著者
山本 和行
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.13-22, 2009-03-31

本稿は大日本教育会編『全国教育者大集会報告』第1・2巻(1890年)に基づき、1890年5月に全国の教員・教育関係者を集めて開催された全国教育者大集会の議論を分析し、議論に現れていた「国家教育」論の内容を明らかにしようとするものである。大集会での議論は、日本の近代学校教育制度形成の画期である1890年10月の第二次小学校令・教育勅語発布の直前に行われたものとして、重要な意味を持つ。その内容を分析すると、大集会に現れた「国家教育」論は教育理念や教育内容・方法に関する問題というよりも、市制町村制施行を強く意識し、教育費負担の問題を中心とした教育の管理運営に関する問題として議論されていた。しかも、そこでイメージされていた国家と教育との関係は多様なものであった。そのうえで、そうした議論のありようが「国家教育」を標榜する国家教育社の結成にあたって、どのように作用し、吸収されていくのかを明らかにした。
著者
金田 裕子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.201-208, 2000-06-30
被引用文献数
1

<摘要邦文訳>本稿では、教室の会話に教師と子どもたちがどのように参加しているのか着目し、参加の様式の特徴を記述する方法を検討する。授業の過程は、単に認知的なだけでなく、知識と言葉を媒介にして参加者たちが社会的な関係を構成する過程でもある。その際に鍵になる概念は、エリクソンの提示した参加構造である。この概念は、いつ誰が誰に、何を言うことが出来るのかに関しての参加者たちの権利と義務であると定義できる。参加構造の研究は、教師と子どもたちの相互作用場面でのトラブルが、コミュニケーション様式についての予想が互いに異なることによって起こっていると説明してきた。しかし本稿では、以下の二点から参加構造の研究の新しい可能性を探りたい。第1に、参加構造の研究が提示している視点と研究方法は、教室に混在する会話の規則の静的なパターンを明らかにしているだけではない。コンテクストが変化するのに伴い、参加者たちの役割関係は再配分され、協同的な行為において異なる形状を作り出している。そうした点に着目することで、参加構造の研究は、教室の会話が即興的に展開していく側面を記述することを可能にする。個々の教室における参加構造の微細な変化は、会話の順番どり、発話のタイミング、会話フロアの生成に着目して記述することができる。教室の会話における即興的な側面を記述することで、子どもたちが積極的に状況を構成し、また教師が様々な方略を用いてコミュニケーションを組織している複雑な過程を捉えることが可能になるだろう。第2に、学習課題との関連をどのように捉えるかである。従来の参加構造の研究においては、構造的な会話の規則は、発話の際の手続きややりくりを簡素化して、学習の内容に集中できる機能を果たしていることが示されていた。しかし、教室のディスコースと学習課題の関係は、より複雑である。キャズデンが示した教室の「ディスカッション」では、即興的な会話の連続においては話題の選択に関する役割関係が重要になってくることが予見されていた。ランパートの研究において参加構造は、「何を知識とみなし、どのように知識を獲得するか」を決定するやり取りにおける権利と責任の配置として再定義される。その様な参加構造の形成によって、妥当な知識を決定する権威は教師から生徒たちのディスコースコミュニティへと移行し、同時にディスコースコミュニティの形成と維持において教師が果たす役割の複雑な側面が明らかになる。
著者
苅谷 剛彦
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.327-336, 1997-09

近年、日本では高等教育進学率が急速に上昇しつつある。若年人口の減少が、その上昇を加速している。現在46%の大学進学率は、20世紀初頭にはには60パー近くにまで上昇すると予想されている。このような高等教育機会の拡大の中で、日本の有名な「試験地獄」は存続するのか。それとも、それは終焉を迎えるのか。非エリートの学生たちがますます大学に進学することにより、新たな教育問題が発生するのか。さらには、近年の教育改革論議において、こうした問題は果たして注目されているのか。この論文はこれらの問題に答えようとするものである。教育研究者も教育評論家も、これまで入学試験をいじめや不登校などの教育問題を生みだす原因として批判してきた。「試験地獄」は、これまで長い間日本の教育における主要な問題点の一つであった。そして、こうした学校の諸問題を解決するために、受験のプレッシャーを軽減することが改革の中で目指されている。しかしながら、この論文で示すように、すでに4割りに近い大学入学者は、推薦入試をへることで、こうした厳しい選抜を回避している。また、すでに多くの大学が、より多くの志願者を集めるために、入試科目数の削減を行っている。このような入学者選抜制度の変化の結果、受験のプレッシャーはたしかに弱まりつつある。しかしながら、こうした入学者選抜の改革は、大学教育に新たな問題、それもこれまで日本の大学が体験してこなかった問題を生みだしている。たとえば、近年、補習教育を取り入れた大学が現れた。また、学生の多様な学力に対応するために、能力別学級を始めた大学もある。日本社会が「価値多元化社会」に近づくかいなかにかかわらず、高等教育機会の急速な拡大のために、あらたな問題が大学教育で発生しつつあるのだ。多くの改革論者たちは、いまだに「試験地獄」を問題視する視点にとらわれている。しかし、現実は、それとは反対の方向に動いている。そうだとすれば、受験の圧力を減圧しようとする改革は、その意図をくじかれてしまうのではないか。そうした改革の意図せざる結果は何か。とりわけ、厳しい選抜をへずに大学に入学してきた学生と、彼らを教える大学教師たちにとって、どのような新たな問題が生起するのだろうか。アメリカにおける高等教育のマス化常態について概観した後で、この論文では、東京の13の高校の3年生を対象に行った調査データを分析する。その分析によって、(1)容易に大学に入学する学生が増えていること、(2)彼らは従来よりも低い学力の持ち主であること、(3)大学の教育には適しない態度を身に付けていることなどを明らかにする。これらの結果に基づき、この論文では「すべてのものに高等教育を」という理想の実現は、教育問題の解決に結びつくのではなく、むしろ、これらの問題を中等教育から高等教育レベルに遅延するにすぎないことを議論する。
著者
佐貫 浩
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.493-504, 2007-12
被引用文献数
1

本論の課題は、政治世界の公共性によって正統化された政治権力からの相対的自律性を有した教育の公共性世界の意義、その教育学的及び法的な枠組みの不可欠性を指摘することにある。またそういう視点から戦後の教育行政政策の変化、新自由主義的な市場的公共性に依拠した教育改革の性格、教基法の「改正」(2006年)の意味を明らかにし、併せて、そういう視点から国民の教育権論を発展的に継承する筋道を検討しようとした。
著者
平井 悠介
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.530-541, 2007-12

1990年代のアメリカ合衆国において、リベラル派の政治哲学者の間でシティズンシップ概念が注目を集めている。本稿の目的は、市民のアイデンティティや行為のあり方に焦点を当てる90年代のシティズンシップ論および市民教育論の展開の意義を、リベラル派の市民教育理論における「討議的転回」との関連のもと探究することである。探究に際し、本稿では討議的転回後のリベラル派の市民教育理論にみられる二つの立場からの議論(<討議を民主主義的意思決定の手段とみなす議論>と<討議を市民教育の手段とみなす議論>)の分析を行う。前者の立場のマセードおよびゴールストンの議論と、後者の立場のカランとガットマンの議論とを対比し、後者の議論で重視されている、批判的かつ自律的に思考する能力の育成と相互尊重という市民的徳の涵養が、人々のアイデンティティの多様性を尊重する国家的統合にとって必要とされることを示していく。
著者
大桃 敏行
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.291-301, 2000-09-30

地方分権の推進が今日の大きな改革課題の一つになっている。小論の目的は行政の地方分権化と公教育概念の変容について次の三つの視点から考察することにある。第一は、今次の地方分権に向けた改革が中央から地方への権限の移動だけでなく、行政のあり方の変革を迫っていることである。現代国家において、行政は立法府の政策を忠実に実施するだけの機関ではない。むしろ、政策形成において重要な役割を担うとともに、その執行においては広範な裁量権を有している。このことは行政自体が政策のための価値の選択・序列化に深く関わっていることを意味し、今次の改革は地方段階における行政のより開かれた制度の設立を求めるものである。このことは官僚制の緩衝装置の弱体化をもたらし、親や住民への説明責任、彼(女)らへの応答責任を高めることを教職に求めることになろう。第二は、地方分権が規制緩和や公共サービスの民営化といった政府機能の縮小に向けた潮流と密接に関わって進められていることである。教育の領域において、規制緩和や民営化はまず生涯学習において進められ、次に学校教育にも導入されてきた。このような変革は、主に国家に依拠した公教育概念から、国家、私企業、ボランティア団体など多様なセクターが教育機会の供給に関わる「公教育」概念への変容をもたらすことになろう。この地方分権化と政府機能の縮小という二つの大きな改革潮流が交差するとき、公共セクターが教育においてどのような役割をどの程度までどのように担うべきかを決定する重い責任が、各自治体の住民の手に置かれることになる。第三は、教育の地方分権化を進めていくうえで独自の課題が存在することである。行財政機構の地方分権化が多様性をもたらすことは明らかであるが、別言すれば、それは自治体間の公共サービスの不平等を意味する。この「多様性」を正当化する一つの論拠が、意思決定を行うものがその結果に責任を負うべきであるという自治論である。しかし、教育の場合、公共サービスの意思決定者(大人)とその受給者(子ども)が異なるために、これは妥当な原理とはならない。さらに、大人の間での参加民主主義の実現と将来の民主的シチズンシップの育成とは同義でない。学校の主要な目的が将来の市民の育成にあるのなら、地方分権化自体は教育改革の目的にはなり得ない。地方レベルでの参加型の意思決定システムに向けた改革が学びの場の変革に実際にいかなる影響を持ちうるのかが問われなければならない。この点の考察を欠いた参加賛美論は危うい。歴史的に見れば、教育行政の専門化と等しい教育機会の保障のための国家関与は、参加と自助の地方自治の制限に依拠して求められた。
著者
浅井 幸子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.183-192, 1999-06-30

本論文は、大正期に「新教育」の実験学校として設立された池袋児童の村小学校における野村芳兵衛の教育の展開の過程を、彼の一人称の語りの様式の変容に着目して叙述することを目的としている。野村の試みの特徴は、教育の意味と関係の変革が、彼の教師としてのアイデンティティの解体と再編を通して行われ、「私」という一人称を主語とする語りにおいて鮮明に表現された点にある。彼は、明治時代に確立した「教育」と「教師」の役割に懐疑を抱き、ラディカルに「自由」を提唱し「教育」の制度と秩序の破壊を企図した「池袋児童の村」の教師となっている。その際、彼の中心課題として表現され、彼の探究の出発点となっていたのは、「教育」でも「児童」でもなく、「私」の救済と模索であった。野村の教育の展開過程を、彼の一人称の語り、とりわけ実践記録の叙述に着目して叙述することを通し、本論文では以下3点を指摘している。第一に、1924-25年頃に成立した野村自身を「私」、子どもを固有名またはイニシャルで表記する物語的な記述の様式に、「教師-児童」の役割的な関係に対して「私-あなた」の関係と呼びうる野村と子どもとの関係が現出していること。野村が最初に子どもを名前で表記した際、そこでは教師が子どもを見る、教師が子どもに問うという教育において一般的な視線と言語の関係が逆転し無効化していた。彼は教育を語る言葉を一旦喪失するが、その後「私」と固有名の子どもが登場する実践記録の記述を通し、子どもとの「私-あなた」の関係において教師としてのアイデンティティを再構築している。また同時に教育を、目的に向かう活動としてではなく、その具体的な関係において既に成立し,でいる一回性を持つ実践として見い出していた。第二に、野村が1925-26年頃に構想したカリキュラムが、子どもの学習経験の意味と関係を重層的に表現し構成していたこと。彼は、教師と子ども、子どもと子どもの固有の関係を、それぞれの「個」の世界の鑑賞として表現し、学習の社会的な意味を構成している。そしてもう一方では、とりわけ「教科目」の再編において、子どもの経験を学問あるいは芸術の活動として意味づけていた。彼のカリキュラムは、制度的な教育の計画というよりも、学習経験の関係と意味のネットワークとして成立している。第三に、1930年以降に再構成された野村のカリキュラムが、「協働自治」を一元的な原理とすることによって、学校を組織化し教育の関係を「協働」へと定型化していたこと。カリキュラムの変化に先立って、野村の使用する一人称は「私」から「吾々」へと変化し、彼の子どもとの経験の叙述が激減している。彼は「社会」へと眼を向けた一方、彼自身と子どもの固有性への視線を衰退させていた。その結果、「池袋児童の村」は、「ハウスシステム」と呼ばれる子どもの班組織、校歌、校旗等の導入を通して、機能的かつ象徴的な組織へと再編されている。
著者
新谷 周平
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.470-481, 2006-12-29

本稿の目的は、フリーター・ニートの批判言説および選択の意味解釈を通じて、教育学研究、政策・実践の課題を明らかにすることにある。ニート批判は、社会の不安を抑え込む差異化欲求の表れと解釈することができるが、それを根底から変革するよりは、政策・実践へと転換されるプロセスに影響を与えることの方が現実的でありまた必要である。ニート選択は、確かに客観的には構造要因の影響が大きいが、消費文化への接触や労働の拒否を通じた社会への抵抗という実存レベルの解釈が可能であり、その先に道具的・経済的利益に接続する方策が求められる。キャリア教育政策や機会平等論から導かれる政策は、計画性や上昇移動を基準とする単一の生き方・働き方のモデルを設定するが、それは過剰な同化とあきらめを介した格差拡大を生じさせる可能性が高い。それとは異なる生き方・働き方のモデルを設定し、そのために必要なスキル・認識枠組みを政策・実践に取り入れる必要がある。