著者
鄭 敬珍
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.151-181, 2016-03

1764年の通信使行は、使行のすべてを尽くしたと評価されるほど、苦難に満ちた使行であったが、日本人との詩文や筆談の唱和を通した文化交流は、どの使行よりも盛んに行われたといわれている。本稿は、この1764年の朝鮮通信使の日本来聘の際に、大坂で行われた朝鮮の製述官・書記と木村蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の人々の交遊を再考察するものである。この交遊については、すでに高橋博巳をはじめ、先行研究において論じられてきたが、その交遊を可能にした背景や、朝鮮側の人々については、十分な考察が行われてこなかった。一方で、朝鮮の書記・成大中が依頼したとされる「蒹葭雅集図」の製作過程についても再考察の余地があると考えられる。 本稿では、まず、朝鮮側からの視点に寄り添って、蒹葭堂会の人々と交遊した製述官や書記たちが「庶孼」という庶子の身分であったことに注目した。庶孼身分と朝鮮通信使との関連性について分析すると同時に、彼らが朝鮮通信使に参加する前からすでに、詩社などを通し、文人との交遊を持っていたことも明らかにした。 本稿は、使行録の記録を分析材料として取り上げ、日本ではほとんど注目されてこなかった、製述官・南玉の『日観記』を中心に、江戸に向かう前と帰路の大坂での記録を時系列で追うことを試みた。このような考察を通して明らかになったのは、朝鮮側の製述官や書記たちは、通信使として派遣される前から文人詩社に集い、文人としての経験を培っていた、ということである。そして、そのようなことが、1764年の交遊を可能にした一因になっていたのである。多様な階層の文人による蒹葭堂会と、朝鮮社会の特殊な身分の「庶孼文人」たちの間に、文人として認識が共有されていた可能性は、交遊の産物である「蒹葭雅集図」の製作意図を考える上でも重要な意味を持つ。「蒹葭雅集図」の意味合いについては、今後の課題として、「蒹葭雅集図」と朝鮮後期の雅集図との比較分析を行うなど、さらなる考察を加えていきたい。本稿が、朝鮮通信使に関する研究だけでなく、近世日本と朝鮮社会における多様な「文人」の有様を考察する上でも、有効な手がかりとなることを期待したい。
著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。 〈神話解釈史〉とは、「中世日本紀」や「中世神話論」を継承しつつも、従来の「古代神話」のように架空の時代を形成しそれに固定することを否定し、神話解釈がどのように新たな歴史を創造してきたかを考えるものである。とくに、「近代主義」によって構築された歴史観念を離れ、神話を解釈・創造する過程こそが新たな歴史を作るという視点から神話と歴史の概念を改める作業である。 このような発想は、磯前順一の主張した「記紀神話」は「どう読まれたか」という「記紀解釈史」と類似している。しかし、磯前は神話が歴史上でどのように解釈されてきたかを考える「神話の解釈史」にとどまっている。対して、神話解釈がどのように歴史を叙述してきたかを考える「神話解釈の歴史」の発想は、斎藤英喜によって提示されており、本稿はそれを積極的に継承しつつ、〈神話解釈史〉という方法の可能性をより広げていきたい。 そこで、本稿では従来の神話研究者が主に『古事記』や『日本書紀』を中心とする神話研究を展開してきたこと、また、神話解釈への関心も「中世の『日本書紀』と「近世の『古事記』」に集中してきたことに対し、それとは異質的な「富士信仰」を中心としてその祭神の変貌を考えてみた。 「浅間の神」から「浅間大菩薩」そして「コノハナサクヤヒメ」を経て「天御中主神」に展開していく富士信仰における神格変貌は、従来の日本神話研究の枠組からは読み取れなかった新鮮な神話世界の一面を見せてくれるだろう。
著者
朴 正一
出版者
国際日本文化研究センター
巻号頁・発行日
pp.1-37, 2018-02-28

会議名: 日文研フォーラム, 開催地: ハートピア京都, 会期: 2015年6月11日, 主催者: 国際日本文化研究センター
著者
漆﨑 まり
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.55-100, 2013-09

江戸歌舞伎においては、舞踊の場面に、半太夫節・河東節、長唄、常磐津節・富元節・清元節など多彩な音曲が用いられてきた。新作が上演されると、音曲の詞章は演じる役者や演奏者などの上演情報とともに三~五丁程度の小冊子に載せられ、芝居茶屋や絵草子店に頒布された。これが歌舞伎の音曲正本である。 筆者は江戸版の長唄本について広く書誌調査を行ってきた。伝本は、享保十六年(一七三一)から明治期にわたりほぼ継続して残っている。長唄正本には上演後も稽古本としての用途があったため、多くの版元が再販を手がけており、異版の非常に多いことが一つの特徴である。その伝本の多さからも、長唄本が地本の主要品目の一つであったことが窺える。異版はいずれも初版を踏襲した体裁をとっており、そのなかには、共表紙(本文と同じ料紙)に描かれる役者絵や外題・本文の書体などが初版に酷似するものも存在する。この異版の存在によって、地本における当時の偽版の実態や版権の確立する過程を知ることができるのである。本稿は、長唄本を江戸における草紙(地本)の一品目として捉え、版権の確立する過程(すなわち株板化)について考察したものである。 これを中村座の長唄本によって説明すると、以下の段階を経て株板化に進んでいる。まず、版元村山源兵衛は座と専属的関係をつくり、長唄正本の版行を独占する。するとこれに伴い、その独占的な利益に不正参入しようとする偽版も現れるようになる。その偽版には、村山版を版下に流用して作成する手法が多く用いられている。 次の段階として、村山源兵衛は、偽版の版元を相版元とし、出版にかかる経費を偽版の版元に担わせるようになる。これにより原版の不正利用に対する弁済の方策が立つようになったと考えられる。 寛政期になると版元が沢村屋利兵衛に代わり、蔵版して再版を数次行うかたちに版行形態が変化する。そして、再版に際しても沢村屋と他の版元との相版のかたちがとられ、沢村の原版に対する所有権は概ね守られていると見なされることから、株板化したと判断される。 これは、寛政二年(一七九〇)の出版令により、地本問屋仲間行事による新本に対する自主検閲が義務付けられるようになったことを受けて、地本にも版権を明らかにして取り締まりを強化する体制が整えられたことに連動した動きと捉えられよう。しかしその一方で、こうした長唄正本の版行形態の変化が、稽古本の需要の高まりを受けて再販性の高い出版物へと成長した長唄本の出版益を、座あるいは芝居町に取り込む目的のもとに、座側の主導によってもたらされている面は看過できない。
著者
白石 さや
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本の文化と社会の潮流
巻号頁・発行日
pp.167-176, 2011-11-30

日本の文化と社会の潮流
著者
神戸 航介
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.7-31, 2016-03-25

本稿は税収が豊かな国のことを指す「熟国」と、税収が不安定で統治が困難な国を意味する「亡国」の語に注目し、熟国・亡国概念の制度的構造について検討を加え、摂関期の地方支配のあり方の一端を明らかにすることを目指した。
著者
吉田 孝次郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.69-103, 1993-09-30

祇園会の山鉾に使用する工芸品は、質、量、品種に於いて世界の至宝といっても過言でないものを現在も使用しているが、特に懸装染織品は、近世染色美術史を痛感し得る内容をそなえ、中国大陸文化圏をはじめ、印度、中近東、大航海時代以降の欧州の染織品を数多く有している。
著者
別役 恭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.71-99, 1993-03-30 (Released:2015-11-11)

浮田一蕙の「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮の徳川家茂への降嫁に対する風刺絵だとされてきた。しかし、一蕙の作品群を調べると、一蕙が信州に滞在した嘉永五年十月から翌六年二月にかけて、「狐の嫁入り」を主題とした掛幅や六曲一双の屏風を既に制作しており、「婚怪草紙絵巻」もその延長線上で描かれたと思われる。即ち、一蕙が江戸に滞在した嘉永六年三月から安政元年七月の間で、それは和宮降嫁の議が内々論議された安政五年秋から冬にかけてより、四年有余遡るのである。 江戸中、後期は擬人化の風潮が顕著に現れた時期であった。そして、妖怪奇異に対する好奇心が版本の普及とともに高揚した時期でもあった。想像力の逞しい画家や作家たちが、幻想、奇想の世界を創り出していた背景を考えると、「婚怪草紙絵巻」が生まれる土壌は、風刺を抜きにして充分整っていたのである。一蕙が古典絵巻から吸収した知識と、当時の社会に培われていた、洒落や、遊戯や、パロディーの精神が結びつき「婚怪草紙絵巻」は生まれたのである。
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.29, pp.301-323, 2004-12-27

一九八七年頃から、古代中世日本において女性の性は聖なるものだったといった言説が現れるようになった。こうした説は、もともと柳田国男、折口信夫、中山太郎といった民俗学者が、遊女の起源を巫女とみたところから生まれたものだが、「聖なる性」「性は聖なるものだった」という表現自体は、一九八七年の佐伯順子『遊女の文化史』以前には見られなかった。日本民俗学は、柳田・折口の言説を聖典視する傾向があり、この点について十分な学問的検討は加えられなかった憾みがある。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.44, pp.77-130, 2011-10-23

茶の湯の歴史について、現代の流派や家元のあり方をイメージしながら過去を論じていることはないだろうか。近世中期に生まれた家元という存在は、近代における紆余曲折をへて、現在の姿に至っているのである。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.315-348, 2008-09-30

和辻哲郎(一八八九―一九六〇)の『ニイチェ研究』(一九一三)は、彼の哲学者としての出発点をなす書物であり、同時に、日本における初めてのまとまったフリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Willhelm Nietzsche, 1844-1900)の研究書として知られている。また、そこに示された考え方は、その後の彼の歩みに、かなりの意味をもつものとなった。
著者
山下 博司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.372-342, 1998-02-27

私の論文(『日本研究』第十三集所収)に対する大野晋氏の反論は、氏の単純な誤解に端を発する問題点を多く含むのみならず、読者が容易にミスリードされ兼ねない書き方が敢えて為されている。
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.404-373, 1998-02-27

『日本研究』第十三集において、われわれは大野教授の「日本語=タミル語同系説」を検証した。それに対し、大野教授は『日本研究』第十五集でわれわれの検証に反論を提示した。そこで、今回この反論を含め、再び大野説を検証した。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。