著者
浜本 満
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-28, 1993-06-30

ケニアのコーストプロビンス,クワレ州に住むドゥルマの人々の間では,ムラムロ,ムブルガという2種の占いの形態が知られている。本稿の目的は,ムブルガの語りのテキストの検討をおこない,もう一方の占いムラムロとの違いを明らかにするとともに,両者の語りのありかたの違いが占いによる問題解決の様式のいかなる違いに対応しているのかを考えることにある。ムラムロでは相談内容が相談者自身によって前もって伝えられるのに対して,ムブルガでは相談者は自分からは相談内容をあかさず,占い師にそれを手探りで語らせることになる。このムブルガにおける占い師による問題の「再記述」が,問題状況にいかなる変容をもたらし相談者に何を与えることになるのか。これは,実際のテキストを分析することによってのみ答えるのとができる問いである。ムブルガにおける占い師の語り,手探りでおこなう「再記述」がどのようなイディオムにしたがって組織され,そこに登場させられる妖術や憑依霊などのエージェントが,この語りの中でどのような役割を演じているかを検討することによって,ムブルガにおける説明のモードの特徴が明らかになる。
著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.342-365, 1995-03

新潟県佐渡島の人々の間では,ムジナ(貉(ムジナ))ないしトンチボ(頓智坊)と呼ばれる動物がしばしば話題に上る。この動物は動物でありながら神であり,ときに人間にも変身する存在として知られている。ところが,注意深くこの概念を巡る語りをみてみると,その意味が極めて同定し難いことがわかる。われわれからみると明らかに異質な存在が,同じものであるかのように「あたりまえ」のものとして語られるのである。本稿の目的は,そのムジナについての語りの分析を通じて,従来人類学者が「象徴」という概念を用いる衝動に駆られるとき,いったいなにが起きているのか,また,語りの中でそのような概念の果たしている役割は何か,という問いに答えようとするものである。「あたりまえ」と考えられていることを相対化し,考察するために,従来の中間的話体に加えて,テキストの微視的な分析を行うことにより,われわれ,そしてかれらの中で起こっているコンテキストのくむかえや矛盾の無視などが明らかにされる。
著者
板橋 作美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.156-185, 1978-09-30

Y is a village in the southwest of Gumma Prefecture, consisting of 181 households, rearing silkworms and planting konjak (devil's tongue). Y villagers believe that extremely lucky success, especially economical success, of neighbors can be attributed to two kinds of supernatural forces. One is mystical power of osaki, a folk-zoological term for a small animal resembling a mouse or a weasel, which, by order of his master or his own will, thieve silkworms, cocoon, wheat powder or other properties of neighbors and make his master wealthy, or possess neighbors who then become mentally or physically ill and at times die. Those who keep osaki in their houses are called osakimochi or osaki-holders, and they are segregated in terms of marriage, for osaki-holding is believed to be transmitted to all relatives of the spouse of the osaki-holder and to all the children of the osaki-holders, paternally and maternally. Another is evil magic of sanrinboo, who are believed to practice magical rites secretly in order to deprive properties of neighbors. Usually they are very stingy but on the day of sanrinboo they present food to neighbors generously, and if neighbors receive it, all their wealth wil be taken away. Y is devided into 13 koochi, small local units whose members are bound in co-operative mutual aid relations. These units, however, vary in terms of their social cohesion or solidarity. Koochi which have few or no osaki-holders and sanrinboo keep, in general, strong social cohesiveness, while those koochi which have many osaki-holders and sanrinboo and suffer from much osaki-possession have a looser social structure. These koochi have been increasing in the number of households by new comers from outside and branch families from other koochi. They have co-operative mutual aid relations and religious relations with the members of other koochi, rather than own, and their relations between main and branch families cut across the koochi boundaries. Moreover, the socio-economic hierarchy in such koochi is unstable : old families become poorest and new families become wealthy suddenly. In contrast, those which have few osaki-holders and sanrinboo maintain their social hierarchy or order : old families keep their social and economic prestige, new branch families are organized in patrilinial kinship, mostly in their main families' koochi. As mentioned above, the beliefs of osaki-holders and sanrinboo seem to be related to the weakness and instability of social structure of the local community, and seem to regulate and make clear the individuals' ambiguous social position caused by such social circumstances. The osaki-holders and sanrinboo are believed to be wealthy. In fact, those who are suspected as sanrinboo are rich and, moreover, they have become rich suddenly, mostly by unfair and not traditional means of acculating wealth. On the other hand, the socio-economical status of all osaki-holders are not high, but notorious osaki-holders, whose osaki-spirits have possessed neighbors frequently or brought much misfortune on neighbors, have become remarkably rich in a brief period of a few decades. In most cases of osaki-spirit posession, osaki-holders belong to the middle or high classes economically and victims to low or middle. This fact may be interpreted as : alleging the occurrence of osaki-possession, the victim may try to accuse a neighbor of extremely rapid accumulation of much wealth by immoral economic activity.
著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.342-365, 1995 (Released:2018-03-27)

新潟県佐渡島の人々の間では,ムジナ(貉(ムジナ))ないしトンチボ(頓智坊)と呼ばれる動物がしばしば話題に上る。この動物は動物でありながら神であり,ときに人間にも変身する存在として知られている。ところが,注意深くこの概念を巡る語りをみてみると,その意味が極めて同定し難いことがわかる。われわれからみると明らかに異質な存在が,同じものであるかのように「あたりまえ」のものとして語られるのである。本稿の目的は,そのムジナについての語りの分析を通じて,従来人類学者が「象徴」という概念を用いる衝動に駆られるとき,いったいなにが起きているのか,また,語りの中でそのような概念の果たしている役割は何か,という問いに答えようとするものである。「あたりまえ」と考えられていることを相対化し,考察するために,従来の中間的話体に加えて,テキストの微視的な分析を行うことにより,われわれ,そしてかれらの中で起こっているコンテキストのくむかえや矛盾の無視などが明らかにされる。
著者
箭内 匡
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.223-247, 1993-12-30

この論文は,チリ南部に住む先住民マプーチェの一老人のある語りの分析を通じて,今日のマプーチェの信仰に対する疑い,そんな疑いを持っていた頃にみたきわめて印象的な夢(「ヘリコプターの夢」),そしてその夢の本当の意味を理解するに至った数年前の儀礼での出来事,を回想する。筆者はまず,この語りの部分部分が喚起するイメージの連鎖と,全体の中で反復されるイメージを追ってゆくことにより,この語りが目指しているマプーチェ的な「真実」の全的な反復を跡付けする。そのあと,そうした反復の試みの中に含まれている差異を引き出して,老人の思考の中の新しいものを表出させる。筆者は,彼の思考の中にみられる,こうした伝統との間の差異と反復の運動を,今日,マプーチェの人々が自らの伝統を生きている姿の一端を示すものとして提出したい。
著者
佐藤 斉華
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.73-95, 1998-06-30

民族問題/ナショナリズムという表現が示す問題群は, 国民国家の規約体系を挟むそれ「以前」/「以後」の「民族」の動態を考察することを要求する。本稿は, 1990年の民主的体制への転換以降, ネパール複合社会を縦横に走る社会・宗教・民族的境界がより顕在化/問題化している状況を受けつつ, 北東ネパールの一地域に由来する「ヨルモ」という民族範疇の変容過程を検討することにより, その一断面を切り取ろうとするものである。「ヨルモ」は元来地名であるが, 伝統的に, 文脈に依り指示範囲を微妙に変えつつその(主な)住民や言語にも柔軟に適用されていた。近年カトマンヅの一遇に形成されたヨルモ・コミュニティのなかで, 従来とは性格を異にする「ヨルモ」の用法が特に90年代に入り急速に広まっている。即ち固定的な社会文化的実体=民族の名としての使用であり, 「ヨルモ」をめぐる社会・文化・言語・地理的諸境界間のズレは克服されるべき課題となったのである。新たな用法のなかでは, このズレにどう対処するかにより二つの方向性が現れた。「ヨルモ」により多くの成員を取り込もうとし結果として文化的異質性の拡大するのも黙認する拡大派と, 「ヨルモ」の人口がたとえ目減りしても文化的均質性の水準維持または向上を優先しようとする純粋派であり, 両者の間を「ヨルモ」の境界は揺れ動くことになる。「ヨルモ」は, 伝統的用法に加えて移住地での議論の過程を包含し, 幾重もの位相がずれながら重なってせめぎあう重層的かつ動態的な様相を呈することになる。こうした「ヨルモ」をめぐる事情は, 国民国家概念の浸透にされされた少数民族の反応と対応の一例であり, またその浸透が民族的範疇についての意識と言説の複雑なダイナミクスにいかに寄与するかということの例示ともなっているのである。
著者
安藤 直子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.344-365, 2001-12-30

本論文においては、岩手県盛岡市の2つの祭礼「チャグチャグ馬コ」と「さんさ踊り」を題材に、祭りが「伝統性」保持と観光化という対立する文脈において変化していく複雑なプロセスと、そのプロセスの中での祭りに携わる人々の「伝統」保持及び観光化への関わり方を分析した。その結果、担い手による多様な「オーセンティシティ(真正性、本物性)」追求の様相が確認された。従来の観光人類学においては「ゲスト(観光地を訪れる人々)」「ホスト(観光を担う人々)」といった二項対立の枠組み上で、ゲストとホストとの関わりが議論され、オーセンティシティ概念も同様の枠組み上で論じられてきた。ゲストが「オーセンティシティ」を追求し、一方ホストは「疑似イベント」を創出しゲストに提供すると論じられ、主にゲストに主体性をおいた「オーセンティシティ」論が展開されてきた。しかしながら、2つの祭りにおいてはホストが訪問者を制して主体性を獲得し、多様な方法でオーセンティシティを主張する様相が確認された。担い手によるオーセンティシティの追求は、ゲストによるそれとは比較できないほど重要かつ切実な問題であると言える。なぜなら、担い手にとってオーセンティシティの追求は、地域社会における中心的な地位の追求と重なっているためである。2つの祭りにおいては、オーセンティシティにより近いと主張し、担い手内部でそのように評価されるほど、祭りの中で中心的な位置を占めることができる。祭り運営組織の役職に就き、運営上の主導権を獲得することは、結果的に担い手の地元内部における社会的プレステージ(威信)を上昇させる。観光化が進むほどにこの傾向は強まり、ホストによるオーセンティシティの主張は活発化し、主張の方法も複雑化している。本論文においては、観光の現場でホストがオーセンティシティを追求する理由を議論し、その概念を深めることを目的とする。
著者
今関 光雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.367-387, 2003-03-30

本稿は、「ファン・コミュニティ」の文化人類学的研究というテーマの下に、あるラジオ番組のリスナーたちの行っている「集い」を、フィールドワークによる調査研究に基づいて分析し、オーディエンス/ファン同士のコミュニケーションの重層性を明らかにするものである。リスナーが番組に「告知」を投書し、行う集会を「集い」と呼ぶ。実際に出会うことで友人関係を構築しようという試みである。そこでは、同じ番組に関する情報を持つ「比較可能で代替可能な者」同士の関係を、具体的な「個別性を持った顔のある誰か」同士の関係に変換していくという実践が見られる。これは、メディアを介して作られたファン・コミュニティにおけるコミュニケーションを情報交換のみの関係として語ってきた「おたく」論の一面性を批判するものである。また、オーディエンス研究において「受け手」の能動性を考える場合、受け手の行う「流用」がよく議論される。ここで明らかになるのは、その「流用」がメディア上だけで、すなわち顔の見えない「サイバースペース」だけでなされるのとは違って、「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりにおいてなされることが重要であるということである。本稿は、そのような顔の見えない「サイバースペース」における繋がりを「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりに変換し、コミュニケーションの重層性を創りだしていることに注目する重要性を明らかにする。それらの実践がメディアによる人びとの分断や抽象空間としての「国民文化」への回収に抵抗する「流用」であるということを示唆する。
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.265-283, 1991-12-30

華北村落では,異なる宗族でも,あたかも同一宗族であるような擬制的世代関係を形成している。本稿ではこれを「世代ランク」と称するが,近隣者間の擬制的世代関係である。世代ランクの社会的機能は,挨拶・年始回り・擬制的親族関係・席順・村民資格の取得・社会的威信がある。世代ランクは,宗族の世代関係と,姻戚の世代関係の組み合わせによって形成され,親族としての交際が消滅した後でも,世代関係が近隣者の間に残存したのだろうと考えられる。中国全体で,近勝者への親族名称を拡張することは普遍的である。しかし親族名称の拡張原理に年齢が関与しない世代ランクの習俗は,村落の成員権と強く結びついている。これらの特徴は,華北村落のみに観察される。その社会的要因は,華北村落の共同体的規制の強さと,村落内の統合性の高さにあるのだろう。世代ランクは,社会集団ではなく,社会的カテゴリーである。
著者
関 一敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.402-407, 1997-12-30
著者
渡辺 公三
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.492-504, 2000-03-30 (Released:2018-03-27)

近代人類学の始まりとして1859年におけるパリおよびロンドンでの学会創立の日付がしばしばあげられる。パリ人類学会の中心的な創立者ポール・ブロカは創立直後におこなった「フランスの民族学的研究」という基調報告をケルトやキムリスなどのraceがフランスのnationを構成することの論証にあてている。国民の人種構成を論証するために使われたデータは, 当時ほぼ唯一の全国的な統計資料だった徴兵検査資料, とりわけ身長統計である。身長という粗雑な特徴に満足していたわけではないブロカは, この報告の後, 晩年まで人種的差異の実証的根拠づけに多くの力を注ぐことになった。その後ブロカの洗練した身体計測技法は, ブロカの不肖の弟子でもあったパリ警視庁に勤務するベルティヨンによって意外な用途を発見された。身体の各部分のサイズが全く同じ成人は稀であり, 身体各部の正確な計測値を一定のしかたで分類のエントリーとして使うことで, 名前にも顔にも頼る事なく個体を個体として同定できるというわけである。この着想は軽犯罪の急増に悩む世紀末フランス市民社会にきわめて有効な身元確認技術を提供することになった。ここには国民国家の根幹をなす軍隊の人員管理技術の整備とともに, 人類学的な国民の人種的同一性確定手法が洗練されてゆき, その手法が警察の犯罪者同定技術として利用されていったという過程があったことが示されている。統治技術から人類学へ, そしてまた人類学から統治技術へという人目にはつきにくい知の技法の往還が見出されるといえよう。この小論ではフランスにおける, 今世紀初頭までのパリ人類学会の動向を, 軍および徴兵制との関係を中心に簡単に検討し, とりわけ徴兵制の変化が, 人類学会で一定の学問的な言説としてどのように議論されていたかについて検討する。それがどのような問題構成の枠のなかでおこなわれ, 人類学固有の問題としてどう受け止められていたのか, そしてそこにわれわれは19世紀人類学のどのような存立条件を見極められるのかを見ていくことにしたい。
著者
橋本 裕之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.537-562, 1998 (Released:2018-03-27)

近年, 人文科学および社会科学の諸領域において文化の政治性や歴史性に対する関心が急速に高まった結果として, 博物館についても展示を巨大な言説の空間に見立てた上でテクストとしての展示, もしくは表象としての展示に埋めこまれたイデオロギー的な意味を解読した成果が数多く見られる。だが, 展示をとりあげることによって表象の政治学を展開する試みは, 理論的にも実践的にも限界を内在しているように思われる。そこで決定的に欠落している要素は, 来館者が構築する意味に対する視座であろう。展示がどう読めるものであったとしても, 来館者が展示された物をどう解釈しているのかという問題は, 必ずしも十分に検討されていないといわざるを得ないのである。本稿は以上の視座に依拠しながら, 博物館において現実に生起している出来事, つまり来館者のパフォーマンスを視野に収めることによって, 博物館における物を介したコミュニケーションの構造について検討するものであり, 同時に展示のエスノグラフィーのための諸前提を提出しておきたい。実際は欧米で急成長しているミュージアム・スタディーズの成果を批判的に継承しつつも, 私が国立歴史民俗博物館に勤務している間に知ることができた内外の若干のデータを演劇のメタファーによって理解するという方法を採用する。じじつ博物館は演劇における屈折したコミュニケーションにきわめて近似した構造を持っており, そもそも物を介したインターラクティヴ・ミスコミュニケーションに根ざした物質文化の劇場として存在しているということができる。こうした事態を理解することは民族学・文化人類学における博物館の場所を再考するためにも有益であると思われる。
著者
中川 敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.262-279, 2003-09-30 (Released:2018-03-22)

この論文の目的は密接に関連した二点からなる:(1)ギアーツの「文化システムとしての宗教」とそれに対するアサッドの批判をあたらしい光の中で再解釈すること、そして、(2)そうすることによって、このような論争から帰結するとされる理論的な袋小路から抜け出す道を探り、同時に、人類学的な比較というもののあたらしい可能性を探り出すことである。アサッドの批判は、端的に言えば、ギアーツの議論はエスノセントリックである、ということである。ギアーツの宗教の定義は、ギアーツ自身の文化に特徴的な宗教、すなわち宗教改革以降のキリスト教の考え方に、無意識にせよ、多大な影響を受けているのである、とアサッドは主張するのである。このような批判からギアーツの議論をすくい出すために、私が主張したいのは、ギアーツの議論をローティの反・反エスノセントリズムの議論の脈絡で読め、ということである。反・反エスノセントリズムとは、簡単に言えば、自らのエスノセントリズムに自覚的であるべきであり、そして、(エスノセントリズムを破棄せよというのではなく、)あくまでそれから出発し、他の立場を受け入れることができるようにそのエスノセントリズムを拡大していくべきである、という考え方である。この立場は、もちろん、単純なエスノセントリズムではない(ちょうど反・反相対主義が単純な相対主義ではないように)。それゆえ、あくまで思考実験の中だけにせよ、ギアーツの自称する立場、すなわち、反・反相対主義と相容れない立場ではないと考えることは可能であろう。反・反エスノセントリズムという光の中で、当該の論文の中でのギアーツの作業は、次のようにとらえられることになる-彼は自らのもつ「宗教」に対するステレオタイプ(パットナムの言葉であるが)をできるだけ解明(カルナップの言葉であるが)しようとしているのだ、と。このようにしてギアーツの作業をとらえると、論争それ白身がまったく異なった様相を呈してくることとなる-それはもはや論争ではなく、対話(あるいは、ローティのお気に入りの言葉をつかえば、会話)なのである。二人の対話は経験に近い概念(「痛み」「苦しみ」「訓練」などなど)と経験に遠い概念、すなわち「宗教」との間を振り子運動する。対話者はさまざまな時代、さまざまな場所から民族誌的事実を引用し、そうすることによって、自らのエスノセントリックなステレオタイプを解明していくのだ。この対話こそが、私は主張したい、人類学の比較の模範演技である、と。
著者
太田 好信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.383-410, 1993-03-30 (Released:2018-03-27)
被引用文献数
2

本論は、文化の担い手が自己の文化を操作の対象として客体化し,その客体化のプロセスにより生産された文化をとおして自己のアイデンティティを形成する過程についての分析である。現代社会において,文化やアイデンティティについて語ることは,きわめて政治的にならざるをえない。したがって,この客体化の過程も,その対象や方法,またその権利などをめぐる闘争に満ちている。文化の客体化を促す社会的要因の一つは観光である。観光は「純粋な文化」の形骸化した姿を見せ物にするという批判もあるが,ここでは,観光を担う「ホスト」側の人々が,観光という力関係の編目を利用しながら,自己の文化ならびにアイデンティティを創造していることを確認する。つまり「ホスト」側の主体性に立脚した視点から観光を捉え直す。国内からの三事例を分析し,「真正さ(authenticity)」や「純粋な文化」という諸概念の政治性を再考する。