著者
藤村 正司
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.509-523, 2019 (Released:2020-06-12)
参考文献数
46

本稿は、PISA学力調査2015の30ヶ国のデータから、数学得点と大学進学期待を事例にしてR.ブードンの格差生成の2段階説の検証から日本的特徴を再考する。日本の高1は、PISA学力調査で高得点を維持してきたが、家族資本の恵まれた生徒ほど「試験不安」が強く、PISA高得点の代償になっている。「試験不安」が「達成動機」を媒介して数学得点を押し上げる間接効果があるからである。一方で、学校内部と学校間で家族資本による格差拡大を緩和する「補償効果」が存在する。
著者
安喰 勇平
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.13-24, 2020 (Released:2020-07-10)
参考文献数
25

教育学における他者論の一つの成果として、「~し直す」成長モデルが教育学において浸透している。ただ、「~し直す」成長モデルには、教育学における他者論に潜在していた自己矛盾の問題が十分に論究されないまま、依然として残されている。本稿は、バトラーとレヴィナスの受動的主体形成論に注目することを通して、教育学における他者論の自己矛盾のもたらす問題を克服する方法を提示する。
著者
岩田 一正
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.417-426, 1997

本論文は, 義務教育制度がその内実をほぼ完備し, 地域共同体が再編成されつつあった明治後期に, 少年たちが, 書字文化を媒介とした固有名の個人が集う公共圏をどのように構築していたのかを検討することを目的としている. 少年たちが雑誌への投稿者として共同性を構成する過程は, 自らを言葉を綴る主体として保つ近代に特有な方法を, 我々に開示してくれるだろう. 本論文が史料とするのは, 当時最も読まれていた少年雑誌であり, 明治後期の「出版王国」博文館によって発行されていた『少年世界』である. 『少年世界』に掲載された投稿文の分析を通して, 三つの観点が示されることになる. 第一に,1903年頃に『少年世界』の主筆である巌谷小波によって提示された言文一致体は, 天真爛漫な「少年」という概念を創出した. さらに, 『少年世界』編集部は投稿作文欄の規定を改正し, 少年たちは言文一致体で投稿するように要請された. その結果, 煩悶する「青年」と天真欄漫な「少年」が差異化され, 『少年世界』は後者のための雑誌となった. 第二に, 『少年世界』は, 少年に固有名をともなった他者とのコミュニケーションの場を提供した. しかし, その場は, 抽象的で均質な時空によって構成されていた. それゆえ, 少年たちは地域共同体からの切断に由来する, いまだかつて経験したことのない孤独を感じることになった. しかしながら, 投稿欄を利用することによって, その孤独を補償し, 他者との交歓=交感を享受するために, 少年たちは誰かに向かって何かを書こうとする欲望を生み出し, ある場合には, 同好のコミュニケーション・ネットワークを形成したのである. そして, この文脈において, 言文一致体は適合的な文体であった. なぜなら, 言文一致体は, 少年に見えざる他者の声を想像させることができるからである. また, 当時は, 国家的な郵便制度が確立したことによって, 文通によるコミュニケーションの制度的な基盤が整備された時期であった. 第三に, 少年たちは, 自らの手で雑誌を出版するようになった. ここで注目に値するのは, 活字で構成される一般の雑誌とは異なり, 少年が制作した雑誌は, 肉筆やこんにゃく版, 謄写版によって作られており, 手作りの感触を残していることである. 少年の雑誌制作は, 大正期以降の同人雑誌文化の基層を形成するものであり, この同人雑誌文化から, 数多くの文学作品が創出されることになる.
著者
宮本 健市郎
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.141-150, 1998

本稿の目的は、(1)フレデリック・リスター・バークの教育思想において自発性の原理が形成される過程を精査すること、(2)自発性もしくはダイナミズムの意味の変化に焦点をあてて、児童研究と進歩主義教育との関係を解明すること、である。 1899年から1924年まで、サンフランシスコ州立師範学校の初代校長を務めたフレデリック・リスター・バークは、児童研究運動と進歩主義教育運動との重要なつながりを代表している。彼は、児童研究運動の父G.S.ホールの弟子であり、1920年代の進歩主義教育に大きな影響力を与えたカールトン・W・ウォシュバーンおよびヘレン・パーカーストの恩師であったからである。 バークは1890年代の半ばにクラーク大学で心理学を学んで、G.S.ホールの賞賛者になった。彼は、子どもは完全な自由を与えられれば自然と人類の発展を繰り返すと信じ、子どもの内部の力がその発展を導くと考えた。したがって、幼稚園のカリキュラムはその発展の過程に、すなわち遺伝的な順序に、基づかなければならないと彼は主張した。 バークは1898年に、カリフォルニア州サンタバーバラ公立学校の教育長に就任した。彼は児童研究と反復説に深く心酔していたので、サンタバーバラの公立幼稚園にフリープレイを導入した。フリープレイはいかなる障害もなく自然に発達するための機会を子どもに与えると考えたからである。バークとサンタバーバラ公立学校のスタッフは、子どもの自由で自発的な活動を良く調べ分類する実験をおこなった。この実験から、思いがけずバークが発見したことは、子どもの自発的な活動はただ下等な人類の繰り返しではなく、子どもの創造的な表現を含んでいるということであった。 この実験の後、バークは子どもの発達に関してホールとはかなり異なった見解に到達した。ホールが子どもの生まれつき、すなわち遺伝的に決定された発達を信じていたのに対して、バークは子どもの発達を方向づける環境と創造的表現の重要性に気がついたのである。 1899年にバークはサンフランシスコ州立師範学校の初代校長に就任した。彼は画一的一斉授業をやめて、子どものダイナミズムを開発するための個別教育法を創案した。ダイナミズムは自発性や内部の力だけでなく、子どもの創造性を含んでいると考えられていた。サンフランシスコ州立師範学校でバークの下で働いていたカールトン・ウォシュバーンは、バークの個別教育法を学んで、後にそれを修正し、ウィネトカ・プランと名付けた。当時アメリカ合衆国のすべてのモンテッソーリ学校の監督者であったヘレン・パーカーストは、バークの個別教育法を真似て、ドルトン・プランを発明した。 児童研究を通して、バークは子どもは自然と遺伝に応じて教育されるべきであることを学んだ。しかし、彼は自然と遺伝をあまりに強調する反復説の決定論的見方を変更した。子どもの自発的な活動と思考の中に創造的な衝動があることを発見したからである。彼はそれをダイナミズムと呼んだ。
著者
木場 裕紀
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.205-214, 2017-06-30 (Released:2018-04-27)

本研究の目的は、マーガレット・ドゥブラーの功績を、彼女が作成したダンス専攻のカリキュラム(コース・オブ・スタディ)を検証することを通して再評価することである。彼女が作成したコース・オブ・スタディは生理学や解剖学といった科目に加え、美術史、音楽などの人文学系科目によって構成されていた。ドゥブラーはダンスの持つ学際性を損ねることなく、自然科学的要素と人文学的要素を併せ持つ領域としてダンス・カリキュラムを形作ることに成功したと言える。
著者
紅林 伸幸
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.174-188, 2007-06-29 (Released:2018-12-26)
被引用文献数
4

日本の教師集団は、学級王国的な教師文化とプライバタイゼーションの進行によって、プライベートな領域には踏み込まず、実践を主体的に交流させることには消極的であるという、日本特有の"限定的な同僚性"を発達させてきた。この同僚性は、主体的・自律的な学校運営を行うことが課題となっている現在の学校にとっては必ずしもプラスに機能するものではないが、個人としての教師にとっては居心地の良い場所を提供してくれる都合の良い同僚性である。それゆえに、その問題性が教師自身に自覚されないという問題の深刻さを抱えている。本稿では、学校臨床社会学の立場から日本の教師文化における同僚性の将来像を展望し、主体的・自律的な学校運営を基礎づける教師の同僚性のスタイルとして、医療現場で取り組みが始まっているチーム医療から《チーム》のアイデアを学ぶ。専門性を主要な要件とし、柔軟性を主要な構造特性としている《チーム》というスタイルは、100年を超える学校化の進展の中で《集団化主義》という独自の特性を身体化してきた日本の教師に、新しい協働の同僚性の可能性を開く。
著者
広瀬 裕子
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.15-26, 2005

This paper analyses the compulsory school sex education introduced in 1994 in England. This system was instituted at the point when the public-private dualism was losing its effectiveness. Factors this paper examines are the role of the Family Planning Association, the nature of the Parliamentary Debates, and the Moral Right's criticism against 'permissiveness'. The findings are as follows. This system was established as a part of education reforms conducted by the Thatcher and Major governments in the 1980s and 1990s. As effective and practical sex education was required for the new system, the governments appreciated so called progressive sex education methods and contents, which had been supported by the FPA and had been severely criticized by the conservatives, especially by the Moral Right, fundamentalist Christians, for its 'permissiveness'. In spite of the criticism by the Moral Right, polls and researches showed that most parents wished school sex education. Media was also in favor of it. Since 1960s, the liberalization in society had varied people's life styles including their sexual attitudes and behaviors. This generated not only positive but also negative aspects in society including increasing numbers of single parent families, and unwanted teenage pregnancies. The request for Government's initiative to deal with these problems gradually became visible. The fear of spreading HIV/AIDS backed up this trend. The provision of sex education to all pupils was then thought to be the most effective solution to tackle these problems. As sex education is strongly valued, teaching compulsory sex education at schools is actually governmental intervention into people's values. The fundamental rule that the government should not intervene into people's values was losing its effectiveness facing the urgent problems. The reason why this thesis did not function is because its underpinning public-private dualism was losing its powers as this did not, in fact, represent the nature of modern society. The excellent analysis of Foucault's clarified that sex in modern society was not a mere personal factor located in the private world but a key factor for the comprehensive political function. According to Foucault, sex was at the pivot of the discipline of the body and the regulation of the population that constituted the two poles around which the organization of power over life was deployed. The public sphere therefore could never be indifferent to sexuality and sexuality could never function apart from society. The previous rule then should be understood as a means employed to control members of society in the assumption that individuals would voluntarily keep common values, which, of course, has proved to be an illusion. The compulsory sex education introduced in England is a good example to see the nature of sexuality and states. States will intervene into the private sphere when this does not function properly to supply disciplined members.