著者
渡部 鮎美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.253-274, 2008-11-30

臨時雇いとは出稼ぎや日雇いのように,日々または1年以内の期間を定めておこなわれる労働である。本論では農業と臨時雇いなどの他の仕事を兼業する人々の生計活動の分析を通して,兼業というワークスタイルについて論じる。調査地の千葉県南房総市富浦町丹生は房総半島南端に位置する集落である。丹生の人々は1960年から現在まで,農業とともに日雇いや農業パートなどの多くの臨時雇いをしてきた。とくに1970年代前半までは臨時雇いが農閑期の収入源となっていた。しかし,1970年代後半になるとビワ栽培が盛んになり,農業収入が増加して臨時雇いの経済的な意味は希薄化する。それでも現在まで丹生や周辺地域で臨時雇いが続けられてきたのは,臨時雇いが賃金を得る以外の意味をもっていたからである。まず,彼らにとって臨時雇いはヒマな時間を埋めるための仕事であった。そして,臨時雇いは外出がしづらい環境のなかで,家庭の外へ出る手段にもなっていた。また,彼らにとって臨時雇いは一生や一年,一日のなかでおこなわれる多様な生業活動のひとつであった。これまでの労働研究では,生計活動と直接結びつかない労働も生計活動と直接結びつく労働と同等の価値をもっていたことが示されている。また,そうした労働観が諸生業の産業化によって崩れていることも指摘されている。しかし,産業化後も生計活動と直接結びつかない臨時雇いのような生業活動は主たる生計手段となる生業活動からの逸脱となっている。一般にイレギュラーな労働とみられる臨時雇いも人々の生活の上ではなくてはならないものだったのである。本論では,複合生業論などの先行研究で見出された個々の生業活動が,実際にどのようにおこなわれているのかを参与観察や生計活動の通時的な分析を通して示した。そして,一生や一年,一日のなかで,主たる生業活動を逸脱しては復帰する営みが,現代の農業と他の仕事を兼業する人々の労働の総体としてとらえられるものであったことをあきらかにした。
著者
田村 省三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.209-233, 2004-02-27

本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近世における博物学への関心と島津重豪の蘭学趣味から出発し、オランダ通詞の招聘や蘭方医の採用をとおして、しだいに領内に普及していった。そして、蘭学が重用され急速に普及していったのは島津斉彬の時代であり、藩が強力に推進した「集成館事業」の周辺に顕著であった。しかし、藩士たちの蘭学の修得については、中央から遠く離れた地域性や経済的な困難もあって、江戸や大阪への遊学は他の地域に比べて少なかった。むしろ、中央の優秀な蘭学者を藩士に採用したり、蘭学者たちとの人脈を活用するという傾向が強かったと思われる。ただし長崎への遊学は、例外であった。薩摩藩の蘭学普及は、藩主導で推進されている。したがって地域蘭学の立場からすれば、同時代の諸藩とはその目的、内容と規模、普及の事情に相違がみられる。一方で、蘭学普及の余慶がまったく領内の諸地域には及んでいなかったのかと言えばそうではない。このたび、地域蘭学の存在を肯定することのできる種痘の事例を確認することができた。それは、長崎でモーニッケから種痘の指導を受けた前田杏斎の種痘術が、領内の高岡や種子島の医師たちに伝えられ実施されたという記録によってである。また薩摩藩は薩英戦争の直後、藩の近代化を加速するため、洋学の修得を目的とした「開成所」を設置する。ここでは当初蘭学の学習が重んじられていたが、しだいに英学の重要性が増していった。さらに明治二年、国の独医学採用に伴い、藩が英医ウィリアム・ウィリスを招聘して病院と医学校を設置してから、英国流の医学が急速に普及する。この地域が本格的に西洋医学の恩恵を受けるのは、以降のことである。
著者
小林 青樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.213-238, 2014-02-28

本論は,弥生文化における青銅器文化の起源と系譜の検討を,紀元前2千年紀以降のユーラシア東部における諸文化圏のなかで検討したものである。具体的には,この形成過程のなかで,弥生青銅器における細形銅剣と細形銅矛の起源と系譜について論じた。まず,ユーラシアにおける青銅器文化圏の展開を概観した上で,細形銅剣の起源については,北方ユーラシアでは起源前1千年紀前半の段階から,中国北方系の青銅短剣の影響を受けたカラスク文化系青銅短剣の系列があり,一方,アンドロノヴォ系青銅器文化の
著者
坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.305-315, 2007-03-30

土器の使用に伴って付着した物質は,その炭素14年代が土器の使用年代を示すものと考えられる。その起源物質の推定を目的として,土器付着物の炭素・窒素分析を行った。多くの試料は陸上生物に特徴的な値を示し,炭素14年代について海洋リザーバー効果の影響が少ないことが分かった。一方,東北や北海道では海洋生物に特徴的な値を示す試料の割合が増え,その影響は無視できない。炭素の安定同位体比からは,土器付着物に雑穀類などのC4植物の存在が確認され,また窒素の安定同位体比との相関では,食材を反映する内面と燃料材を反映する外面とに違いが見られた。
著者
柴崎 茂光
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.49-73, 2015-02

本報告では,鹿児島県屋久島で行われているエコツーリズム業が地域社会に及ぼす経済的影響を,西暦2000年前後に焦点を絞って,需要側(観光客側)・供給側(エコツーリズム業従業者側)双方の視点から明らかにした。屋久島を訪問する年間約20万人程度の観光客のうち,19-21%に当たる約34,000-38,000人が,屋久島滞在中にエコツアーを利用していた(2001-2002年)。またエコツアーを利用した観光客の過半数(57-60%)が,パッケージツアー(以下,パック旅行)を利用しており,エコツーリズム業とパック旅行の関係が密接であることが判明した。エコツーリズム業の経営構造を分析した所,費用の約50%は労務費が占めていた。その一方,減価償却費は旅館業やボーリング場経営に比べ小さい金額・比率にとどまっており,開業に必要な投資額が莫大でないことが示唆された。損益分岐点分析を行ったところ,売上高は損益分岐点売上高を上回り,また損益分岐点比率もホテル業などよりも小さい値であるため,経営環境は良好であると推測された。屋久島のエコツーリズム業の売上高は,年間5億1,000万-5億7,000万円と推定された。エコツアー業の経営環境は良好である一方で,山岳地域への環境負荷も増大させてきた。こうした状況に対して公的機関を中心に,荒川登山バス(シャトルバス制度),様々な対策を導入してきたものの,抜本的な解決には至っていない。
著者
福原 敏男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-23, 1994-03-31

筆者はこれまでに、祭礼芸能である一つもの・細男について考察し、これを平安末期に成立した田楽・王の舞・獅子舞・十列・巫女神楽・競馬・流鏑馬・神楽・舞楽・神子渡等からなる一連の芸能として位置づけた。京都・奈良の古社の祭礼において、「日使」と称する役が、上記の諸芸能とともに、祭礼に参加する事例がある。従来の日使に関する先行研究は、春日若宮祭礼に限られ、ここに神聖性が指摘された。日使は黒袍表袴に長い裾をひいた姿で、奉幣を主な役割とし、芸能的所作がないからであった。本稿では、春日祭・春日若宮祭礼、東大寺八幡宮転害会、大山崎離宮八幡宮の日使神事、山城宇治田原三社祭に参加する日使を対象にした。史料と絵画に基づく検討の結果、日使の成立を楽人の風流に求めた。日使が伝播した地における宗教性は、その所役を荷った人々の階層の問題である。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.1-46, 2006-03-25

近代の博多において、大祭祇園山笠に参加できた諸町のうち、古溪町という町の社会構造と祇園山笠経営についてその実態を詳細に叙述した。同町にはとりわけ昭和一〇年代の史料が豊富に残っているので、聞き取り調査で得られた情報も交えつつ、とくにこの時期を中心に叙述した。古溪町では道路に面した表店に居住する世帯とそれ以外の場所(裏店または表店内の借間)に居住する準世帯との間に大きな社会的格差があった。町の寄合や町役員の選挙に参加できるのは表店の世帯主だけであった。また、町費・祭礼当番費・衛生費などを負担するのも表店の世帯主だけであった。彼らだけが町の正式な構成員であったとみなせる。日中戦争が長期化するなか、古溪町では昭和一五(一九四〇)年に町内会と隣組が設立された。そのさい、内務省の方針に従い準世帯も両組織に加えられたが、しかし両組織の役員の選挙に準世帯の世帯主は参加できなかった。表店の優越は昭和一八(一九四三)年の祇園山笠において古溪町が山笠当番という役を勤めたときにも明瞭に示された。このときの同町の当番役員は表店の世帯主またはその子弟だけで占められた。さらにこの祭礼で最も名誉があるとされる「台上がり」と呼ばれる役割を勤めたのも、表店の世帯主またはその子弟だけであった。一方、明治末期以降の日本では慢性的な不況が続き、博多においても町々の経済力は低下していき、祇園山笠の実施も困難になっていった。昭和前期(一九二六〜一九四五)になると、博多の町々は福岡市や地元財界から祇園山笠にたいする補助金を交付してもらうようになった。しかし太平洋戦争の激化によって物資と人手に不足が生じ、祇園山笠の実施はさらに困難になった。古溪町が山笠当番を勤めたのはまさにこのような時であった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.275-315, 2008-11-30

都市祭礼を中核とする経済構造を以下のように定義する。①祭礼の運営主体が祭礼に必要な資金を調達し、②ついでその資金を諸物品・技術・労働力・芸能の確保に支出して祭礼を準備、実施し、③祭礼が始まると、これを見物するために都市外部から来る観光客が手持ちの金銭を諸物品や宿泊場所の確保に支出する。以上の三つの段階ないし種類によってその都市を中心に多額の金銭が流通する。この構造を祭礼観光経済と呼ぶことにする。また、②に関係する商工業を祭礼産業、③に関係する商工業を観光産業と呼ぶことにする。本稿では近世と近代の博多祇園山笠を例にこの構造の具体像と歴史的変遷を分析した。近世においては、この祭礼の運営主体である個々の町が祭礼運営に必要な費用のほとんどを町内各家から集めた。そしてその費用のほとんどを博多内の祭礼産業に支出した。祭礼が始まると、博多外部から来る観光客が観光産業に金銭を支出した。博多は中世以来、各種の手工業が盛んな都市だった。このことが祭礼産業と観光産業の基盤となっていた。祭礼産業は祭礼収益を祭礼後の自家の日常の経営活動に利用したと考えられる。観光産業も観光収益を同様に扱ったと考えられる。一方、祭礼後の盂蘭盆会のさいには周辺農村の農民が博多の住民に大掛かりに物を売っていた。このような形で、博多の内部で、そして博多の内部と外部の間で、一年間に利潤が循環していた。近代の博多では商工業の近代化と大規模化が進まず、小規模な商工業者が引き続き多数を占めていた。そのため資本・生産・利潤の拡大を骨子とする近代資本主義にもとづく経済構造は脆弱だった。明治末期以来の慢性的な不況や都市空間の変容などさまざまな要因により、町々が祭礼費用を調達することは困難になっていった。しかし小規模な商工業者たちにとって祭礼収益や観光収益が年間の自家の収益全体に占める割合は高かった。この理由で、祭礼費用の調達に苦しみつつも、博多祇園山笠はかろうじて近代にも継続された。
著者
田原 範子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.167-207, 2011-11-30

本稿では,死という現象を起点としてアルル人の生活世界の記述を試みた。アルバート湖岸のアルル人たちは,生涯もしくは数世代に渡る移動のなかで,複数の生活拠点をもちつつ生きている。死に際して可能であれば,遺体は故郷の家(ホーム)まで搬送され,埋葬される。遺体の搬送が不可能な場合,死者の遺品をホームに埋葬する。埋葬地をめぐる決断の背景には,以下のような祖霊観がある。身体(dano)が没した後,ティポ(tipo)は身体を離れて新しい世界へ移動する。ティポは,人間界とティポの世界を往来しつつ,時には嫉妬などの感情を抱き,現実に生きている人びとの生活を脅かす。病気や生活の困難はティポからのメッセージである。そのような場合,ティポは空腹で黒い山羊を欲している。その求めに速やかに応じるために,埋葬地は祖先たちの住む場所つまりホームが望ましい。アルル人のホームランドでは,ティポはアビラ(abila)とジョク(s.jok,pl.jogi)とともに祀られている。ティポは現世の人間に危害を及ぼすだけの存在ではない。ティポの住まうアビラやジョクに対して,人びとは,語りかけ,家を建て,食物を用意し,山羊を供儀する。父や祖父のティポを通して,祖先の死者たちは生者と交流する。その交流は,生者に幸運や未来の予言をもたらすこともある。死者と生者が共にある空間で,死者のティポは安住することができる。移動に住まう人びともまた,死者をホームに搬送すること,死者の代わりに死者の遺品を埋葬することを通して,ティポの世界と交流している。
著者
坂 靖
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.239-270, 2018-03

本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。This article examines the dynamics of and relationships among tumulus, settlement, production, and ritual sites in the Nara Basin and other areas in the central Kinki region to elucidate the regional structure (the relational structure of archaeological sites) and thereby explains the production base and regional government hubs of the Yamato polity and the process of expanding its influence.In the Yayoi period, the Ōyamato area had the highest productivity in the Nara Basin. Its upper river basin is home to the Makimuku archaeological site, which dates back to the Shōnai-style Pottery phase. In the following Furu-style Pottery phase, the clan based at this site expanded, with the construction of large keyhole tombs at the Hashihaka Tumulus site and the Ōyamato Tumulus cluster. It was the origin of the Yamato polity. The powerful regional clan (known as "Ōyamato Tumulus clan") that had established a production base in Ōyamato gained power in the region in the Furu-style Pottery phase and built tombs across the region, including tumulus clusters in Yamanobe and Shiki. The Yamato polity, originated from the Ōyamato Tumulus clan, gradually strengthened its position and expanded its influence by advancing into new areas.The relational structure of archaeological sites indicates the coexistence of dominant local clans across the Kinki region, the rise of the Saki Tumulus clan based in the northern Nara Basin, and the emergence of local clans serving as mediators between the Ōyamato and Saki Tumulus clans in the Furu-style pottery phase. Among these clans, the Ōyamato and Saki Tumulus clans seem to have played a leading part.In the fifth century, the Ōyamato Tumulus clan won over local clans in Kawachi, further expanded its influence, and acquired diplomatic authority to represent the Yamato state. The Yamato state expanded its production base across the extensive Yamato River Basin and interspersed regional government hubs around the area. It is, however, presumed that the domination of the Yamato polity was based on an unstable balance of power among the influential regional clans thriving in the Kinki region.This situation changed drastically under the reign of Emperor Keitai, a descendant of the Ōda Chausuyama Tumulus clan. This powerful regional clan originated in the northern bank of the Yodo River further expanded the production base of the Yamato Polity across the extensive Kinai region by establishing alliances with other influential regional and local clans in the Kinki, Hokuriku, and Tōkai regions. The merger of these clans and the Ōyamato Tumulus clan in the late six century established an absolute monarchy that governed the Yamato state while exercising its strong influence over the clans in the Nara Basin.
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.379-412, 2008-12-25

今日、関東地方低地部を含む日本南部における典型的な鎮守の杜は、常緑広葉樹林(照葉樹林)であり、それは古くから人の手があまり入ることなく続いてきたと考えられることが多い。しかし、明治期以降の文献、地形図、写真をもとにした考察から、そうした通念は誤ったものである可能性が高くなってきている。ただ、これまでの考察事例はまだあまり多くはなく、かつての神社の杜が一般的にどのような植生であったかを述べるには、もっと多くの事例を検討する必要がある。そこで、本稿においては、古い写真や絵図類を主要な資料として、かつての神社の杜の植生について、より多くの事例を検討した。古い写真としては、『京都府誌』(一九一五)と『日本写真帖』(一九一二)に収められた神社の写真を、主に現況と比較しながら検討した。その結果、それらの写真からわかる神社の杜の植生は、一部には今と大きく変化していないように見えるものもあるが、多くの場合、今日の状態とは大きく異なっていた。すなわち、今日では神社の杜の植生には、クスノキやシイやカシなどの常緑広葉樹が主要な樹木となっていることが多いが、明治末期から大正初期にはスギやマツなどの針葉樹が重要な樹木として多く存在する傾向があった。また、神社付近の樹木は、今日よりも少なく、また小さいことが多い傾向があった。一方、絵図類については、幕末に発行された『再撰花洛名勝図会』(一八六四)と初期の洛中洛外図四点(一六世紀初期~中期)に描かれた神社の杜について、主に同時代に同じ神社を独自に描いた図の比較検討により、絵図類の写実性を検討しながら、それぞれの時代における神社の杜の植生について考えた。その結果、かつての神社の杜の植生は必ずしも一様ではなく、神社により大きく異なっていたが、概してマツがある程度見られるところが多く、またスギが神社の杜の重要な樹種であった場合が多かった。また、一部には常緑広葉樹の割合が大きかったと思われる神社もある。
著者
上野 誠
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.69-85, 1991-03-30

This thesis describes field work by Shinobu Orikuchi, who, together with Kunio Yanagita, led the folkloric studies at their embryonic stage in Japan.Shinobu Orikuchi, 1887-1953, was a renowned writer, a scholar of classical literature as well as a folklorist. Unlike Kunio Yanagita who concentrated on folkloric studies and did not publish may literary works of his own, Orikuchi remained as a writer, a scholar of classical literature as well as a folklorist with his concern equally divided among the three roles. This thesis tries to make clear the relationship between Orikuchi's position with multiple roles and his field work. Orikuchi tried to make his observation of the modern folkloric practices in the context of “classical logic” extracted from his knowledge of “classical literature” and perceive “classicality” of the people. For example, in his observation of Oni performance in the folkloric performing arts called “Hana-matsuri” in Toyone-mura or Toh-ei-cho, Kita-shidaragun, Aichi prefecture, he perceived it to have originated in the performance by “Yamabito” for blessing the arrival of spring. Orikuchi came to this conclusion through his studies of “classical literature”, without the knowledge of which it is impossible for anyone to conclude that the Oni performance originates in Yamabito blessing performance. The field work of this sort made by Orikuchi in relation with studies of classical literature signifies reconfirmation of “classical literature” through “folkloric practices”. Therefore, Orikuchi's field observation can be considered as on having a characteristic of looking at “folkloric practices” in the light of “classical literature”. Being based on this kind of field observation by Orikuchi, it is easy to understand why Orikuchi defind “folkloric practices” as “classical literature in modern life”. Field works meant for Orikuchi works of connecting “classical literature” with “classical literature in modern life”.
著者
長沢 利明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.373-412, 2008-11-30

現存する農民市としては東京都内最古の存在である世田谷のボロ市は、一五七八年(天正六年)における後北条氏の市立掟書の存在によって、そのことを確かめうる重要な地位を占めているが、当初よりそれは典型的な六斎市として成立していた。北条氏の没落した近世期には年に一度の歳の市となったが、彦根藩領内にあって代官の支配・統制下に置かれることとなった。近代期には村方の運営する農民市となり、改暦によって一月・一二月の二度の市立ともなっていったが、明治期にはボロ布市・筵市として知られるようになり、大正期には植木市としての発展もみた。近代産業の勃興と交通網の整備を通じ、前近代的な商品取引はしだいに一掃され、市場商人と地元との親密で特殊な相互関係も解消されていくこととなり、第二次大戦後には暴力団系テキヤ組織の介入を許す余地を与えることとなった。それゆえ戦後の市立の民主的な改革は、それらとの対決なくして実現することができず、粘り強い努力を通じて地元民はついに一九六五年(昭和四〇年)、ついにこれを達成するに至った。この成果によって今日のボロ市の運営基盤が形作られ、市立の現代化がなされていった。今日の出店構成に関する実態調査結果からも、改革後の特色ある業種実態、出店者の広域化、地元主導型の民主的運営形態の定着といった諸傾向を、そこに明確に見い出すことができる。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.145-162, 1993-11-10

日本の民俗学は柳田國男のほとんど独力によってその全体像が作られたと言っても過言ではない。従って、民俗学のどの分野をとってみても、柳田國男の研究成果が大きく聳え立っており、現在なお多くの研究分野は柳田國男の学説に依存している。民俗学の研究成果として高く評価されることの多い子供研究も実は大部分が柳田國男の見解を言うのであり、柳田以降の民俗学を指してはいない。そのような高く評価され、実証済みの事実かのように扱われる柳田國男の見解を整理し、問題点を指摘し、それに続いて柳田以降の民俗学の研究成果も検討した。柳田國男の子供理解は大きく二つの分野に分けられる。一つは子供の関係する行事や彼等の遊びのなかに遠い昔の大人たちの信仰の世界を発見するものである。子供を通して大人の歴史を明らかにする認識である。これは手段として子供を位置づけていることになる。この子供を窓口にして大人の過去を見る場合は、「神に代りて来る」という表現に示されるように、例外なく信仰、さらには霊魂観と結びつけて解釈している。もう一つの柳田の子供研究の世界は「群の教育」という表現に示される。群の教育は近代公教育を批判するものとして注目され、教育学系統の人々から高く評価される視点であり、柳田以降にもほとんど疑われることなく継承されてきた。しかし、この視点は子供を教育の対象と見るもので、大人にとって望ましい一人前に育てる教育に過ぎない。民俗学はこれら柳田國男の呪縛から解放されなければ新たな研究の進展は見られないことは明白である。子供を大人から解放して、子供それ自体の存在を分析し、子供を理解することによって新たな民俗学の研究課題は発見されるであろう。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.7-46, 1993-03-25

いったん遺体を骨にしてから再び埋葬する葬法を、複葬と呼ぶ。考古学的な事象からは、死の確認や一次葬など、複葬制全体を明らかにすることは困難で、最終的な埋葬遺跡で複葬制の存在を確認する場合が多い。そうした墓を再葬墓、その複葬の過程を再葬と呼んでいる。東日本の初期弥生時代に、大形壺を蔵骨器に用いた壺棺再葬墓が発達する。その起源の追究は、縄文時代の再葬にさかのぼって検討する必要がある。縄文後・晩期の再葬は、普遍的葬法といえるものはまれであるものの、南東北地方から近畿地方にいたる比較的広い地域に広がっていた。再葬法には遺骨を集積した集骨葬や、土器に納めた土器棺再葬、人骨を破壊して四角く組んだ盤状集骨葬や、人骨を焼いて埋葬した焼人骨葬などがあり、けっして縄文後・晩期の再葬も一様ではない。縄文時代には、生前の血縁関係や年齢に応じたつながりを死後も維持するためと思われる合葬がしばしばおこなわれるが、再葬のひとつの要因として合葬が考えられる。そうした再葬を伴う合葬のなかには、祖先や集落の始祖に対する意識の萌芽的な側面が指摘できるものもある。しかし、同様な形態の再葬でもその内容が同じとはいえず、さらに長い年月の間、その性格も不変のものではありえないと思われる。地域間の相互交流、再葬の際の骨の扱い方の変化など再葬法の時代的な変化を整理することにより、そうした多様性の内実に近づくことが可能だろう。中部高地の縄文晩期の再葬の特色は、多人数の遺骸を処理する焼人骨葬であり、それは北陸に広がり、伊勢湾、近畿地方に伝播した。一方、中部高地には伊勢湾地方の集骨葬が影響を与えた可能性がある。再葬の際の骨の取り扱い方という点では、縄文後期に顕著であった全身骨再葬と、頭骨重視の傾向が晩期初頭~前葉にも引きつがれる一方、それ以降部分骨再葬や中期にさかのぼる遺骨破壊の行為も比較的広範囲に広まるように、晩期前葉を過渡期として遺骨の取り扱いにも変化がみられるようになる。晩期中葉の近畿地方では部分骨再葬と結びついた土器棺再葬をおこなっていた。土器棺再葬を部分骨再葬とみなせば、焼人骨はその残余骨の処理であったと考えられ、遺骨破壊の必要性が高まった反面、遺骨保存の措置が採られた二重構造を想定することができる。多様な再葬の形態と相互の影響関係が認められる近畿地方から中部高地の内陸地帯で、晩期中葉には集骨葬が衰退するなか、類例は少ないが土器棺再葬と焼人骨葬が晩期終末まで継続するのは、弥生時代の壺棺再葬墓の成立を考えるうえで重要な現象である。
著者
村木 二郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.165-190, 2003-10-31

12~13世紀に,経塚は全国各地で造営された。特に,平安京を中心とした近畿と,大宰府を中心とした九州北部が2大中心地であったため,これまでの研究も西日本の経塚が対象となることが多かった。しかし,ここ数年東日本の経塚調査例も増えてきている。そこで本稿では東日本の経塚のなかで,銅製経筒や土製・石製の専用経筒・外容器を出土した経塚を対象に,地域的な傾向をみていく。経塚は地域色の強い遺跡であるため,個々の資料を詳しく検討する際にはどうしても特殊性が目立ってしまう。そのため本稿では巨視的な立場で東日本の経塚を概観することにより,今後の研究における基礎作業をおこなうことが狙いである。手法として,まず銅製経筒を近畿系の経筒と,製作技法の異なる一鋳式経筒に分類し,その分布地域を押さえる。次に,外容器を珠洲系,東海系,石製などに分け,これらの分布圏も同様にみていく。また,経筒を埋納するにあたって外容器を用いる場合や石室を造る場合がある。出土状況が明らかな例が増えてきたため,こういった情報をもとに埋納法にもとづいた分類も加えた。これらの作業により,日本海側と太平洋側の違い,関東の独自性などが明確に現われる。それらをもとに,東日本の経塚は,陸奥,出羽,関東,中部高地・静岡東部,東海西部,加越,嶺南の7地域に区分することができた。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.3-48, 1993-02-26

民族・民俗学で複葬と呼ぶ葬法は遺体を何度も故意に取り扱うため,葬儀が複数回におよぶもので,考古学ではこれを一般的に再葬と呼んでいる。日本列島では縄文晩期終末から弥生Ⅲ期までの東日本の一部で、主に壺形土器を蔵骨器にした再葬墓が発達した。この再葬墓に特徴的なものは,一つの土坑の中に複数の土器を納めた複棺再葬墓であるが,複数の土器棺に納めた人骨が複数体の場合は,一括埋納の契機や合葬された人々の社会的関係が問題になってくる。複棺再葬墓の土器には摩滅状態の著しいものや補修痕のあるものが日常集落以上に含まれる。また,一土坑の複数の土器には型式差のあるものが共存し,埋納までに要した長い集積の期間を推測させるものもあるが,それはまれである。一土坑の遺体数は2~4体で7体という例もみられる。これら合葬人骨は男女ともにあり,また成人と小児など世代を超えたものが組み合わさる場合もある。したがって一土坑における複数の納骨土器は,ある期間の集積を経て一括埋納されたものであり,集積の期間はまれに長期にわたる場合もあるが,多くは土器型式の存続期間を超えるほど長くなかったとみられる。ならば,この一土坑に合葬された者の紐帯は累世的なものは考えにくく,血縁的紐帯か世帯のまとまりか世代によるまとまりかということになる。出土人骨におもきを置けば年齢階梯的つながりは想定しがたく,血縁か世帯であろうが,これを解くてがかりは墓域の構成にある。初期の再葬墓群は弧状を呈するものがある。福島県根古屋遺跡の分析からすると,弧状の墓域がいくつかの群に分かれており,各群に新古の墓坑がみられる。これはあらかじめ墓域を区画して埋葬していったものであり,これら各群は縄文時代の埋葬小群と同様なものだといえる。縄文時代の埋葬小群は血縁のつながりがある身内のグループと,非血縁の婚入者のグループからなる一つの世帯の累積的墓群とされる。縄文時代後・晩期には夫婦など血縁関係にないものどうしの合葬はおこなわなかったとされる。複棺再葬を合葬の一形態とみなし,そこに縄文時代の合葬原理が生きているとすれば,こうした縄文時代の墓域構成を踏襲した初期の複棺再葬墓は,なんらかの血縁的な関係にある者どうしを合葬した土坑と考えるのが妥当だろう。そしてそれらが集合した埋葬小群が,一つの世帯の歴史的な墓群であり,墓域全体が一つの集落の墓地だと考える。