- 著者
-
三上 喜孝
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.113, pp.169-180, 2004-03-01
律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。正倉院文書の「月借銭解」(借銭文書)といえば宝亀年間の奉写一切経所のものが有名だが、宝亀年間より前の借銭文書からは、短期貸付の場合の無利息借貸、銭の運用のために貸し付けられた「商銭」、天皇の即位等にともなう「恩免」など、出挙銭のさまざまな存在形態をうかがうことができる。出土木簡からも銭貨出挙が平城京や平安京で広範に行われていたことが推定でき、借用状の書式の変遷を知る手がかりを与えてくれる。銭貨出挙の際に作成される借用状は、奈良・平安時代を通じて「手実」「券」などと呼ばれ、不整形な紙が用いられていた。平安時代の借銭文書の実物は残っていないが、書式は奈良時代の借銭文書のそれを踏襲していたとみてよいだろう。康保年間(九六四〜九六七)の「清胤王書状」の記載から、銭貨出挙のような銭貨融通行為が、銭貨発行が途絶える一〇世紀後半に至ってもなお頻繁に行われていたものとみられることは興味深い。銭貨出挙は律令国家による銭貨発行以降、都を中心に恒常的かつ広範に行われており、これを禁ずることは平安京における都市生活にとって支障をきたすことになったのであろう。それはとりもなおさず、平安京の都市生活における大規模な消費と深く関わっていたと考えられる。