著者
上野 祥史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.349-367, 2014-02-28

中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡3期鏡が流入する段階から漢鏡5期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続しており,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。なお,漢鏡3期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡4期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半から後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前1世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではないことを指摘したのである。近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会における漢鏡6・7期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡6・7期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワークが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させる状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。漢鏡6・7期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルートの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
著者
小林 謙一 春成 秀爾 坂本 稔 秋山 浩三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.17-51, 2008-03-31

近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02-28

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.191-217, 2003-10-31

日本における城郭研究は,ようやく基本的な所在や遺跡概要の情報を集積する段階を終え,そうした成果をもとに新しい歴史研究を立ち上げていく新段階に入ったと評価できる。従来の城郭研究は市民研究者によって担われた民間学として,おもに地表面観察をもとにした研究と,行政の研究者による考古学的な研究のそれぞれによって推進された。しかしさまざまな努力にもかかわらず地表面観察と発掘成果を合わせて充分に歴史資料として活かしてきたとはいい難い。城郭跡を資料とした研究を推進するためには,地表面観察から城郭の軍事性を歴史資料化することと,発掘成果から城郭の内部構造を歴史資料化することを一貫して行い,分析することが必要である。そして発掘成果によって改めて中世城郭の実像をとらえ直すことが大切である。そこで本稿では,発掘で内部構造が判明した中・小規模の城郭遺構を軸に,地表面観察,文字史料をも合わせた学融合的検討を行った。検討の対象は,築城祭祀,塁線構築技法,陣城,包囲陣,中小規模の山城の内部構成,兵舎など多岐におよぶ。いずれも城郭跡から歴史を読み取っていくのに基本になる視点といえる。地表面観察でわかる情報から発掘成果まで学融合的に一貫して検討することで,城郭跡のもつ資料性をさらに高めることができる。本稿はそうした新しい研究方向を指向した試みである。
著者
近藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.249-267, 2018-03-09

縄文人の地域性を探ることによって,その成立過程を探ることは可能だろうか。日本列島はその地史的環境から,ヒトの移住ルートが限られる。したがって,縄文人の成立過程を,その初期集団の日本列島各地への拡散と,外部からの(仮想的な)移住集団の影響によると考えると,その結果が縄文人の地域性に現れると考えることができる。この論考では,縄文人頭骨の計測値をもちいて,日本列島の縄文地域集団の変異を分析した。その結果,縄文人頭骨の形質には,北から南への地理的勾配があること,それぞれの縄文地域集団の形成には異なった背景があることが示唆された。さらに大胆に解釈すると,縄文人の形成の中心は西日本(中国,九州)にはなさそうだということ,九州縄文人は孤立した集団史により形成された可能性があること,北海道縄文人は比較的長い集団形成の歴史をもつかあるいは形成期に外部集団からの影響があった可能性が示唆された。
著者
福田 豊彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.135-162, 2000-03-31

中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。しかし古代に関しては、律令・格式や風土記・和名類聚抄などを始め、鉄の生産と利用に関する文字史料は少なくないし、考古学的な遺跡と出土遺物にも恵まれている。そして何よりも、鉄生産では既に永い歴史をもつ大陸の状況を参考にすることができる。一方、近世になると、中国山地と奥羽山地の鉄山師の記録を始め、直接的な鉄生産の記録も少なくないし、流通・加工の関係史料にも恵まれ、本草家などの辞典的な記述も残されている。中世でも西日本に関しては、断片的ではあるが荘園関係史料によって生産と流通の大要を把握できるし、近年は考古学的に確実な生産遺跡も発掘され、文書史料との関係も推察されるようになってきた。しかし東国に関しては、鉄の生産方法を示す史料もない。また考古学的な発掘遺跡にも確実なものはなく、鉄生産(鉄製錬)の遺跡か鋼精錬の遺跡かについて、その性格評価が分かれているものもある。そこで本稿では、資料的に豊かな近世史料によって、市場に流通していた鉄の名称と種別を調べ、その鉄の生産方法を検討し、それを過去に遡って中世の鉄の生産と加工技術を推定しようとした。その結果、次の諸点をおおよそ明らかにできた。① 市場に流通した鉄の種類に関しては、近世の前期と後期で多少の変化が認められるが、炭素量の多い鋳物用の「銑(せん)」と、炭素量のごく少ない「熟鉄(じゆくてつ)」が基本であった。刃物生産に使われる「釼(はがね)」が、商品として市場に流通するのは江戸時代も後期以降のようで、中世の釼製造技術は、当時の刃物鍛冶の職掌に属していたものと推察される。② 近世後期、宝暦年間と伝えられる大銅(おおどう)の発明以後には、直接製鋼を主とするいわゆる「鉧(けら)押技法」が登場するが、それ以前は銑鉄生産を主とする技法が主流で、わが国でも二段階製鋼法が一般的に行われていた。③ しかし『和漢三才図会』や『箋注倭妙類聚抄』の記述によると、この銑鉄生産の技法では、銑鉄の他に熟鉄が生産され、これが「鉧(けら)」と呼ばれていた。以上のような近世初期の鉄の生産と流通・加工の方式は、中世にもほぼ適用できるであろう。
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.113-135, 1990-03-30

This paper is to indicate the importance of taking the total view of, introspecting and understanding the folklore of YANAGITA Kunio from the methodological point of view. So far, it has been understood that the YANAGITA Kunio's methodology in the folklore study has a trait similar to that of the natural science, constituted of the inductivism and positivism. In this paper, however, a question is posed on that particular point. YANAGITA'S method should be grasped in the framework of the comprehension science opposed to the natural science and the elucidation of “mind” (the hidden inner value such as feelings, sense, awareness of the people) which was his scientific final target is to make clear the teleological “inclination”. In this paper, this method is positioned appropriately in accordance with the main stream of the hermeneutical scientific theory.“Total view”, “introspection” and “understanding” are the words used by YANAGITA Kunio in an attempt to express his own folklore methodology. He described what the methodology ought to be using these key words. I. e., “the total view” is a gestalt and holistic Point of view setting the totality and dynamism of the culture as the premise and tries to grasp them in the hermeneutical scientific circulation. “Introspection” is used to show the method and the direction of taking “the total view”. It does not simply mean an empathy or to experience for oneself what another person has gone through, but it indicates a method of objective development of the logic in order to elucidate the mind using “words” as the medium which are the “recognition” itself that connects the subject and the object.As a result, a method to discover the hypotheses in the folklore has been made clear. On the other hand, the word “understanding” does not only used to comprehend the mental states but also offers a way of conclusively proving the discovered hypotheses to justify them through a logic of science. It has been shown that, in the folklore study, hypotheses can be clearly proved through the process of recognition-interpretation-understanding, in addition to the verification through deduction-counter evidence. In this paper, it is indicated that the presentation of hypotheses was made through the intrinsic intuition based on the substantial data, gestalt perception as Lorenz, K. put it, and that the words, induction and actual proof, when used by YANAGITA, should be understood as above mentioned.
著者
中村 太一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.11-33, 2004-03-01

日本古代の交易に関する従来の研究は、交易者・市の様相や法的規制、あるいは官司や官人による交易活動の解明に主眼を置いてきた。このため、交易活動の動機や目的などについては、必ずしも追究されてこなかった。そこで本稿では、ポランニーが指摘する交易者の動機や目的に着目し、交易者の実態やその類型を抽出することを目的とした。まず第一章では、ポランニーの指摘に基づいて、史料に見える交易の動機について、包括的な分析を行った。その結果、日本古代においては、外部産品の獲得を目的とした交易に従事する、身分動機の交易者が多く存在すること。他方、利潤動機の交易者は零細で、社会的地位も低いこと。したがって、交易量全体に占める割合では、獲得型・身分動機型交易が多数を占めるであろうことなどを明らかにした。また第二章では、官司や王臣家の交易は、基本的に獲得型・身分動機型交易であること。長屋王家による酒食販売事業なども、家政運営に必要な銭貨調達を目的としたものであることを指摘した。さらに第三章では、地方豪族が畿内で展開した交易は、利潤追求が目的ではなく、在地では入手しえない文物を獲得することに主たる目的があったこと。このため、列島や海外の物産が集まる京や難波に交易の拠点を設けたこと。また彼らの銭貨獲得は、純経済的な私富追求ではなく、威信財としての位階や銭貨の入手を目的としたものであることを明らかにした。最後に第四章では、利潤動機の商人について検討した。ここでは、彼らのうち市人や近距離型行商は、消費経済の進展につれて数的拡大傾向が認められるものの、大多数の経営体は小規模のまま推移したこと。その一方で平安時代後期になると、比較的大規模な交易を展開する遠距離交易商人の姿が見られるようになること。彼らは、王臣家等が展開してきた獲得型交易構造の一部を代替する形で事業を展開し、成長を遂げていったと考えられることなどを述べた。
著者
髙山 慶子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.222, pp.53-80, 2020-11-30

お竹大日如来とは、江戸で下働きをしていた竹という名の女性が、大日如来として出羽国に祀られたものである。幕末の江戸の落語家である入船扇蔵が収集した摺物を貼り合わせた『懐溜諸屑<ふところにたまるもろくず>』には、嘉永二年(一八四九)にお竹大日如来の出開帳が江戸で行われた際に版行された単色墨摺りの一枚摺「於竹大日如来縁記(起)」が貼り込まれている。本稿はこの一枚摺を手がかりに、お竹大日如来の由来や成り立ち、およびお竹大日如来を取り上げた摺物や関連する出版物を検討し、江戸庶民の信仰や文化のありようを摺物に着目して明らかにするものである。分析の結果、お竹大日如来は由来や成り立ちに厳密な正確さを欠くこと、それでも広く受容される神仏になったことを指摘した。嘉永二年の出開帳に際しては大量の出版物が版行されたが、複数の業者が販売目的で作成した縁起は記述が一定せず、内容の不正確さは助長されたと考えられる。また、お竹大日如来には娯楽としての役割も期待され、錦絵などの一枚摺の版行だけではなく、お竹大日如来に関する創作が著されたり、お竹大日如来を「おためだいなしわるい」と滑稽化したり、大日如来ならぬ大日用菩薩として見世物とされたりした。江戸の人びとはお竹大日如来を信仰としてだけではなく、むしろ信仰以上に娯楽として受容したが、多種多様な出版物の流布は、信仰と娯楽(聖と俗)の混交という現象を、進行・助長させる役割を担ったと考えられる。
著者
佐藤 雅也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.133-196, 2008-12-25

ここでの問題意識は、民衆・常民の視点、民衆・常民の側に立った史学、文化史が民間伝承の学(民俗学)の本質とするならば、語りの部分、語られた部分を基礎に、戦争をとらえていくこと。日本の民衆・常民にとって、近代の戦争体験とその後の人生を明らかにしたうえで、戦争体験の記録と語りを継承していくことを目的としている。このことをふまえて、本報告では、三つのテーマから構成されている。第一に、「軍都」仙台の戦争遺跡と記念碑では、現在の時点から見た近代仙台の旧軍事施設の史跡、旧軍関係及び戦時関係の記念施設・記念碑・慰霊碑などについて、その概要を報告している。また、旧「軍都」仙台の陸軍施設の変遷と、近代の戦争に関わる記録を概観している。そして、昭和十五年(一九四〇)以降の仙台第二師団における宮城県・福島県・栃木県関係の旧軍施設に関する原本資料である仙台師管区経理部「各部隊配置図・国有財産台帳附図」について、その概要を紹介している。第二に、戦死者祭祀と招魂祭では、記念碑、文献資料、新聞記事などから、戊辰戦争、西南戦争、甲申事変、日清戦争、日露戦争、満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争などにおける戦死者の慰霊と招魂の問題を取り上げている。第三に、戦争の民俗~戦争体験とその後の人生をめぐる民衆・常民の心意とは~では、「聞き書き」資料を基礎に、実物資料、文献資料、写真資料なども付け加えている。ここでは、①徴兵検査の意義と役割、②徴兵検査と軍隊への入営、③内地での軍隊生活、④一兵士が見た軍隊と戦争(召集、家族、戦地、敗戦と捕虜生活)、⑤満洲開拓と満洲移民、⑥「戦争未亡人」の戦中・戦後などについて、報告している。実際の調査では、約五十人の話者の方々のご協力をいただいたが、その中から十八人のインタビューをもとに記述している。このように民俗学の手法を駆使して、戦争の民間伝承を各地で継承していくことは、常民・民衆のための文化史としての民俗学にとって、課題の一つだと考える。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.79-104, 2009-03-31

安閑・宣化期に集中的に屯倉記事が記載されている点については,那津官家へ諸国の屯倉の穀を運んだとの記載を重視するならば,当該期における対外的緊張がその背景に想定され,屯倉と舂米部のセットにより兵粮米を用意し,「那津官家」を中心とする北九州の諸屯倉に集積する体制を構想した。先進的と評価されてきた白猪・児島屯倉における「田戸」は,編戸・造籍により戸別に編成された田部ではなく,成人男子の課役負担者を集計するのみであり,「田部丁籍(名籍)」も一旦作成されると十年以上更新されない単発的なリストであった。「田戸」・「田部丁籍(名籍)」などの表現はそのままでは信頼できず,通説的な律令制的籍帳支配を前提とする評価は疑問である。孝徳期の改革は,行政区画の設定よりも重層化した徴税単位の設定に重点があり,国造のもとで官家を拠点とする統一的,直接的な税の貢納および人の徴発を構想した。国造(国造制)だけでなく制度的に異なる伴造(部民制)・県稲置(屯倉・県制)が歴史的に「官家」(在地における貢納奉仕の拠点)を領したと認識され,その実績が評造や五十戸造といった新たな官家候補者の選定の前提になった。「譜第」意識の連続性において品部や屯倉の廃止命令は,国造を除く伴造や県稲置にとっては大きな転換点として認識された。ミヤケの伝承のうちには郡司の「譜第」に関係した伝承や註記が存在した。「皇太子奏請文」は「改新之詔」の原則に従って,王土王民的な建前から王族による大王への定量的な課役負担を新たに開始する宣言として解釈される。仕丁以外の王族が所有した旧部民たる民部(入部)や家人的奴婢たる家部(所封民)の実質は王子宮内部のツカサの運営費として温存され,基本的に天武四年の部曲廃止まで存続する。
著者
広瀬 和雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.33-147, 2009-03-31

西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.155-182, 2014-02-28

弥生文化は,鉄器が水田稲作の開始と同時に現れ,しかも青銅器に先んじて使われる世界で唯一の先史文化と考えられてきた。しかし弥生長期編年のもとでの鉄器は,水田稲作の開始から約600年遅れて現れ,青銅器とほぼ同時に使われるようになったと考えられる。本稿では,このような鉄の動向が弥生文化像に与える影響,すなわち鉄からみた弥生文化像=鉄史観の変化ついて考察した。従来,前期の鉄器は,木製容器の細部加工などの用途に限って使われていたために,弥生社会に本質的な影響を及ぼす存在とは考えられていなかったので,弥生文化当初の600年間,鉄器がなかったとはいっても実質的な違いはない。むしろ大きな影響が出るのは,鉄器の材料となる鉄素材の故地問題と,弥生人の鉄器製作に関してである。これまで弥生文化の鉄器は,水田稲作の開始と同時に燕系の鋳造鉄器(可鍛鋳鉄)と楚系の鍛造鉄器(錬鉄)という2系統の鉄器が併存していたと考えられ,かつ弥生人は前期後半から鋳鉄の脱炭処理や鍛鉄の鍛冶加工など,高度な技術を駆使して鉄器を作ったと考えてきた。しかし弥生長期編年のもとでは,まず前4世紀前葉に燕系の鋳造鉄器が出現し,前3世紀になって朝鮮半島系の鍛造鉄器が登場して両者は併存,さらに前漢の成立前には早くも中国東北系の鋳鉄脱炭鋼が出現するものの,次第に朝鮮半島系の錬鉄が主流になっていくことになる。また弥生人の鉄器製作は,可鍛鋳鉄を石器製作の要領で研いだり擦ったりして刃を着けた小鉄器を作ることから始まる。鍛鉄の鍛冶加工は前3世紀以降にようやく朝鮮半島系錬鉄を素材に始まり,鋳鉄の脱炭処理が始まるのは弥生後期以降となる。したがって鋳鉄・鍛鉄という2系統の鉄を対象に高度な技術を駆使して,早くから弥生独自の鉄器を作っていたというイメージから,鋳鉄の破片を対象に火を使わない石器製作技術を駆使した在来の技術で小鉄器を作り,やがて鍛鉄を対象に鍛冶を行うという弥生像への転換が必要であろう。
著者
藤森 馨
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.73-83, 2008-12-25

真名鶴神話(真鶴神話・八握穂縁起とも)とは、六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭の祭月朔日に、天皇に供進される忌火御饌の起源神話として、神祇官から村上天皇に天暦三年(九四九)に上奏された『神祇官勘文』に見られる神話である。その内容は以下の通りである。倭姫が天照大神を奉じ、伊勢国壱志郡を発し、佐志津に逗留した際、夜間葦原で鶴鳴を聞いた。使者を派遣し、捜索させたところ一隻の鶴が八根の稲穂を守護していた。倭姫はこれを苅り採り、大神の御饌に供えようとし、折木を刺し合わせ火鑚をし、彼の米を炊飯。大神に供奉し、この時から神嘗祭は始まった。そして以後三節祭毎に御飯を供進したという。こうした火鑚を行って鶴が守護した稲を炊飯する儀を忌火といい、宮中の忌火御饌の起源であると神祇官より村上天皇に上奏されたのである。すなわち、この神話伝承によれば、宮中の忌火御饌は、伊勢神宮内宮の由貴大御饌神事と不可分な関係があるという。のみならず、天皇親祭の形式で執行される六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭と祭祀構造を同じくする神宮三節祭、すなわち六月月次祭・九月神嘗祭・十二月月次祭との関係を考える上でも、宮中の忌火御饌供進儀と神宮の由貴大御饌供進儀との密接さを窺わせる神話は看過できない。本稿では宮中の嘗祭の延長線上に神宮三節祭があることを検討してみたい。
著者
坪根 伸也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.123-152, 2018-03-30

中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
著者
堀部 猛
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.279-298, 2019-12-27

古代の代表的な金属加飾技法である鍍金は、水銀と金を混和して金アマルガムを作り、これを銅製品などの表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ、研磨して仕上げるものである。本稿は、『延喜式』巻十七(内匠寮)の鍍金に関する規定について、近世の文献や金属工学での実験成果、また錺金具製作工房での調査を踏まえ、金と水銀の分量比や工程を中心に考察を行った。古代の鍍金については、今日でも小林行雄『古代の技術』を代表的な研究として挙げることができる。専門とする考古資料のみならず、文献史料も積極的に取り上げ、奈良時代の帳簿からみえる鍍金と内匠式の規定を比較することを試みている。しかしながら、内匠式における金と水銀の分量比をめぐっては、明快な解釈には至っていない。氏の理解を阻んでいるのは、奈良時代の史料が鍍金の材料を金と水銀で表すのに対し、内匠式が「滅金」と水銀を挙げていることにある。「滅金」が何を指し、水銀の用途は何であるのか、また、なにゆえこうした規定となっているのかが課題となっている。内匠式では「滅金」は金と水銀を混和した金アマルガムを指し、その分量比は一対三としている可能性が大きいこと、それに続く水銀は「酸苗を着ける料」として梅酢などで器物を清浄にする際に混ぜ、また対象や部位によりアマルガムの濃度を調節するのに用いるものとして、式が立てられていると解した。鍍金の料物を挙げる内匠式の多くの条文では、水銀が滅金の半分の量となっており、全体に金と水銀が一対五の分量比となるよう設定されている。この分量比は、奈良時代の寺院造営や東大寺大仏の鍍金のそれとほぼ同じである。以上のような滅金と水銀による料物規定は内匠式特有のものであり、実際の作業工程に即して式文を定立したことによると評価できる