著者
田中 昌弥
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.411-422, 2011-12-29

従来の教育学では、教育における「フィールドの論理」の把握が必ずしも中心に据えられず、教育の目的や研究方法論の根拠も、しばしば教育外に求められてきた。それに対し、Narrative inquiryは、「個別性」「関係性」「身体性」「応答性」の価値を基盤にしつつ、ストーリーの観点から「フィールドの論理」の把握を可能にする。これを日本の教育実践研究と結合することで、教育的価値の根拠や教師の専門性の内実を明らかにし、他の学問分野との接続を実現する新たなパースペクティブを開くことができる。
著者
古賀 正義
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.46-54, 2008-03-31

「学校が消える!」2008年の年明け、衝撃的な記事を目にした。読売新聞の調査(1月11日付)によれば、全国で今後数年間に一千校以上の公立小中学校が廃校になる見通しだという。急激な人口減少と補助金抑制の影響などで、東京都でも約50校(2.5%)が廃校になる勘定だ。教育機会の均等を実現してきた義務教育制度にあっても、社会変動の波は容赦なく地域社会を襲っている。学校選択制や中高一貫校など市場型改革の導入が進めば、一層、「生き残る学校」と「消え去る学校」とが出現する状況である。 「学校」を自明の教育機関とみなしてきた教育学者にとっても、学校とはいかなる特徴を持った教育の場で、そこで何が達成され、今後何を成し遂げることが可能なのか、いわば「学校力」(カリキュラム研究会編2006)を再度検証しなければならなくなっている。そうでなければ、教師や保護者、地域住民などを巻き込んで、学校に対して体感される不安やリスクは増大していく一方なのである。そもそも学校とは、不可思議な場である。教育学で、学校を念頭におかない研究はほとんどないし、教員養成にかかわらないことも少ない。そうでありながら、学校の内実に長けているのは現場教師であって、研究者はたいてい余所者として外側からその様子を眺め批評する立場にある。マクロレベルから教育政策や学校制度を講じることもできるし、ミクロレベルから授業実践や学級経営を論じることもできるが、学校の実像を客観的総体的に把握し切れているという実感は乏しい。 『教育学研究』を紐解いても、「学校」は学会シンポジウムのテーマに度々取り上げられてきた。「学校は子どもの危機にどう向き合うか」(1998年3月号)、「学びの空間としての学校再生」(1999年3月号)、「21世紀の学校像-規制緩和・分権化は学校をどう変えるか」(2002年3月号)など、教育病理の深刻化や教育政策の転換など、教育関係者の実感と研究者の思いが交錯する時、学校がたびたびディベートのフィールドとして選択された。今日なら、学力低下やペアレントクラシー、指導力不足、いじめ事件など、学校のガバナンスやコンプライアンスにかかわる諸問題が、個々の学校やさまざまな種別の学校、制度としての学校など、各層にもわたる「学校」について論議されることだろう。急激な改革と変化のなかで、問題言説の主題としての「学校」は隆盛であるのに、現実分析の対象としての「学校」は不十分。学校研究の10年は、こうしたねじれ状態と向き合い、その関係を現実的・臨床的にどのように再構築し、教育学の公共的使命を達成するかの試行錯誤の期間だったといえる。
著者
柳沢 昌一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.423-438, 2011-12-29

実証主義論争におけるJ.ハーバーマスの社会科学方法論批判、C.アージリスとD.A.ドナルド・ショーンのアクション・セオリーの認識論・方法論の省察、そして堀川小における50年を超える授業研究の展開の跡づけを通して、外部からの実践への介入としてのアクション・リサーチの限界を超えて、実践の内部において長期にわたる実践と省察を持続的に組織し、その省察を領域を超えて交流・共有していくことをめざす実践研究のあり方を探る。
著者
久保田 貢
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.467-478, 2007-12

大学の教育学研究者が、教育基本法「改正」をはじめ新自由主義的教育改革に、加担した責任があるのではないか。「教員養成GP」などの競争的資金は新自由主義的教育改革の一環である。これを獲得することは、「全体の奉仕者性」を見失い、教育の不平等をもたらしている。教育政策への批判的研究を封じ込まれることにもなる。大学と教育委員会との連携にも問題がある。東京教師養成塾や名古屋市スクールボランティア制度のように、疑問の多い企画に対して、大学はこれを抑止するどころか学生を送り出している。自分の大学からの教員採用数を増やしたいがために、教育委員会との連携が一線を越えたものとなってしまっている。このままでは、かつて教育学者が自らの戦争責任を深く反省したのと同じように、いつか自らの責任を問い直すことになるのではないか。平和のための科学とは何か、「市民社会」に対する大学の教育・研究の責任とは何かを再考すべきである。
著者
平塚 眞樹
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.391-402, 2006-12-29

OECDは、「対日経済審査報告書2006年版」で日本における格差と貧困の広がりを問題化したが、本稿はそこで要請された「質の高い教育への十分なアクセス」の保障とはなにを意味するのかを問うた。その際本稿では、移行期のシステムが分解する過程で台頭しつつあるポスト近代型能力観、その一つであるOECDによるキー・コンピテンシーと、社会関係資本との関連に着目した。複雑な行為のシステムとしてのコンピテンスの学習過程では、これまで以上に社会関係資本との関連性が強まり、その多寡が学習上の有利・不利に結びつくと考えられる。ところが少なくとも英国の調査研究によれば、近年の社会変容は一方でむしろ社会関係資本をめぐる格差を拡大しつつあるという。このジレンマに取り組むことが今日的課題と考えられる。マクロな政策レベル、教育現場・地域レベルでの政策的・実践的アプローチを通して、多様な社会関係資本の平等な形成を社会的に保障することが必要になるだろう。
著者
北村 三子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.268-277, 366, 1-2, 1999-09-30

教養主義とは、明治の末(ほぼ1910年代)に日本の知識人たちの間に成立した、人間性の発達に関する信条(あるいは「主義」)である。ドイツの教養(ビルドゥンク)概念の影響の下に、若いエリートたちは、人類の文化、ことに、西洋の哲学、芸術、科学などを継承することを通して人格者になりたいと思った。彼らはそれらの偉大な作品に触れることによって強められた理性と意志が人間の行動を制御すると期待した。彼らはある程度それに成功したが、同時に、大地や他者から切り離されてしまったと感じ、不安に悩まされるようになった。 教養主義は主に旧制高校生や大学生の間に普及したが、かれら若きエリートたちは、深層意識では、自分を高等教育には手が届かない若者たちと区別したかったのだ。その意味で、教養主義はかなりスノビッシュなものである。 この教養主義の欠点は、第二次大戦後、日本の教育関係者たちによって批判された。批判者の一人で、新時代のリーダーの一人であった勝田守一は、新しい教養の概念を提案した。それは、高く評価された人類の労働を基盤にしたものであった。勝田によれば、労働は人間の諸感覚、思考能力、コミュニケーション能力を発達させてきた。その中でも、近代に著しく発達した科学的思考法は、私たちにとって最も大切なものなのである。そこで勝田は、教養のある人間は、人類が発達させてきた諸能力を偏ることなしに身に付けていなければならならず、そうすることによって、教養人は社会を進歩させるであろうと主張した。人類の能力は無限に発達すると勝田は信じた。なぜなら、近代科学技術の発展には限界がないように見えたからである。 私たちはもはやこのような楽観的な見解には同意できない。なぜなら、近代の科学技術が自然に対して攻撃的であり、地球の生態系に重大なダメージを与えうることを、私たちは知ってしまったからだ。勝田の教養概念や教養主義をこの観点からもう一度振り返るならば、それらには、思考方法において共通の欠陥があることに気が付く。それは、近代思想一般に見られる欠点と同じものである。 近代的知性は生産的である。それは物を作り出すだけではなく、表象や概念や推論を用いて事物のリアリティを生み出すのだ。その思考法は、利用という観点からだけ事物と関わるものであり、人間中心的で、事物に耳を傾け対話することはない。鮮明に意識に表象されない事物は、意味がないとみなされ、無視される。あの若き教養主義者たちの心の葛藤も、おそらく、この近代の知性の産物である。 教養が再構築されねばならないとしたら、それは、これまでとは異なる思考やコミュニケーションの方法を基盤とするものでなければならないだろう。また、近代的な労働や社会の中でおそらくは失われてきた諸感覚や能力を回復できるものでなければならない。
著者
野元 弘幸
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.436-442, 1999-12
被引用文献数
1

本論は、外国人住民が急増する日本社会における教養問題の構造を明らかにし、多文化社会における教養の再構築をめざす教育のあり方を模索するものである。その際、日本語文字(漢字、ひらがな、カタカナ)によるコミュニケーション問題に注目する。なぜなら、1980年代から急増している外国人住民(いわゆるニューカマー)の多くが、非識字の状態にあり、住民としての基本的な諸権利を行使するに不可欠な基礎教養である日本語読み書き能力を欠いているからである。そこに多文化社会における教養問題が最も鋭い形で表れていると思われる。筆者は1998年7月・8月に、愛知県豊田市の団地で日系ブラジル人80名を対象にした日本語読み書き能力に関する調査を実施した。そこで以下のことが明らかとなった。(1)漢字によるコミュニケーションは、ほとんどの人が不可能で、「禁止」「注意」「危険」「禁煙」など、自らの生命に直接関わる重要な表示・標識をまったく理解できない状態で生活している。(2)漢字の読み書きがほとんどできないのに対して、ひらがな・カタカナを読み書きできる人はある程度いる。(3)厳しい学習環境にもかかわらず、文字の読み書きへの学習意欲は低くない。こうした調査結果を踏まえて、外国人住民が急増する中で地域社会を支える基礎教養の一つである文字によるコミュニケーション力確保のために以下の3つの提案を行った。(1)役所・病院など公共の施設・スペースと職場の掲示・表示に使われる漢字のすべてにルビを振る。(2)その上で、外国人住民の基礎教養としてひらがな・カタカナの習得を促す。(3)来日初期の外国人のための基本的サービスにかかわるものは多言語表示を行う。これらの提案を実現するための課題の一つは、外国人住民のひらがな・カタカナ習得をすすめるための識字教育をどう行うかである。日本語教室等の数は急速に増えているが、外国人住民の数と比べると依然として不十分で、外国人住民の一部しか日本語教室等で学ぶ機会を得ていない。こうした厳しい状況のもとでは、外国人住民の基礎教養としてのひらがな・カタカナ習得を促すことは極めて困難である。そこで、ひらがな・カタカナの学習支援を基礎教育の一つとして制度化し、国や地方自治体の積極的関与を義務づけることが必要となる。その際に、「社会基礎教育」という新しい概念を導入することが有効かつ必要であろう。もう一つは、主に日本人住民が、地域社会を支える教養の維持という視点から、外国人住民の急増に伴うコミュニケーション手段確保のための具体的な取り組の必要を自覚し、実際生活に活かしていくための教育をどう組織していくかである。具体的な実践的課題を提示する学習プログラムを開発し、外国人住民との共生のための新しい文化的教養を創造する、質の高い学習が組織されなくてはならない。
著者
潮木 守一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, 2011-06-30
著者
生澤 繁樹
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.335-347, 2007-09

M.ウォルツァーの配分的正義論は、他の財とは独立した財の独自な意味に応じて、さらには財の意味が解釈され共有される社会・文化・共同体の文脈に応じて、社会的財が複合的に配分されるべきだと論じるものである。ウォルツァーは、教育の領域においても、複合的な平等が考察されると考える。学校、教師-生徒関係、知識といった教育の財は、経済や政治の秩序に規定されない独自の自律した配分の過程を構成する。教育は、単なる私的な財ではない。私たちが集合的に願望する社会的財である。それは、私たちの社会・文化・共同体のなかに埋め込まれたものである。だが、この配分的正義の自律した領域というウォルツァーの構想は、不徹底であるばかりか、疑問である。というのも、もし私たちが社会的財としての教育の正義や配分の平等をまじめに考慮するならば、かれの考察は<善さ>や<承認>の主張を取り巻くパラドクスに必ず突きあたることになるからである。
著者
佐藤 郡衛
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.215-225, 2007-06
被引用文献数
1

本稿の目的は、国際理解教育論と実践の関連の分析を通してそこに内在する問題を明らかにし、今後の実践を進めるための基本的視点を提示することである。国際教育理解の問題として第1に理論と実践に乖離があることを指摘できる。第2に多様な理論が教育現場に入り込んだ結果、海外・帰国児童生徒、外国人児童生徒といった対象別の実践、異文化理解・環境・平和といった領域別の実践、さらにコミュニケーション力、表現力といった資質に注目した実践が混在するという問題を抱えている。第3は実践では個人的資質の育成のみを強調してきたという問題がある。課題として、多様な実践を一定の枠組みで整理し、しかも実践の視点を明確にしていくこと、個人的資質を育成するカリキュラム論や学習論を明確にすることを指摘した。今後、国際理解教育は、多元的アイデンティティの形成、批判的思考力、相互的な知、参与的な知の育成を目指す必要があることを示した。