著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12-25

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
著者
柴田 昌児
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.149, pp.197-231, 2009-03-31

西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。まず人間が社会生活を営む空間そのものを表している概念として「集落」をとらえたうえで,その一部である弥生時代遺跡を抽出した。そして河川・扇状地などの地形的完結性のなかで遺跡が分布する一定の範囲を「遺跡群」と呼称する。松山平野では8個の遺跡群を設定することができる。弥生集落は,まず前期前葉に海岸部に出現し,前期末から中期前葉にかけて遺跡数が増加,一部に環壕を伴う集落が現れる。そして中期後葉になると全ての遺跡群で集落の展開が認められ,道後城北遺跡群では文京遺跡が出現する。機能分節した居住空間構成を実現した文京遺跡は,出自の異なる集団が共存することで成立した密集型大規模拠点集落である。そして集落内に居住した首長層は,北部九州を主とした西方社会との交渉を実現させ,威信財や生産財を獲得し,集落内部で金属器やガラス製品生産などを行い,そして平形銅剣を中心とした共同体祭祀を共有することで東方の瀬戸内社会との交流・交渉を実現させたと考えられる。後期に入ると文京遺跡は突如,解体し,集団は再編成され,後期後半には独立した首長居館を擁する久米遺跡群が新たに階層分化を遂げた突出した地域共同体として台頭する。こうした解体・再編成された後期弥生社会の弥生集落は,久米遺跡群に代表されるいくつかの地域共同体である「紐帯領域」を生成し,松山平野における特定首長を頂点とした地域社会の基盤を形づくり,古墳時代前半期の首長墓形成に関わる地域集団の単位を形成したのである。
著者
鳥越 皓之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.35-51, 2001-03-30

民俗学において,「常民」という概念は,この学問のキー概念であるにもかかわらず,その概念自体が揺れ動くという奇妙な性格を備えた概念である。しかしながら考え直せば,逆にキー概念であるからこそ,民俗学の動向に合わせてこの概念が変わりつづけてきたのだと解釈できるのかもしれない。もしそうならば,このキー概念の変遷を検討することによって,民俗学の特質と将来のあり方について理解できるよいヒントが得られるかもしれない。そのような関心のもとに,本稿において,次の二つの課題を対象とする。一つが「常民」についての学説史的検討であり,もう一つが学説史をふまえてどのような創造的な常民概念があり得るのかという点である。後者の課題は私自身の小さな試みに過ぎないためにそれ自体は一つの主張以上の評価をもつものではない。だが,機会あるごとにこのような方法論レベルの試みを行うことが,民俗学の可能性を広げるものであると信じている。前者の学説史においては,柳田国男の常民の使用例は三つの段階に区切れること,また,神島二郎,竹田聴洲の常民についての卓越した見解の位置づけを本稿でおこなっている。後者の課題については,学説史をふまえて「自然人としての常民」とはなにかという点を検討している。そして常民概念は,集合主体レベル,文化レベルでのみとらえるのではなくて,個別の生存主体としてのワレからはじまり,それが私的世界を越えて公的世界に開かれたときにはじめて集合主体や文化主体として現象すると理解した方がよいのではないかと提案している。つまり民俗学は,一個一個の人間の個別な生存主体を大切にしてきたし,今後もそれを大切なものとみなしていくことが民俗学の方法論的特性だから,常民概念の基本にそれを設定すべきだと指摘しているのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.11-41, 2018-02-28

本論文は,高度経済成長期に向かう時代,昭和30 年代初期のダム建設と水没集落の対応に一つの形があることに注目して民俗誌的分析を試みたものである。広島県の太田川上流の樽床ダム建設で水没した樽床集落(昭和31~32 年に移転)と前稿でとりあげた福島県の只見川上流の田子倉ダム建設で水没した田子倉集落(昭和31 年に移転)とは,どちらも農業を主とした集落で,移転時には民具の収集保存や村の歴史記録の刊行,移転後の故郷会の継続など,故郷とのつながりの維持志向性が特徴的であった。とくに,樽床の報徳社を作った後藤吾妻氏,田子倉の13軒の旧家筋の家々などが,村人の面倒見がよく,村の存続の危機への対応のなかで村を守る連帯の中心となっていた。村の中には貧富の差が大きかったが,富める者が貧しい者の面倒をみるという近世以来の親方百姓的な役割が村落社会でまだ活きていた可能性がある。それに対して,岩手県の湯田ダム建設で水没した集落(昭和34~35年に移転)は農家もあったが鉱山で働く人が多い流動的な集落で,代替農地の要求はなかった。さらに樽床ダムより約30年後に建設された太田川上流の温井ダムの場合には1987年に集団移転がなされたが,その際村人たちは受身的ではなく能動的に新たな生活再建を進めた。このように,移転時期による差異や定住型か移住型かという集落の差異が注目された。そして,故郷喪失という生活展開を迫られた人たちの行動を追跡してみて明らかとなったのは,土地に執着をもたず都市部に出て行った人たちの場合は新しい生活力を求めて前向きに取り組んだということ,その一方,農業で土地に執着があった人たちはその故郷を記憶と記念の中に残しその保全活用をしながら現実の新たな生活変化に前向きに取り組んでいったということである。つまり,更新と力(移住型)と記憶と力(定住型)という2つのタイプの生活力の存在を指摘できるのである。もう一つが世代交代の問題である。樽床も田子倉も湯田もダム建設による移転体験世代の経験は子供世代には引き継がれず,「親は親,子供は子供」という断絶が共通している。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.119-131, 2006-01-31

太平洋戦争中、補給を断たれて多くの餓死・病死者を出したメレヨン島から生還した将校・兵士たちをして体験記の筆をとらしめたのは、死んだ戦友、その遺族に対する「申し訳なさ」の感情であり、そこから死の様子が描かれ、後世に伝えられることになった。あるいは自己の苛酷な体験を「追憶」へ変えたいというひそかな願いもあった。自己の体験をなんとか意義付けたい、しかし戦友の死の悲惨さは被い隠せない、と揺れる心情もみてとれた。このように生還者たちの記した「体験」の性格は多面的であり、容易に単純化・一本化できるような性質のものではない。戦後行われてきた戦死者「慰霊」の背後には、そうした複雑な思いがあった。いくつかのメレヨン体験記を通じて浮かびあがってきたのは、「昭和」が終わり、戦後五〇年以上たってなおやまない、〈戦争責任〉への執拗な問いであった。その矛先は、時に天皇にまで及んだ。たとえそこで外国への、あるいは己れの戦争責任が問われることがなかったとしても、「責任を問うこと」へのこだわりや「死んでいく者の念頭に靖国はなかったろう」という当事者たちの文章は、戦後日本における「先の戦争」観の実相を問ううえでも、さらには戦争体験の風化・美化を進める今後の世代が前の世代の「戦中の特攻精神や飢えの苦しみは戦後教育と飽食に育った世代の理解は不可」という声に抗して「戦争体験」を引き継ぐさい、今一度想起されてよいのではないか。
著者
伊藤 幸司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.51-73, 2021-03-15

本稿は、日本と明朝との交流に使われた航路のうち、南海路を考察対象とするものである。日明航路は、東シナ海を横断する「大洋路」と「南島路」があり、これに接続する国内航路として「中国海路」と「南海路」がある。南海路は、南九州から九州東岸を北上し、豊後水道を横断して四国に渡り、土佐国沿岸を経て、紀伊水道から畿内の堺へと至る航路であり、一六世紀中葉に日本に来航した鄭舜功の『日本一鑑』では「夷海右道」として記されている。南海路は、一五世紀後期の応仁度遣明船が帰路に使用してから注目されるようになるが、実際は遣明船以前からの利用が史料から確認できる。ただし、瀬戸内海を通過する中国海路と比較すると、南海路は、距離も長く時間もかかるうえに、室戸岬や足摺岬を迂回し、太平洋に直面する土佐湾を航行するという自然条件の厳しさもあったため、中国海路の沿線が不安定化した場合や、政治的な背景がある場合に限って利用されることが多かった。本稿では、これまで断片的に蓄積されてきた南海路にかかる研究史を整理した上で、南海路を利用した遣明船について個別に取り上げ、南海路の港町との関係等に注目しながら考察をした。対象とする遣明船は、応仁度船、文明八年度船、同一五年度船、明応度船、永正度船、大永度船、天文一三年度船である。
著者
岡 美穂子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.387-406, 2021-03-15

本稿では,16世紀に記された日本で活動するイエズス会士達の記録を手掛かりに,16世紀後半の九州=畿内間の航路の詳細を検証する。基本的には既刊の翻訳書である松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』を情報源とするが,原文の綴りや翻訳内容に疑義のある箇所については原文に遡って,手を加えた。これらの情報の検討の結果,イエズス会士達は主に瀬戸内航路で諸所の港に乗合船で立ち寄りながら移動していたこと,これらの港の一部にはイエズス会士が定宿とするような日本人の家があり,布教の拠点ともなったことが明らかとなる。また,頻繁ではないものの,南海路で移動することもあり,それは主に瀬戸内海の状況が戦争で不安定な時に用いられた。瀬戸内航路,南海路共に海賊は多数おり,海賊との折衝や遭遇の様子も詳細に記される。また彼等を運ぶ船乗り達,船のスペックなどについても詳細な情報がある。特筆すべきは,大友宗麟が大坂出身で塩飽を拠点とする大型船の船頭と直接契約して,宣教師を畿内へと運ばせたという情報である。この情報からも,瀬戸内海の商業航路の関係者が,相当に超領域的な活動を行っていたことが考えられよう。従来のイエズス会史料を用いた南蛮貿易研究では,マカオ=九州間の交易についてのものが多かったが,本研究では,九州より先の日本国内,主に畿内の商人たちの南蛮貿易への関わりに着目した。とりわけ第四節では,小西家のキリシタン入信前後の状況と南蛮貿易に携わる京都商人の動きに着目し,これまでの研究では言及されたことのない血縁ネットワークについても明らかにした。そこからは,京都商人の入信動機には,南蛮貿易での利益のみならず,西洋からもたらされる最先端の知識への探究心もあったことが推察可能である。
著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.7-38, 2008-12-25

古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。
著者
筒井 早苗
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.188, pp.99-113, 2017-03-31

高松院姝子は二条天皇の后となるものの、天皇との婚姻生活はわずか四年ほどで破綻してしまう。その後は出家を遂げ、女院に列せられて高松院と称し、静かな仏道生活を営んでいると思われたが、唱導の名手として名高い澄憲との間に、密かに海恵、八条院高倉という二人の子を儲けていたことや、さらに女院の早世の原因が澄憲の子を出産したことに伴う疾患であったことなどが、角田文衛氏や田中貴子氏により明らかにされている。これらの研究により、高松院と澄憲との密通関係は明白であるが、日記や寺院文書などに見られる断片的な記事の分析が中心であったため、これまで二人の具体的な関わりはほとんど見えてこなかった。本稿では、国立歴史民俗博物館蔵旧田中家本『転法輪鈔』や金沢文庫蔵の澄憲草の表白を中心に、高松院との関わりが見られる表白の内容を検討し、二人の関係性を捉え直した。澄憲は、高松院の病を癒すための祈祷をしたり、美福門院のための追善供養の導師を勤めたりして、出家後の高松院の人生を導いてきた。二人の関係は、導師と施主という信仰を媒介とした積み重ねをとおして深まっていったといえる。高松院は後半生の導き手として、十五歳年上の優れた唱導僧である澄憲を尊敬、信頼し、彼を重用した。澄憲もまた、聖天供表白に見られるように、高松院に対して導師という立場以上の感情を抱いて接し、女院の死後も懇ろな追善供養を営んで、女院とのつながりを保ち続けていたのである。澄憲の表白は公や他者のために作成したものが大半を占め、それらからは澄憲の教養や巧みな表現力、教説や信仰などを読み取ることができるが、澄憲の心情や内面を示すものは数少ない。そういった意味でも、高松院との関係性の中で自身の率直な心情を述べて祈願した天供の表白は大変貴重であり、今後の澄憲研究にとって有用な資料となり得ることを指摘した。
著者
上野 祥史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.291-317, 2019-09

器物を媒介とした政治関係は,分与者の視点で語られる傾向が強い。器物の価値を自明とする意識を相対化し,分与者および受領者が価値を認識する場やプロセスに注目した検討が求められる。朝鮮半島南部の出土鏡は,その問題をもっとも先鋭化させ鮮明にする資料である。本論では,古墳時代と並行する三国時代において,朝鮮半島南部が保有した鏡をもとに,その入手経緯を整理し,倭王権が鏡分与を通じて企図した秩序とその構造を検討することで,倭韓の交渉の実態を描出しようと試みた。まず,朝鮮半島南部出土鏡の概要を整理し,中国での鏡の保有状況と日本列島での鏡の保有状況を対照して,中国鏡と倭鏡の流入プロセスを検討した。中国鏡の流入は,倭韓が対中国交渉を共有し,相互に関係をもちつつも独立した交渉を進め個別に入手したものとして理解することを提案した。倭鏡では,王権からの直接分与か二次流通を介した間接分与かを,価値の認識という視点で検討した。間接分与でも王権が意図した秩序は機能すること,日本列島内部でも間接分与がみえることから,倭王権が意図した秩序は,直接分与に限定しない柔軟な,拡大の可能性を内包する秩序であることを示した。朝鮮半島南部の倭鏡は,北部九州を介した間接分与(二次流通)が想定できることを指摘した。倭韓の交渉の実態を詳述するとともに,鏡を媒介とした秩序が,絶対基準を強く意識しすぎること,分与者と受領者の相互承認を強調しすぎることを改めて指摘し,第三者の認識を可能にする装置としての意義も考える必要があること,朝鮮半島南部の帯金式甲冑や鏡にはそうした機能が期待されたことを示した。
著者
浮ヶ谷 幸代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.53-80, 2017-03-31

本稿では、まず日本の近代化のなかで「精神病」という病がいかに「医療化」されてきたのか、そして精神病者をいかに「病院収容化(施設化)」してきたか、その要因について明らかにする。諸外国の「脱施設化」に向かう取り組みに対して、日本の精神医療はいまだ精神科病院数(病床数)の圧倒的な多さと在院日数の顕著な長さを示している。世界的に特殊な状況下で日本の精神科病院数の減少が進まない要因について探る。精神医療の「脱施設化」が進まない中、北海道浦河赤十字病院(浦河日赤)では日本の精神医療の先陣を切って「地域で暮らすこと(脱施設化)」に成功した。浦河日赤の「脱施設化」のプロセスには二度の画期がある。第一は、精神科病棟のうち開放病棟が閉鎖となったプロセスであり、それを第一次減床化とする。第一次減床化のプロセスについて詳細に描き出し、減床化に成功した要因について明らかにする。第二は、精神科病棟全体の廃止に至ったプロセスであり、それを第二次減床化とする。そのプロセスに起こった政治的なできごとや浦河町が抱える問題をもとに、第二次減床化に進まざるを得なかった浦河日赤の置かれた状況について描き出す。この二度にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出すために、エスノグラフィック・アプローチとして、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどの病院関係者、社会福祉法人〈浦河べてるの家〉の職員、そして地域住民へのインタビュー調査を行った。精神科病棟廃止に対するさまざまな立場の人が示す異なる態度や見解について分析し、浦河日赤精神科の二回にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出す。第二次減床化の病棟廃止と並行して、浦河ひがし町診療所という地域精神医療を展開するための新たな拠点が設立される。診療所が目指す今後の地域ケアの方向性を探る。そのうえで、診療所が目指す地域精神医療のあり方と海外の精神医療の方向性とを比較し、浦河町の地域精神医療の特徴と今後の課題について考察する。最後に、今後のアプローチとして、精神障がいをもちながら地域で暮らす当事者を支えるための地域精神医療を模索するために、「医療の生活化」という新たな視点を提示する。
著者
齋藤 努
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.153-169, 2018-03-30

神奈川県津久井郡(現在の相模原市)の津久井城御屋敷跡(16世紀後半)から出土した金粒付着かわらけに含まれている微細な金粒子を透過X線撮影によって検出し,そのうち表面に露出している5点を,マイクロフォーカス型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。いずれからも,金粒に由来すると考えられる金,銀が見出された。銅も検出されているが,金粒が微細であることと,据置型蛍光X線分析装置によって周辺の付着熔融物にも銅が含まれていることがわかったので,金粒そのものに含まれているものか,付着熔融物に含まれているものか,あるいはその両者に由来するのか,判定できない。本分析資料の熔融物には,特徴的な元素として亜鉛が含まれていた。甲斐周辺の遺跡では,中山金山遺跡や甲府城下町遺跡の資料からも検出されており,化学組成とこれらの遺跡の年代のみで判断すると,甲斐から金がもたらされたとみることもできる。しかし,歴史的にみると,本分析資料は天正年間以降の,武田氏と後北条氏の関係が悪化していた時期のものと捉えられ,甲斐から金がもたらされたとは考えにくい。金・銀・銅・鉛・亜鉛などが一連の熱水鉱床で形成されていくことを勘案すると,駿河や伊豆の金山の可能性を考えておいた方がよい。特に,亜鉛が検出された中山金山と同じ鉱脈に属する富士金山には,注意を払っておく必要がある。神奈川県小田原市の小田原城跡御用米曲輪(16世紀後半)から出土した金箔かわらけ等を据置型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。木の葉形金具と金箔片は,かわらけに付着している金箔とは異なる組成であり,異なる工程で作られたと考えられる。また,かわらけごとの金箔の組成の違いや,同一のかわらけ内でも金箔の分析部位による組成の違いなどが見出された。これらからみて,金箔はいずれも金,銀,銅を混合した合金として作られてはいるが,混合比率がわずかずつ異なる金箔が混在して使用されていることがわかった。
著者
新川 登亀男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.277-327, 2015-03

本稿は,法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘が日本列島史上における初期の仏教受容のあり方を物語る長文の稀有な情報源であるとの問題意識に立つ。そして,この光背銘をいかに読み,解釈するかということに終始するのではなく,この光背銘がどのように成り立ったのか,そこにいかなる歴史文化が投映されているのかを重要視する。そのためには,銘文中の不可解な用語を単語として切り出し論じることの閉塞性を反省し,人々の行為や心情ないし思考を言い表わしていると思われる表現用法や文に注目する。そこで注目したのが,「深懷愁毒」と「當造釋像尺寸王身」の2か所である。この2か所の表現とその文脈に沿う先例は,けっして多くはない。しかし,そのなかにあって極めて注目すべき先例が,『賢愚經』巻1第1品と『大方便佛報恩經』巻1・2・3に見出せる。それは,釈尊本生の捨身(施身)供養譚や,その他の死病譚,そして優塡王像譚(仏像起源譚)などの譬喩物語に含まれている。この二経は,ともに中国南北朝期に定着し,易しい仏教入門書として流布した。光背銘文の作者は,この二経の譬喩譚を承知しており,そこで語られている王や釈尊の激烈な死(擬死)や不在(喪失)の様と,それに遭遇した人々のこれまた壮絶な哀しみや恐れの様を,現実の「上宮法皇」らの病や死とそれへの反応とに当てはめて事態を認識し,受け止めようとしたものと考えられる。加えて,そこには,自傷行為や馬祭祀などをともなう汎アジア的な葬儀習俗も作用していた。そして,このような作文を可能にするのは「司馬鞍首止利佛師」であるとみる。なぜなら,「尺寸」単位や仏像起源譚に関心をもつ「秀工」,また「司馬」でもある「止利」だからである。This article considers the inscription on the halo of the Shaka Triad enshrined in the Kondo (Main Hall) of Horyu-ji Temple as a long script containing rare information about the early stages of acceptance of Buddhism in the Japanese Islands. Based on this acknowledgement, this article emphasizes the circumstances to create the halo inscription and the historical and cultural background behind it rather than its reading or interpretation. Therefore, instead of being trapped in arguments over the meaning of each term in the inscription, this study focuses on the expression styles and sentences considered to describe people's actions, feelings, and thoughts. Specifically, our attention is aimed at two phrases " 深懷愁毒" (deeply worry, lament, and agonize) and " 當造釋像尺寸 王身" (commit to create a statue of Shaka in the same size as the King) .There are not many precedents of these two phrases or contexts. Among such examples, Xianyu jing (the Sutra of the Wise and the Foolish) Vol.1, Book 1 and Da fangbian fo baoen jing (the Sutra of the Great Skillful Means of the Buddha to Reciprocate [His Parents'] Kindness) Vol. 1 to 3 are worth investigating. The related concepts can be found in the figurative stories of the sutras, such as the tales of self-sacrifice in the former lives of Buddha, the tales of death and illness, and the tale of King Udayana image (the first Buddha image) . These two sutras were established in the Nan-Bei Chao period and spread as an easy guide to Buddhism. The creator of the halo inscription is considered to have known the figurative stories in these sutras and compared the tragic deaths (feigning deaths) and absence (loss) of kings and Buddha, as well as the sadness and fear of the bereaved, described in the stories with the disease and deaths of the retired Emperor Jogu and others and the reaction of surrounding people in order to realize and accept the actual situation. He was also influenced by the funeral customs common across Asian cultures, such as practices including self-injurious behaviors and horse sacrifices. This study attributes the inscription to Shibano-Kuratsukurino-Obitotori, Buddhist Sculptor, since he was Tori from the Shiba clan and a craftsman interested in the tale of the first Buddha image and life-size statues.
著者
青木 隆浩
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.156, pp.245-264, 2010-03-15

近年,世界遺産の制度に「文化的景観」という枠組みが設けられた。この制度は,文化遺産と自然遺産の中間に位置し,かつ広い地域を保護するものである。その枠組みは曖昧であるが,一方であらゆるタイプの景観を文化財に選定する可能性を持っている。ただし,日本では文化的景観として,まず農林水産業に関連する景観が選定された。なぜなら,それが文化財として明らかに新規の分野であったからである。だが,農林水産業に関連する景観は,大半が私有地であり,公共の財産として保護するのに適していない。また,それは広域であるため,観光資源にも向いていない。本稿では,日本ではじめて重要文化的景観に選定された滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」と,同県高島市の「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」をおもな事例として,この制度の現状と諸問題を明らかにした。
著者
山口 えり
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.41-60, 2008-12-25

広瀬大忌祭と龍田風神祭は、神祇令で定められた恒例の祭祀のうち、風雨の順調を祈るものとして、孟夏と孟秋に行われる祭祀である。すでにこの二つの祭祀については、先行研究も多くあるが、両社は大和川を挟み別々の地にあるのに、なぜその二つの地が選ばれたのか、なぜその祭祀が同時一対で行われ続けるのかについては説明されていない。本稿では、まず『日本書紀』にみられる広瀬大忌祭と龍田風神祭の記事を整理し、次の七点を指摘した。①天武四年以降、広瀬・龍田の祭りは基本的に毎年四月と七月に行われ、特に持統四年以後は欠けることない。②天武四年四月癸未条の初見記事にのみ、龍田社と広瀬社の立地が記載される。③初見記事にのみ、派遣された使者が記載される。④龍田では風神、広瀬では大忌神が祭られる。⑤天武八年四月己未条より、記載の順番が「龍田・広瀬」から「広瀬・龍田」になる。⑥持統紀からは「遣使者」という定型の語が入る。⑦持統六年四月より、「祭」が「祀」に変わる。それぞれの点について検討を加えた結果、広瀬・龍田の両社が国家の意図により整備されていった過程が明らかとなった。敏達天皇の広瀬殯宮が置かれた広瀬は、龍田に比べると早く敏達天皇家王族と関わりを持つ地であった。その河川交通の利便性が重視され、六御県神と山口神を合祭する国家祭祀の場となった。一方の龍田は、天武・持統王権の記憶の中ではなかなか制し難い地域であった。龍田は、大和と河内を結ぶ交通上の要所でありながら通過には困難が伴い、延喜祝詞式によれば悪風をなす神が所在する地であった。龍田道の整備や国家主体の祭祀を広瀬と共に行うことは、そのような龍田の異質な性格の克服を意味していた。二つの地域は農耕や地理的要衝という古代国家の基盤に大きく関わる要素を有していた。そのために一つに括ることが重要であり、その組み合わせは存続したのである。この二つの祭祀を同時一対で行うことは、律令制定過程期における飛鳥を中心とした大和盆地から、河内へと続く大和川流域全体の掌握を象徴していたのである。
著者
斉藤 亨治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.247-263, 2002-03-29

善光寺平では,更新世前期からの盆地西縁部の断層の活動により盆地が形成され,その盆地が地殻変動・火山活動・気候変化によって盛んに供給された土砂によって埋積された。善光寺平周縁をはじめ長野県に扇状地が多いのは,流域全体のおおまかな傾斜を表す起伏比(起伏を最大辺長で割った値)が大きく,大きい礫が運搬されやすいためである。その扇状地には,主に土石流堆積物からなる急傾斜扇状地と,主に河流堆積物からなる緩傾斜扇状地の2種類ある。急勾配の土石流扇状地については,その形成機構が観測や実験によりかなり詳しく明らかになってきた。しかし,緩傾斜の網状流扇状地については,その形成機構はよく分かっていない。扇状地と気候条件との関係では,乾燥地域を除いて,降水量が多いほど,気温が低いほど,扇状地を形成する粗粒物質の供給が盛んで,扇状地が形成されやすいといえる。また,気候変化との関係では,日本では寒冷な最終氷期に多くの扇状地ができた。その後の温暖な完新世では,扇状地が形成される場所が少なくなったが,寒冷・湿潤な9000年前頃と3000年前頃,扇状地が比較的できやすい環境となっていた。善光寺平の地形と災害との関係では,犀川扇状地および氾濫原部分では,1847年の善光寺地震で洪水に襲われているが,氾濫原部分では通常の洪水もよく発生している。扇端まで下刻をうけた開析扇状地では水害が発生しにくいが,扇頂付近が下刻をうけ,扇端付近では土砂が堆積するような扇状地では,下刻域から堆積域に変わるインターセクション・ポイントより下流部分で水害が発生しやすい。裾花川扇状地や浅川扇状地には扇央部にインターセクション・ポイントがあり,それより下流部分では,比較的最近まで水害が発生していたものと思われる。
著者
小川 宏和
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.167-182, 2019-12-27

本稿では、『延喜式』にみえる赤幡が古代社会において果たした役割を検討することにより、赤色に対する色彩認識が人々の行動に与えた影響を明らかにすることを目的とした。古代社会において赤色は、装着した人・物の内部にある汚穢等を鎮めると同時に外部の障害から保護する性質=清浄性と結びついた色と認識され、この清浄性を前提に道路において人・物の進行や移動を汚穢から守りつつ実現させる機能も民俗社会で広く認められていた。そして、この赤色の性質は様々な局面で権力とも結び付き、赤色を支配し利用することが天皇家を中心とした公の力を表示することを意味した。そのため、赤幡は天皇の行幸時のほか、最高の清浄性が求められる供御物を運搬する際に道路において掲示され、他の進上物と区別する意味をもち、御膳食材やそれを食べる天皇らの身体の清浄性を維持する機能を果たしたと考えられる。さらに、八世紀半ば以来供御物の標識とされてきた赤幡は、贄を生産する集団、贄人に頒布されることになる。赤幡は元慶七年官符にみえる員外贄人が得た「腰文幡」や家牒と同様、贄人の生産活動のなかで交通許可証として機能するとともに贄人集団を組織化して特権身分を表示した。また、延喜天暦年間までに内廷官司が旧来の腰文幡ではなく赤幡を贄人の標識として放つように変化したことを指摘し、その背景には、元慶七年官符からうかがえる「潔齋」を基準とした贄人の差異化が困難な状況が存在したと推定した。供御を口実にした弱民圧迫行為が贄人自身の「潔齋」を破綻させ、その行為は最も「潔清」が求められた天皇の食事にも「汚黷」を及ぼすという論理が存在したのである。赤幡班給は他の家政機関が発給する標識との差異化を意図したもので、清浄性をもつ赤色が贄や贄人、御膳に要求された清浄性をめぐる危機的環境のなかで必要とされ、贄人の身体の「潔齋」を守り、特権身分を保証する意味をもったと考えられる。