著者
森田 伸子
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.10, pp.59-77, 2001-09-14

長い間オーラルの世界に生きていた圧倒的多数の民衆を、文学の世界に導きいれ、その正当な市民として位置付けること。これが近代教育が自らに課してきた課題であり、少なくとも先進諸国においては、この課題は19世紀末から20世紀初めの国民国家の体勢が整うと歩を同じくしてほぼ達成されたとされる。そのとき文字とは何を意味したのか、文字を読むこと,あるいは文字を書くことに何が求められたのか。さらに、こうしたことと、近代教育思想に通低する書物への断罪はどうかかわるのか。ヨーロッパの教育思想における文字の審級を、19世紀末のフランス公教育における作文教育をめぐる議論をとおして考察する。
著者
野平 慎二
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.18, pp.63-72, 2009-09-12

森岡氏の報告は、障害/健常といった二項図式的なカテゴリーの恣意性を指摘し、「他者への欲望」を教育的な倫理と捉えることで、その図式の克服を試みた意欲的な報告である。同時にそこには、構築主義が批判してきた意識哲学的な思考がなお混在している。本稿では、フォーラムでの質疑応答を踏まえながら、森岡氏の報告における「当事者」理解、および「他者への欲望」概念の理解を中心に検討する。そして、森岡氏の議論の前進にとっては、意識哲学から抜けきらないまま二項図式的なカテゴリーの放棄を試みることではなく、構築主義的視点を徹底させることが必要となることを提起したい。
著者
下司 晶
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.12, pp.181-197, 2003-09-27

PTSD論が喚起した外傷記憶の<現実性/幻想性>をめぐる問題は、1950年代の<誘惑理論の放棄>解釈図式の再燃といえる。クリスらの精神分析家たちは、『フリース宛書簡』から<誘惑理論の放棄>というフロイトの理論修正-<現実>から<幻想>への外傷報告の性質の移行-を発見し、それを精神分析の起源ととらえた。それに対し、マッソンらの心的外傷(PTSD)論者たちは、1980年代にこの図式を逆転させ、フロイトが外傷報告の<現実性>を棄却したことを、自らの批判的立脚点とした。これらの<誘惑理論の放棄>解釈は、ともに<現実/幻想>としての個体経験の重視という心理学的観点、自説の論拠としてのフロイトの生涯という枠組みを共有している。20世紀中葉、精神分析は、フロイトの多様なテクストを個体経験に収敏可能な範囲内に切りつめ、心理学理論として自らを整備し、その誕生を創始者の心理生活史に基礎づけることによって、自存的な言説として自律した。その契機こそ<誘惑理論の放棄>の発見だった。今日に至る、フロイトを心理学者たらしめるこの循環回路を超えて、彼を異化する必要があるのではないか。
著者
松浦 良充
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.22, pp.1-17, 2013-09-14

ハッチンズはその生涯の大半を大学像の探究に捧げた。そしてその大学像の構成には、教育概念が重要な役割を担っていた。本稿では、20代半ばから大学の管理運営にかかわり、30歳でシカゴ大学の学長に抜擢された彼の大学像・教育概念の変遷とその意味を考える。彼は研究志向の強い多機能的総合大学の統合原理として「教育」を位置づけた。それによって大学の知的再生産機能を作用させようとしたのである。大学を去った後にも彼の大学像の探究は継続された。ただし「教育」の役割に関する考え方には変化が生ずる。大学・教育が社会からの要請に従属的である、との認識を強めるのである。大学・教育は社会を変革できないのか。ならばどうすればよいのか。晩年に展開された「ラーニング・ソサエティ」に至る思想的挑戦のなかで、彼はその課題にいかなる解答を見出そうとしたのか。
著者
小国 喜弘
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.103-114, 2012-10-13 (Released:2017-08-10)

学校の共同性の再検討を目指して、国民の教育権論の批判的整理と持田栄一の再評価を行った。まず、国民の教育権論を再検討する中で、その問題点が、子どもの参加権論や学校における学習権保障の近年の研究とも共通する特徴を持つことを指摘した。その上で学校の共同をめぐる五つの課題を指摘した。第一に、「教育共同体」と持田が呼んだような、社会における共同性の組織をどうするかという観点から学校のカリキュラム編成を考えるべきこと、第二に、親・市民・教師・地域といったそれぞれの概念を一枚岩としてとらえないこと、第三に、複数の対立する要求が相互に批判し自らを問い返す場として教育課程編成を位置づけるべきこと、第四に、学校を独自の政治空間として再定義すべきこと、第五に学習権を抽象的な権利項目にとどめず具体的に権利目録化すべきこと。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.45-53, 2013-09-14 (Released:2017-08-10)

本稿では、鈴木篤氏の論考の問題の所在、方法、結論を簡潔に確認し、特に問題設定に関わる方法に、大きな問題があることを指摘した。そして、鈴木氏が方法として参照するプロソポグラフィの単純な限界の理解、ピエール・ブルデュの『ホモ・アカデミクス』の問題意識の共有、パリのフランス国立科学研究センター研究員へのインタヴューを通して、教育学・教育哲学の「全体像」をつかむという鈴木氏の思いに向かう道は、鈴木氏の試みとは違って、個別的な研究や研究者についての緻密な分析描写(物語の生成)であるべきことを指摘した。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.15-24, 2009-09-12 (Released:2017-08-10)

鈴木康史氏のフォーラム報告論文は、明治期日本の思想家を取り上げ、近代的人間を表象する用語、例えばpersonという英語に対する訳語が「身」からいかにして「人格」へと変容したのか、そして「身」がいかにして「精神的なるもの」に取って代わられたのか、といった問題を考察し、そこに「主体」の表象の変容を見ようとするものである。その変容とは、「主体」から身体的な領域が抜け落ちていくことであり、さらに「人格」の観念の登場とともに「身体」は徹底的に無化され、透明化する身体へと帰結した、と鈴木氏は考える。主体が変容し、身体が脱落し、そして身体が透明化した、というのである。本稿では、鈴木氏の問題提起の面白さを受けとめつつ、主体から身体が脱落するという図式的な見方がはらむ問題点を指摘した。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.81-89, 2012-10-13 (Released:2017-08-10)

「美と教育」再論を見据えて、シュタイナーのシラー論を考察の対象とし、特にシュタイナーの『自由の哲学』における議論を、今日の教育や人間に関する通念的理解を異化する契機と見なすことを試みた西村拓生氏のフォーラム報告論文において、西村氏自身がその試みを「あえて」シュタイナーについて語ると規定していることが、本コメント論文では着目された。なぜ「あえて」なのか。シュタイナーをめぐるいくつかの文献とともに、筆者自身が経験したシュタイナー論との関わりも振り返えられ、シュタイナーを近代教育思想研究の中にこれまでの躊躇を越えて取り込む可能性が示唆された(「あえて」と言う必要は、もはやないだろう)。西村氏が異化の契機としてシュタイナーを捉えることもさることながら、むしろシュタイナー学校での教育実践を多角的に考察する中でシュタイナーの生き方や思想が参照され研究されることに、これからのシュタイナー教育思想研究のひとまずの方向性があるのではないかという見方が提示された。
著者
池田 全之
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.227-246, 2004-09-18 (Released:2017-08-10)

教育思想史研究において、我々は過去のテキストを読解している。だが、この読解において過去のテキストの含意を、我々は無自覚に自身の意味づけ作用の中に回収してはいないか。教育思想史研究でなされてきた他者性を巡る議論を踏まえれば、こうした疑問が脳裏に去来する。現代思想の動向から考えれば、テキストが孕む理解不可能性(他者性)を極限まで尊重する解釈術としては、デリダの業績が真っ先に思い浮かぶ。だが、デリダも指摘するように、こうした解釈術の先駆けとして、ベンヤミンの批評手法がある。当初翻訳論として提起された、テキストの真理そのもの不在と諸翻訳の協働によるその再現という解釈術構想は、『ドイツ悲劇の根源』の序論で、現象の概念的弁別と理念におけるその救済の思想に拡張され、『パサージュ論』において、対立項の緊張の極みでの真理の閃き構想(静止状態の弁証法)に帰着した。本稿は、文芸批評の方法論から始まり社会批判の方法に深化したベンヤミンの解釈術の構造を、その鍵語であるアレゴリーに着目して解明し、破壊即救済というそれの特異なテキスト理解論を明らかにした。
著者
西村 拓生
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.77-87, 2014-10-11 (Released:2017-08-10)

「京都学派」教育人間学の思想を「政治」へと「折り返す」という関根会員の提題は、教育の思想が現実と如何にかかわり得るのか、という問いにつながる重要な問題提起であると考える。しかし、その可能性を追求するためには、まず京都学派教育人間学の重層性を充分に考慮する必要がある。そこで小論では、矢野智司、田中毎実、皇紀夫という三氏の思想を系譜論的視点から検討し、それぞれの思想的体質や議論の焦点を敢えて対比的に捉えることを通じて、京都学派教育人間学の暫定的なマッピングを試みる。それぞれのキーワードは、生命性と超越、臨床性から公共性へ、言葉の内と外、である。これらの思想的布置を描いた上で、最後に、京都学派に固有の生命論、生成論を特徴づける本覚思想的契機を踏まえて「政治」を展望する可能性と困難について論及する。
著者
白銀 夏樹
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.211-223, 2003-09-27 (Released:2017-08-10)

近年の教育学理論では、発達的な時間意識や客観的な時間意識に対する反省から、経験の瞬間性に注目を集めるものが少なからず登場している。だがその一方で、発達的でもなければ客観的でもない自己形成の時間的連続性について論じられることは必ずしも多くない。本論文では、自己形成の時間的連続性を考える手がかりとしてアドルノのいう「叙事詩的時間」に注目し、音楽をモデルとしたこの時間意識に基づくことで、自己の時間的連続性を開かれたものとしてとらえる人間形成観を提起する。ひとことでいうなら、現在までの意識と無意識をあわせた人間形成の歩みを、統一的な論理ではとらえることのできない錯綜した諸経験の布置関係によって構成されているものとみなしつつ、忘却された先行の経験を喚起し新たな布置関係の要素となるものとして、後続の経験を位置づける人間形成観である。こうした一連の運動のダイナミズムとして、人間形成における「叙事詩的」連続性を論じる。
著者
池田 全之
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-18, 2005-09-18 (Released:2017-08-10)

今回の報告のテーマは「ドイツ観念論のアクチュアリティ」である。だが、ドイツ観念論は絶対者の学であり、近代批判の脈絡で、近代を形成した「確固とした完結した主体」という幻想に立つ主体性の形而上学の極北とみなされ、そのまま支持することが今日では難しいとされている。これまで筆者は、フィヒテの知識学を検討しながら、主体がドイツ観念論の文脈でどのように定式化されたのかを整理し、シェリング(F.W.J. Schelling 1775-1854)において、絶対者への渇望がドイツ観念論の枠内で辿った顛末を究明したが、今回はシェリングの中期以降の試みを辿り直す。というのも、ドイツ観念論研究を始めたときから念頭を去らない問い、「絶対者に基づく形而上学的思考は妥当性を失っているのか」、を真剣に考えなければならないと思われるからである。たしかに現代思想からの批判を侯つまでもなく、現実遊離した超越的な次元を想定して、そこに現実を基礎づけることは許されないだろう。しかし、20世紀の思想を参照すれば、例えばユートピアの痕跡としての芸術作品による社会批判のTh・アドルノの試み(『美学理論(Asthetische Theorie)』)や、脱構築不可能な正義からの呼びかけによる法の脱構築を説くJ・デリダの「亡霊学(hantologie)」には、超越との関係で内在をいかに批判するのかという視点が復活していると思われるからである。こうした問題意識から筆者は、一見関係が見えにくいシェリングと、デリダもまた超越の現代的様態を解明すべく取り上げたベンヤミンを重ねあわせることにより、そこに閃くものを掬い取りたいと思う。