- 著者
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都司 嘉宣
日野 貴之
- 出版者
- 東京大学地震研究所
- 雑誌
- 東京大學地震研究所彙報 = Bulletin of the Earthquake Research Institute, University of Tokyo (ISSN:00408972)
- 巻号頁・発行日
- vol.68, no.2, pp.91-176, 1993-09-30
寛政4年4月1日(1792年)に,普賢岳の火山活動の終期に島原市付近に生じた地震に誘発された島原半島眉山の東斜面の崩壊によって,多量の土砂が有明海に流入し,有明海に大きな津波を生じた.この津波によって,島原半島側と,対岸の熊本県側の海岸は大きな津波被害を被った.近年,このときの熊本県側の津波被害の状況を伝える文書が数多く発掘された.この研究では,津波による死者数,家屋被害,田畑の浸水範囲と面積を確定し,あわせて被災現地での伝承,津波の浸水限界を示す「津波留石」などの知識を加えて,津波の浸水高の測定を行った.この津波による,肥後国の被害は,武士僧侶を除く死者が玉名郡で2,221人,飽田郡で1,166人,宇土郡で1,221人で肥後3郡合計で4,653人.このほかに武士僧侶とその家族たち162人を加え,4,815人が肥後三郡の死者総数となる.また,大矢野島を含む天草諸島では343人で,結局現在の熊本県がわ海岸全体で5,158人の死者があったものと見積られる.肥後三郡のけが人は811人,流失破損家屋2,252軒,浸水田畑3,848町歩であった.津波高さは熊本市の河内,塩屋,近津付近で15mから20mに達し,また三角半島北岸の細田,大田尾などで高く,三角町大田尾で22.5mに達した.