしか残っていない。以上に挙げた諸言語の影響をウイルタ語のなかに見出すことにより、これらの言語ないし民族の相互関係の歴史にアプローチすることが可能となる。その際、北と南に分かれるウイルタの方言差を意識することが重要と考えられる。そのためには、今日話されるウイルタ語の特徴をできる限り記述し、近隣の言語との比較研究へと応用していくことが期待される。
著者
風間 伸次郎
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.83-101, 2013-03-31

Emotional adjectives cannot be used with the 3rd person subject in Japanese. This phenomenon is called as “person restriction”. The aims of this paper are as follows: (1) To contrast the emotional expressions in several languages from the viewpoint of person restriction. (2) To reconsider the reason for the person restriction. The result of elicitation is as follows: Table 1: The restriction in person and related features in some Altaic-type languages / Japanese Korean Nanai Mongolian Kirghiz Turkish / Person restriction (Adj) ○ ○ × ○ × ○ / Person restriction (V) ○ ○ × ○ × ○ / Ambiguity ○ ○ × × × × / Use as exclamations ○ △ ○ × △ △ / The conclusions of this paper are as follows: [1] The person restriction cannot be thought as any areal feature nor genealogic feature. And from the typological viewpoint, the appearance of the person restriction is not consistent in the languages of the similar type (in this case, Altaic-type). [2] The emotional predicates implicate some judgement of the speaker (i.e. 1st person). Therefore a kind of evidential markers is necessary to use an emotional predicate with a 3rd person subject. [3] The person restriction is observed not only in the emotional adjectives but also in the emotional verbs. Therefore the relation between the difference in word classes and the person restriction is not acceptable. [4] The ambiguous expressions of the emotional predicates (such as ‘kowai hito’ in Japanese) are not observed consistently in the languages which has the person restriction. [5] The emotional predicates are used frequently in the exclamational sentences in Japanese, but in the other languages not used so frequently as in Japanese.
著者
BYAMBAJAV Dalaibuyan
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.13-32, 2012-03-31

2005 年,モンゴルのアルハンガイ県ツェンヘル郡において,牧畜民による金鉱山開発計 画反対運動が発生した。そこでは,採掘予定地域の牧畜民が3 カ月にわたり道路封鎖などの 抗議を行った。この抗議行動は,モンゴルで1990 年代に始まった急速な金鉱山開発によっ て引き起こされた環境問題や土地などの生活資源の収奪をめぐる反対運動の事例である。本 稿は社会運動論を用いてこの反対運動の動員力の展開要因を考察した。主な知見は次のとお りである。①地域牧畜民と都市部の市民組織が連携して行ったその反対運動の発生と動員に は,都市部を拠点とする「同郷会」という組織が大きな役割を果たした。同会は,同郡内で の反対運動に対する行政や鉱山開発会社による阻止・妨害行為を乗り越える重要な基盤とな った。②牧畜民動員のため,インフォーマルな「牧畜民協力グループ」や,社会主義時代に 用いられた「行動記録簿」などの社会・文化資源の利用が有効であった。
著者
クズネツォフ セルゲイ・イリッチ 兎内 勇津流
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.155-165, 2019-03-25

この論文では、1945-1947年のモンゴルにおける日本人抑留の原因と結果について検討する。史料と文献について概観し、モンゴルにおける収容所の地理的配置と、モンゴル経済におけるその労働力の使用について示す。抑留者の死亡率とモンゴル人民共和国領内の埋葬地、祖国への帰国についてのデータを挙げる。モンゴルにおける日本人抑留者に関する歴史的記憶の保持についての資料が含まれる。
著者
宮野 裕
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.81-100, 2009-03-31

This paper translates and provides commentary on the "Church" Statute of Prince Jaroslav (d.1054). This Statute was originally drafted in the 11th century, but it was considerably revised in each Russian eparchy up to the 18th century, and served as the judicial basis of Russian society. Moreover, the Statute defines the jurisdiction of the church and prescribes punitive measures against wrongdoings that would be referred to the church. Although a large number of studies have been made of the textlogical and chronological investigation of the Statute since the 19th century, there was little consensus. For example, N. Karamzin (1842) asserted that the Statute was drafted in the 14th century, that is, it was not the work of Jaroslav. But in 1972, J.N. Shchapov finally provided detailed evidence of when and how the Statute was drafted. He recognized the Statute as authentic, compiled by Jaroslav, and dating from 11th century. His thesis on the Statute is widely accepted. But this paper criticizes his idea of the "historical" relations between the short and long versions of the Statute. The paper also provides translations of both versions.
著者
北山 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.69-87, 2019-03-25

本稿は、建国神話が国民形成と国家推進にもたらす影響力に注目し、朝鮮総督府統治下における朝鮮と日本の建国神話の位相について考察する。植民地朝鮮で起きた「檀君論争」では、日本人研究者による圧倒的な檀君否定が支配的であり、その根底には、多様な神話群を認めない記紀の排他的な「一国一神話化」の論理があった。明治政府が天皇制の精神的支柱とした記紀は、その成立過程において、「一国一神話化」の淵源ともいえる「神話の淪滅」を行う。具体的には、記紀以外の神話が、天皇家の都合に合わせて取り込まれ、改変吸収され、抹殺されて記紀神話が成立した。長く続いた武家社会において、記紀の大衆的な認知度は低かったが、明治時代になると、天皇制とともに日本神話=記紀という「一国一神話化」が徹底される。その影響は当然のことながら植民地朝鮮にもおよび、歴史を四千年以上も遡る檀君神話は、朝鮮史編修会の御用学者らによって徹底的に批判された。朝鮮史編修会が編纂した『朝鮮史』に、檀君朝鮮の条はない。日本人研究者らの強引な「一国一神話化」の背景には、記紀しか認めない絶対的な排他性はもちろん、朴殷植や申采浩らが民族主義運動の精神的支柱に檀君を据えたことも要因となっている。彼らや、『三国遺事』の再発見により檀君復権をめざした崔南善、檀君神話の重用に懐疑的だった白南雲や金台俊らの檀君言説からは、立場の違いはあっても、朝鮮民族としての自負心や長い歴史への誇りがにじむ。日本人研究者と朝鮮人研究者の議論は、国民国家と建国神話の不可分性という点において、実は同質的であり、日本がもたらした「一国一神話化」の衝撃は、そのまま朝鮮民族が主体となる「一国一神話化」の希求へとつながった。
著者
木村 由美
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.43-71, 2018-03-31

本稿では国立公文書館所蔵『引揚者在外事実調査票』を基本資料とし、戦後、樺太深海村から北海道への引揚げについて分析した。これにより、樺太南部の漁村である深海村から北海道への引揚げについて実態を明らかにし、「樺太-北海道の上陸地-最初の住所-昭和31(1956)年現在の住所」と長いスパンで引揚者の動向を分析し、職業等と関連付けて定着地への軌跡を検証した。深海村では樺太全体と比べて「公式引揚」以前の、「緊急疎開」と「脱出」で引揚げた者の割合が高かった。また引揚出発港が、「公式引揚」で使用された真岡ではなく、大泊が最多であったことも特徴といえる。北海道では引揚げの最初の上陸地である稚内、函館、枝幸に定着した者が多く、また炭鉱都市へ定着した者も多かった。引揚げから昭和31年までの間に、6割以上の世帯が転居をしていることも明らかとなった。引揚後は漁業から、農業、炭鉱、日雇、公務員への転職が見られ、無職となった者もあった。深海村の公務員の引揚げについては、個別の事例を挙げて明らかにした。公務員は優先的に「再就職」されるよう考慮されたが、全員が「再就職」できたわけではなく、郵便局員と教員は同じ職に「再就職」したが、役場吏員の「再就職」は1名だけであった。学校は、教員の「再就職」先としてだけでなく、「小使」や「学校事務員」として転職した者もみられ、引揚者の受入先としても大きな役割を果たした。