著者
野中 潤
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.66, no.1, pp.56-67, 2017-01-10 (Released:2022-02-02)

現在の検定教科書において、生徒たちが「語り手」という学習用語と初めて出会うのは、中学一年の「少年の日の思い出」においてである。これは、日本近代文学研究において、この二、三十年の間に学術用語としての「語り手」が定着してきたことを踏まえたものである。しかし「書かれたもの」に対して「語り手」という学習用語を適用することは、国語科の教育にとって最適なものではない。だとすれば、「語り手」という学術用語についても、再考の余地がある。
著者
岡 真理
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.28-36, 2010-03-10 (Released:2017-08-01)

昨年暮れから3週間にわたり、ガザ地区はイスラエルによる一方的な破壊と殺戮に見舞われた。この攻撃は、61年前、イスラエル建国によってパレスチナ人を襲った「ナクバ」(大いなる破局)の暴力が、この間、ひとたびも終わってはいないことをあらためて証明した出来事だった。その爆撃の只中で、一人の英文学者が「今、そこ」で起きている事態を日々、メールで世界に向けて発信し続けた。その記録は日本で『ガザ通信』という一冊の書物にまとめられる。これらは何を意味するのか?戦火の中からインターネットを使って現地の声が発信されることは、もはや珍しくない。イラク戦争については、そうした「声」がいくつも書籍化されている。その意味では、「イラク」という記号が「ガザ」という記号に置き換わっただけだ。そこにどんな意味を-しかも、文学的な-を見出そうというのか?『ガザ通信』を素材に、このテクストをめぐる思想的、文学的コンテクストについて考察したい。
著者
吉井 祥
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.67, no.9, pp.1-11, 2018-09-10 (Released:2023-09-28)

本稿は、伊勢が中宮温子の死に関して詠歌した長歌(温子哀傷長歌)について、なぜ長歌体なのかという問題提起のもと、どのような場で詠歌され、どのような働きをしていたのかについて考察する。 まず歌の表現から、集団の代弁という機能と、追善法会を場として導き出す。また上代に見られる、人の死の際の儀礼に関わる長歌の系譜上に温子哀傷長歌も位置付けられるが、以後哀傷歌は個々の心情を詠うのが主流となることを述べる。
著者
高橋 重美
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.6, pp.27-37, 1998-06-10 (Released:2017-08-01)

明治二十年代、習作期の樋口一葉は師である半井桃水から「女装文体」(関礼子)の習得を求められた。それは明確にジェンダーを反映した「虚構のコード」であり、一葉はそのコードによって<読まれる>ことを意識した上で、自らの言語表現を組み立てていかねばならなかった。一方明治末期から大正にかけて、平塚らいてうは『青鞜』誌上で、自身を<読む>主体と位置付け、あらかじめコードを共有する読者のみに語りかける言語表現を展開してゆく。その営みは新たなコードによる共同体を形成したが、同時に異なるコード=他者を不可避的に排除するものでもあった。本論では、この一葉とらいてうを繋ぐ言説変化を仮説として設定し、それを補助線に「煤煙」の朋子の発話及び手紙の言説を分析する。そこには<読まれる>ことに発する戦略と、<読む>主体性との錯綜した関係が凝縮されている。
著者
岩佐 壯四郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.11, pp.47-59, 1996-11-10 (Released:2017-08-01)

いわゆる<雅号>は、志賀直哉・谷崎潤一郎など<本名>を署名する文学者の登場した一九一〇年代以降次第に姿を消していった。<雅号>は、いずれは近代における文学という制度の負の領域に追いやられるべき運命にあったといっていいかもしれない。だがそれを、近代文学史の一つのエピソードとして片付けてしまっていいのだろうか。それは逆に、近代文学という制度の性格を照らしだしていはしないだろうか。
著者
楜沢 健
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.11, pp.62-71, 2003-11-10 (Released:2017-08-01)

一九四〇年代は俳句の時代であった。戦争とともに膨張拡大する日本の植民地・軍占領地には、あらゆる階層の俳人が散らばっていった。しかし俳句にとって「外地」は伝統的な季題・歳時記が通用しない世界であった。「四季」とは、「歳時記」とは、「花鳥諷詠」とは何か。「季」の制度の"空白"から、このような問いが、伝統俳句・新興俳句・プロレタリア俳句それぞれの中から生まれた。本論ではプロレタリア俳人栗林一石路『生活俳句論』『俳句芸術論』を手がかりに、戦争と植民地主義の矛盾を体現していた俳句の一九四〇年代を辿ってみた。
著者
濱中 修
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.7, pp.13-23, 1992-07-10 (Released:2017-08-01)

童子の境界的存在としての姿を室町物語の絵画と文章を通して具体的に見ていきたい。童子にとって笛は近しい楽器であるが、その奏される場が山・峠・鬼国などであるのは童子の境界的性格を考える上で興味深い。更に彼等は境界的世界を漂泊するべく運命づけられている如くであるが、そこで境界的人間、中でも非人などと濃厚な交わりを持っていることの意味は重い。神話的物語より出発して、やがて社会的な視点・意識を明瞭に獲得していったものと思われる。中世後期から近世初期にかけての庶民文学の貴重なる達成であろう。
著者
白戸 満喜子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.10, pp.42-50, 1997-10-10 (Released:2017-08-01)

二代目松林伯円が口演した講談『安政三組盃』に登場する津の国屋お染は、漂流という偶然によってではあるが、日本開国以前の安政六年に女性で初めてハワイの地を踏んだとされ、このことは事実として語られている。しかし、お染が描かれたとされる浮世絵の版行年と伯円講述の『安政三組盃』の粗筋を照合すると、お染漂流の事実には矛盾が生じる。お染という女性は明治の寄席芸が創り上げた架空の存在であると推定されるのである。
著者
相沢 毅彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.25-36, 2016-04-10 (Released:2021-04-30)

「羅生門」は「下人の行方は、誰も知らない」という末尾の一文の〈謎〉を介して、そこから折り返し、私たちの「世界観認識」を問う〈近代小説〉となっている。そこで浮かび上がってくるのは、「私たちが捉えようとしている〈対象〉」とは〈自己によって捉えられた対象〉と《自己によっては捉えられない対象そのもの》という二重化されたものであるということである。その問題は、既に田中実氏が「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」(『小説の力――新しい作品論のために』所収、一九九六年二月、大修館書店)で指摘したように、そこに《捉えられないもの》が含まれるという意味で「認識の闇」が生じるということであり、あるいはまた、私たちはどのように〈対象〉(世界)を捉え、〈対象〉について語るのか、といった事柄が含まれていることを示している。そもそも「羅生門」を含む〈近代小説〉とは「世界観認識」、すなわち私たちにとっての世界の見え方や現れ方、また存在の仕方等が問題とされているのであり、その問題の射程は、〈自己〉の把握の仕方から「神々の闘争」といった事柄にまで及ぶものである。そのため、〈近代小説〉を考えることは、〈現在〉においても極めて差し迫った問題であり、その〈価値〉が問われ続けなければならないと考える。
著者
安田 徳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.7, pp.53-61, 2007-07-10 (Released:2017-08-01)

『伊勢物語』は、中世注釈書の理解を基盤に中世芸能に取り込まれ、多数の作品を生み出したが、近世に至ってもその傾向は衰えず、浄瑠璃や歌舞伎でも草創期から多数の『伊勢物語』摂取の作品がある。やはり注釈書の理解を基盤としているが、中世の能が叙情を主眼とするのに対して、歌舞伎・浄瑠璃は叙事を主眼とした。そのため、『伊勢物語』に語られない出来事を付与し、歴史的事件の中に『伊勢物語』を位置づけ、加えて近世的封建社会に相応しい解釈を施し、歴史の複雑な背景として読み解いてみせた。
著者
繁田 信一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.2-11, 2005-01-10 (Released:2017-08-01)

王朝時代の人々にとって、呪詛は他人の生命を奪う手段であり、それゆえ、それは一種の暴力であった。しかも、それが行使されているところを眼で見ることができないという意味で、呪詛は<見えない暴力>であった。その<見えない暴力>=呪謁は、王朝貴族社会で盛んに行われ、その結果、しばしば当時の物語にも登場することになった。そこで、本稿では、王朝時代の物語が呪詛=<見えない暴力>をどのように描くかを概観した。
著者
中村 三春
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.12-22, 2017-04-10 (Released:2022-04-28)

物語世界は物語文の原因として作られ、同時に物語文は物語世界を原因として作られたものと想定される。従って物語文が物語世界の次元に対して第二次の位置づけとなる局面が考えられる。その時、物語文は自己同一的なものではなく、媒介され引用されたものと見なされる。小川洋子の「ハキリアリ」および「トランジット」を例として、語りによる媒介の局面をとらえてみる。語りこそ、言語の〈トランジット〉(乗り継ぎ)にほかならない。
著者
中丸 貴史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.9, pp.31-42, 2007-09-10 (Released:2017-08-01)

藤原師通の『後二条師通記』が漢文日記の生成を考える際に好個の資料であるとして、これまで十分に検討されてこなかった永保三年から応徳二年にいたる三年分の重複記事について中心的に考察をした。日記の本文は確定的なものではなく、常に新しい情報が書き加えられるべきものであり、『師通記』の場合、記主の早世によって偶然にも、漢文日記の生成の途中で日記が残されることとなったのである。