著者
樋浦 郷子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.219, pp.1-20, 2020-03

本稿は植民地期台湾の一地域にとって「御真影」がいかなる役割を担ったのかということを,学校沿革誌,郡誌,当該時期の戸口統計等の資料を手がかりに検討したものである。第一に,台湾における御真影は,朝鮮への下付と異なり,戦闘状況下の日本軍の展開に合わせて開始された。1920年代以降学校への下付は中等教育機関から広まりだしたものの,公学校(台湾人初等教育機関)へはほとんど下付されなかった。第二に,新化尋常小学校は,「御真影奉護」の人員確保を考えれば,教員数の減少は避けねばならかったが,1930年代には新化街の日本人人口が減少していた。学級編成および教員の数を確保できたのは,台湾人児童の尋常小学校在籍数に支えられたことが推定される。第三に,新化尋常小学校への御真影下付が同校だけにとどまらず,新化公学校と農業補習学校児童生徒に対する一定の役割も担った。その人数を見れば天皇・皇后写真による「教育」の対象は台湾人児童が圧倒的多数である。御真影を下付されていない学校の児童生徒に対して,「紀元節」「四方拝」(一月一日)などの学校儀式のあと尋常小学校まで移動して拝礼を実施する,奉護燈設置の寄付金を拠出させるなどの要求がなされた。一方では学校として御真影下付校に選ばれないという構造的な劣位への配置と同時に,他方で天皇崇敬教育のために御真影およびその奉護設備を利用した「教育」には巻き込まれたことを具体的な事象をもって示した。From the late 19th century to the almost first half of 20th century, Japan's schools are known that they received Emperor and Empress's official photos from the Ministry of Imperial House. The photos that called Goshin'ei were very strictly and carefully reserved, supervised by school staffs and made full use of for the school rituals. But recent research is making it clear that prudent and deliberate observation in accordance with the actual situation in those days are needed before settling into short paradigm like "Tennōsei [Emperor System] Ideology".Based on understanding described above, this paper examined the social and educational role of the Japanese Emperor's photos in colonized Taiwan through making use of school official documents, the materials in local office and population statistics in those days.Taiwanese schools in Xinhua haven't been selected as the school that could receive the Emperor's photo, on the one hand. Taiwanese children were, however, involved in "education" by Goshin'ei , on the other. The reason for this is firstly because Taiwanese common school are placed next to the Japanese school and secondly because Xinhua normal elementary school, which had been established for children of Japanese residents in Xinhua area, received the photos.This kind of intricate social structure cannot always be applied for all Taiwanese schools. However, the case in Xinhua shows one characteristic conformation in colonial education.
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.203-236, 2013-03

本稿は,近年の戦後民俗学の認識論批判を受けて,柳田國男が構想していた民俗学の基本であっ た民俗の変遷論への再注目から,柳田の提唱した比較研究法の活用の実践例を提出するものであ る。第一に,戦後の民俗学が民俗の変遷論を無視した点で柳田が構想した民俗学とは別の硬直化し たものとなったという岩本通弥の指摘の要点を再確認するとともに,第二に,岩本と福田アジオと の論争点の一つでもあった両墓制の分布をめぐる問題を明確化した。第三に,岩本が柳田の民俗の 変遷論への論及にとどまり,肝心の比較研究法の実践例を示すまでには至っていなかったのに対し て,本稿ではその柳田の比較研究法の実践例を,盆行事を例として具体的に提示し柳田の視点と方 法の有効性について論じた。その要点は以下のとおりである。(1)日本列島の広がりの上からみる と,先祖・新仏・餓鬼仏の三種類の霊魂の性格とそれらをまつる場所とを屋内外に明確に区別して まつるタイプ(第3 類型)が列島中央部の近畿地方に顕著にみられる,それらを区別しないで屋外 の棚などでまつるタイプ(第2 類型)が中国,四国,それに東海,関東などの中間地帯に多い,また, 区別せずにしかも墓地に行ってそこに棚を設けたり飲食するなどして死者や先祖の霊魂との交流を 行なうことを特徴とするタイプ(第1 類型)が東北,九州などの外縁部にみられる,という傾向性 を指摘できる。(2)第1 類型の習俗は,現代の民俗の分布の上からも古代の文献記録の情報からも, 古代の8 世紀から9 世紀の日本では各地に広くみられたことが推定できる。(3)第3 類型の習俗は, その後の京都を中心とする摂関貴族の觸穢思想の影響など霊魂観念の変遷と展開の結果生まれてき た新たな習俗と考えられる。(4)第3 類型と第2 類型の分布上の事実から,第3 類型の習俗に先行 して生じていたのが第2 類型の習俗であったと推定できる。(5)このように民俗情報を歴史情報と して読み解くための方法論の研磨によって,文献だけでは明らかにできない微細な生活文化の立体 的な変遷史を明らかにしていける可能性がある。
著者
中塚 武
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.9-26, 2016-12-15

日本を含む東アジアでは,近年,樹木年輪幅の広域データベースや樹木年輪セルロースの酸素同位体比,或いは古日記の天候記録や古文書の気象災害記録などを広く用いて,過去2,000 年以上に亘って気温や降水量の変動を年単位で解明する,古気候復元の取り組みが進められている。その最新のデータ群を歴史史料や考古資料と詳細に比較することで,冷害や水害,干害といった気候災害に対して,過去の人々がどのように対応できたか(できなかったか)を,時代・地域ごとに詳細に明らかにできる可能性がある。近世・中世・古代のそれぞれの時代における,これまでの気温や降水量の復元結果からは,数十年の周期で夏の気温や降水量が大きく変動した際に,大きな飢饉や戦乱などが集中的に発生していたことが明らかとなってきた。このことは,地震や津波による災害を含めて数十年以上の間隔をおいて同じ種類の災害が再発する際に,つまり数十年間平穏な時期が続いた後に災害が起きる際に,社会の対応能力が低くなるという普遍的なメカニズムの存在を示唆する。本論ではさらに,古代から近世に至る歴史の時間・空間座標の中から,数十年以上の時間間隔をおいて大きく気候が変動した無数の事例を抽出して,気候災害の再発に際して社会の中のどのような要因が災害の被害を増幅(縮小)させたのかについて,普遍的に明らかにするための統計学的な研究の枠組みについて提案した。こうしたアプローチは,「高分解能古気候データからスタートする歴史研究」において初めて可能になる方法論であり,伝統的な歴史学・考古学の方法論を補強できる,新しい歴史研究の可能性を拓くものになるかもしれない。災害への社会の対応力を規定する要因が何であるのかは,現時点では結論は下せないが,中世や近世の事例は,特に「流通経済と地域社会の関係のあり方」が飢饉や戦乱の有無に深く影響することを示唆しており,関連するデータの収集が急がれる。
著者
大久保 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.65-84, 2016-12

安政2年10月2日に関東南部を襲った大地震は,江戸の下町を中心に甚大な被害を与えることとなった。この安政の江戸大地震に関しては,地震の被災状況を簡略な絵図と文字情報で周知した瓦版類,地震の被害や被災者の逸話などをまとめた冊子,地震の原因であると信じられていた地中の大鯰をテーマとした一種の戯画・諷刺画である鯰絵など,多様な出版物が売り出された。これらは災害史や民俗学の分野で注目を集めつつあるが,一部に精細な被災の光景を描く図を含みながらも,絵画史の領域での検討はかならずしも十分ではなかった。本稿では,安政江戸地震を機に盛んとなった出版物における災害表象を,主に風景表現の視点から検討する。安政の大地震に関する一枚刷には,従来の瓦版などの簡素な印刷物とはことなる,高度な木版多色摺の技術を用いた臨場感豊かなものが散見され,たんに災害を速報するという以上の機能が期待されている。それらに見られる被災の表現は名所図会の挿絵の視点や造本趣向を応用した『安政見聞誌』でひとつの頂点を見せ,その工夫は『安政見聞録』『安政風聞集』などにも踏襲されている。安政の大地震における災害絵図出版の盛行により,点数こそ多くはないものの錦絵の出版にも災害図の一領域が生み出されることになり,明治期には地震や火山の噴火,大火災などをテーマとした作品が出版され,やがて関東大震災の絵葉書などにもつながってゆく。The great earthquake that hit the southern Kantō region on the second day of the tenth month of Ansei 2 (1855) caused immense damage, especially in the downtown of Edo. This Great Earthquake of the Ansei Era was featured in various publications, such as newssheets describing the impact of the disaster with simple illustrations and texts, booklets containing the accounts of the aftermath and the narratives of victims of the calamity, and cartoons and caricatures depicting the giant catfish which was allegedly living under the ground and to which the catastrophe was attributed (the drawings were known as "Namazu-e"). These historical sources are attracting increasing attention from folklorists and historians who study disasters. In contrast, despite including fine drawings and paintings of the scene of the catastrophe, these historical materials have not been fully analyzed by art historians. Therefore, this paper examines the depiction of disasters in prints, especially in landscapes, which were increasingly produced after the Great Earthquake of the Ansei Era.The single-sheet prints illustrating the Great Earthquake of the Ansei Era seem to have assumed a more important role than merely reporting the disaster situation as many of them were produced using the sophisticated technique of multicolor woodblock printing to add a sense of reality that could not be provided in simple prints such as conventional newssheets.The expression of disaster situations in these prints reached a peak with the publication of Ansei Kenmonshi (A Chronicle of Events of the Ansei Era), which used the same illustration perspectives and bookmaking techniques as meisho zue (illustrated topographies). These devices and techniques are also observed in contemporary publications such as Ansei Kenmonroku (A Record of Events of the Ansei Era) and Ansei Fūbunshū (A Collection of Reports of Events of the Ansei Era).The popularity of disaster paintings after the Great Earthquake of the Ansei Era led to the emergence of the genre of disaster paintings in Nishiki-e prints, though the number of such paintings remained small. In the Meiji period, drawings and paintings of earthquakes, volcanic eruptions, conflagrations, and other catastrophes were published, which led to the production of picture postcards of the Great Kantō Earthquake.一部非公開情報あり
著者
大久保 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.65-84, 2016-12-15

安政2年10月2日に関東南部を襲った大地震は,江戸の下町を中心に甚大な被害を与えることとなった。この安政の江戸大地震に関しては,地震の被災状況を簡略な絵図と文字情報で周知した瓦版類,地震の被害や被災者の逸話などをまとめた冊子,地震の原因であると信じられていた地中の大鯰をテーマとした一種の戯画・諷刺画である鯰絵など,多様な出版物が売り出された。これらは災害史や民俗学の分野で注目を集めつつあるが,一部に精細な被災の光景を描く図を含みながらも,絵画史の領域での検討はかならずしも十分ではなかった。本稿では,安政江戸地震を機に盛んとなった出版物における災害表象を,主に風景表現の視点から検討する。安政の大地震に関する一枚刷には,従来の瓦版などの簡素な印刷物とはことなる,高度な木版多色摺の技術を用いた臨場感豊かなものが散見され,たんに災害を速報するという以上の機能が期待されている。それらに見られる被災の表現は名所図会の挿絵の視点や造本趣向を応用した『安政見聞誌』でひとつの頂点を見せ,その工夫は『安政見聞録』『安政風聞集』などにも踏襲されている。安政の大地震における災害絵図出版の盛行により,点数こそ多くはないものの錦絵の出版にも災害図の一領域が生み出されることになり,明治期には地震や火山の噴火,大火災などをテーマとした作品が出版され,やがて関東大震災の絵葉書などにもつながってゆく。
著者
三上 喜孝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.169-180, 2004-03-01

律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。正倉院文書の「月借銭解」(借銭文書)といえば宝亀年間の奉写一切経所のものが有名だが、宝亀年間より前の借銭文書からは、短期貸付の場合の無利息借貸、銭の運用のために貸し付けられた「商銭」、天皇の即位等にともなう「恩免」など、出挙銭のさまざまな存在形態をうかがうことができる。出土木簡からも銭貨出挙が平城京や平安京で広範に行われていたことが推定でき、借用状の書式の変遷を知る手がかりを与えてくれる。銭貨出挙の際に作成される借用状は、奈良・平安時代を通じて「手実」「券」などと呼ばれ、不整形な紙が用いられていた。平安時代の借銭文書の実物は残っていないが、書式は奈良時代の借銭文書のそれを踏襲していたとみてよいだろう。康保年間(九六四〜九六七)の「清胤王書状」の記載から、銭貨出挙のような銭貨融通行為が、銭貨発行が途絶える一〇世紀後半に至ってもなお頻繁に行われていたものとみられることは興味深い。銭貨出挙は律令国家による銭貨発行以降、都を中心に恒常的かつ広範に行われており、これを禁ずることは平安京における都市生活にとって支障をきたすことになったのであろう。それはとりもなおさず、平安京の都市生活における大規模な消費と深く関わっていたと考えられる。
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.317-350, 2006-12-20

道祖神は、日本の民間信仰の神々のうちで、古くかつ広く信じられてきた神の代表格である。筆者は古代朝鮮の百済の王都から出土した一点の木簡に注目してみた。王宮の四方を羅城(城壁)が取り囲んでおり、木簡は羅城の東門から平野部に通ずる唯一の道付近にある陵山里寺跡の前面から出土した。木簡は陽物(男性性器を表現したもの)の形状を呈し、下端に穿孔もあり、しかも「道縁立立立」という文字が墨書されていた。おそらく六世紀前半の百済では、王京を囲む羅城の東門入り口付近に設置された柱に陽物形木簡を架けていたのであろう。日本列島では、旧石器時代から陽物形製品は、活力または威嚇の機能をもち、邪悪なものを防ぐ呪術の道具として用いられていたとされている。現在各地の道祖神祭においても、陽物が重要な役割を果している。古代においても、七世紀半ばの前期難波宮跡および東北地方の多賀城跡から出土した陽物形木製品は、宮域や城柵の入り口・四隅で行われた古代の道の祭祀の際に使用されたと考えられる。七世紀から一〇世紀頃まで「道祖」は、クナト(フナト)ノカミ・サエノカミという邪悪なものの侵入を防ぐカミと、タムケノカミという旅人の安全を守る道のカミという二要素を包括する概念であった。陽物形木製品を用いた道の祭祀は都の宮域や地方の城柵の方形の四隅で行われてきたが、一〇世紀以降、政治と儀礼の場の多様化とともに実施されなくなったと推測される。そして、平安京の大小路や各地の辻(チマタ)などに木製の男女二体の神像が立てられ、その像の下半身に陽物・陰部を刻んで表現し、その木製の神像が道祖神と呼ばれるようになったのである。近年の陽物形木製品の発見とその出土地点に着目するならば、道祖神の源流を古代朝鮮・日本における都城で行われた道の祭祀に求めることができるであろう。
著者
相川 陽一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.169-212, 2019-03

成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。先行研究を概観すると,歴史学では近年の日本通史において戦後史の巻等に三里塚闘争に関する言及が複数確認でき,高度成長期における諸社会矛盾に異議を申し立てた住民運動の代表例や住民運動と学生運動の合流事例として位置づけられている。近年は,地域住民と支援者の関係に着眼して運動の歴史的推移を論じた研究も発表されている。だが,運動の盛衰と運動展開地域の政治経済構造の変容を関連づけた研究は手薄であり,地域社会の構造的把握と反対運動の歴史的推移の連接関係を明らかにする研究が必要である。そこで,本稿では,三里塚闘争に関する既存研究や既存の調査データの整理と検討を行った後に,空港反対運動の展開による地域社会構造の変容と空港開発の進行による地域社会構造の変容の2視点から,三里塚闘争の歴史的推移を跡づけた。反対運動が実力闘争化する1960年代末には,空港建設をめぐる衝突が繰り返されたが,同時期の運動展開地の議会において反対派が多くの議席を獲得するなど多様な抗議手段が試みられており,空港反対運動の開始以前から農民運動等の経験をもつ住民層が参画した。しかし,1970年代後半からは空港開発の進行とともに交付金や税収増などによる空港城下町化が進行し,地方議会選挙における多数の候補者擁立といった制度的資源を介した抗議が困難化する傾向も認めることができる。地域社会内の政治経済構造の変容をふまえた運動の歴史的推移をまとめた後には,空港建設にかかる利害を直接に共有しないにもかかわらず多数の支援者が参入した経過や支援者の動員構造を明らかにする課題が残されている。
著者
山下 裕作
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.39-69, 2014-03

筑波研究学園都市は昭和55年に概成した計画都市である。43の国立試験・研究・教育機関とその勤務者,及び家族が移転・移住した。これほど大規模な計画都市は,筑波以前には無く,現在まで類を見ない。近年はつくばエキスプレスの開通に伴う民間ベースの都市開発により,洗練された郊外型都市に変貌しつつある。本報告はこの計画都市が最も計画都市らしかった時代(概成期)における自然と生活について検討する。筑波研究学園都市の「自然」は,周辺農村の二次的自然とは異なり,人工の緑地である。生産活動に利用されることは無く,当時植栽されたばかりの「自然」も人とのつきあいの経験が無い。それでも,学園都市の住民たちは,そうした「自然」を活用し,深い愛着を抱いてきた。特に移住者の子弟達にはそうした傾向が見られる。この移住者達は「新住民」と呼ばれていたが,その中身は一様ではない。移住時期によってタイプに分かたれ,それぞれ性格づけられていた。しかし,子供達は懸命に新たな同級生や環境に折り合いを付けつつ一様に筑波を故郷ととして開発しようとしていた。また,元々周辺農村に暮らしてきた住民達は,この新住民達,また学園都市そのものと対立することもあったが,徐々に気むずかしく見える新住民達や,人工的な自然にも慣れ親しむようになる。そして学園都市中心部で開催される「まつりつくば」は,これら旧農村部の住民達によって担われる。その一方で現在「新住民」たちの姿は見えない。彼等は「つくばスタイル」という都市開発のスローガンのもと,「知的環境」を担う要素となりつつある。また,概成後30年が経過し,人工緑地は著しく伸長した。もはやかつての子供達が遊びほうけてきた「故郷の自然」では無くなってきている。開発者の「ふるさと」は消滅しつつある。同様なことは,大規模団地で生活した多くの子供たちにも言えることであろう。ひとり筑波研究学園都市だけの問題ではない。
著者
栄原 永遠男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.192, pp.13-25, 2014-12-24

正倉院文書に関する研究は,写経所文書の研究を中心とすべきである。そのための前提として,接続情報に基づいて,断簡の接続を確認し,奈良時代の帳簿や文書を復原する必要がある。「東大寺写経所解」を例とすると,これは9断簡からなっている。『大日本古文書(編年)』の断簡配列は,その根拠があいまいで,誤りを含んでいる。接続情報に基づいて断簡を配列し直すことにより,これが天平19年12月15日付の文書であることを,かなりの確率で言うことができる。そうすると,この文書は「東大寺」に関する最古の史料であることになる。国家仏教の中心寺院として東大寺が位置付けられた画期を示しており,重要である。個別写経事業研究は,断簡の集合体である写経所文書を写経事業ごとに仕分ける意味を持つが,一方で,独自の意義を有している。その例として注陀羅尼4000巻の写経事業に注目する。これは,天平17年8~9月ごろに始まったと推定される。この推定が妥当であるとすると,この写経事業は,聖武天皇の病気平癒祈願として行われたと推定できることになる。そのころすでに宮中で密教的な修法が行われていたことを示す。個別写経事業研究は,奈良時代の仏教,仏教と政治との関係などの研究に資するところが大きい。
著者
金菱 清
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.241-269, 2011-11-30

世界各地に所在する「不法占拠」は,国家の法律の枠組みの外側に位置づけられるのかそれとも包含されているものなのか。通常「不法占拠」地域は,法律の外側で扱われる対象である。そのため,実際に法律を運用する行政当局は,「不法占拠」を仕方なく黙認するかそれを否定すべく強制退去の手続きをとることになる。それに対して,本稿が扱う事例は,日本最大級の「不法占拠」地域に対して,法制度に則って公的補償を実施し「不法占拠」を円満に解消するものである。この点からすると「不法占拠」とは国家の法律に内包された存在でもあると言える。本稿は,前者の「不法占拠」を法制度の外側として切り離していた事象について,「人格崇拝」概念を用いながら,法制度のなかに取り込み「不法占拠」と公的補償とを架橋する論理とは何かということを検討する。「人格崇拝」は,社会が複雑化し,分業が進み,変化しやすい個々の意見のなかで,唯一無二のものとして安定した保証できる概念である。ただし,当該の「不法占拠」地域は,環境(騒音)・国民国家(在日)・土地(法)という本来人格概念を適応される枠組みから外され,剥き出しにされた人々が集住する場所である。ところが,「人格崇拝」の概念が無効だと言っているのではなく,むしろ人格化される過程のなかで,再編成されていく契機が制度上あることを「不法占拠」地域に対する公的補償は示している。具体的には,①行政レベルにおいては,空港施設の人格化によって,②民間レベルにおいては,お地蔵さんの人格化によって,「不法占拠」地域に暮らす人々に対する公的補償が行われ,「不法占拠」地域が解消されたことを明らかにする。本稿の意義は,「人格崇拝」の再配置によって局所的で集積的な貧困を軽減させるための社会政策のヒントを提示することにある。Should squatting, which is a worldwide phenomenon, be treated as an extralegal concept positioned outside the framework of national law, or should it be incorporated within legal frameworks? Squats are normally regarded as areas in which national law does not apply, and as such, the civil authorities of nations that do not address squatting in their legal systems either turn a blind eye to it or resort to eviction. This report, however, concerns itself with one of the biggest cases of illegal occupation in Japan, and how the authorities sought to resolve the issue amicably through public compensation conforming to the nation's legal system. In this respect, illegal occupation could be seen as having been incorporated within the nation's legal system.In this paper, I use Durkheim's concept of the cult of the individual to examine the logic that enables squatting, which in many countries is treated as lying outside the law, to have been incorporated into a legal system along with public compensation. Durkheim's "cult of the individual" defines the individual as the one and only constant on which people can count in the modern world with its increasing complexity, division of labor and diversity of ever-changing opinion. The squatters concerned in this case were forced to live life bare, alienated from the privileges that normally attach to individuals, such as good environment (the site suffered jet noise pollution) , status as nationals (the squatters were Korean) , and property under the law, but this does not invalidate the concept of the cult of the individual. Public compensation for the illegally occupied land rather pointed to opportunities in the system for remediation in the process of personification.More specifically, I attempt to show how it was in the context of personification of (1) airport facilities at the public administration level and (2) roadside deities at the private sector level that compensation for the people living on the illegally occupied site was arranged and illegal occupation resolved. The purpose of this report is to provide social policy pointers to halting and reversing the localized proliferation of poverty.
著者
永島 朋子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.183-204, 2019-12

本稿は、延喜太政官式123考定条に規定されている挿頭花(かざし)を素材に、平安貴族社会の可視的表象の一端について考察した。挿頭花には造花を装飾する場合と生花を装飾する場合とがある。『延喜式』では一例のみ挿頭花についての記載が見える。それが延喜太政官式123考定条である。延喜太政官式123考定条は、八月十一日に太政官職員の長上官の考文を太政官曹司庁で大臣に口頭報告する儀式である。しかしながら、延喜太政官式123考定条は、挿頭花が穏座三献の場で装飾されることを定めているのみで、実態については記していない。そこで、定考の挿頭花装飾の具体的な様相を解明するため、『政事要略』巻二十二所引西宮記本文に着目し、検討を加えた。その結果、定考での挿頭花には大臣は白菊、納言は黄菊、参議は竜胆、弁以下少納言には時の花(=生花)の挿頭花が装飾されていること、その装飾の場面は太政官曹司庁で行われる饗宴のうち穏座三献であること、穏座三献で用いられている挿頭花は雅楽寮が奏楽を行う間、挿頭花装飾者よりも下位の者が手に取り、装飾者の冠に挿すこと、それがひと続きの作法であったことなどの特徴を抽出した。その上で、定考で用いられる挿頭花の区分は太政官政務処理上の権限の違いを可視化していることなどを指摘した。そして、『政事要略』所引西宮記本文が『西宮記』を著した源高明が大納言として習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)までの様相を伝えていることから、この段階までには挿頭花装飾の序列と装飾者の固定化が生じていることを確認した。定考は、天皇の出御が見られないとはいえ、天皇の官制大権に関わる儀式でもある。その穏座三献で挿頭花を用いる制度的な根拠となったのが、延喜太政官式123考定条であることなどを述べた。