著者
下司 晶
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.15, pp.203-219, 2006-09-17

しばしば評価の分かれるJ・ボウルビィの説に、私たちはいかに接したらよいのだろうか。支持と批判の二者択一に代わる第三の選択として、本論では、彼の理論の成立過程と、その思想史的基盤の解明を試みる。その際に特に着目するのが、精神分析から自然科学(行動生物学)へと至る彼の理論枠組みの変遷である。各章では、それぞれ以下の内容を検討する。(一)精神分析家として訓練を受けたボウルビィが、病因として外的<現実>を重視するようになる過程。(二)母性剥奪論の登場と受容を準備した思想史的背景。(三)母性剥奪論から愛着理論への道程においてボウルビィが精神分析を離れ、自然科学(行動生物学)への依拠を強めていく様相。(四)ボウルビィ理論および彼が構想した「自然科学としての精神分析」というヴィジョンの妥当性と、フロイトからの距離。
著者
吉見 俊哉
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.121-133, 2013-09-14 (Released:2017-08-10)

本論文は、シンポジウム当日の報告に基づいて、今日における「大学の危機」をめぐる議論を踏まえつつ、思想史的な観点からポスト国民国家時代の知的空間として「大学」概念そのものを再定義することの必要性を強調し、メディアとしての大学という新たな視角を切り開くことを試みる。
著者
小玉 重夫
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.89-102, 2006-09-17 (Released:2017-08-10)

グローバリゼーションが国民国家にかわる新たな政治社会の構成原理をもたらすのかどうか、もしそうだとすればその条件は何なのか。本稿では、アンソニー・ギデンズ、ハート=ネグリ、ジョルジョ・アガンベンの3者の思想に注目し、この問題を検討した。まず、ギデンズは、「第三の道」において旧式の福祉国家とは異なる包含のシナリオに定位した議論を提起した。だが、それは包含と排除のアポリアを顕在化させるものであった。これに対して、ハート=ネグリとアガンベンは、包含と排除の機制を見据え、マルチチュードとホモ・サケルという、対照的な議論を展開した。ハート=ネグリの場合は、マルチチュードの構成的権力によって包含/排除の境界線を反転させる構想を提起した。それに対してアガンベンは、構成的権力と主権権力の間の危うい偶然的な関係に依拠した政治を構想することによって、包含/排除の境界線それ自体を無化しようとした。アガンベンの議論は、潜勢力(可能性)と現勢力(現実)との間の必然的なつながりを否定する労働価値説批判としての側面をもつており、この方向で政治教育の復権を模索することが、グローバリゼーション下における新しいシティズンシップを探求するうえでの一つの鍵となることを明らかにした。
著者
柴山 英樹
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.193-209, 2005-09-18 (Released:2017-08-10)

本稿は、ルドルフ・シュタイナーの色彩論について、19世紀末から20世紀にかけて展開された科学的色彩論やクレー、カンディンスキーなどのバウハウスの教師たちの色彩論などの同時代のコンテクストから読み直すことによって、シュタイナーの色彩論の意味内実をより明確に捉えられることを示したものである。シュタイナーは、色彩と身体のつながりを二元論的に捉えようとする科学的色彩論から距離を置き、ゲーテの色彩論における実在論的視点からの影響を受けつつ、進化論的視点という独自の視点に立脚した一元論的な色彩論を提示したのである。シュタイナーは、実在論的視点や進化論的視点に立脚することによって、自然界における色彩現象と人間の身体や感覚とのつがなりを解明し、そこから導き出された色彩が直接身体や感覚に働きかけてくるという観点に基づき、色彩を通じて自然の生成過程を追体験する絵画方法を提示したのである。
著者
青柳 宏幸
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.205-219, 2008-09-12 (Released:2017-08-10)

マルクスが労働と教育の結合を主張したことは余りにもよく知られているが、この場合、教育と結合されるべきとされた労働は資本制的生産関係下における賃労働としての児童労働であった。本稿は、国際労働者教育協会ジュネーブ大会における教育論争に注目し、その中にマルクスを位置づけることを通して、労働と教育の結合が彼の当時の社会変革構想の要約的表現であったことを明らかにしたものである。マルクスは、イギリス工場法の歴史の分析を通して、労働者階級の中で最も弱い存在である子どもの保護の必要性が認められることが大人を含めた労働者階級全体の労働時間を制限することの出発点となることに注目していた。そして、その短縮によって生じた自由時間を有効に用いることによって労働者階級が政治的な主体形成を実現していくという社会変革の展望を抱いていた。マルクスにとって、賃労働としての児童労働は、かかる社会変革の構想を可能とするものとしてきわめて重要なものであったのであり、厳格に規制されるべきではあるがけっして禁止されてはならないものであったのである。
著者
今井 康雄
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.117-129, 2008-09-12 (Released:2017-08-10)

教育の起源を、教わる側の必要にではなく教える側の贈与に見る矢野の議論は、人間本質論・人間存在論から導出される必然的な事実として自明化されがちな教へ育をふたたび「謎」として現出させ、そのことによって教育への教育哲学的な接近を可能にする。しかし他方、そこでは、贈与という出来事が教師=贈与者に名寄せされたことの結果として、交換関係からの贈与の出現という、本来めざされていた出来事が分析困難になっているように思われる。本稿は、矢野も依拠しているデリダの贈与論、とりわけ『時間を与える-I.贋金』に即して、贈与者ではなく贈与されるものが、交換の精神からの贈与の出現を可能にしていることを示す。そして、教育においても同様の構造が見られることを示唆する。
著者
下司 晶
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.47-61, 2008-09-12 (Released:2017-08-10)

「臨床の知」の源泉をフロイトと精神分析に求め、そこに潜む問題を検討する。そのためフロイトとフロイト主義における精神分析の科学的位置づけの変容を思想史的に考察し、教育との連関を探る。各章では、それぞれ次の課題が検討される。(I)S・フロイトにおいて精神分析は、自然科学/精神科学の区分に対してどのように位置づけられるか。(II)フロイトの理論的後継者H・ハルトマンが、精神分析を「自然科学化」「発達心理学化」したことによって、精神分析にいかなる変化が起きたのか。(III)フロイトからフロイト主義に至る精神分析の科学性の変容は、精神分析と教育との関係に何をもたらしたのか。
著者
田中 智志
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.13-25, 2002-12-04 (Released:2017-08-10)

他者は、同化されたり馴致されることによって消えていくものではない。他者は、たとえば、近代教育のような現実の言語ゲームが構築するヘゲモニーを撃つ批判的な拠点である。このような他者の存在を承認し、他者の存在を教育することは、いかにして可能だろうか。第一に、他者への教育は、他者の了解不可能性を了解するという態度を要請するだろう。他者を了解することは、他者を承認することではなく物に還元することだからである。第二に、他者への教育は、近代教育の正当性を脱構築する知を要請するだろう。近代教育の正当性は、存在神学という、他者否定の思考にあるからである。近代教育の脱構築は、「進歩」「発達」「文明化」という上昇指向を相対化し、偶有的・刹那的な共在を語らなければならない。偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、存在神学を喪った時代を生きる子どものニヒリズムを否定的なものから肯定的なものに反転させる契機となるだろう。つまり、偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、生の悲劇性=喜劇性を感受するきっかけを子どもに与えるだろう。
著者
古屋 恵太
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.57-72, 2010

本論文は、初期デューイのライプニッツ論そのものとそれを育んだヘーゲル主義という近景にまず焦点を合わせる(中心化)。次に、アメリカを離れ、フランスのタルドを、同時代にライプニッツ論を著したという理由だけで視野の外から取り上げて提示する(脱中心化)。ヘーゲル主義の影響が生涯デューイに残り続けたとする近年の研究や、同時代にデューイと同様にライプニッツについて論じたタルドも手掛かりとしながら、若きデューイの有機的統一の思想と個性論を考察することを通して、「個人の時代」(ルノー)と対時してみたい。それは、本論文の方法論的枠組みであるライプニッツの中心化-脱中心化の論理を、タルドと同じく「ライプニッツの子ども」である初期デューイの思想そのものに見出すことでもあるだろう。