- 著者
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藤沢 敦
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.179, pp.365-390, 2013-11-15
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。