著者
梶居 佳広
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.97-124, 2015

特集 : 領事館警察の研究日本が領事裁判権を根拠に中国各地に置いた領事館警察は,特に1920年代以降,日中間の外交問題の一つになった。本稿(論文) は領事館警察(の是非) が国際舞台でどう扱われたかについて,ワシントン会議から(満洲事変による) 日本の国際連盟脱退までの期間を対象に,日中両国の主張並びに欧米(主に英米) の見解・対応を整理したものである。 領事館警察に関する日中両国の争点は,(1)領事館警察の法的根拠の有無,(2)領事館警察の実際の活動並びに中国の現状把握,以上2点であった。「第3者」である欧米諸国はこの問題に高 い関心を持っていなかったが,1920年代は日本側主張に理解を示すことが多かった。欧米は日本の主張する領事館警察の法的根拠には否定的であるが,内戦による混乱や警察・司法制度の 不備といった当時の中国の現状から日本が中国に領事館警察を配置することは容認し,警察の 活動にも肯定的であった。しかし日本が引き起こした満洲事変の調停にあたったリットン調査団の報告書になると国際法学者ヤングの主張もあって(法的根拠に加え) 領事館警察の実際活 動の面も批判的にみられるようになる。もっとも,リットン報告書に不満の日本は国際連盟を脱退し,領事館警察を国際舞台の場で議論する機会も失われることになった。
著者
山本 真也
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.145-160, 2011-03

チンパンジーはヒ卜に最も近縁な進化の隣人である。生物学的にも「ヒト科チンパンジー」と分類される。筆者は,このようなチンパンジーとヒトを比較することにより. 「こころ」の進化について明らかにすることを目指してきた。本論文では,比較認知科学研究者の立場からこれまでの研究を概観し,チンパンジーとヒトの共通点と相違点について論じてみたい。長い間ヒトに特有と考えられてきた行動や特性の多くはチンパンジーでもみられることが明らかとなってきた。道具使用や文化の存在などである。社会的知性にかんしても同様である。たとえば利他行動では,自分には即時的な利益がなくても,チンパンジーが同種他個体の手助けをすることが実証的に示された。しかし,ヒ卜との違いも指摘されている。ヒ卜では他人が困っているのを見ると自発的に助けようとする心理が働くこともあるが,チンパンジーではこの自発的な手助けが稀だった。相手の要求に応じて手助けする。これがチンパンジーの特徴だと言えるかもしれない。チンパンジーとヒ卜でこのような違いがみられる理由に,それぞれの社会や生息環境の違いがあげられる。それぞれの種がそれぞれの環境に適応して進化してきた。その種にみられない知性や能力は,たんにその種にとって不必要だっただけかもしれない。主に植物性食物を食べるチンパンジーは,基本的に自分の食べ物は自分ひとりで確保することができる。それに対し,動物性食物に頼るようになったヒトでは,協力して狩りをし,獲物を分配する必要があったと考えられる。このような違いが手助け行動の自発性の違いにも表れているのではないだろうか。どちらが優でどちらが劣だという問題ではない。種を比較することで,それぞれの特徴を浮き彫りにする。その結果,自己および他者のアイデンティティーを尊重することにつながればと願っている。

1 0 0 0 OA 宋代の武階

著者
梅原 郁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.217-268, 1984-03-15
著者
高野 昭雄
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.141-159, 2014-06-30

本稿は,京都市左京区松ケ崎地区の近代における朝鮮人労働者の足跡について論じた。松ケ崎は,平安遷都にさかのぼる松ケ崎百人衆の伝承をもち,また鎌倉時代末期には全村挙げて日蓮宗に改宗するなど結束の強さを誇ってきた。その伝統は,現在でも,五山送り火の一つである「妙法」の送り火に受け継がれている。こういった歴史をもつ松ケ崎は,周辺地域に比べ,工業地としての開発が遅れていた。そのため松ケ崎の朝鮮人労働者は,隣接地区に比べ,人口も少なく,目立った存在ではなかった。それでも,第一次世界大戦時の大戦景気の中で,松ケ崎にも東洋ラミー織布会社の工場が作られ,朝鮮人労働者が就業した。大戦景気時に労働力が不足し,繊維産業に朝鮮人が従事する現象は,京都では西陣地区でも見られた光景である。その後,1920年代になると,京都市では人口が急激に増加する中で,社会基盤整備事業が活発に行われ,土工や砂利採取夫として就業する朝鮮人も急増する。松ケ崎でも,人口増加を支えるための浄水場が建設され,その配水池の工事を中心に,朝鮮人労働者が多数従事した。また浄水場の工事や高野川での砂利採取,京都高等工芸学校の建築工事には,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが,ともに就業していた。土木建築業や砂利採取業に,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが従事する形態も,京都市他地域と共通する現象であった。一般的に京都の在日朝鮮人について語られる際,戦後の状況もあって,東九条を中心とした京都市南部あるいは西部に言及されることが多かった。しかし,西陣や上賀茂,修学院といった北部にも朝鮮人が多く居住し,それぞれ特色ある就業形態をとっていた。また松ケ崎のような朝鮮人労働者が少ない地域においても,京都市の典型事例とも言うべき朝鮮人労働者の就業状況があった。
著者
中空 萌
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.159-187, 2015-09-30

本論文では,現代インドにおいてアーユルヴェーダが生物医療,代替医療,知的所有権制度 といった異なる知識制度との関連の中でその性質を定義され続けている過程を,接触領域における「翻訳」に焦点を当てながら描く。 インドにおけるアーユルヴェーダと他の知識システムの混交をめぐるこれまでの研究は,「アーユルヴェーダの根底的なパラダイムは他のシステムと接触しても不変のままである」あるいは「生物医療の導入がアーユルヴェーダの身体・人格観を根本的に変容させた」という二極的な立場に収斂していた。これらの議論は両者とも,アーユルヴェーダとその他の知識を首尾一貫した知識=治療パラダイムとして捉えている。それに対し本論文では科学人類学的アプローチに従い,知識を固定的な知識「体系」ではなく,常に生成し続けている不安定な実践と捉えた上で,異なる知識間の接触領域においていかに翻訳可能性が部分的かつ偶発的に見いだされるのか,複雑な交渉と比較の過程を照射する。 具体的には,(1)独立後にアーユルヴェーダの制度化を推進しようとしたmisra 派の知識人たちによる,生物医療概念とアーユルヴェーダの諸概念の翻訳,(2) 1980年代以降のグローバルな代替医療の潮流の中で欧米人患者を受け入れる,アーユルヴェーダ医師の実践,(3) 2000年以降,グローバルな製薬開発をめぐる動きの中でアーユルヴェーダを知的財産化しようとする「国家」研究機関の科学者たちのプロジェクトを取り上げ,それぞれ具体的な翻訳の文脈の中で,「アーユルヴェーダとは何か」がいかに立ち表れているかを素描する。それにより,アーユルヴェーダと他の知識システムとの具体的接触場面で展開している事象とは,「アーユルヴェーダ の本質の残存/喪失」といった一面的プロセス,すなわち知識間の差異の消失ではなく,翻訳可能性と不可能性の間の曖昧な領域において,新たな知識や思想,アイデンティティを生み出すものであると主張する。

1 0 0 0 OA 扁鵲傳説

著者
山田 慶兒
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.73-158, 1988-03-31
著者
漆 麟
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.109, pp.103-142, 2016

本稿は, 日中戦争末期の1945 年1 月に重慶で開催された「現代絵画聯展」に注目し, それを戦時中の中国モダニズム美術による一つの集約として考え, その具体像を再現するとともに, 中国美術におけるモダニズムの規範, そして時代・政治的状況とともに変わっていく美術史的言説による作家・作品評価及びその歴史化の様相について検討するものである。「現代絵画聯展」はおそらく戦時中におけるモダニズム志向の最大規模の美術展であるにもかかわらず, 現在までそれに触れた著作は, それをいわゆる「重要な現代美術展であった」と捉えているものの, 作家名以外の具体的な状況に全く言及していない。そして, 歴史的事象の選択による近現代美術史の編成においては, 日中戦争中をモダニズム美術の「空白期」として扱う傾向が見られる。それらの既往研究を踏まえ, 本稿では, 林風眠・倪貽徳・龐薫琹・関良を中心とする出品作家の戦時中の活動を辿り, その帰結とも言える「現代絵画聯展」の具体像を再現することを試みる。その再現作業を通して, 戦時中におけるモダニズム美術の転換, そして同時代の言説空間から窺えるそのあり方について考察する。それは, 当時の美術界の「生態系」の様相を浮かび上がらせることによって, モダニズム志向の画家群と両立していた宣伝美術や伝統美術に従事する人たちをめぐる政治的空間, 複数の「近代」の成立についての検証である。さらに, 「現代美術聯展」に関する戦後から現在にわたる美術史的言説の変遷について考察する。1949 年から1980 年代までのその展覧会に参加した画家本人の「忘却」, それに相反する1990 年代以降の美術史の再編における展示や作家たちに対する拡大しつつある評価, などの事象を検討することを通して, 戦時中のモダニズム美術に対する歴史化の様相を明らかにし, 「近代化」の論理で語られる1990 年代以降の美術史的言説と, 制作領域におけるモダニズムの「不在」との矛盾について考える。The 1945 Joint Exhibition of Modern Paintings, which was held at the Sino-Soviet Cultural Association in the wartime capital Chongqing, displayed more than 80 works from artists advocating modern art in China during the Republican period. With participation of important artists such as Lin Fengmian, Ni Yide, Pang Xunqin, and Guan Liang, this event crystallized artistic practices of these modernists and showed the significant changes in their artworks during the wartime. Despite its significance, little scholarly attention has been paid to this exhibition and artists'activities in the Guomingdang-controlled region from 1937 to 1945. To fill this gap in scholarship, this study examines the changes of styles of participating artists in the wartime by reconstructing the 1945 exhibition in Chongqing, for which direct pictorial resources are no longer extant. Through related artworks and narratives of their contemporaries, it discusses the relationship between art and sociopolitical circumstances, highlighting aspects of networks of associations and individuals. It also analyses the press narratives, which reflected ideologies and the arts ecosystems viewed through art scene in Chongqing and positions it vis-à-vis the writings on this exhibition by both the participants and art historians after 1949. The analysis underlines the discursive shift and the controversy about the criteria of modernist painting and "modernism" in China.
著者
土口 史記
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方学報 = Journal of Oriental studies (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.1-47, 2015-12

This paper focuses on the functions of the cao (曹) in the Qin period and its development, mainly drawing on the Liye Qin slips (里耶秦鯵) excavated in 2002. The duties of the cao were discharged by the prefecture clerk (令史 , or lingshi). The lingshi is a secretary of the prefect (令, or ling) or the deputy prefect (丞, or cheng), and composed the core of the prefectural government, which was called the prefectural court (縣廷, or xianting). Under the xianting's order, administrative affairs are carried out by the prefectural bureaus (官, or guan), and not by the cao. As an administrative organ, the cao does not seem to have existed in the Qin period. The cao has never appeared in Qin legal codes, and there are no entries in the list of local officials for members of the cao. However, a similar list at the end of the Han period clearly lists members of the cao. In the Qin period, the cao appeared only in very limited contexts. When officials sent documents, the addressee was clearly marked by the phrase "this must be opened by a certain cao." In another case, compiled documents, such as account books or administrative reports, were occasionally titled "a certain cao's book/report." The cao thus appeared only in such contexts as a label for documents or as a title for compiled documents. It was simply a unit for handling documents. After the middle of Han period, the function of the cao began to change, and it began to function as an administrative organ. This remarkable change was connected with the emergence of the yuan (掾) and shi (史), categories of officials unique to the cao. At the same time, the cao encroached upon the administrative functions of the guan, thus acquiring substance as an administrative organ.
著者
淺原 達郎
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.85, pp.764-764, 2010-03-25

Two oracle bones in the collection of our insitute, no. 2384 and no. 2370, can be rejoined together.
著者
武内 房司
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.159-161, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫
著者
イ ジョンミン
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.1-22, 2015

特集 : 領事館警察の研究支配側から見て「軽犯罪」の取締というのは,人々の日常に入り,「望ましくない」行為を排 除する基準を示すことになる。19 世紀後半の東アジアにおいては,開港地内の力関係により 「軽犯罪」に対する取締りの規則が急遽作られた。日本における軽犯罪取締は1872年から始ま り,朝鮮においては日本内での実施から10 年も経たないうちに同じ規則が上陸したのである。 本論文の目的は,日本の在朝鮮領事館による軽犯罪取締りの例を通じて,取締りを始めた状況や取締りの対象にされた行為の詳細を検討しようとするものである。 初期領事館警察は,朝鮮で日本(人) の政治的・経済的活路を広げるため居留民を保護しながら,その活路開拓に障害になる「問題居留民」の行動を規制し居留地を安定的に維持することに力を入れていた。朝鮮人との葛藤や武力衝突の規制,「外地」において日本人に向ける視線 を意識した自己規制,移動人口の管理が主な内容である。
著者
稻葉 穰
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.200-252, 1994-01-31
著者
二宮 文子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.412-393, 2012-12-10

In the 13th century, the northwestern area of South Asia was situated between the two strong powers of the Mongols and the Delhi Sultanate. There were many small groups in that area trying to secure their autonomy as much as possible. This article deals with one of those small groups called Qarlugs. The first leader of the group is Sayf al-Din Hasan Qarlug, who was appointed by Khwarazmshah Jalal al-Din as a ruler of Ghazna, Kurraman and Bannu in 1224. Due to Mongol pressure, he was compelled to move toward Multan, though he kept occupying Bannu, situated on the route from Ghazna to Multan. Though they had been controlled by Mongols through shahna (armed tax collectors), Sayf al-Din's son and successor, Nasir al-Din Muh ammad Qarlug, tried to tie a matrimonial relationship with Giyat al-Din Balaban in Delhi. In the consequence, envoys were exchanged between Balaban and Hulagu Khan of the Il-khanate, in 1260. In the end, Nasir al-Din Muhammad was killed by Hulagu Khan based on an accusation of Sams al-Din Kurt, a semi-independent ruler based in Herat. Sams al-Din Kurt's aim seems to have been to remove an obstacle against his expansion towards the southern part of Salt Range and Sind province. Through the history of the Qarlug, s, we can see how Mongol rule and/or geographical conditions affected the activities of small powers in the northwestern area of South Asia.
著者
吉村 智博
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.100, pp.113-127, 2011

本稿は,社会的差別というテーマを博物館が展示する際に生起する表象をめぐる課題について考察する。博物館論を念頭に置きつつ,人権問題を扱う地域博物館の学芸員としてわたくしが経験したことにそくして考えてみたい。本稿では,差異の表象に関する諸問題を中心に検討する。従来の研究では,そのような問題は主にテクスト分析を通してなされてきたが,学芸員自身の日常的な営為については,十分に探求の眼差しが向けられてきたとは言い難い。しかし,博物館展示のもつ広い社会的影響力を考慮すると,社会的差別のような抽象的なテーマに取り組む学芸員の日常的な営為を取り上げることに意義が見出せる。わたくしの場合は,近代日本社会において「部落民」として差別を受けてきた人びとをめぐる展示を通して,いわゆるタブーに挑戦したのであるが,そこから博物館と学芸員にとっての新たな役割と任務が明らかになった。それは,博物館展示においては観覧者(来館者)と常に情報交換と意思疎通や交渉をすること,当事者,研究者,教育関係者,観覧者(来館者)と協同すること,そして差別被差別の二項対立概念を超えること,さらに「当事者」という概念を問うことである。博物館展示が,社会的差別に対抗する思考を発展させる契機をつくりだすのに有効であるとするならば,博物館と学芸員は展示主体として自己の立場と立ち位置を表明すべきである。「中立性」や「客観性」を追求しようとすると,むしろ被差別当事者(あるいは集団)に対する誤解を再生産させかねないからである。ゆえに,博物館展示では歴史的資料を元の文脈から切断して現代の文脈に置換する際,それについて固有の位置づけや解釈を示すことが必要とされるのである。そのことは,私たちが博物館展示に対して,より再帰的な方法と実践をひらくことを可能にするだろう。This paper aims to examine the ways in which representation matters at museum exhibitions taking up the theme of social discrimination. Informed by developments in museum studies, it offers my reflections on my experience as a curator of a local museum, which focused on human rights exhibits. The central aim of this paper is to discuss issues concerning the representation of difference. Such issues have thus far been explored mainly through text. Yet considering its wider social influence, it is worth exploring daily practice of curators who tackle such an abstractive theme as social discrimination. Through reflections on my experience with a taboo challenging exhibition on the historically persecuted burakumin in early modern Japan,this paper identifies new roles and missions for curators and museums. These include: communicating with viewers through museum exhibitions,collaborating and negotiating with the 'insiders', scholars, educators and visitors, going beyond the dichotomy between discriminator and discriminated, and questioning the notion of the 'insider'. If museum exhibitions are to work against discriminatory ideology, curators and museums must reveal their positions and positionality. Pursuing neutrality and objectivity is rather likely to result in the perpetuation of misunderstandings and prejudice against minority groups in the present day. It is thus necessary to show one's own interpretation of historical objects when replacing them in the current context. It will enable us to develop a more reflective approach and practice with regard to museum exhibits.
著者
山室 信一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.63-80, 2011-03

1895年から1945年の敗戦に至るまでの日本は, 日本列島弧だけによって成立していたわけではない。それは本国といくっかの植民地をそれぞれに異なった法域として結合するという国制を採ることによって形成されていったが, そこでは権利と義務が差異化されることで統合が図られていった。こうした日本帝国の特質を明確化するために, 国民帝国という概念を提起する。国民帝国という概念には, 第1に国民国家と植民地帝国という二つの次元があり, それが一体化されたものであること, しかしながら, 第2にまさにそうした異なった二つの次元から成り立っているという理由において, 国民帝国は複雑に絡み合った法的状態にならざるをえず, そのために国民国家としても植民地帝国としてもそれぞれが矛盾し, 拮抗する事態から逃れられなかった事実の諸相を摘出した。その考察を通じて, 総体としての国民帝国・日本の歴史的特質の一面を明らかにする。
著者
永田 英正
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方学報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
no.41, pp.157-196, 1970-03