著者
山名 淳
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.336-347, 2011-12-29

本稿では、ドイツの「新教育」に関して20世紀末に生じた論争に注目し、そこで提起された「新教育」を相対化する具体的な方法およびそのバリエーションを概観すると同時に、「新教育」の虚構性をめぐる争点を明らかにする。そのことをとおして、教育学的な〈カノン〉(=教育学において標準とみなされてきた知識やテキスト)を相対化するための方法およびその課題について検討を試みる。
著者
小島 弘道
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.71, no.1, 2004-03-30

現代の学校経営改革は戦後第3の改革と位置づけることができる.1956年に制定された地方教育行政法とそれに基づいて展開された各種の施策や指導によって形成された学校経営の秩序(「56年体制」)を変容ないしは転換したものとの認識である.そう言える根拠を見い出し,それを理論的に深める必要がある.他方,56年体制の変容どころか完成だとする理解もある.いずれにしても,学校経営の経営主体とマネジメントをめぐって展開されている議論である.さらに新しいタイプの公立学校の導入のための法的措置を平成15年中に行うことが閣議決定されている.この改革提言は学校経営改革がマネジメントの問題である以上にガバナンスの問題として定式化されてきていることを端的に示すものである.学校経営をガバナンスの問題として定式化することは,マネジメントの問題として定式化されてきた学校経営理論の文脈にどのようなインパクトもつものとなるのか.この問題は現在進行中の教育改革の意義を把握するうえで欠かすことの出来ないものであろう.我々は以上のことを学校のガバナンスとマネジメント問題としてとらえ,ガバナンスとマネジメントが56年体制と現代の改革ではどういうかたちをとっているか,またそれらのかたちの間の連続,非連続のかたちをどう描くかをテーマとしていきたいと考える.そのことを通して21世紀の学校ガバナンスとマネジメントの在り方をさぐっていきたい.
著者
黒田 恭史
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2, pp.169-179, 2008-06-30
被引用文献数
2

全国学力・学習状況調査「算数・数学」 (2007年4月実施)は、この間、日本で実施されてきた学力調査の内容に加え、PISA等に見られる数学的リテラシーに関する内容が含まれるものであった。こうした変更は、学力テストの従来の枠組みを越えた取り組みとして一定の評価ができるものであるが、その一方で情報通信社会・国際社会を主体的に生きていくために必要となる能力は何であり、算数・数学教育で扱う内容はどうあるべきかということ自体の議論が欠落しているといえる。本稿では、今回の全国学力・学習状況調査を行為動詞の観点からその特徴を分析し、今後の算数・数学教育の再構築に向けては、内容と方法の両面の再検討が重要となることについて言及する。
著者
横井 敏郎
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.432-443, 2006-12-29

安定的な雇用が得られにくいこの時代において、若者はいかに自らの進路を見出すことができるのか、また彼らを支援できる政策や実践とはいかなるものなのか。近年の日本の若者自立支援政策は、若者と企業のマッチングを主に若者側のキャリア意識の育成によって改善しようとする労働市場政策を中心としたものにとどまっており、福祉の給付と就労を結合させたワークフェア政策として把握できる。この政策を超えて、若者の進路と支援実践に求められる視点と方向を見出すために、2つのNPOの若者支援活動を分析し、また完全参加社会やベーシック・インカムなどの新しい社会構想を検討した。これらを通じて、就労と自立、有給雇用と社会有用活動の区別、労働の権利の保障、新しい雇用と活動の創出、共同的な社会参加の道を若者たちに開いていく普遍的なシティズンシップといった視点と方向を提起した。
著者
中嶋 哲彦
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.25-37, 2012-03-30

2008年前後以降子ども・若者が直面する格差・貧困への認識の深まりとともに、その解決のための諸施策が実施されたが、その開始当初からはそれらの廃止・縮小を求める主張も現れていた。経済・財政状況の悪化を背景に、子ども手当や高校授業料無償制の存続の可否が2011年における政治的テーマの一つだった。これと裏腹に、若者の就職難がさらに悪化する傾向にあることを示す調査結果が多く公表され、文科省と厚労省が連携して対策を講ずる動きが目立った。しかし、3月11日の東日本大震災と東電福島第一原発事故は、子ども・若者をめぐる客観的状況と世論を一変させ、教育・福祉施策の重点は被災児童生徒学生に対する緊急の救済・支援措置や防災教育や学校等の耐震対策に関する施策へと大きくシフトした。他方、東京都教委の10.23通達(2003年)以降、行事・儀式における起立・斉唱の職務命令に起因する訴訟が多数提訴されてきたが、2011年5月以降、各訴訟に対する最高裁・小法廷の判決・決定が相次いで言い渡された。各小法廷は職務命令を合憲とする一方、法定意見または補足意見で思想良心の自由の制約への懸念も表明された。また、2012年4月から使用する中学校教科書の採択においては、育鵬社・自由社が発行する教科書の採択が注目され、とくに八重山採択区における採択問題が大きな問題となった。中央教育審議会は、キャリア教育・職業教育特別部会と教育振興基本計画特別部会においてそれぞれ審議が進められたが、2011年には大きな動きは見られなかった。しかし、経済界からは競争力人材・グローバル人材育成、とりわけ大学教育の質保証や国際化に関する要請や提言が目立ち、これに呼応する科学技術政策・予算配分の展開が見られた。なお、日付不詳の事項は月まで表記し、日は「xx」として、各月の末尾に加えた。
著者
池上 惇
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.324-335, 2006-12-29

現代社会における経済格差は、学校教育内部にも反映して生徒や学生の孤立化・生存競争を招き、教育における基礎的な潜在能力・コミュニケーション能力の開発は喫緊の課題となった。本論文は、2000年代初頭における京都の私立大学文化政策学部を事例として、文化資本の概念を再検討し、学生一人一人の文化資本形成の推進、都市・地域の文化資本蓄積、人々に開かれた生涯教育システムこそ、この課題に応えうることを実証している。
著者
齋藤 孝
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.287-294, 1999-09

この論文の目的は,「身体知としての教養(ドイツ語で言えば,ビルドゥング)」という概念の意義を明らかにすること,および,日本の伝統的な教養と教育を検討することによって,私たちによって生きられている身体の重要な役割を教育学の文脈に位置づけることである。 この概念には,二つの主な効果がある。一つの効果は,身体的な経験を通して獲得された知恵を一つの教養としてみなすようになることである。もう一つの効果は,たとえば音読や古典的な詩歌の暗誦のように,古典的な教養を学ぶ上での,私たちによって生きられている身体の重要性を評価するようになることである。生きられている身体というのは,メルロー=ポンティの『知覚の現象学』の中心概念である。「身体知としての教養」という概念は,私たちによって生きられている身体によって基礎づけられているものである。 教養というのは,通常は,多くのスタンダードな書物を読むによって得られた幅広い知識の問題とみなされている。しかし,19世紀までは,日本人にとって,五感を通して,言い換えれば,生きられた身体を通して学ぶことが非常に重要であった。日本の伝統的な学習法では,知の問題は,身体の問題と切り離すことのできないものであった。かつての日本人にとっては,教養をつけるということは,日々の生活の中で自分が生きている身体を耕すことを意味していた。それゆえに,教養ある人間には,何らかの身体的なアート(技芸)を経験していることが期待されていた。身体的な技を反復練習によって向上させる,まさにそのプロセスが,教養の概念の中心だったのである。 「身体知としての教養」という概念を代表する典型的な日本人は,卓越した小学校教師であった芦田恵之助(1873-1951)である。かれは,伝統的な呼吸法を応用したある特定の身体的実践を訓練した。そして,その身体的実践が自分自身の心身の健康にとってのみならず,教育にとって重要であると考えた。身体の基本的な技法が,自己のテクノロジーの中核であった。彼にとって,またかつての日本人の大部分にとって,教養は,心身を耕すことを意味していたのである。
著者
松浦 良充
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.417-426, 1999-12-30

本論文は、アメリカ高等教育史における「リベラル・エデュケイション」および「ジェネラル・エデュケイション」概念の意味と、その相互関係の明確化を試みるものである。この作業を通して、現在私たちが直面している課題である、日本の大学における<教養>について再考する際の示唆を得る。そしてそのための事例として、シカゴ大学カレッジにおける改革の現状と歴史を考察する。シカゴ大学カレッジは、1999年、1984年以来の学士課程カリキュラムを改訂したが、この改革に関しては多くの議論がまきおこっている。なぜならば新カリキュラムは,シカゴ大学の伝統である共通コア科目を縮小し、その分、選択科目枠を拡大するものであったからだ。さらにシカゴ大学カレッジは、創立以来現在に至るまで、アメリカ合衆国における有数の研究志向大学であるにもかかわらず、ロバート・メイナード・ハッチンズ学長・総長時代(1929∼1951 年)に、学士課程カレッジのカリキュラムおよび組織に関してユニークな実験的改革の経験をもっている。しかしながら今回の改革は、多元文化社会におけるリベラル・エデュケイションの新たな概念構成が,共通コア科目からなる一般教育と、専攻(専門)教育、さらに、教室外や国外にさえおよぶ学生の自主学習・研究を含むものへと、再構築されるべきことを示唆している。筆者は、シカゴ大学の改革から、日本の高等教育における<教養>教育概念の再構築のための新たな参照枠を得ることができると考えている。 本稿の議論は、以下の手順によって進めてゆく。第一に、日本の高等教育が、戦後新制大学のモデルとしたつもりであったアメリカにおける「リベラル・エデュケーション」および「ジェネラル・エデュケーション」(教養教育)が、学士課程の専門(専攻)教育と本質的に対立するものである、との誤解がなされてきた。そうした理解は、アメリカにおけるリベラル・エデュケイション概念の意味には含まれていない。第二に、リベラル・エデュケイションの思想史を、とくに、ブルース・A・キンバルによる、「弁論家」の系譜と「哲学者」の系譜という枠組みを参考にしながら、整理・検討する。それによれば、リベラル・エデュケイションの歴史は、弁論家たちによる「アルテス・リベラルス理念」と哲学者たちによる「リベラル-フリー理念」との間の一連の論争の歴史である。そして、いまや両者の理念の統合が求められている。第三に、シカゴ大学カレッジの1999年度カリキュラム改革および実験的改革の歴史について検討する。シカゴ大学カレッジのリベラル・エデュケイションは、コモン・コアによる一般教育、専攻(専門)教育、および自由選択科目から構成されているが、今回の改革では、教室外やキャンパス外にも教育活動を拡張することをめざしている。そしてそれは、リベラル・エデュケイションにおける「アルテス-リベラルス理念」と「リベラル-フリー理念」の統合を試みるものである。そして以上の考察を経て最後に、筆者は、専攻(専門)教育や課外の教育活動を含みこんだ形での、新たな日本の学士課程における教養教育を構築することが必要であると結論する。
著者
山口 美和
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.28-40, 2007-03-30

本稿の目的は、「<親>になる」という出来事の重層的な構造を明らかにすることである。親子関係の構築を愛着形成過程と捉える従来の見方を留保し、<子>との関係の中で<親>が被る戸惑いや苦しみの経験を、NICU入院児の親の語りに即して解明することを試みた。物語論的視点から語りを整理・分析する作業を通じ、<親>という主体が生成する三つの局面が見出された。<子>との直接的対面関係に基づく第一の局面と、家族・社会等における役割関係に基づく第二の局面では、「<親>になること」は養育責任者としての一般的役割の遂行と見分けがつかない。しかし、<子>を理解する枠組みとしての物語が破綻する状況において、役割関係を超えてなお<子>へ応答を差し出そうとする第三の局面が垣間見られる。<親>は、物語る行為の中で、三つの局面のあいだを視点移動させながら「<親>になる」経験を重層的・循環的に理解していることが明らかになった。
著者
庄井 良信
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.4, pp.442-451, 2002-12-30
被引用文献数
1

The cytotropism of clinical pedagogy, whose aore is the theory of developmental support based on the comprehensive humanics, begins to deconstruct/re-construct the paradigm of contemporary pedagogy.It is academically influenced by the earthshaking changes in natural sciences such as complex systems or autopoiesis that focuses on the vacillation of the chaos and poiesis, by the turning movement to the unique concreteness in social science, and also by the revival of H.Wallon's theory and of authentic L.S.Vygotsky's theory(narrative psychology or cultural historical activity theory) in cultural sciences and theoried of development.During the present time, the theory of development support that consructs the core of the cytotropism has some theoretical tendencies as follows: the developmental supports of the post-authoritarianism and peer narrative, the pos-tindividualistic and community expansive, and the post-paternalistic and client empowermental.Thesee tendenciess are embossed with the agenda of clinical knowledge of education in the intermixed and oveerlapped field as follows.1)Narrative community as one of the most primitive metaphors of the developmental support/2)Narrative empowerment as hearing and talking with the agent dialogically to change the activity systems.3)Community empowerment as intervention to create the expansive activity systems.At the bottom of these ideas, there is the socaled 'neo-modern paradigm'.This current paradigm puts emphasis on the articulation of subject-object in the schema of interactive monism between subject and object, and on the epistemology of creative imagination based on the collaborative change of not only the subjective meaning but also the the ojective reality.In this paradigm, the identity of 'cogito' once de-construct in the context of monophonic interaction, after that, the identity of 'imago' re-construct in the context of polyphonic interaction, and at last, it elucidates the outline and trajectory of transfering identity of 'nom propre'.One of the most important research field of the learning community including the ordinal instructions that contains a main topos of the school clinical activites.In addition, it must be also important to irradiate/reradiate the boundary crossing fields of authentic pedagogy (psychology, sociology, philosophy, medical science, and welfare theory etc.) in view of these innovations od clinical pedagogy.It would be necessary for clnical pedagogy to accumulate the case studies of the interventional research to seek out emergent multiple frameworks to analyze and describe the critical disturbances of the community/individual development as Y.Engestrom's DWR designed in an E.Levinas' or a H.Wallon's mode.
著者
秋山 麻実
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.191-200, 2000-06-30

本稿は、19世紀イギリスにおいて、ガヴァネスとその雇用者との葛藤および家族の純化について論じたものである。「ガヴァネス問題」とは、当時のガヴァネスの供給過多によって浮上してきた問題であり、これまでこれは、彼女たちの経済的困難に関する問題として捉えられてきた。また、この問題は、階級とジェンダーの境界に関わる彼女たちの微妙な立場という問題を含むものとして捉えられてきた。これらの問題は、19世紀中葉の多くの定期刊行物、とりわけフェミニズム雑誌において言及されている。しかし、そのような定期刊行物の記事のなかでも、特に今日代表的とされているものにおいてさえ、それらを仔細に読んでいくと、ガヴァネスに関する問題におけるより根本的な要素が浮び上がってくる。それは、ガヴァネスが、雇用者の家族のなかにポジションを得ようとしているのではないか、という中産階級の不安である。ガヴァネスに関する問題におけるこうした側面は、階級の越境という問題に収斂されるべきではない。家族の境界を脅かすことは、階級の越境より危険視されることである。というのも、ガヴァネスが狙っているのは、単に家族の一員であるというポジションではなく、母のポジションだからである。彼女は、単に境界を侵すというだけではなく、家族関係の秩序そのものを乱すのである。ガヴァネスは、1848年のガヴァネスに関する有名な論稿において言われているように、「タブー化された女性」 (tabooed woman)なのである。ガヴァネスのポジションに関する中産階級の不安は、彼女たちが母の代理としての役割を果たす存在であるということと、19世紀半ばに〈家族〉(family)観念が変化していったことに起因している。〈家族〉という語は、サーヴァントをその範疇から排除し、核家族を中心とした集団を指すようになった。その変化に伴って、ガヴァネスのポジションは、曖昧なものとなってきたのである。ガヴァネスの経済的困窮を緩和するために、フェミニズム雑誌においては、彼女たちと雇用者が契約書を作って、報酬や労働条件を決めることを奨励した。しかし、契約書を作るということは、ガヴァネスを近代的雇用関係の文脈に置くことにほかならない。そのため、結果的には、契約書を作るということは、ガヴァネスを雇用者の家族から外部へと移行させることに貢献することとなった。すなわち、〈家族〉はその境界領域に住う存在を排除し、よりいっそう純化していく方向へと向ったのである。
著者
益川 浩一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-10, 2011-03-31

本稿は、現在設置されている法人公民館のひとつである岐阜県多治見市の財団法人池田町屋公民館を事例として、法人公民館の設立・運営の実態を歴史的に明らかにすることを目的とする。池田町屋公民館の設立にあたっては、1947年の政令第15号によりこれまでの区(部落会)では保有できなくなった山林等の区有財産の処理をめぐって、いわば区有財産保持・管理の「隠れみの」として法人立の公民館が設立された経緯が明らかとなった。また、戦後初期における財団法人池田町屋公民館においては、生産復興・産業指導・医療・福祉・保健・生活改善等、郷土社会の復興や人びとの生活福祉に関する活動が多彩に繰り広げられた実態が明らかとなった。