著者
井谷 惠子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.27-40, 2005-03

Although in general the ratio of women teachers to men has increased with the advance of women in society, the ratio of women PE teachers to men has not increased in the past 20 years. This is caused by sexism in the employment of PE teachers regardless of qualifications. This paper examines the discovery that the gender culture of a PE teacher society in which the disproportion of men to women is maintained in spite of gender equality in the school system itself. Through a survey by interviews of seven men and five women PE teachers who work in H prefecture, it has been found that gender culture creates the disproportionate number of men to women. This is discussed here considering three factors : 1. the influence of gender culture in sports, 2. the double-standard in physical education, 3. a labor atmosphere which is still considered "men's work". The first point discloses, the men and women dichotomy and the absolute view toward gender difference. Moreover, relating to physical education curriculum and teacher behavior, the masculine principles of strength, bravery, winning, and so on have been permitted to dominate interaction and pleasure. Second, the double standard which expects men and women to have different roles is identified. In physical education, teachers work to form masculinity and expect severeness and toughness in boys. On the other hand, so-called "education for women" is deeply rooted and women PE teachers mainly cover dance education for girls. Influenced by this double standard, the gender role, for example the often seen "women manager" in sport activities, is accepted and the gender order has continued. As for the third point, extracurricular activities such as coaching and student guidance, have strongly reflected the identity of PE teachers. The atmosphere of the company office that doesn't dislike long working hours and work on holidays has been adopted by PE teachers. PE teachers who believe that student guidance is their job and thus take an active role as a "strict teacher" to maintain school order. As a result, the gym in PE teacher society becomes like an office which reinforces male dominance and leaves women PE teachers on the sidelines.
著者
宮本 健市郎
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.141-150, 1998-06-30
被引用文献数
1

本稿の目的は、(1)フレデリック・リスター・バークの教育思想において自発性の原理が形成される過程を精査すること、(2)自発性もしくはダイナミズムの意味の変化に焦点をあてて、児童研究と進歩主義教育との関係を解明すること、である。 1899年から1924年まで、サンフランシスコ州立師範学校の初代校長を務めたフレデリック・リスター・バークは、児童研究運動と進歩主義教育運動との重要なつながりを代表している。彼は、児童研究運動の父G.S.ホールの弟子であり、1920年代の進歩主義教育に大きな影響力を与えたカールトン・W・ウォシュバーンおよびヘレン・パーカーストの恩師であったからである。 バークは1890年代の半ばにクラーク大学で心理学を学んで、G.S.ホールの賞賛者になった。彼は、子どもは完全な自由を与えられれば自然と人類の発展を繰り返すと信じ、子どもの内部の力がその発展を導くと考えた。したがって、幼稚園のカリキュラムはその発展の過程に、すなわち遺伝的な順序に、基づかなければならないと彼は主張した。 バークは1898年に、カリフォルニア州サンタバーバラ公立学校の教育長に就任した。彼は児童研究と反復説に深く心酔していたので、サンタバーバラの公立幼稚園にフリープレイを導入した。フリープレイはいかなる障害もなく自然に発達するための機会を子どもに与えると考えたからである。バークとサンタバーバラ公立学校のスタッフは、子どもの自由で自発的な活動を良く調べ分類する実験をおこなった。この実験から、思いがけずバークが発見したことは、子どもの自発的な活動はただ下等な人類の繰り返しではなく、子どもの創造的な表現を含んでいるということであった。 この実験の後、バークは子どもの発達に関してホールとはかなり異なった見解に到達した。ホールが子どもの生まれつき、すなわち遺伝的に決定された発達を信じていたのに対して、バークは子どもの発達を方向づける環境と創造的表現の重要性に気がついたのである。 1899年にバークはサンフランシスコ州立師範学校の初代校長に就任した。彼は画一的一斉授業をやめて、子どものダイナミズムを開発するための個別教育法を創案した。ダイナミズムは自発性や内部の力だけでなく、子どもの創造性を含んでいると考えられていた。サンフランシスコ州立師範学校でバークの下で働いていたカールトン・ウォシュバーンは、バークの個別教育法を学んで、後にそれを修正し、ウィネトカ・プランと名付けた。当時アメリカ合衆国のすべてのモンテッソーリ学校の監督者であったヘレン・パーカーストは、バークの個別教育法を真似て、ドルトン・プランを発明した。 児童研究を通して、バークは子どもは自然と遺伝に応じて教育されるべきであることを学んだ。しかし、彼は自然と遺伝をあまりに強調する反復説の決定論的見方を変更した。子どもの自発的な活動と思考の中に創造的な衝動があることを発見したからである。彼はそれをダイナミズムと呼んだ。
著者
原口 友輝
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.15-24, 2010-03-31

20世紀末から「移行期の正義」論と呼ばれる研究領域が急速に発展してきた。これは、独裁制や内戦状態から民主的体制に移行したばかりの不安定な社会が、新体制を確固としたものにするために、いかにして過去の大規模な暴力の負の遺産に対処するかを検討するものである。本稿では、「移行期の正義」論における教育の位置と、教育内容・方法のあり方を明らかにするために、米国を拠点とするNGO団体、「歴史と私たち自身に向き合う」が南アフリカ共和国において積極的に関与してきた教師支援プロジェクト、「過去に向き合い私たちの未来を変える」を検討した。
著者
Keita TAKAYAMA
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.19-31, 2016 (Released:2016-06-27)
参考文献数
35
被引用文献数
14

Drawing on the recent critiques of the global knowledge economy of social science research, this article explores possible ways in which the Japanese education research communities can reposition themselves in the wider international education research community. The premises of this discussion are that there exists a global structure of academic knowledge and that Japanese education scholarship is deeply imbedded in this structure. Hence, repositioning is called upon so that alternative knowledge practice can be imagined to unsettle the structure. To develop this argument, the paper makes the following moves. First, it examines how the global structure of academic knowledge operates and how it has shaped the knowledge practices within Japanese education scholarship. It identifies the particular pattern of knowledge practices among Japanese education researchers, or what Kuan-Hsing Chen (2010) calls ‘the West as method’—the use of ‘Western experience’ as the single point of reference against which the Japanese self and context are made intelligible. Based on this critique, the paper then explores how the Japanese education research communities can engage in the type of alternative knowledge practices and relations that unsettle the global structure of academic knowledge and what paradoxes they might have to negotiate in the process. In concluding, the paper once again turns to Chen’s work, in particular his exposition of ‘Asia as method’ to articulate possible strategies towards alternative knowledge work which recognizes the ambivalent epistemic location of Japanese education scholarship.
著者
朴澤 泰男
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.14-25, 2014-03-31

女子の大学進学率の都道府県間の差を、大学教育投資の便益の地域差に着目して説明する仮説の提起を試みた。地方に大学進学率の低い県が存在する理由は、大卒若年者の相対就業者数の少ない県ほど(相対就業者数は、大卒の相対賃金の高い県ほど少ない)、また、(先行世代の就業状況から期待される)出身県における将来の正規就業の見込み(正規就業機会)の小さな県ほど、(進学率全体の水準を左右する)県外進学率が低いためである可能性がある。
著者
山住 勝広
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.367-379, 2012-12-30

学校における教師と子どもたちの震災学習は、深い傷痕を残す悲痛の記憶をいかに語り互いに共有することができるのかという根源的な矛盾に直面し、それに挑戦するものになる。本論文では、このような矛盾を乗り越えてゆく教育実践は可能かという問いへアプローチするために、震災体験からの学習と教育の事例分析を、活動理論の枠組みにもとづき行った。分析の結果、子どもたちが、学校における震災学習を通じ、学校外のさまざまな「学びの提供者」と出会い、結びつながることによって、新たな支えあいの文化と生活を創造してゆく可能性が明らかとなった。
著者
福島 賢二
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.1-14, 2010-03-31

これまで教育における平等の議論は、「標準」と「異なっている(差異)」という理由で不利な扱いを受けてきた人への補償主義的な資源分配に基づいてなされてきた。しかしながら、こうした分配的正義は、既存の社会・文化と親和的な価値を再生産するというアポリアを抱えている。本稿では、マーサ・ミノウの「関係性」アプローチと竹内章郎の「共同性」論を対象として、分配的正義に内在する支配的価値の再生産構造とそこからの脱却的視座を得ることを目的とする。この検討を通じて、分配的正義が人々の「差異」を本質的・帰属的なものと同定していたことが明らかとなるだろう。これは、「差異」が社会的に構築されたものであるという視角から分配的正義を鍛え直す必要性を示唆するものである。
著者
寺崎 恵子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.454-462, 1999-12-30

演劇批判論として執筆された『ダランベール氏への手紙』のなかで、J.-J.ルソーは、共和国には劇場演劇よりも祭りが必要であると述べた。彼の議論はその根底としてinstructionを意味深い問題点としているのだが、このことはこれまでにあまりよく把握されてこなかった。本稿は、祭りの競技や気晴らしがinstruction publiqueをなしていたという内容の彼の言説の意味を理解し、ルソーが使うinstructionの語の意味内容をあきらかにすることを目的とする。 ルソーは、二つの対象から論を構成している。ひとつは、自身の演劇観と同時代の理論家たちの演劇観との対照である。理論家たちは、舞台上の芝居と観客とのあいだにおける伝播という相互作用をみている。つまり、芝居は感情の模範的な配列を示し、観客がその模範を身につけるというものである。好ましい上演は習俗や人びとの感情を改良し、人びとによいふるまいをするように伝授することになる。理論家たちはこうして劇場演劇には教育的な効果があると考えた。ルソーは彼らの見解に賛同しなかった。彼の見解では、演劇の上演は感情の理想的なあり方を提示することではなく、感情の本質を現実的に見せることである。観客は感情が反映することをたのしんでいるのである。ルソーは、劇場演劇における観客のこのような経験がinstructionとなるとは考えなかった。もうひとつの対照は、劇場演劇における観客と祭りにおける参加者との感情の状況の対照である。ルソーは、劇場演劇における観客の感情が投影することの快さにあるとみた。つまり、観客は自身を不動で不活動の状態において、自身を登場人物にひたすら同化するのであり、そして舞台上の似姿に見入ることをたのしむのである。その結果、観客それぞれは孤立する。一方、祭りにおける感情は、調和することの快さであるとルソーはみた。つまり、すべての参加者は調和のとれた競技のなかで一緒の状態を鋭敏にかつ心深く楽しむのである。ルソーは、祭りにおける参加者の経験がinstructionをおこすとみている。 以上のようなルソーの議論の内容から、ルソーのinstructionの語の意味を次のように解釈することができる。(1)instructionは教えることと学ぶことを意味しているわけではない。それはつまり、二つの部分、すなわち見せる側と見る側または対象と主体のあいだの伝播という相互関係からおこるのではないということである。(2)instructionは、視覚のみによっておこるのではなく、総感覚によっておこる。このような実際的な経験のなかで、人びとは不可視ではかりしれない自然(本性)をそして精神の奥底の自然(本性)を直感的に感知することができる。そして(3)instructionは、間接的にではなく直接的に起こる。つまり、それは現実的な対象もしくは模擬を媒介として個人的に考えるという経験ではなく、和やかな交遊のなかで自然に動きが生まれるという経験によるのである。
著者
古野 博明
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.214-222, 287, 1998-09-30

教育基本法の成立ということについて、通説は、当時の文相、田中耕太郎の発意と熱意からこれを説明している。が、彼の教育改革案には、もともと国民教育の倫理化と教育権独立の憲法的保障という二つの力点があった。教育目的の法規化に否定的なそのような構想から教育基本法の着想が自動的に生まれるかどうかは一つの問題であろう。ところで、教育基本法成立史の研究は、戦後教育改革資料の調査研究の飛躍的発展によって新しい段階に立ち至っており、田中(耕)に加えて、二人の人物に注目を要することが判明している。一人は、被占領期教育改革立法の立案を担っていた文部省の審議室参事事務取扱、田中二郎で、もう一人は、教育政策の策定に重大な影響力のあった、教育刷新委員会の副委員長、南原繁である。そこで、教育基本法の成立を説く鍵は、どの点に見いだしうるか。第一に、教育基本法立案の起点は、1946年9月11日の文部省省議にあった。教育基本法の構想は、事実上この会議において、法律専門家である田中二郎が発案したものである。教育刷新委員会第一特別委員会の審議過程や審議室・CI&E教育課の協議過程の原案になったのも、彼の1946年9月21日付教育基本法要綱案であった。教育基本法に異例の前文を付す構想も彼のアイデアである。田中(耕)文相は、こうした構想を支持しそれを国策として確定することに重要な役割を演じたのである。第二に重要なのは、南原繁もまた教育基本法の立案に少なからず影響を及ぼしていることである。教育及び文化の問題についての、8月27日の貴族院における彼の質問演説には注意を払うべきだろう。彼は田中(耕)文相の教育立法政策と教育権独立論を批判し、新憲法に教育の根本方針を規定するよう要求するとともに、教育の国民との直結性と政治教育の重要性を説いていた。さらに教育刷新委員会が教育基本法制定方針の大綱を採択したのは、第一特別委員会報告に対する南原の厳しい批判に負うところが大きい。その際、彼は教育の目的は人間性の開発ではなく、あくまで人格の完成でなければならないと力説し、倫理教育において宗教にまで飛躍することに反対した。このような彼の思想は、結果として教育基本法成文のいくつかの条項に生きたのである。今後は、こうした諸点を熟慮して、教育基本法の成立の歴史的意義と限界を読み取っていかなければならない。