著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.69-114, 2005-10-31

現在、能といえばすぐさま「幽玄」という言葉が想起されるほど、両者は固く結びついている。なるほど、世阿弥が残した能楽書には「幽玄」という言葉がたびたび使われている。だが、「幽玄」は、能の世界では長らく忘れ去られていた言葉であった。それでは、能と「幽玄」は、いつから、どのようにして、結びついたのだろうか。本論稿はこの点を明らかにすることを目的とする。
著者
大石 真澄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.52, pp.183-214, 2016-03-25

本研究ノートは、日本の戦後、特に1950~70年代に科学・専門的知識がいかにしてビジュアルイメージとして受容されてきたか、の解明に関する分析の一部である。このために、学習図鑑を対象として、その書面の形式および書式に注目することで、受容者の経験を復元するという作業を行う。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p125-137, 1990-03

人間の知的な営みの本質には、ここではない「もうひとつの世界」、この私ではない「もうひとりの私」を空想し、反芻する性向がある。スタニスワフ・レムとタルコフスキーの『ソラリス』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作品世界は、この「もうひとつの世界・もうひとりの私」へと向かう想像力によって、形成されている。そして、その想像力の根底にあるものは、「死」へのまなざしであり、「救済」の希求である。人が「もうひとつの」なにかへと超越しようとするのは、そこに死と救済がたちあらわれてくるからなのだ。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.56, pp.173-210, 2017-10-20

スティーヴン・ドッド『青春のことども――梶井基次郎の時代の生と死』(ハワイ大学プレス、2014)は、国際的な展望に立ち、梶井基次郎の世界を高く評価する論考と、ほとんどの作品の翻訳を収めた英語による初めての書物である。その論考部分は、欧米の諸分野の理論を援用し、国際的学際的な視野に立ち、日本のモダニズムをめぐる重大な課題を提起し、鋭い指摘に満ちている。創造的であろうとするあまり、理論の適用限界や文芸文化史の見渡しに問題が見受けられるが、それは決してドッド一人が抱える問題ではない。とくに1980年代までの日本の文芸批評の歴史的限界がはたらいている。本稿は、ドッドの広い視野に立つ挑戦を真に意義あるものにするために、文芸批評の方法を検討し、日本モダニズム研究に新しいステージを拓く試みである。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.237-260, 2011-03

本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.187-214, 2010-09

日本の一九二〇年代、三〇年代における(狭義の)モダニズム文藝のヴィジュアリティー(視覚性)は、絵画、写真、また演劇等の映像だけではなく、映画の動く映像技法と密接に関係する。江戸川乱歩の探偵小説は、視覚像の喚起力に富むこと、また視覚像のトリックを意識的に用いるなど視覚とのかかわりが強いことでも知られる。それゆえ、ここでは、江戸川乱歩の小説作品群のヴィジュアリティー、特に映画の表現技法との関係を考察するが、乱歩が探偵小説を書きはじめる時期に強く影響をうけた谷崎潤一郎の小説群には、映画的表現技法の導入が明確であり、それと比較することで、江戸川乱歩におけるヴィジュアリティーの特質を明らかにしたい。それによって、日本の文藝における「モダニズム」概念と「ヴィジュアリティー」概念、そして、その関係の再検討を試みたい。
著者
青山 玄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p69-78, 1990-03

諸国遍歴の修験者円空(一六三二―九五)は、日本古来の修験道や密教的仏教の伝統の上に立って大量の作品を残しており、そのうち「円空仏」四、三二〇体、和歌一、六〇〇余首、他に絵一八四枚が現存しているが、円空の出自に不明な点が多いことから、一九七三年以来、円空を十分の根拠なしに私生児と考え、洪水で非業の死を遂げた母の鎮魂供養のために仏像を彫り、諸国勧進に努めたかのように説く谷口順三氏の説が広まった。この説に基づいて、一九七四年にはラジオ・ドラマ「木っ端聖・円空」が放送され、一九八八年にはテレビ・ドラマ「円空」が放映された。――筆者は、谷口氏のこのような円空観がいかに根拠薄弱であるかを明らかにすると共に、同氏が軽視した『浄海雑記』『近世畸人伝』に読まれる円空略伝やその他の断片的史料、ならびに円空の和歌などから、彼が単に天才的芸術家であっただけではなく、かなりの教養の持ち主で、その家柄も悪くなかったと思われることを明示した。そして彼が生まれた頃や少年だった頃に、その故郷の村々では無数のキリシタンが処刑されたこと、また彼が仏像を作り始めた一六六三年は、その二年前から木曽川を挟んだ対岸の尾張国中島郡やその隣の扶桑群の数十ヶ村で、無数の農民がキリシタンとして検挙されていた時であったこと、ならびに彼が造仏に精を出していた頃の美濃尾張の農民が処刑されたキリシタンの鎮魂を一大関心事にしていたこと、その他から、円空造仏の一つの動機が、信仰のために殺された無数のキリシタンたちの鎮魂供養にあることを立証した。
著者
山本 冴里
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.171-206, 2013-03-29

日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。
著者
本庄 総子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.7-20, 2015-03

税帳制度の始まりについては諸説あるが、大宝2年の大租数文作成命令は、従来考えられているような未熟な段階のものではなく、税帳制度の開始として積極的に評価されるべきものである。また、税帳の進上文言の分析を通してみれば、最初期の税帳には雑用記載の機能が備わっていなかったか、少なくとも主要な機能とはされていなかったことが確認できる。ただしそれは貯積を基本的属性とする正税の帳簿であるためであり、制度的な未熟と評価されるべきものではない。 天平6年の官稲混合は、大宝2年に成立した税帳に大きな変化をもたらした。税帳使の身分は国史生から国司四等官へと変化し、使者の責任が増大したことが窺える。また、税帳の名称も従来の収納帳から目録帳へと変化しており、公文としての重要度も増したものと考えられる。書式にも変化が見られる国があり、従来の倉札的な時系列書式から、雑用を別立てで記載する書式へと変化した。 官稲混合は地方財政、具体的には税帳雑用記載への監督強化と評価すべき面が強い。官稲混合の結果として、雑用記載には厳密なチェックが行われるようになり、見込みではなく実績での報告が求められるようになった。その結果、税帳の進上期限も翌年2月末に固定されていったものと考えられる。
著者
李 哲権
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.41, pp.219-230, 2010-03-31

漱石文学の研究には、一つの系譜をなすものとして〈水の女〉がある。従来の研究は、このイメージを主に世紀末のデカダンスやラファエル前派の絵画との結びつきで論じてきた。そのために「西洋一辺倒」にならざるをえなかった。拙論は、それとはまったく異なるイメージとして〈水の属性を生きる女〉という解読格子を設け、それを主に老子の水の哲学や中国の「巫山の女」の神話との関連で考察する。
著者
SURAJAYA I Ketut
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
アジア太平洋地域におけるグローバリゼイション、ローカリゼイションと日本文化 Volume 1
巻号頁・発行日
pp.245-257, 2010-03-19

Globalization, Localization, and Japanese Studies in the Asia-Pacific Region : Past, Present, Future, シドニー大学, 2003年11月10日-13日
著者
稲賀 繁美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.105-128, 2017-01

学術としての「美術史学」は全球化(globalize)できるか。この話題に関して、2005年にアイルランドのコークで国際会議が開かれ、報告書が2007年に刊行された。筆者は日本から唯一この企画への参加を求められ、コメントを提出した。本稿はこれを日本語に翻訳し、必要な増補を加えたものである。すでに原典刊行から8年を経過し、「全球化」は日本にも浸透をみせている話題である。だがなぜか日本での議論は希薄であり、また従来と同じく、一時の流行として処理され、日本美術史などの専門領域からは、問題意識が共有されるには至っていない。そうした状況に鑑み、本稿を研究ノートとして日本語でも読めるかたちで提供する。 本稿は、全球化について、①アカデミックな学問分野としての制度上の問題、②日本美術史、あるいは東洋美術史という対象の枠組の問題、③学術上の手続きの問題、④基本的な鍵術語(key term)の概念規定と、その翻訳可能性、という4点に重点を絞り、日本や東洋の学術に必ずしも通じていない西洋の美術史研究者を対象として、基本的な情報提供をおこなう。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
稲賀 繁美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.54, pp.105-128, 2017-01-31

学術としての「美術史学」は全球化(globalize)できるか。この話題に関して、2005年にアイルランドのコークで国際会議が開かれ、報告書が2007年に刊行された。筆者は日本から唯一この企画への参加を求められ、コメントを提出した。本稿はこれを日本語に翻訳し、必要な増補を加えたものである。すでに原典刊行から8年を経過し、「全球化」は日本にも浸透をみせている話題である。だがなぜか日本での議論は希薄であり、また従来と同じく、一時の流行として処理され、日本美術史などの専門領域からは、問題意識が共有されるには至っていない。そうした状況に鑑み、本稿を研究ノートとして日本語でも読めるかたちで提供する。
著者
姜 克實
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.32, pp.99-117, 2006-03-31

満州は、かつて政治的には日本と「特殊の関係」を持つ地域とされた。また「赤い夕日」の「郷愁」に象徴されるように、日本人にとって「特殊の感情」を懐かせる土地でもあった。この特殊の関係・感情とはなにか、また歴史的にはいつ、どのように形成されていったかを、本稿において検証する。
著者
下野 敏見
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.p101-119, 1995-06

トカラ列島から奄美・沖縄の琉球文化圏の墓制は、亀の甲墓や破風墓、積石墓、崖下葬、その他、いろんなタイプがある。墓制によって、また地域によって先祖祭りの仕方もちがってくる。 これらの地域の広い意味の祖霊祭はいったいどのような経過をへて現在に至っているのだろうか。 琉球における墓制の基本的な流れは遺棄的風葬墓と洗骨改葬墓の二つがある。この二つに伴う祖霊祭は当然異なる。前者は葬ったきり墓地へは二度と行かぬのだが、その代り年に一度、家でありったけのごちそうをして、歓待する。しかし、トカラ列島では家の外に近い縁側の隅でこれを行う。このことは神窓の外の庭で行うアイヌの先祖祭りのシヌラッパとよく似ている。 祖霊には、浮遊霊と遠祖(高祖)霊、近祖霊があるが、正月や盆の正祖霊は近祖霊が主対象であり、高祖霊は、正月や節替りの来訪神として現れる。浮遊霊は邪霊であり、病災をもたらしたりするので、正月や盆には門松や水棚でちょっとごちそうして退散してもらう。種子島やトカラ列島の門松での祭りがそれを証している。 琉球の夏正月とヤマト文化圏の冬正月に伴う祖霊祭の比較や夏正月の一日目から七日目までの第一週目の正月と、ヤマトの第一週目とそれに続いての十五日までの第二週目が加わった正月との比較も重要であるようだ。