著者
出口 剛司
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.422-439, 2011

これまで精神分析は,社会批判のための有力な理論装置として社会学に導入されてきた.しかし現在,社会の心理学化や心理学主義に対する批判的論調が強まる中で,心理学の1つである精神分析も,その有効性およびイデオロギー性に対する再審要求にさらされている.それに対し本稿は,批判理論における精神分析受容を再構成することによって,社会批判に対し精神分析がもつ可能性を明らかにすることをめざす.一方,現代社会学では個人化論や新しい個人主義に関する議論に注目が集まっている.しかしその場合,個人の内部で働く心理的メカニズムや,それに対する批判的分析の方法については必ずしも明らかにされていない.そうした中で,受容史という一種の歴史的アプローチをとる本稿は,精神分析に対する再審要求に応えつつ,また社会と個人の緊張関係に留意しつつ,個人の側から社会批判を展開する精神分析の可能性を具体的な歴史的過程の中で展望することを可能にする.具体的に批判理論の精神分析受容時期は,1930年代のナチズム台頭期(個人の危機),50年代,60年代以降の大衆社会状況(個人の終焉),90年代から2000年代以降のネオリベラリズムの時代(新しい個人主義)という3つに分けられるが,本稿もこの分類にしたがって精神分析の批判的潜勢力を明らかにしていく.その際,とくにA. ホネットの対象関係論による精神分析の刷新とその成果に注目する.
著者
遠藤 薫
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.438-452, 1998-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
17
被引用文献数
1 1

電子メディアの爆発的な普及にともなって, 電子メディア上に構成されるバーチャルコミュニティが新たな「社会的現実」となりつつある。本稿では, バーチャルコミュニティを我々にとっての「自明の現実」である近代システムと比較することによって, 改めて近代システムを検討し, 同時にバーチャルコミュニティの意義と課題を抽出する。結論として, バーチャルコミュニティは, 近代システムの論理を貫徹しようとする意思によって生まれてきたものであるが, その結果, 近代システムの枠組みを無効化し, 近代システムの基盤となる自律的個人のアイデンティティを変容させる可能性がある。新たに発生する問題として, 多重自己アイデンティティおよび文化衝突の可能性がある。
著者
場知賀 礼文
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.44, no.2, pp.147-160,240, 1993-09-30 (Released:2009-11-11)
参考文献数
26

価値と価値志向にかかわる課題は社会学の研究において中心的な位置を占めるものとはいえないにしても、価値が社会学における研究として重要な要素の一つであることは一般的に認められている。本稿では、価値が個人的、社会的に価値志向として重要な意義を有するものであると考える。まず個人的な価値志向に関する基本的な問題は、価値の内面化と統合化、及びこれらの過程に対する現代社会の影響に関してである。次に社会に関する問題は、社会意識の多様化を起す要因とは何か、社会の統合化の度合いとは何かについてである。社会的価値志向の多様化の主要な要因として、宗教あるいはイデオロギー、職業意識、現代文化の三つの要因を検討する。個人的な価値志向については、それが直接に社会的意識の影響を受けなければ、十全に個人の力だけによって形成されるものでもない。このように、価値志向に焦点を絞ることは、同時に個人的バイオグラフィと社会的・文化的現実、及び両者の関係に焦点を当てることである。
著者
吉野 耕作
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.44, no.4, pp.384-399, 1994

従来のエスニシティ、ナショナリズム研究では民族 (ethnic/national) のアイデンティティ、シンボルが「生産」される側面に偏っており、「消費」の視点が欠けていた。本稿では消費行動を通して民族性が創造、促進される様子を考察する。特に、グローバル化が進行する消費社会において文化の差異を商品化して成立する「文化産業」が、ナショナリズム (エスニシティ) の展開に果たす役割に焦点をあてる。社会によっては民族の独自性の表現方法が異なるために、文化産業は異なった現れ方をするが、抽象的 (全体論的) かつ「文化人類学主義」的な表現方法が顕著な日本と、これとは対照的な具象的 (制度論的) かつ文化遺産保護主義的なイギリスにおける事例を中心に論じる。具体的には、まず、日本において文化の差異に関する「理論」 (日本人論) がマニュアル化され、大衆消費されることによって文化ナショナリズムが展開する過程を考察する。次に、ツアリズムにおける消費を意識する形でナショナル・ヘリテッジ、伝統が「創造」され、その過程の中で民族意識・感情が促進される状況をイギリスの「ヘリテッジ・インダストリー」に見る。いずれの場合も、消費市場を舞台として文化を大衆商品として消費者に提示する「文化仲介者」の役割が浮び上がるが、グローバル化する現代消費社会におけるエスニシティとナショナリズムの新しい担い手として注目する。
著者
平川 毅彦
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.134-151,269, 1986-09-30 (Released:2009-11-11)

地域レベルにおける政治現象の研究は、地域のあり方を検討するうえでも欠くことができない。本研究は、ハンター以降のアメリカにおけるコミュニティ権力構造研究の成果と反省とをふまえ、一九五五年から一九八三年に至る、札幌市郊外S地区における地域住民組織を中心としたリーダー層を分析し、それを規定していた諸要因を解明する。その際、地域イシューとリーダー層との関係を、対象地域の変動とのかかわりでとりあげることに主眼を置き、地位法・声価法を併用した。その結果、確かに、都市的な性格が強まるにつれてリーダー層の分化傾向や、地域住民組織の機能縮小が顕著になっていたものの、「旧中間層支配」は「土地」「ネットワーク」「情報」に支えられ、形を変えながら依然として存続していた。しかも、これらを権力基盤として成立させていた社会・経済的条件は地区のスプロールであり、生活施設整備を志向する「来住者層」と、自己の利権を維持しようとする「地元層」との間のバランス=オブ=パワーであったことが明らかにされた。
著者
奥村 隆
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.39, no.4, pp.406-420,478, 1989-03-31 (Released:2009-11-11)
参考文献数
63

現在、社会科学に持ち込まれている「生活世界」という概念は、いったいどのような「社会」についての構想を、新しく社会科学にもたらすのであろうか。この問いに答えるためには、まず、従来必ずしも自覚的に区別されていない「生活世界」概念のさまざまなヴァージョンの相違を吟味しなければならない。本稿では、次の三人、すなわち、日常生活の常識による主観的構成を描いたシュッツ、これを再生産する間主観的コミュニケイション過程を捉えたハバーマス、これらを基礎づける自明性の世界を抉るフッサール、それぞれの「生活世界」概念の内包が検討されていく。そのうえで、そこから「社会」の構想へと延ばされる射程が吟味しうることになる。シュッツは「社会」が日常的過程に入り込む場面を、ハバーマスは社会システムと「生活世界」の相剋を、それぞれの「生活世界」概念から新たに描き出している。しかし、彼らの構図には、「生活世界」を「社会」に位置づけようとしたための限界があり、「生活世界」という基層から「社会」が形成される相を把握しようとする、フッサールの概念から展開しうる構図ほどの射程を持ちえない。「社会」の原初的な位相を抉り出すこの構図の展開は、困難なものといわざるをえないが、「生活世界」の視座から全く新しく「社会」を捉え直す戦略として、さらなる検討を加えていくべきものである。
著者
西原 和久
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.17-36, 1981-09-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
52

〈意味〉に着目することは、近年の社会学の一つの思潮となっている。そしてこの思潮は、M・ウェーバーやA・シュッツの流れをその源の一つとしている。だがこうした思潮内にいる諸論者において、〈意味〉の意味 (内容) やその視点はかなり自由に用いられているように思われる。本稿ではこの〈意味〉の多義性に論及する。その際、筆者は〈意味〉に着目する社会学の立場に立って、とりわけウェーバーとシュッツにおける〈意味〉の視角を検討する。そこでまず、〈意味〉の意味についての言語 (哲) 学の例示をみた上で、ウェーバーの〈意味〉概念の検討ないしはその若干の整序を試みる。そして次に、ウェーバーの「理解」を広義に解した場合の〈意味〉理解論における、〈意味〉の意味内容上の問題点を指摘する。筆者は、こうした考察の中から、主として〈意味〉付与の視角および「日常的理解の構造」解明の方向を析出する。そして、こうした点に着目したのがシュッツであり、合せてシュッツの〈意味〉に対する視角・方向も検討する。それは主に、行為者における行為の〈意味〉、「記号」とかかれる〈意味〉理解一般、そして〈意味〉の発生的な側面の問題などである。こうした〈意味〉の社会学の視角・方向は、人間意識へのかかわりを不可欠とするという点で一種の超越論的アプローチを前提とするであろう。
著者
中野 卓
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.p94-99, 1980-06
著者
上野 千鶴子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.2-17, 1975-11-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
35
被引用文献数
1

レヴイ=ストロースの構造主義は、一九五八年『構造人類学』に見る公認の教義から、その客観的な構造を剔抉されなくてはならない。私見では、彼のアプローチは、階梯モデル、同型説、システム論的思考を特徴とする、合理主義的理解の方法の一典型であり、この観点からは「メタ=ストラクチャー」は、当該の事象を、より一般的・整合的な構造のうちに置換する上位モデルと解される。だとすれば、メタ=ストラクチャーを無意識の実在に等置する先験主義からも、これに発達を拒否する無時間モデルからも、私たちは免れることができる。彼自身及び彼の祖述家達の、方法をめぐる様々な錯綜した議論よりも、彼自身の構造分析の実際が、何よりも雄弁にそれを実証しているすなわち、メタ=ストラクチャーは、文字通り「系の系」として上位構造なのであり、理解とは、この構造を構成する手続きそのものなのである。これが、認識の発達モデルを提供するピアジェの構造主義が主張することであり、同時に、構造主義的思潮を、西欧合理主義の伝統の最も多産な果実とする方途である。
著者
島崎 稔
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.101-134, 1954-01-30

Secondly, the hierarchical organization of the school must be mentioned. Those apprentice families in which family rank and its hierarchical status come into question are very limited in number in the school. They are direct apprentices belonged to the main master family (<I>soke</I>), and constitute a ruling stratum in the school. There are called "shokubun". Those who belonged to this category are as follows : <BR>1) Members of hereditary apprentice families of the main master which have been associated with him prior to Meiji Restoration, or kin of the main master family of the "Kanze" school.<BR>2) Those who entered the master family recently as private apprentices and, after a long period of apprenticeship, founded their own families. 3) Infrequently, those who are recognized as being of great merit by the master are raised from lower strata to this category.<BR>Most of those other than <I>shokubun</I> are "<I>shihan</I>", and as they belong to <I>shokubun</I> families, they are twice subordinate, once to the main master and once to the <I>shokubnu</I>. A few of the <I>shihan</I> are intermediate in status between <I>shokubun</I> and <I>shihan</I>, as they may become <I>shokubun</I> in the future, and they are called "<I>quasi-shokubun</I>". The main differences between these two strata are summarized as follows : <BR>1) The status of <I>shokubun</I> is formally recognized as hereditary, but <I>shihan</I>, as they are not recognized as formal apprentices of the master, have no such guarantee.<BR>2) The right to participate in the management of art performance of the Kanze school is only given to <I>shokubun</I> members. Thus, <I>shihan</I> have few opportunities to participate in performances held under the auspices of the main master family. 3) The right to communicate directly with the main master about the art is only given to <I>shokubun</I>. In case of requests for credentials and right to give performances, instruction in the arts and the utilization of <I>densho</I> (instruction codes), shihan must make these requests through the <I>shokubun</I> to which they belong. Thus, the <I>shihan</I> are extremely limited in their sphere of action and consequently are economically handicapped.<BR>The right to communicate directly with the main master is called "<I>Jikibuntsu</I>" (to communicate directly), and is a special privilege of <I>shokubun</I> in the school. For this reason <I>shokubun</I> has sometimes called "<I>Jikibuntsu</I>". In this sense, <I>shihan</I> are "out-siders" as regards access to the main master.<BR>Finally, the problem of the master-apprentice relationship among the members of the school must be treated. As the hierarchical structure suggests, the whole school is composed of the many master-apprentice groups centered around the main master family and <I>shokubun</I> families. Then, to understand the structure and group characteristics of the school, the individual masterapprentice relationships must be understood. In each master-apprentice group, two types of apprenticeship can be distinguished.<BR>1) One is that of those who entered the master's family in early childhood as "living-in" private apprentices and, after long apprenticeship, became independent. They are the so-called "<I>kogai</I>".<BR>2) The other is that of those who started their art career in adulthood as "amatures" and received their training as "kayoideshi" (living-outapprentice). They are called "<I>chunen-mono</I>".
著者
森岡 清美
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.2-11, 1990-06-30 (Released:2009-10-13)
参考文献数
33
被引用文献数
1 1

第六二回大会にあたり、恒例により会長講演と銘うつ報告をいたしますことは、私のもっとも光栄とするところです。さて、演題にいう「死のコンボイ経験世代」の説明が、本日の講演内容の大部分を構成することになると思います。まず、「コンボイ」ですが、以下、原稿に従って「である」調で記録することをお許しください。
著者
嘉目 克彦
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.204-216,280, 1985-09-30 (Released:2009-11-11)
参考文献数
1

マックス・ヴェーバーの「マクロ社会学的研究計画」に対する問題関心の高まりとともに、近代西欧の「合理化」がヴェーバーの社会学と歴史研究の統一テーマであり、ヴェーバーの全作品を貫く「赤い糸」であること、したがってその作品理解の主要課題はいわゆる「合理化問題」の解明にあることが、最近改めて注目されはじめている。しかしその場合、「合理化」は「合理性」概念にかんする一定の解釈を前提にして論じられているのであって、この点では、早くから指摘されている「合理性」の「多義性」にかんする問題が従来と同様ほとんど考慮されていないといわざるを得ない。本稿は、「合理性」の論理的意味にかんして、「ものの属性としての合理性」という観点から従来の諸説を検討し、これまで多様に解釈されてきた「合理性」概念を一義的に理解するための道を模索した試論である。従来の解釈では結局のところ「合理性」が「体系性」、「経験的合法則性」および「首尾一貫性」として個別的に理解されているということ、これらの特殊的かつ要素的な「合理性」はしかし例えば「理解可能性」ないしは「伝達可能性」として一般化しうるということ、また「合理性」は結局「意味」の「理解」にかかわる概念であるということ、こうした点が本稿で指摘される。
著者
渡辺 秀樹
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.36-52, 1975-07-31 (Released:2009-11-11)
被引用文献数
1

In this paper, we attempt to construct a hypothetical model about the socialization process in the family applying the structural-functional theory. The socialization as a interaction process is considered to be the mutual and longitudinal process. And this process is conceptualized by role-developmental terms.In the hypothetical model, family socialization process is divided into two analytical process ; role-negotiation process and role-realization process. The three key elements in this model are role-expectation, role-conception and role-behavior.On the one hand, the family as a whole expects socializee to perform hi: family member's roles deriving from the tasks of satisfying the functiona requisites of the family as a social system. The contents of this task shift from stage to stage throughout the entire family life cycle. This tasks a any given stage in the family life cycle are considered to be the family developmental tasks.On the other hand, the individual as a socializee expects himself t actualize his own roles such as congruent to his role-conception which derive from the tasks of gratifying the personal needs as a personality system. Th contents of this tasks shift from stage to stage throughout the individual life cycle. We call these changing tasks the individual developmental task.After the contents of role-s are negotiated between role-expectation an role-conception, role-behaviour is realized.These assumption enable us to construct the ihterrelational model of the family socialization process consisting of the three key concepts (Figure 2). And theoretically, relative congruency or discrepancy among the three key concepts divide this model into five typological forms (Figure 3). And then, we assume that these five family socialization types become the phases of longitudinal process through the family life cycle stages. The possible phasemovement as typelinkages are theoretically four patterns (Figure 4). These four family socialization patterns are divided into two adaptive socialization patterns and two selfinitiated socialization patterns.After attempting the model building, we consider the relation between the family life cycle and the family socialization patterns, and also consider the typelinkage variation of the adaptive socialization pattern (Figure 5).
著者
安田 三郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.78-85,114, 1970-07-30 (Released:2009-11-11)
参考文献数
2
被引用文献数
1
著者
渡辺 雅子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.333-347, 2001-09-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
27

本研究は, 日本と米国の小学生の説明のスタイルが具体的にどう異なるかを4コマの絵を使った実験により明らかにする.説明のスタイルを調査する方法として, 一連のできごとを説明するのに, どのような順番でものごとを叙述するかに注目した.4コマの絵を使った実験では, 同じ絵を見てそこに表されたできごとを説明するのに, 日本の生徒は生起順にできごとを並べて時系列で説明をする傾向が強いのに対し, 米国の生徒は時系列とともに結果を先に述べた後, 時間をさかのぼって原因をさぐる因果律特有の説明の順番に従う傾向があることが明らかになった.また理由付けをする場合には, 米国の生徒は結果にもっとも影響を与えたと思われるできごとのみを述べて他を省略する傾向が見られたのに対して, 日本の生徒は説明の場合と同様に時系列でできごとを述べる傾向が見られた.さらに日本の生徒は, 一連のできごとを述べた後, 社会・道徳的な評価で締めくくるのに対し, 米国の生徒は因果律の観点から, 与えられた情報をもとに説明を補足する特徴が見られた.時系列と因果律という叙述の順序の違いは, 個々のできごとの軽重の判断や一連のできごと全体の意味付けに重大な影響を及ぼしている.説明のスタイルの違いが理解や能力の問題として把握される可能性は大きく, 教育の現場においては複数の説明スタイルの違いの存在を意識することが必要である.
著者
秋本 光陽
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.69, no.3, pp.373-389, 2018 (Released:2019-12-31)
参考文献数
34

本稿は, 日本における戦後少年司法制度の黎明期, とくに1950年代前半の少年司法制度を対象に, 「科学主義」と呼ばれる理念が家庭裁判所の実務関係者によるいかなる実践を通して可能になっていたのかを明らかにするものである. 戦後日本では1949年に現行少年法と家庭裁判所が誕生した. 現行少年法は家庭裁判所調査官職および少年鑑別所技官職を設けており, 少年の非行原因の解明や, 非行ないし非行克服の可能性を予測するために人間関係諸科学の活用を要請している. しかし, 少年司法の科学主義理念はその内実が不明瞭であるとの指摘もなされてきた. 本稿では, 家庭裁判所調査官によるディスコースを素材に, 調査官が社会学的知見を用いて少年の非行ないし非行克服の可能性をどのように予測していたのかを分析する. 分析からは以下のことが示された. 第1に, 家庭裁判所調査官は法と習俗・慣行の齟齬に注目し, 非行少年を農村の「若衆」などとカテゴリー化する実践を通して, 少年の行為がもつ合理性を描き出すことを試みた. 第2に, 調査官によるカテゴリー化の実践は, 少年に社会的な適応能力を見出すことを通して非行克服の可能性の予測を可能にさせるものであると同時に, 非行可能性の予測をも導くものであった.