著者
天野 知幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.11, pp.11-23, 2006-11-10

本論は、引揚・復員を<戦中>と<戦後>、トランスナショナルな経験とナショナルな経験とが交錯する場として捉え、それらが文学表象、雑誌メディアの言説により歴史化される始めの姿を、西條八十「ああ父帰る夫帰る」と『主婦之友』の引揚・復員記事をもとに考察した。そこに家族の再会という情緒的な<物語>が充満していること、また、<日本>の再建という欲望だけでなく、朝鮮戦争を翌年に控えた国内、国外の複雑な政治状況、危機感が反映されていることを論じた。
著者
伊藤 佐枝
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.12, pp.22-30, 2000-12-10

絶えず自作を書き替え続ける作家として志賀直哉を捉えた時、『豊年虫』は『城の崎にて』の書き替えとして読むことができる。十二年間を隔てた両作品は一人旅する作家、秋の温泉地、小動物の死など具体的な風景を共有しながら微妙に視野をずらす。本稿は『范の犯罪』『邦子』という志賀の他作品との関連にも注目しながら、<個>の発見、<書くこと>と<生きること>の関係という二点からこの書き替えを考察した。
著者
楜沢 健
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.11, pp.58-67, 2004-11-10

小林多喜二は「落書き」に強い関心をもっていた。『一九二八年三月十五日』は、留置場の壁に刻み込まれた「落書き」の「連載」を発見し、それに参加する渡という労働者に注目している。「落書き」は時間とともに消され、書き加えられ、訂正され、という「連載」のプロセスを通じて「匿名」と「集団」の表現へと変貌してゆく。それはまさに発禁、削除、塗りつぶしをたえず強いられたプロレタリア文学の姿そのものであった。本論では、小林多喜二における「落書き」と「連載」の発見に注目し、「連載」が抵抗の手法であること、プロレタリア文学運動を可能性へとひらくキーワードであることを論じた。
著者
田中 実
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.32-42, 2010-02-10

童話集『注文の多い料理店』の「序」文には、「わたくしは、これらのちいさいものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」とある。この童話はその願いを実現しようとしたもの、それにはこの作品のパースペクティブを日常的遠近法で読むのでなく、その向こう、永劫の虚無を定点にして読まれなければならない。そのためには大森哲学の「知覚されたものがその人にとっての真実」であるという知見に立つ必要がある。この童話集がそれを要求しているというのが、私見である。また童話にもジャンル論が必要で、物語童話と小説童話とが峻別されなければならない。この作品は後者、プロットの末尾は作品の末尾ではない。深層批評が求められ、そこは絶対的なものの前で全てが相対の海に化すべく<仕掛け>られているのである。
著者
足立 悦男
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.12-20, 1995-03-10

九〇年代のはじめ、宇佐美寛氏と私のあいだで、「文学教育」をめぐる論争があった(宇佐美・足立論争)。本論文では、その中の「夕焼け」(吉野弘)をめぐる論争を取りあげて、文学教育と道徳教育の果たす役割の違いを明らかにしてみた。具体的には、文学的認識力と道徳的判断力はどう違うのか、という問題である。そして、論争以後の課題として、「夕焼け」を例として、文学的認識力を問い直す、新たな視点を提示してみた。
著者
高田 衛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.10, pp.22-32, 2004-10-10

秋里籬島という怪人物が編纂した『東海道名所図会』(寛政九年刊)は、他の一連の「名所図会」と違って、一つの狙いがあった。既に言われていることだが、東国江戸に対して皇都京の文化的優越性を示すことだが、これを東海道五十三駅およびその周辺の地誌・歴史・景観・歓楽のガイドブックとして、巧妙に内容を組み立てる形でやってのけた。禁裡御用絵師と上方文人が適宜にコーディネートされ(豊富な資金が謝金として準備され、惜しみなく使用されたようだ)江戸の二重王権があばかれる端緒ともなった。なかんずく東海道・江戸・日本のポイントとしての「富士山」の扱いに、籬島は二転三転、苦心した形跡がある。秀峰富士の形式的通俗的美化と国粋化に反発した上田秋成は、火山富士の醜悪かつ凶暴な一面を指摘した。秋成の一文は、籬島に求められ、内容のために突っかえされたもので、ひょっとしたらあったかも知れない。ただし、この件は何の根拠もない。しかし、面白い対立ではないか。
著者
関 礼子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.14-24, 1991-01-10

今日自明の理として流通している作品の唯一無二の起源としての「作者」という考えを退けるならば、「作者の復権」以前にまず「作者とは何か」が問われなくてはならないだろう。今日、テクスト論、読者論等によって「作者」は解体されつづけてきたが、それらの脱構築の試みの中にも「性的差異(ジェンダー)」という視点は脱け落ちていたように思われる。ここでは初期一葉を例にとって「作者」「テクスト」「性的差異」について考えてみる。
著者
和田 琢磨
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.12, pp.10-20, 2005-12-10

鎌倉幕府の倒壊を描く『太平記』第一部は、はじめは後醍醐天皇を中心とした公家が武家を倒す物語として語り進められていたのだが、第一部結末では源氏が平家を倒した物語となってしまっている。このねじれた文脈を作者はどのようにしてつなぎ統一感を持たせているのか。本論では、「承久」という語に焦点を当て、公家と武家双方の歴史観とそれに伴う倒幕意義を整理し、両者の眼を作者が如何に汲み取り一筋の歴史叙述としているのかについて考えた。
著者
和田 琢磨
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.12, pp.15-23, 2003-12-10

最初に『明徳記』末部に置かれた相国寺供養記事の意義を考究し、『明徳記』の主題を構造面から明らかにした。その後、成立環境・作品構造などの点が一致している事から、『明徳記』と『難太平記』から推定される初期形態の『太平記』とが類似していた可能性を指摘し、『梅松論』も合わせた足利将軍家周辺で成った三作品の性格の共通性について言及。その上で、この三作品と現存形態の『太平記』の性格の違いを指摘し、初期形態の『太平記』と現存形態の『太平記』とでは主題が異なっていたであろうという私見を述べた。
著者
稲田 浩二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.17, no.7, pp.59-77, 1968-07-01
著者
金 孝淑
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.6, pp.1-12, 2007-06-10

『源氏物語』は、その主人公の名前が異国高麗の相人によって命名され、その将来が予見されたことからも分かるように、異国との交流環境が色濃く反映された物語である。こうした特徴から、従来の漢詩文受容に関する研究に加えて、近年は『源氏物語』を東アジアの交流の角度から捉えようとする論考が出されている。しかし、その異国を示す言葉自体の定義は未だに明確に定まっていない。本稿では、従来その意味や用いられ方が明らかにされてこなかった「から」と「もろこし」を中心に、その意味内容を分析し、さらに物語の中においてどのように機能しているのかを考察する。
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.10, pp.1-47, 1998-10