著者
今谷 明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.201-214, 2007-05

アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。 このための調査旅行として、二〇〇六年八~十月の期間、アメリカのハーバード大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、およびオランダのライデン大学を訪問し、ハーバード大学歴史学部長ゴードン氏以下、幾人かの日本史研究者と面談し、第一線の研究状況を直接に聴取することができた。なお、アメリカについては、日文研バクスター教授の研究を参考とし、フランスは総研大院生ハイエク君の調査を、ドイツについては日文研リュッターマン助教授の助力を仰いだことを付け加えておく。
著者
官 文娜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.145-175, 2004-01-31

日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。 本論は以下の項目に分けて検討している。一、王位継承の意味、二、兄弟姉妹継承の実態と「直系」説、1、日本古代社会における兄弟姉妹継承と中国殷の「兄終弟及」、2、王位候補者と継承者の資格、3、直系継承と立太子、4、持統~元明天皇以後の立太子と譲位、三、女帝の継承、1、女帝登極の正統性、2、女帝の身分と女帝継承の性格。 以上の問題の研究によれば、この時代の王位の継承には以下の五つの特徴が見られる。第一に、継承者が成人しなければ王位に即けないという不文律があった。この不文律のもとで被継承者の兄弟(日本では姉妹も含む)は常に必然的に継承者となった。第二に、王位を継承した兄弟または姉妹はいったん王位に即けば、死ぬまで譲位しない。つまり、兄弟姉妹が即位すれば高齢になっても死ぬまで前帝の後裔にバトンを渡さなかった。それも不文律であった。このように日本において兄弟姉妹による継承は、直系継承制のもとでの一時的な補助としての「中継」とは異なるものであった。第三に、伝統に則り、勇力豪族の合議によって継承者を推戴していた習慣があるため、合議される継承者の範囲は被継承者の子だけではなく、兄弟姉妹および彼らの子も含む皇族内の全員が王位継承の資格を持っている。第四に、太子を立てても、その太子は必ずしも即位するわけではなく、立太子は往々にして形式的になる。また太子は前天皇の子に限らず、選定の仕方には、直系継承の意図は見られない。第五に、この時期には、皇族の女性は皇女でも皇女と皇后の二重の身分でも堂々と登極できたため、女帝が頻出した。 これらの特徴から明らかなように、日本において王位の直系継承は行われておらず、またそれはあり得ないことであった。なぜなら、日本では皇族の中で単位家族が未だ独立も、成立もしていなかったからである。中国においては、王を中心とする単位家族としての血縁集団内における権力、財産などの分配・相続の権利を守るために、王は必ず王の息子を継承者とする必要があった。日本では継承者は皇族内の全員から生み出され、またそれによって一族の権力や財産が守られた。そして、中国とは異なり、皇族内の女性も男性同様皇族としての成員資格を持っていたために、皇族内の極端な近親婚が行われ、その結果彼女らは皇后や女帝となり得たのである。こうした特徴はすべて血縁親族集団の構造がしからしめるものであった。 以上、本論文において日本古代における血縁集団構造の父系擬制的、被出自集団としての無系あるいは血統上での未分化のキンドレッドの性格が明らかになったと認識している。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
研究活動スタート支援
巻号頁・発行日
2021-08-30

本研究では、中途障害(病気の後遺症による手指の麻痺や書痙、視力の低下など)を抱え、自ら筆を執って書くことに困難を極めた作家たちが、口述筆記という書字を他者に代行させる方法で創作活動を継続させたことに焦点を当てる。上林暁・三浦綾子・大庭みな子という三人の作家を具体的事例に取り上げ、障害学の視点から口述筆記による創作の実態を解明する。これらの作業を通じて、作家たちの中途障害との向き合い方や、口述者(被介助者)と筆記者(介助者)との関係性を、摩擦や軋轢といった側面も含めて多面的に浮き彫りにするとともに、口述筆記というケアの営みにおいて身体的な協働性がどのように構築されているのかを明らかにする。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.325-341, 2004-12-27

杉山登志は、〈作家〉性を帯びた最初のCMディレクターだと評価されている。この論文は、杉山の資生堂向けCM作品のいくつかを紹介し、彼が不可解な自殺を遂げた後に〈作家〉として評価されていった、時代背景の解明を試みた。
著者
勝原 良太
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.249-271, 2007-03-31

この報告は、勝盛典子氏(神戸市立博物館学芸員)の論文「大浪から国芳へ――美術にみる蘭書受容のかたち」(神戸市立博物館研究紀要 第十六号)をうけて書かれたものである。勝盛氏が調査されたニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵を再調査したところ、浮世絵師・国芳は同本から、十四作品十五個所の自作に図様を転用していることが判明した。本稿ではこれらの調査結果を図版と対比させながら一括して報告する。調査を終えてわかったことは、国芳が同本挿絵から利用する時、その部分については克明に写し取っているということである。そして同時に、自己の作品全体の中に転換・消化して、作品をオリジナルなものに高めている。その手腕は非凡の為、原拠挿絵と国芳作品を併置して見た時、両図の関係は明らかであるにもかかわらず、これらを切り離して見た時、両図の関係は気づかれにくいものとなっている。この点から考えても、国芳のアレンジの優秀さが知られる。
著者
金 容儀
出版者
国際日本文化研究センター
巻号頁・発行日
pp.1-27, 2006-10-02

会議名: 日文研フォーラム, 開催地: キャンパスプラザ京都, 会期: 2006年4月18日, 主催者: 国際日本文化研究センター
著者
外川 昌彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.39-94, 2020-03

本稿は、近代日本を代表する美術家・岡倉天心のアジア美術史に関する認識の転換を、1902 年のインド滞在中のベンガル知識人との多様な思想的交流の経緯を通して検証する。岡倉にとってインド美術史の探求は、ハーバート・スペンサーの社会進化論やヘーゲルの発展段階論に基づく芸術の単系的な発展モデルを克服し、アジア諸美術の「自然な成長」やその相互交渉を捉える視点を与えるものとなっていた。本稿では、岡倉がギリシア美術の影響を離れたインド美術の内発的発展という新たな視点を獲得する鍵となる人物が、近代インドを代表するヒンドゥー教改革運動家ヴィヴェーカーナンダであると考え、ヴィヴェーカーナンダとの交流を通して岡倉が、インドの美術や歴史に関わる新たな認識を深めてゆく経緯を、日本とインドに残された当時の資料を対比して検証する。本稿の構成は、以下の通りである。第一章は、日本の仏教美術とギリシア美術の類似性という美術史上の争点についての岡倉の視点の変遷を検証し、本稿の課題を位置づける。第二章は、岡倉天心の生涯を検証するこれまでの伝記的研究を整理し、本稿の課題の背景を明らかにする。第三章は、岡倉のアジア美術史観の変遷を、社会進化論やヘーゲル美学の影響を通して検証し、インド訪問後のその視点の変化を検証する。第四章は、岡倉とヴィヴェーカーナンダの相互の影響関係を検証する手掛かりとして、両者の著作に見られる共鳴関係を検証する。第五章は、インド美術に関心を深めたヴィヴェーカーナンダの、当時のインド美術のギリシア起源説への批判的なまなざしを検証する。第六章は、両者の思想的な影響関係を、仏教の伝播や社会変革の思想としての仏教などの論点を対比して検証する。第七章は、インド美術の独自の発展を捉えようとする両者の問題関心の共有を検証し、その影響関係の広がりを跡付けて、まとめとする。
著者
HORI Madoka Nagai
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
アジア新時代の南アジアにおける日本像 : インド・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性
巻号頁・発行日
pp.119-128, 2011-03-25

アジア新時代の南アジアにおける日本像 : インド・SAARC 諸国における日本研究の現状と必要性, ジャワハルラル・ネルー大学, 2009年11月3日-4日
著者
コズィラ アグネシカ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.93-149, 2006-10-31

この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。
著者
カウテルト ウィーベ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.7-35, 2019-10-10

日本から東インド会社を通じて輸入された高価な陶芸・染織品・漆工芸品などの珍品は、17世紀後半に北西ヨーロッパ貴族たちの手に渡り、とりわけ日本の着物は大人気を博した。また、漆工芸においては豪華に装飾された蒔絵簞笥が驚くほどの高値で販売された。これらの珍品にみられる日本美はウィリアム・テンプル(一六二八~一六九九)によって「シャラワジ」(sharawadgi)として紹介され、「シャラワジ」はイギリス風景式庭園の発展のきっかけになる言葉になった。本論では、この日本美の伝播経路と、江戸期の「洒落」と「味」の美学、現在の「しゃれ味」とのかかわりに迫ってみた。鍵なる人物は、オランダ人の文人ホイヘンス(一五九六~一六八七)と商人ホーヘンフック(?~一六七五)であった。これまで300有余年、謎の言葉であった「シャラワジ」を、当時のエッセイ、貴族の手紙や日本工芸品から解明し、江戸時代の工芸家の「しゃら味」の美学であると結論付けようとするものである。