著者
齋藤 孝
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.287-294,368, 1999

この論文の目的は,「身体知としての教養(ドイツ語で言えば,ビルドゥング)」という概念の意義を明らかにすること,および,日本の伝統的な教養と教育を検討することによって,私たちによって生きられている身体の重要な役割を教育学の文脈に位置づけることである。 この概念には,二つの主な効果がある。一つの効果は,身体的な経験を通して獲得された知恵を一つの教養としてみなすようになることである。もう一つの効果は,たとえば音読や古典的な詩歌の暗誦のように,古典的な教養を学ぶ上での,私たちによって生きられている身体の重要性を評価するようになることである。生きられている身体というのは,メルロー=ポンティの『知覚の現象学』の中心概念である。「身体知としての教養」という概念は,私たちによって生きられている身体によって基礎づけられているものである。 教養というのは,通常は,多くのスタンダードな書物を読むによって得られた幅広い知識の問題とみなされている。しかし,19世紀までは,日本人にとって,五感を通して,言い換えれば,生きられた身体を通して学ぶことが非常に重要であった。日本の伝統的な学習法では,知の問題は,身体の問題と切り離すことのできないものであった。かつての日本人にとっては,教養をつけるということは,日々の生活の中で自分が生きている身体を耕すことを意味していた。それゆえに,教養ある人間には,何らかの身体的なアート(技芸)を経験していることが期待されていた。身体的な技を反復練習によって向上させる,まさにそのプロセスが,教養の概念の中心だったのである。 「身体知としての教養」という概念を代表する典型的な日本人は,卓越した小学校教師であった芦田恵之助(1873-1951)である。かれは,伝統的な呼吸法を応用したある特定の身体的実践を訓練した。そして,その身体的実践が自分自身の心身の健康にとってのみならず,教育にとって重要であると考えた。身体の基本的な技法が,自己のテクノロジーの中核であった。彼にとって,またかつての日本人の大部分にとって,教養は,心身を耕すことを意味していたのである。
著者
松浦 良充
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.417-426, 1999-12-30 (Released:2007-12-27)

本論文は、アメリカ高等教育史における「リベラル・エデュケイション」および「ジェネラル・エデュケイション」概念の意味と、その相互関係の明確化を試みるものである。この作業を通して、現在私たちが直面している課題である、日本の大学における<教養>について再考する際の示唆を得る。そしてそのための事例として、シカゴ大学カレッジにおける改革の現状と歴史を考察する。シカゴ大学カレッジは、1999年、1984年以来の学士課程カリキュラムを改訂したが、この改革に関しては多くの議論がまきおこっている。なぜならば新カリキュラムは,シカゴ大学の伝統である共通コア科目を縮小し、その分、選択科目枠を拡大するものであったからだ。さらにシカゴ大学カレッジは、創立以来現在に至るまで、アメリカ合衆国における有数の研究志向大学であるにもかかわらず、ロバート・メイナード・ハッチンズ学長・総長時代(1929&#8764;1951 年)に、学士課程カレッジのカリキュラムおよび組織に関してユニークな実験的改革の経験をもっている。しかしながら今回の改革は、多元文化社会におけるリベラル・エデュケイションの新たな概念構成が,共通コア科目からなる一般教育と、専攻(専門)教育、さらに、教室外や国外にさえおよぶ学生の自主学習・研究を含むものへと、再構築されるべきことを示唆している。筆者は、シカゴ大学の改革から、日本の高等教育における<教養>教育概念の再構築のための新たな参照枠を得ることができると考えている。 本稿の議論は、以下の手順によって進めてゆく。第一に、日本の高等教育が、戦後新制大学のモデルとしたつもりであったアメリカにおける「リベラル・エデュケーション」および「ジェネラル・エデュケーション」(教養教育)が、学士課程の専門(専攻)教育と本質的に対立するものである、との誤解がなされてきた。そうした理解は、アメリカにおけるリベラル・エデュケイション概念の意味には含まれていない。第二に、リベラル・エデュケイションの思想史を、とくに、ブルース・A・キンバルによる、「弁論家」の系譜と「哲学者」の系譜という枠組みを参考にしながら、整理・検討する。それによれば、リベラル・エデュケイションの歴史は、弁論家たちによる「アルテス・リベラルス理念」と哲学者たちによる「リベラル-フリー理念」との間の一連の論争の歴史である。そして、いまや両者の理念の統合が求められている。第三に、シカゴ大学カレッジの1999年度カリキュラム改革および実験的改革の歴史について検討する。シカゴ大学カレッジのリベラル・エデュケイションは、コモン・コアによる一般教育、専攻(専門)教育、および自由選択科目から構成されているが、今回の改革では、教室外やキャンパス外にも教育活動を拡張することをめざしている。そしてそれは、リベラル・エデュケイションにおける「アルテス-リベラルス理念」と「リベラル-フリー理念」の統合を試みるものである。そして以上の考察を経て最後に、筆者は、専攻(専門)教育や課外の教育活動を含みこんだ形での、新たな日本の学士課程における教養教育を構築することが必要であると結論する。
著者
黒崎 勲
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.19-28, 1971-03
著者
雪丸 武彦
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.48-64, 2015 (Released:2016-05-19)
被引用文献数
1

2014年は安倍晋三内閣により教育改革が牽引され、多数の改革案や変化が生み出された年であった。1月24日の第186回国会における施政方針演説において安倍首相は「若者を伸ばす教育再生」として①教育委員会制度改革、②道徳を特別の教科として位置づけること、③幼児教育の段階的無償化、④教科書の改善、⑤英語教育の強化、⑥外国人留学生の受入拡大、外国人教員倍増、⑦グローバル化に向けた改革を断行する大学への支援、⑧海外留学の倍増、を掲げた。これらの改革は2014年中に検討され、一部は法制化された。 2014年の改革案、変化は上記以外にも目立ったものがいくつかある。上記を含め、その内容を筆者なりに吟味すると、大きく4つに区分される。第1に、戦後から継続されてきた教育制度を変えるものである。これに該当するものとして「大学のガバナンス改革」(4月)が挙げられる。学長のリーダーシップが制度的に強化され、同時に教授会のプレゼンスは後退した。また、教育再生実行会議の提言(7月)、中教審答申(12月)で示された「小中一貫教育学校(仮称)」もこの区分に位置づけられよう。教育の機会均等の理念のもと、戦後から小学校6年間、中学校3年間の区切り及び単線型の教育制度は維持されてきたが、それらを変える内容が提案された。 第2に、55年体制を契機に作られた仕組みを変えるものである。これには法律改正を伴った「教育委員会制度改革」(6月)が該当する。この改革により自治体の首長の教育行政に対する関与は大きく強まるものと予想される。また、中教審答申(10月)で示された「特別な教科 道徳」(仮称)も、教育課程の領域である「道徳」の位置づけを変化させるものである。 第3に、「第3の教育改革」の修正を図るものである。これには「土曜授業の実施」が該当する。学校週5日制の導入は前回の学習指導要領改訂時における目玉であったが、国の事業(7月)、鹿児島県の方針(12月)のように少しずつ見直しが図られている。また、「大学入試改革」が着手され、中教審答申(12月)において大学入試センター試験の廃止及び、新たなテストの導入が示された。 第4に、将来的な国家的・社会的変化や危機に対応するものである。日本史必修化、新教科「公共」(1月)、小学校英語の教科化(9月)といった「安倍カラー」の強い改革案もあれば、地方創生の「総合戦略」(12月)では「放課後児童クラブ」「放課後子供教室」の拡大といった少子化対策、子育て支援の文脈からの改革案も提案されている。また、フリースクールへの公的支援の検討(10月)のように、興味深い改革も着手されている。 これら以外に2014年は国と地方との対立も目立った。教科書採択をめぐり国による市町村への是正要求が初めてなされたケース(3月)、文科省の方針に沿わない学力テスト結果の公表を行い問題となったケース(9月)は、国と地方との関係の変化を示すものとして記憶にとどめておくべき事項である。 2014年は様々な方位から、また様々な方位へ改革がなされた。今後これらの改革がいかに結実するのか、あるいは終わりのない改革を続けるのか。その動向をさらに注目していく必要があろう。
著者
駒林 邦男
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.30, no.4, pp.294-304, 1963-12-30 (Released:2009-01-13)
参考文献数
7
著者
橋本 紀子
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.2-14, 2005-03-30 (Released:2007-12-27)
被引用文献数
4

Nowadays the extreme reaction against the idea of gender equality and sexuality education has broken out in Japan. In this paper I intend to clarify the difference of opinions about these subjects by analyzing typical cases. Then I examined the subjects for solving the conflicting situation by comparing the view of sexuality education since 1992 in Japan with the actual situations of gender equality and sexuality education in Finland as an advanced country in the field. The findings are as follows. Regarding gender equality and equality education, there is still the greatest conflict of views between equality approved gender roles and the resulting equality by aiming actual equal relations without regard to sex. Regarding sexuality education, the educational administration oppress teachers to teach exactly and concretely the route of infection and prevention against HIV/AIDS and other sexual infectious diseases in spite of being expected the big prevalence of HIV/AIDS in Asia. It can be seen that there remains still a deep -rooted view of sexuality as immoral in Japan. For solving this situation, it is important to familiarize many excellent models of sexuality education which was promoted by a few teachers and to cooperate with medical experts in this field. In Finland, many social organizations and facilities support children's sexual independence besides parents or teachers in the district. We also should promote children's sexuality education using existent institutions in each district such as health centers and promote it as adult education for people using community centers and such in Japan.
著者
生澤 繁樹
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.543-557, 2015

&emsp;政治や教育における「代表」や「表象」という意味での &ldquo;representation&rdquo; の機能と作用について考察する。とくにこれまでのカリキュラムの公共性をめぐるポリティクスを中心的に取り上げながら、この問題を考えることが現代社会における代表制デモクラシーのあり方にとどまらず、参加政治の意味それ自体を根本的に問いなおし、そこに暗に設定されたコンピテンシーという教育上の問題を再び浮き彫りにするということを試論的に示していく。
著者
生澤 繁樹
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.335-347, 2007-09

M.ウォルツァーの配分的正義論は、他の財とは独立した財の独自な意味に応じて、さらには財の意味が解釈され共有される社会・文化・共同体の文脈に応じて、社会的財が複合的に配分されるべきだと論じるものである。ウォルツァーは、教育の領域においても、複合的な平等が考察されると考える。学校、教師-生徒関係、知識といった教育の財は、経済や政治の秩序に規定されない独自の自律した配分の過程を構成する。教育は、単なる私的な財ではない。私たちが集合的に願望する社会的財である。それは、私たちの社会・文化・共同体のなかに埋め込まれたものである。だが、この配分的正義の自律した領域というウォルツァーの構想は、不徹底であるばかりか、疑問である。というのも、もし私たちが社会的財としての教育の正義や配分の平等をまじめに考慮するならば、かれの考察は<善さ>や<承認>の主張を取り巻くパラドクスに必ず突きあたることになるからである。
著者
照屋 信治
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.1-12, 2009

従来、近代沖縄教育史研究は「皇民化教育」「同化教育」という用語で、近代沖縄教育の基本的性格を言い表し、明治国家の教育政策の抑圧性を批判する視座が支配的であった。そのような研究視座は、「同化教育」「皇民化教育」の抑圧性を強調するあまり、沖縄人の主体的営為への着眼が薄いという問題を抱えてきた。そこで、本稿では「嚏(くしゃみ)する事まで他府県の通りにする」と発言し「皇民化教育」「同化教育」の象徴的存在とされてきた新聞人・太田朝敷(1865-1938)の沖縄教育に関する思想や「新沖縄」の構想を再検討した。「同化」概念の多義性に留意しつつ、教育会を抗争の舞台ととらえることにより、太田が、「大和化」には回収されない「文明化」の回路を提示し、「沖縄人」意識の存立基盤を提供したことを明らかにした。
著者
河原 国男
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.255-270, 2010

本稿はマックス・ヴェーバー(1864-1920)の1919年の論文「職業としての政治」を、第一次大戦敗北にともなう君主制崩壊後の指導者不在に対応して、自国の民主的な政治指導者をいかに形成するかという政治教育の課題を思想的に受けとめたテクストとして検討した。その結果、社会的現場での、「カリスマ的教育」に相当する苛酷な「修練」に耐えることを通じ、政治上の理念を政治指導者たるべき者がみずからの追随者に対し不断に「実証」して指導者選抜を図りつつ、自己自身を内面的に支配するのみならず、行為結果や環境との関連で客観的に自己対象化するという主体形成の思想が摘出できた。こうして政治家としての指導者諸資質を意図して形成することを求めるヴェーバー政治教育思想は、等しく民主主義の理念に導かれつつも同時代の公民教育とは異なった思想的可能性を示していた。
著者
安藤 福光 根津 朋実
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.183-194, 2010-06-30 (Released:2017-11-28)

本稿は、異校種間接続の先行例である公立中高一貫校の議論に着目して、現在の公立小中一貫校におけるカリキュラム・アーティキュレーションの課題を解明する目的をもつ。検討の結果、長期化する教育課程の編成原理の明示と検証、児童生徒への影響を把握する視点および手法、そして小中教員の職業アイデンティティの再構成を、それぞれ課題として指摘した。いずれの課題も、中高一貫校の法制化前後の議論と通底する。
著者
内田 良
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.277-286, 2015 (Released:2016-05-18)
参考文献数
14
被引用文献数
1

本稿の目的は、学校安全の教育実践におけるエビデンスの功罪について検討することである。そもそも学校安全において、エビデンスは活用されてこなかった(エビデンスの不在)。しかしエビデンスが活用されても、数値が誤読され、そのうえで施策が推進されることがある(エビデンスの罪)。科学的手続きにもとづいてエビデンスが慎重に用いられることが重要であり、こうして実質的な安全が達成されていく(エビデンスの功)。