著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10-20

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.77-130, 2011-10-23

茶の湯の歴史について、現代の流派や家元のあり方をイメージしながら過去を論じていることはないだろうか。近世中期に生まれた家元という存在は、近代における紆余曲折をへて、現在の姿に至っているのである。
著者
廣田 浩治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.11-33, 2013-09

「政基公旅引付」は、戦国期に家領和泉国日根荘に在住した前関白九条政基の日記である。当該期の村落研究に頻繁に使用される史料であるが、ここでは公家日記としての「旅引付」の性格を考察した。「旅引付」は在荘直務時の自筆本の日記で、政基は在荘中に入手した文書(反故紙)の紙背を日記に再利用していない。政基は在荘した「旅所」を離れず、「旅引付」の記事の多くは伝聞情報であるが、政基の家僕や村の報告や情報に基づく正確な記事である。「旅引付」には「後聞」として後日知ったことを記した箇所があり、政基は「後聞」のことも含めて情報を整理して何日分かずつまとめて書いたと考えられる。政基は直務に関する事項を家僕に周知するため、「旅引付」を読み聞かせたこともある。「旅引付」は政基にとって実用的な日記で、常に引用・参照されるべき「旅所」の「引付」であった。「旅引付」には虚偽や改竄の記述があることが知られるが、これは政基が荘園経営の先例・「後例」とするにふさわしくない事柄の記述を避けたのである。しかし政基はこのような場合でも事実を記した文書を残し、「旅引付」に改竄の経緯や理由を書き残した。政基は後世に備えて作為や改竄の事実も含めて事件を克明に「旅引付」に記録した。「旅引付」には政基が手元に置いた文書が筆写され、直務支配の賦課台帳や証拠文書も引用されている。政基は日根荘の村や外部勢力(和泉守護・根来寺僧)と頻繁に文書を授受し、日根荘の脅威である守護・根来寺に対しては村を通して文書を授受した。そしてこの文書を保管するか「旅引付」に筆写した。「旅引付」は、政基の子息九条尚経の雑記集「後慈眼院殿雑筆」や九条家家僕の日記とも記事や内容が一致しており、政基は九条家を通じて京都政界の情報収集も怠らなかった。家領下向・在荘直務支配の日記であり、村落の世界を描いた「旅引付」は特異な公家日記であるが、公家の在荘が常態化した戦国期には「旅引付」のような日記は多数書かれていたと考えられる。
著者
武内 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.25, pp.63-103, 2002-04-30

関蝉丸神社は滋賀県大津市逢坂に存在する神社で門説教や説教浄瑠璃を行う説教者を掌握していたことで有名である。しかし関蝉丸神社にはそれらの芸能の他に、説教讃語という、江戸時代後期の大坂の芝居興行に関する資料が残存する。 天保一三年(一八四二)、天保の改革によって宮地芝居は禁止され、説教讃語座も興行することができなくなったが、関蝉丸神社は嘉永五年(一八五二)以降、株仲間の再興をきっかけに宮地芝居の再興を訴え続け、安政四年(一八五七)に宮地での興行許可を得る。そして文久二年(一八六二)には大坂宮地での他の興行を排除し、宮地における興行を完全に掌握することになる。 このように関蝉丸神社が説教讃語という名目で寛政の改革を契機に大坂の宮地芝居に進出し、最終的には宮地を掌握するまでに至った経緯とその要因を解明した。それによって日本の舞台芸術史における重要な一側面を見出したと考える。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.173-188, 2021-03-31

本稿は、口述筆記創作における〈男性作家―女性筆記者〉というジェンダー構成に着目し、近代作家を取り巻くケア労働の問題の一端を明らかにするものである。公的領域における自律した主体概念と密接に絡みつく形で周縁化されるケア労働の問題は、作家の有名性の陰でシャドウワークとして扱われてきた女性筆記者の不可視化の構造とも通底している。 本稿では、まず作家という職業において公的領域と私的領域との境界確定がいかにおこなわれているのかを確認し、特に女性筆記者の営為が評価の対象から取りこぼされ、搾取される構造をケアの論理と重ねて整理した。そのうえで、実際に谷崎潤一郎の筆記者を務めた伊吹和子(1929 ~ 2015 年)の回想記の記述を導きに、口述者と筆記者との交渉の実態や口述筆記の現場に生じる摩擦や軋轢のありようを具体的事例として検討した。特に、伊吹が筆記者としての自身のスタンスを示すなかで繰り返す「〈書く機械〉になる」という自己認識に焦点を当て、自らの立場を非人格化した無機質なライティング・マシーンに重ね合わせる一見受動的な自称が、女性が労働する身体として主体化する際の戦略的な構えであると同時に、 筆記者の役割を矮小化する評価構造への抵抗にも繋がることを指摘した。 また、〈書く機械〉として伊吹が口述筆記の現場に参画することが、谷崎が〈小説家になる〉 という生成変化と表裏一体に立ち上がるものであることを考察した。これは、支配や抑圧といった紋切り型の言葉で表象されざるをえなかった口述者と筆記者との固定化した主従関係に風穴を開け、ケアの実践に根ざした関係性のなかにその営みを位置づけるうえで有効な視角となる。伊吹の言葉から谷崎との相互依存性を読み取ることで、口述筆記創作の現場を口述者と筆記者双方におけるアイデンティティの形成と承認の空間として捉えることが可能になると結論づけた。

2 0 0 0 OA 妖怪

著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
妖怪
巻号頁・発行日
2007-05-21
著者
河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-27, 1992-03-30

『風土記』には、昔話の主題となる話が多く語られている。それより時代の下る中世の説話集にも多くの昔話の主題が認められる。ところが、『風土記』には認められても中世の説話集に認められぬもの、あるいはその逆のものなどがあり、それらを比較してみると、日本人の心の在り方が時代によって変化してゆく様相の一面が把えられ、また、日本の昔話の成立過程などを考える上で興味深い。
著者
別役 恭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.8, pp.p71-99,図2p, 1993-03

浮田一蕙の「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮の徳川家茂への降嫁に対する風刺絵だとされてきた。しかし、一蕙の作品群を調べると、一蕙が信州に滞在した嘉永五年十月から翌六年二月にかけて、「狐の嫁入り」を主題とした掛幅や六曲一双の屏風を既に制作しており、「婚怪草紙絵巻」もその延長線上で描かれたと思われる。即ち、一蕙が江戸に滞在した嘉永六年三月から安政元年七月の間で、それは和宮降嫁の議が内々論議された安政五年秋から冬にかけてより、四年有余遡るのである。 江戸中、後期は擬人化の風潮が顕著に現れた時期であった。そして、妖怪奇異に対する好奇心が版本の普及とともに高揚した時期でもあった。想像力の逞しい画家や作家たちが、幻想、奇想の世界を創り出していた背景を考えると、「婚怪草紙絵巻」が生まれる土壌は、風刺を抜きにして充分整っていたのである。一蕙が古典絵巻から吸収した知識と、当時の社会に培われていた、洒落や、遊戯や、パロディーの精神が結びつき「婚怪草紙絵巻」は生まれたのである。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03-31

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
著者
ツェルナー ラインハルト
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
失われた20年と日本研究のこれから・失われた20年と日本社会の変容
巻号頁・発行日
pp.55-58, 2017-03-31

失われた20年と日本研究のこれから(京都 : 2015年6月30日-7月2日)・失われた20年と日本社会の変容(ハーバード : 2015年11月13日)
著者
PESTUSHKO Yuri S.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本文化の解釈 : ロシアと日本からの視点
巻号頁・発行日
pp.261-273, 2009-12-15

国立ロシア人文大学, モスクワ大学, 2007年10月31日-11月2日
著者
成田 龍一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.15-33, 2017-05

戦後における日本文化の歴史的な研究のいくつかの局面に着目し、その推移を考察する。まずは、1980年代以降の特徴として、A「文化」に力点を置くものと、B「歴史」に比重を多く日本文化研究の二つが併存していることを入り口とする。Aは「日本文化論」、Bは「日本文化史」として提供されてきた。A(日本文化論)は、対象に着目し、叙述はしばしばテーマ別の編成となるのに対し、B(日本文化史)は通時的に論を立てることに主眼を置く。このとき、本稿で扱う1980年ごろまでは、双方ともに素朴な実在論に立つ。1980年ころまでは、AもBも、「日本」と「日本文化」の実在をもとに、それぞれ「論」と「歴史」を切り口としていった。AとBとの相違は、前者が日本、日本文化に肯定的であるのに対し、後者が批判的であるという点にとどまる。ことばを換えれば、日本、日本文化を論ずるにあたり、双方ともにアイデンティティとして、日本、日本文化をみていたということである。そのため、AとBとが近接する動向も見られる。だが、1980年代以降は、双方は文化と歴史への向きあい方が大きく異なってくる。言語論的転回が日本文化研究にも波及し、素朴な実在論が成立しなくなるなか、Aはあえて日本、日本文化を自明のものとし、それをテーマへと分節するのに対し、Bは日本、日本文化が自明とみえてしまうカラクリを問題化していくのである。そしてBは構成的な日本、日本文化の概念が、どのような画期をもち、どのようにそれぞれの時期で「日本なるもの」「日本文化なるもの」を創りあげたかに関心を寄せる。本稿は、こうして日本文化研究の推移を、文化論と文化史、実体論と構成論を軸として考察することにする。このとき、それぞれが日本文化を礼賛する見解と、「批判」的な議論と、日本文化を礼賛し「肯定」する議論として論及されることにも目を配る。
著者
孫 江
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
no.24, pp.163-199, 2002-02-28

一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。今までの中国社会史および「満州国」の歴史に関する研究において、これらの宗教結社は見逃されており、それに関する数少ない記述も偏見に満ちたものである。在家裡と紅卍字会の実態を問わず、在家裡を「秘密結社」、紅卍字会を政治的もしくは「邪教的」存在とみなす見解は今でも依然主流的である。本稿において、このような見解に疑問を投げかけ、一時的資料に基づいて実証的考察を行った。それを通じて明らかになったように、二十世紀に入ってから満州移民社会の形成に伴って、在家裡・紅卍字会のような宗教結社や「秘密結社」が満州社会において発展し、一定の社会的影響力を持つようになった。在家裡と紅卍字会のほとんどの組織は自らの組織的優勢を獲得するために、関東軍および「満州国」に協力する道を選んだ。「満州国」側の一部の資料では、「類似宗教結社」とされる在家裡・紅卍字会などが「満州国」の政治統合の支障となったという記録が残されている。しかし、実際には、満州地域の数多くの宗教結社の活動を全体的に見ると、宗教結社の反満抗日に関与するケースは非常に少なく、しかも特定の時期(満州事変初期)、特定の地域(熱河・北満など)に限られていた。反満抗日運動に参加した在家裡と紅卍字会のメンバーは確かに存在していたが、それは在家裡と紅卍字会の組織的性質を反映するものではない。総じていえば、「満州国」支配における宗教結社の統合は、単なる「植民地」という支配空間に生じた問題ではなく、実は日本近代国家の形成と関連して、日本国内=「内地」が抱える「類似宗教」や「邪教」「迷信」といった諸問題の延長上にあるのである。
著者
厳 紹璗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.33-72, 1995-06-30

奈良時代の日本古代文学にきわめて重視すべき作品『浦島子伝』がある。その題材や文体などすべては中国唐代の「伝奇」にたいへん類似している。本稿ではこれを「漢文伝奇」と名付けた。『浦島子伝』と「浦島伝説」は二つの異なる発展段階の作品である。――「浦島伝説」は「伝奇」に先行する段階の作品であり、完全に民間のものであり、それに対して、『浦島子伝』は文人の創作の作品である。日中古代文学が神話や伝説から物語文学へと発展する過程には、「漢文伝奇」の創作を主な内容とした過渡期的段階がある。『浦島子伝』こそ「漢文伝奇」の代表的な作品である。伝播の歴史が古いので、『浦島子伝』のテキスト間には多岐にわたる意義の相違が生じた。文化史学的立場から考察を加えるとすれば、それぞれ異なったテキストの間には、事実上前後する伝承関係がある。これらが示す伝承の発展こそ、伝記文学の日本化の過程である。本稿では『浦島子伝』のテキストを四つの系統に分けた。『古事記』の「火遠理命神話」、『日本書紀』の「浦島伝説」、及び『萬葉集』にある「水江浦島子」という三つの神話と伝説が、この伝奇を構成した日本民族文化のルーツである。その中で、「水江浦島子」は日本先住民の「汎海洋崇拝」という心態を表し、「浦島伝説」は渡来人(帰化人)の「特定生物に対する崇拝」という心態を表しているのであるが、しかし、「火遠理命神話」には作品の創作に創造的な空間が加えられているのである。また、文献学的に実証的な手段を取ると、この『浦島子伝』からそこに融合された東アジア文化(主に中国文化)の要素を引き出すことができるのである。本稿ではこれらの要素を「媒体」と名付けた。この伝奇が媒体とした中国文化の要素には、主に四つの様式がある。Aは、秦漢から魏晉にかけての「神女文学チェーン」で、Bは、『遊仙窟』を始めとした唐代伝奇で、Cは、「神仙観念」と「亀崇拝」及び「情愛のリビドー」を融合した「蓬莱文化」、Dは、「丹石の煉」と「房中の術」をもって「不老不死」を目的とした道教理念である。『浦島子伝』は、一方で日本民族の神話や伝説を継承しつつ、また、一方で東アジア文化と多く関連している。この特徴は、まさに日本物語文学形成における文化の豊かさ、及びそこに内在するメカニズムの複雑さを表しているのである。