著者
土井 文博
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.45, no.3, pp.316-331, 1994-12-30 (Released:2010-01-27)
参考文献数
8

この論文の目的は, E. デュルケムが提唱した道徳共同体論を基として, 社会学が目指すべき実証的な社会分析のあり方を整理し提唱することにある。つまり, デュルケムが語る道徳的世界を日常生活レベルで具体的に描き出し, 人々の実際の社会生活の分析, そして改善に役立てられるような研究の方向を示すというものである。そこで, まずデュルケムの道徳共同体論について概観し, そのポイントや特徴を押さえる。次に, デュルケムの道徳共同体論を具体化するのに成功していると言われるゴフマンについて検討し, その功績や特徴を押さえる。その際にゴフマンの道徳共同体論の欠点もまた明らかにする。最後に, デュルケムの方法論が抱える課題を示した上で, 私自身のデュルケム解釈に基づいて, ゴフマンの対面的相互行為分析をデュルケムの方法論の中にうまく位置づける方法を提案する。「社会を学問する」という場合, それは様々な方向で行われている。ある者は大規模なアンケート調査を行うことによって, ある者は純理論的な見地から, またある者は参与観察によって, という具合にその社会分析のあり方は実に多彩である。そうした多様な社会学の方法論の中で, 本稿では E デュルケムが提唱した道徳共同体論に注目して, 実証的な社会分析の一つの可能性を提示することにしたい。
著者
末森 明夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.411-428, 2020

<p>本稿はアクターネットワーク論および存在様態論を基盤とする非近代主義を援用し,徳川時代より大正時代に至る史料にみる日本聾唖教育言説の変遷の追跡を通して,明治時代における日本聾唖教育制度の欧米化という事象を相対化し,徳川時代と明治時代の間における日本聾唖教育言説の連続性を前景化し,日本聾唖教育史に新たな地平を築くことを眼目とした.具体的には,徳川時代の史料にみる唖ないし仕形(=手話)に関連する記述を分析し,唖の周囲に配置された唖教育に携わる人たち(=人間的要素)や庶民教化政策,手習塾,徒弟制度(=非人間的要素)が異種混淆的に関係性を構築し,唖が諸要素との関係性の下に実在化していく様相を明らかにした.また,仕形を唖の周囲に配置された人間的要素および非人間的要素の動態的関係性として把握し,聾文化論にみる「聞こえない身体」と「手話を使う身体」の不可分的関係性は,「聞こえない身体」と「手話を使う身体」の関係性が一時的に一義的関係性を伴う仲介項に変化し外在化(=純化)したものであることを明らかにした.さらに,徳川時代の日本社会において,唖や仕形をはじめとする諸要素の関係性が変化し続け,明治時代を経て現在の聾文化論が内包する諸問題にもつながっていることを明らかにし,非近代主義に則った日本聾唖教育史の再布置をはかった.</p>
著者
木田 徹郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.2-13, 1968-03-01 (Released:2010-05-07)
参考文献数
11

The study of social pathology analysed various social problems utilizing an approach which adopted the concepts of social disorganization, deviant behavior, anomie, and dysfunction. These analyses, focusing respectively on personality system, family system, and community system, have used the methods of control-group research, participant observation, and questionnaire. They took a common basis in an objective and relativistic view-point, which gradually made clear such points as the following.(1) Standards and norms vary according to social classes. (2) In order to solve some problem, it is necessary to proceed with an analysis of the larger system to which object of analysis belongs. (3) Analysis of social disorganization and deviant behavior necessarily entails the study of non-conformity and social change.Social welfare workers regard the problems they face as objects for solution, rather than merely for analysis. Although sociological analysis of such problems is important and necessary, in most cases it does not go beyond the explanation of the past and present causes and processes involved in the problems. The social welfare approach, on the other hand, consists in the practice of choosing what behavior the individual should take in the “future”, and in. assisting him to do so. Hence it is necessary that the social welfare worker be a specialist and that he take on responsibility for guiding individual. The social welfare approach, therefore, becomes really effective only when it is based on information gained from cooperative research with an objective and relativistic social science such as sociology, and when in addition it is connected into a “specialized practice”, in which a matter considered apart from a standpoint as an outsider. In order for this increase in the effectiveness of the social welfare approach, to take place hereafter, evaluations of the results both of various problems related to social change and of operations involving planned changes in the functioning of the social system will be more and more necessary.
著者
池田 太臣
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.51-67, 2004-06-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
25

支配は, 政治学および社会学において, 中心的なテーマのひとつであった.けれども近年, この支配についての関心は衰退し, その概念の有効性も疑われつつあるように思われる.この'支配概念の有効性の衰退'ともいえる現象は, 一体, いかなる理由によるものであろうか.この問いに答えるためには, なによりもまず, 支配研究の源流にさかのぼる必要があると思われる.というのも, 支配概念の導入の初発の関心を明らかにすることではじめて, その概念の社会科学上の存在意義を解明することができるからである.今述べた “支配の社会学の初期設定” を探るために, 本稿では, トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を取り上げる.なぜなら, この書におけるホッブズの議論こそが, 支配の社会学の嚆矢であると考えることができるからである.上記の関心にしたがって, 本稿では, まずホッブズの議論の特徴として2つの点を指摘する.これらが, “支配の社会学の初期設定” である.さらに, このような設定を可能にしたホッブズの思想的前提を, 人間観と社会観との2つの観点から明らかにする.この指摘によって, ホッブズの議論の限界と可能性が明らかになると同時に, ホッブズ以降の支配論ないし支配の社会学の歴史を整理するための足かがりが得られる.そして最後に, 議論の簡単なまとめと今後の研究の展望について触れることにしたい.
著者
人見 泰弘
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.499-507, 2020 (Released:2021-12-31)
参考文献数
28
著者
森久 聡
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.392-410, 2011-12-31

伝統的な地域社会において, 地域社会の基層はそこで生じた地域問題の様相をどう規定するのだろうか. 福山市鞆の浦では, 鞆港の埋め立て架橋・道路建設計画をめぐる地域論争が続いている. そこで本稿ではこの地域論争を手がかりに鞆の浦の社会結合の編成原理を解明するために, 村落構造分析の年齢階梯制の視点を導入し, 鞆の浦の地域社会構造と鞆港保存問題の特徴である合意形成の長期化と世代別の意見形成の要因を分析した. まず鞆の浦における若者組等の存在を史料的に確認し, 口述記録では祭礼行事の役割分担や若衆宿のような習慣など, 年齢階梯制の名残りと思われる観察データを検討した. その結果, 厳密に論証することは難しいが, 鞆の浦に年齢階梯制が存在した可能性は高いと思われる. さらに年齢階梯制の知見を補助線に引くことで, 世代によって計画への賛否が異なること, 年長者に対する尊重の意識, 「生徒会長」「PTA会長」の役職が世代別の指導者層のステータス・シンボルであること, 話し合いを重視する住民意識などの観察データは, 年齢階梯制の社会意識の断片として解釈できる. 現代の日本では, 年齢階梯制社会とすでに認められた地域以外で年齢階梯制を論証できる分厚いデータを入手することは難しいが, 地域問題の分析で年齢階梯制の視点を用いることは, この制約を乗り越え, 年齢階梯制研究の蓄積を現代に活かすという意味で, 一定の現代的意義があると思われる.
著者
橋本 健二
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.94-113, 2008-06-30 (Released:2010-04-01)
参考文献数
63
被引用文献数
4 3

今日の「格差社会論」の隆盛は,これまでの階級・社会階層研究には深刻な問題があったことを明らかにした.階級・社会階層研究は,拡大する経済格差と「格差の固定化」など,社会的に注目されている諸現象を十分解明することができず,社会学に対する社会的要請に応えることができない状態にある.このことは同時に,社会学の諸分野に階級または社会階層という有効な独立変数を提供するという,階級・社会階層研究の固有の使命を十分に果たしえていないということも意味する.こうした階級・社会階層研究の困難をもたらしたのは,その戦後日本における独特の展開過程だった.戦後日本の階級研究は大橋隆憲によって確立され,その階級図式は社会学者を含む多くの研究者に受け入れられたが,それはMarxの2階級図式を自明の前提とし,しかも労働者階級を社会主義革命の担い手とみなす政治主義的なものであり,1980年代には有効性を失った.社会階層研究を確立した尾高邦雄も,同様に階級を政治的な存在とみなしたが,大橋とは逆に現代日本には明確な階級が存在しないと考え,連続的な序列,あるいはその中に人為的に作られた操作的カテゴリーとしての社会階層の研究を推進した.こうして日本では,他の多くの国とは異なり,階級と社会階層がまったく別の概念とみなされるようになり,その有効性と現実性は大きく制約されてしまった.階級・社会階層研究のこうした弱点と困難を克服するためには,(1)Marxの2階級図式を明確に否定して,資本家階級,新中間階級,労働者階級,旧中間階級の4階級図式,あるいはそのバリエーションを採用するとともに,(2)社会階層を,階級所属が産業構造,労働市場,家族,国家などさまざまな制度によって媒介されることによって形成される社会的カテゴリーとして定義することが有効である.このとき階級と社会階層の不毛な対立は克服され,両者を相互補完的に活用することにより,現代社会の構造を分析する生産的な研究分野としての「階級-社会階層研究」を構想することができよう.
著者
倉田 めば
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.198-214, 2020

<p>本稿の目的は,当事者である筆者の体験と活動をとおして,回復という現象の特徴を記述し,現在の薬物政策や薬物依存者処遇が,それまでに蓄積してきた当事者活動の豊穣さを簒奪し,一義的な意味に還元する事態について論じることである.すでに逸脱を社会的な視点から考える時代は過ぎ,こんにち薬物依存は自己責任の問題となった.しかし当事者はそれ以前から支援活動を行い,それは時代の変化を超えて存在し続けている.その一つであるダルクは,こんにちの社会からみたら逸脱的な支援を,すでに四半世紀にわたって続けてきた.その重要な考え方は「薬物を使う自由と使わない自由」が本人にゆだねられているということであり,そのことによって実現されるのは「回復の集約とその後の拡散」と表現できるものである.一方,近年の法改正や行政機関の薬物再乱用防止プログラムの実施は,薬物問題への取り組みとして望ましいものとされ,専門家らを巻き込みながら推進されている.しかしながら,それらによって回復という言葉は当初の輝きを失い,当事者活動本来の豊穣さが覆い隠されつつある.</p>
著者
一條 都子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.2-15, 1993

一九七〇年代のスコッティシュ・ナショナリズムの高揚は、最も国民統合の進んだ国家と考えられていたイギリス社会に大きな影響を与えた。同時期に、西ヨーロッパの各地でエスニックな意識の高揚が見られ、スコッティシュ・ナショナリズムも含めて社会科学者の関心を呼んできた。本論では、マイノリティ・ナショナリズム高揚の社会的背景を、特にスコットランドの事例に注目して、明らかにすることを試みる。一九七〇年代の西ヨーロッパ社会でのマイノリティ・ナショナリズムの高揚は、いくつかの歴史的条件によって準備されていたが、第二次大戦後の社会変動によってもたさられた。こういった先進産業社会でのマイノリティ・ナショナリズムの高揚は、現代社会におけるエスニシティの機能への注目を促し、アイデンティティ追求の場としてのエスニシティ、政治的要求表出のための資源としてのエスニシティ、同一社会内の複数のエスニシティの処遇の方法といったチャレンジングな問題を提出する。
著者
数土 直紀
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.496-508, 2000-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
21

本稿の目的は, 我々が他者と共に生きていくためにこれから何が必要とされるのかを解明することである.このことが問題にされなければならない理由は, 大規模化し複雑化しつつある現代社会においては, 他者と共に生きていくことがいよいよ困難になるであろうことが予想されるからである.本稿では, 最初に, 我々が日常において他者とどのようにして合意を形成しているのかを分析する.他者との間に何らかの合意を持つことは, 共生のためのもっとも基本的な条件だと思われるからである.しかし, 本稿で明らかにされることは, 我々のこれまでの合意形成の仕方が, 現代社会においては自ずから限界を持たざるをえないことである.次に, 我々がこれまで用いてきた合意形成の手段が有効でない場合には, 最小限の合意が有効であることを主張する.最小限の合意とは, 互いの理解のしがたさに関する合意である. そして, このような最小限の合意は, 寛容と主張という新たな戦略を可能にする.新たに示される戦略は, 我々がこれからの社会を他者と共に生きるためには我々自身が大きく変わっていかなければならないことを示唆するだろう.
著者
五十嵐 泰正
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.521-535, 2012
被引用文献数
2

多様性が価値として称揚される現代の都市においては, しばしば文化実践の当事者の疎外を伴いながらも, 周縁的な差異までも資源として動員されることが多くなった. しかし, 都市内部の多様性と都市間の多様性は二律背反の場合が多い現実の中で, 多文化都市における来街者を意識したまちづくりは, ある特定の地区に特定の文化的資源の選択的な集積を促し, 文化的次元でのゾーニングを志向しがちである. このような整理を踏まえたうえで, 本稿の後半では, そうしたゾーニングが困難な多文化的な商業地である東京都台東区上野2丁目地区における防犯パトロール活動に注目する. 執拗な客引き行為などを取り締まり, 良好な地域イメージを守ろうとするこの地区のパトロールには, 従来批判されてきたセキュリティの論理とコミュニティへの意識の接合を見出すことができる. しかし本稿では, パトロールをもっとも熱心に推進しているのが, 空間的ゾーニングに加えて時間的なゾーニング (住み分け) も難しい飲食店主層であることを明らかにしたうえで, セキュリティの論理ぐらいしかコミュニティ形成のきっかけとなりえない異質性と流動性がきわめて高い――すなわち高度に都市的な――地区では, 地域防犯への志向性こそが, 多様な人々の間にコミュニケーションのチャンネルを開く最大公約数的な契機であり, ゾーニング的な発想に基づいた排除的な多文化主義を克服しうる側面ももっていることを指摘した.
著者
正岡 寛司
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.22-41,113, 1968

以上において、根場部落における同族組織と親族組織を検討したが、最後に簡単な要約をもって結語にかえたいと思う。<BR>根場部落における同族関係は本家が直接・間接の分家を包摂するほど発達した同族団に展開しなかった。同族関係はかなりはやくから水平的な結合関係に変化し、先祖を共通にするという意識にもとずいた同族神祭祀や先祖祭りを中心とした固有の儀礼的な交際を持続してきている。<BR>そこで、日常的な交誼や協力関係は、オヤコ、とりわけイチオヤコの間において展開している。イッケシュが日常的な交誼や協力のあるいは家族行事へ参上する場合には、オヤコ関係のいくつかの段階区分に一定のきまった地位(多くの場合、イトコないしイトコナミ)を与えられて参与している。イッケシュをオヤコ関係のうちへとりいれて日常的な社会関係を展開している事実は、性質を異にする複数の集団や組織の存在を調整する処置であると考えられる。キンジョやオヤブンをもこの関係に組入れていることは、この事実を証明するものであろう。したがって、オヤコ関係は部落内の家と家との関係ないし瀋密度を表現する意義をももった親族組織であるといえよう。このことからも根場におけるオヤコ関係が決して同族関係の解体にともなって機能を顕在化するにいたったのでないことが理解されるのである。
著者
島薗 進
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.541-555, 2000
被引用文献数
1

近代化とともに宗教の影響力が衰えていくという世俗化論は, 1960 年代を中心に力をもっていた.確かに地域共同体に根を張って影響力を及ぼしてきた伝統宗教や新宗教のような組織的宗教は力を弱めている.かわって先進国では, 個人主義的に自己変容を追求するニューエイジや精神世界などとよばれるものが台頭してきている.この新たなグローバルな広がりをもつ宗教性を新霊性運動-文化とよぶことにする.情報と関わりが深く, メディアを介して個々人がそれぞれに学び取り, 習得するという性格が濃いこの新霊性運動-文化は, 現代社会で宗教の私事化が進む趨勢の現れであるように見える. ところが, 医療, 介護, 福祉, セラピー, 教育などの社会領域や, 国家儀礼, 生命倫理, 環境倫理などの問題領域に焦点を合わせると, 公共空間で広い意味での宗教がある役割を果たそうとする動向もある.これらの領域では, 近代の科学的合理主義ではカヴァーしきれない側面が露わになり, 宗教性, 霊性といったものを取り入れたり, 広い意味での宗教的な立場からの発言が強まったりする傾向が見られる.公共空間のある種の側面が再聖化する兆候といえる.この動向と世俗化や宗教の私事化と見えたものとは, 必ずしも矛盾しない.世俗化や私事化と見えたものには再聖化に通ずる側面が含まれていたし, 70 年代以降, 世俗化や私事化から再聖化の方向へ, ベクトルが転換する領域があったと考えられるからである.
著者
山田 陽子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.380-395, 2002-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
36
被引用文献数
1

本論の目的は, 「社会の心理学化」 (P. L. Berger) をE.デュルケム以来の「人格崇拝」の再構成から位置付けることである.心理学的知識が普及した社会では, 「心」に多大な関心が払われる.その侵犯を回避すべく慎重な配慮がなされ, 「心」は聖なるものとして遇される.「心」が重要だと語りかける一方で, それを操作対象とする「心」をめぐる知の普及はいかに解釈されうるか.ここではデュルケムの「人格崇拝」論にE.ゴフマンの儀礼論, A.ホックシールドの感情マネジメント論を接続し, それぞれに通底する「人格崇拝」論の構造と異同を明らかにすることによって解答を試みる.デュルケムは「人格崇拝」概念において, 近代社会では個人の人格に「神聖の観念」が宿ると指摘した.ゴフマンはそれを継承して儀礼的行為論を展開し, 世俗化の進行する大衆社会において唯一個人が「神」である様子を詳細に記述・分析した.デュルケムの宗教論とゴフマンの儀礼的行為論の影響が認められるホックシールドの感情マネジメント論では, 人格や「カオ」に加えて「心」に宗教的配慮が払われることが示唆されている.ホックシールドを「人格崇拝」論から読む試みを通じ, デュルケムやゴフマンの現代的意義を再評価しつつ, 心理学的知識の普及に関する新たな分析視角の導出と理論的枠組みの構築をめざす.
著者
西原 和久
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.666-686, 2007-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
58
被引用文献数
1

本論文ではまず, 理論の意味が考察され, 社会学における理論が, 基層理論, 中範囲理論, 理念理論からなることが提示される.ついで, (現象学的社会学の) 発生論的相互行為論の立場から相互行為と身体性ないし間身体性を含む問主観性論が論じられ, あわせて現代社会の基本構造, つまり科学技術社会, 知識情報社会, 高度消費社会, 国際競争社会が示される.さらにそこから筆者は主に, 「界」の概念に着目して国家の問題へと至る議論の道筋を提示する.そして本稿では最終的に, グローバル化時代における社会理論としての社会学理論において, 身体性および/あるいは間身体性の問題と脱国家的志向とが社会学的課題の主要なものとなるべきことが提示される.